反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

イギリスの議会政党、国王、貴族の政治の歴史には何の魅了もない!

         「19世紀のイギリスの民衆と政治文化」ローハン、マックウィリアム昭和堂2004年発行
引用 第7章 ネイションと政治ー愛国主義
「政治的な右翼(自分たちだけが国民たることについて語る資格を持っていると信じている)はなナショナリズムがすべてのものに共有される普遍的な感情であると考えている。
 
 
 しかし歴史家にとって、国民国家がーしたがってナショナリズムがー歴史的に固有のものであったし今もそうであることは、ずっと以前から自明のことであった。
近代的な意味でンもナショナリズムアメリカ独立戦争フランス革命に示されたようにー実際は18世紀の終わりになってようやく姿を現してきたものである。
 更に、近代のナショナリズムは民族と言語並びに19世紀になって初めて形作られた国民統合の組織に基づくナショナル、アイデンティティの定義を含むようになった。
 
 
現代の注釈者たちもナショナリズムの人為的な性格に注目してきた。
 ネイションは(W。日本語に翻訳すると国民国家意識となるのか。適切な訳語がなくて、そのまま使用する場合もある)「想像の共同体」(W。国家的共同幻想)すなわち人々に構想されなければ存在しない、したがって神話という強力な形式をとったアイデンティティの一つである。(W.どこの国も大して変わらない。後でみるナショナリズムと排外主義(ジンゴイズムと云うようだ)の表裏一体ぶりも、変わらない。ということは程度や形態の差こそあれ、国民国家の成立以降、世界の国々の人々の心に宿る心理なのか)
ネイション(国民国家意識)は民衆の関心事を媒酌する政治家、知識人、諸制度の働きを通じて意識の中で構成されたものとのみ存在しえた。

(W。そうかな??政治家、諸制度の働きは意識のなかだけなのか?各種の国家暴力装置、大衆情報媒体との関係を抜きにして語れない。こういう議論の範囲だとイデオロギー分野限定に流れ、それでお終いとなる。現状でも、地球規模で、さらに階層的視野において、ネイションの現実はそういうものなのか?ウクライナ、中東という典型的な紛争地帯の現実に照らし合わせるとよくわかる。そこにおいて、この程度のネイション議論はどこまで真実味を帯びるのか大いに疑問である。また同じ国民であっても立場によって国民国家意識には差が出てきて当然である。この本の副題は~ボブズボーム、トムスン、修正主義を超えて~となっているが、こういう議論の方向では歴史修正主義は、決して超えられない。別な角度のからの考察が必要だ!)
 
 例えれば、イギリスの歴史家たちはコレを作られた伝統と呼ばれるものの中で説明した。
イングリッシュネスの伝統的な象徴の多く(近衛兵の交代のような)が実際たかだか1世紀ほどしかたっておらず、脅威にさらされていると感じたイギリスのエリートが自らの存在を正当化するために19世紀の後半に新しく作り出したものであることを明らかにした。

   参考文献 「イギリス二大政党制への道」~後継首相の決定と「長老政治家」~君塚直隆。
W。イギリス国王、政党指導者の談合における国王の政治介入の典型例。「君臨するも統治せず」でもなかった。現在の日本人のあまりよく知らないイギリスという国柄ががよく出ている。オランダもイギリスと似たような統治機構の形式を持っている。ヨーロッパの王家、「高級」貴族は婚姻関係など相互交流があって、国際的存在であった。一方民衆は市民革命→国民国家意識の高揚によって、ナショナルな意識を深めた。さらに加えて
近代国家成立と資本主義化によって、新たに再編して支配層を形成した封建旧支配層と新興ブルジョア階層は、階層分裂する住民を国民国家として統合するために、王権と貴族への住民の旧来からの帰属意識を大いに利用した。
おおざっぱに図式化すると上記のようになる。
 
>ただし、日本との決定的な違いは、ヨーロッパ中央は共通して市民革命を潜り抜けることを通じて、ナショナルな国家意識を相対化する民主主義の市民意識が個々人の日常の中に定着したというところである。
>もっとも、この問題系は、市民革命以前の封建時代のヨーロッパ都市国家の住民制度と義務、住民意識まで遡ることができる。
>また、日本の江戸時代に典型的な封建制度の内容とヨーロッパの封建制度の中身は別物と考えた方がいい。この点を意図的に混同する議論が戦前に日本では流行った。現在は、両者を対照する議論は歴史家の中ではあまり見られない。もはや、論証によって、以下のようなところに、決着が付いているのではないか。
 
日本の江戸時代に典型的な支配体制の論理いえば、東アジア鎖国体制の中で絶対主義体制に転化する必然性は江戸時代の諸改革を通じて絶えず抑制され続けた。東アジア地域の鎖国体制によって、絶対政治体制を選択する必要なかった。仮に、鎖国体制がなかったとすると~。やはり儒教統治機構に運用されていることから、相互引きこもり体制のなかでは、専制支配が優先したであろう。
 
ということで、日本封建性は、中国に典型的な中央集権支配体制の要素を含んだ専制封建体制であった。
地域鎖国体制を前提としないヨーロッパ封建は、相互の戦争や経済交流の中から、権力構造の合理的整合性から、王権の突出した支配である絶対王政に行き着きものであった。ドイツのような文献支配体制も絶対主義政治の亜流とみなすことができる。
>絶対王制によって近代国家への前提条件が成立し、産業革命によって、近代国家=市民革命、国民国家が成立する。が、違いをもっと明らかにするためには、更にその先のヨーロッパゲルマン民族の契約関係をはっきりする奇妙な氏族制度まで遡る必要もある。
 
>大衆蜂起、大戦争と内乱によって国王が追放されなかった、旧大陸の国々では、王権は分裂する民衆を統合する支配の道具として利用されている。ヨーロッパの国々を一瞥すればこのことがよくわかる。この点において日本と変わらない。
 
*イギリスの歴史的な政党政治の推移、選挙制度改革は次の<世界史の窓~イギリス議会制度での選挙制度の改正の歴史~に簡潔にまとめられている。
 
要は、民衆の圧力によって、選挙改革が進み、大衆の選挙参加が可能になって、ブルジョアと貴族の自由主義政党であった自由党の党勢が後退し、替わって広範な労働層の支持を受けた労働党帝国主義の時代背景もあって急速に台頭した。
   
 
    一部修正して引用
<1931年内閣危機と各党指導者>、
>1924年 労働党政権獲得→下野→保守党政権 それまで保守党と二大政党制を築いてきた自由党分裂第三の党へ。
>1929年 労働党僅差で保守党に勝利し、第二次マクドナルド内閣成立 
>1930年 失業者200万人を超え、マクドナルド首相は大幅な財政支出削減断行 緊縮財政には失業者手当削減も含まれる。(W。大不況期に緊縮財政とは!その反労働階層、分断支配ぶりが、イギリス国王や支配層に気に入られ、変則的な政権をまかされたのだろう。)労働党の圧倒的多数は首相反対。
 
>W。ここから本題のイギリス国王ジョージ5世の「天命」の出番。
首相は辞意表明。
国王は、このような国家の非常事態にあたり、辞表を受理する前に、まず野党の指導者たちと相談して善後策を協議することとなった。
 マクドナルドが宮殿を去った後、国王は保守党党首と、自由党の病身のロイドジョージに代わる幹部と謁見し、国民この国家的危機に際しては、から信頼を得ているマクドナルドだけがこれを乗り切る力量を有しているのではないかと私見を伝えた。~両党の指導者の見解が分かれたとき、~ココで指導力を発揮したのが国王である。
国王は3党の指導者との御前会議W?英語でなんという)でこの問題を検討していく。
そして、ここにマクドナルドを首班として世界恐慌への経済対策を第一課題とする、第一次世界大戦以来の挙国一致内閣が樹立されることとなった。
>ところが、マクドナルド首相の直接の支持基盤である労働党では、~挙国一致政権側に就いたのは前閣僚7人と平議員8人だった。しかも労働党ではすでに党首も交代していた。」
 
W。恐慌に際して、大量失業者を出した中で立ち上がる、広範な労働層にたいして、まずもって、労働党現首相のラムゼイ、マクドナルドを一本釣りして、首相に取り込むことで、大分裂を持ち込み、大衆の力を減圧する。
このアザトイ判断は、生臭い政界から身を引いた立場でなければできないのではないか。
 
W。イギリスの統治機構の伝統的な統治フォームは、国王~貴族~議会の権力分散、相互けん制型であった。名誉革命以前のイギリス市民革命で国王の首をはねたクロムウェル等の清教徒の急進主義は、イギリス本土から一掃されて、植民地アメリカに移転したと考えるべきだ。
英国国教会は、国王の結婚問題によるカソリック教会からの破門という出自からいっても、プロテスタントカソリックの中和させたようなものであった。スコットランドピューリタン派とグーグルに載っている。
 
W。それにしても、グーグルのラムゼイ、マクドナルドの解説文は19世紀後半から20世紀のチャーチルまでの保守党、自由党の有名な指導者に比べてあまりにも少なすぎる、のには驚いた。
チャーチルを一番尊敬する海外の政治家とするアベを筆頭に小沢一郎まで日本のイギリス政治への関心の角度が象徴されている。山口二郎には労働党への目線があるが、覇権国家であったイギリスの歴史と極東の遅れて近代化した日本の歴史の大きな違いという前提条件をほとんど無視して、イギリス目線で日本政党政治を語っている。言語学の論法でいえば、比較ではなくて対照しているのである。違いをあくまでもわきまえて、イギリスのような歴史的事実もあるという程度でいい。~山口二郎著「イギリスの政治と日本の政治」ちくま新書
 
W。19世紀後半に脅威にさらされたイギリスのエリートという意味は、産業資本主義段階の世界の工場イギリスの繁栄から、世界資本主義から帝国主義時代への過渡期の1890年代のイギリスの長期不況のなかで、労働層の政治参加が進んだことによって、既存の経済的政治的既得権が脅かされたこと。この時期は保守党に対してブルジョアと貴族の政党自由党が改革を代弁していた。

イギリス的文脈の中では、ナショナリズムはイギリスの歴史が4の民族からなっていることによって複雑なものとなった。
イングリッシュネスは18世紀後半以降一般化したブリテッシュネスだけではなく、スコットランドウェールズアイルランドのナショナルアイデンティティーとも競合してきた。
>しかしながら、イギリス国民の構築にはナショナルアイデンティティが明確にされる『他者』の存在が必要であった。
>この他者はしばしばフランスに設定されたが、時としてロシアあるいはトルコ、ちかくはアイルランドに求められた。周囲の国々がカトリックであったことはイギリスが本質的にプロテスタントの国であることを明確にするのに役立った。大英帝国ブリテンと有色人種との関係もまたイギリス国民の形成を決定づけた。
 
>従ってナショナル、アイデンティティは変わることなく持続する感情ではなく、むしろ特定の事件次第で変わるものであり、他民族との関係の上で成り立っていた。
W。その程度の平凡、ありふれたな感情であるがゆえに大衆化し、適応性もあるのだろう。
日本の東アジア意識の関係とよく似ている
 
また同時に複数の異なるナショナルアイデンティティ(イングリッシュであり、ブリティッシュたること)を持つことも可能だった。
 
*しかし労働者階級の中にどっかりと腰を据えた愛国主義の重要性を指摘する別の説明もあった。
>ヴィクトリア後期ロンドンに関する研究は、ミュージックホールのジンゴイズムがチャーティズム消滅後(W、1848年)に再構成された民衆文化に欠かせないものであったことを証明して見せた
>この文化は政治ではなく気晴らしに基づくものであり、資本主義が覆され得ないという事実に対するあきらめの気分が底にあったために、彼がそれを『慰めの文化』と呼んだ。
愛国主義の最低限の共通項は無関心な労働者階級のために演奏する、安上がりで陽気なミュージック、ホールの世界であった。

W。ホブソンから19世紀半ばから20世紀初頭までのイギリス政治を2冊の本で辿ってみたが、何の魅力も感じなかったが、日本の保守を自称するものたちが、イギリスをよく取り上げる深層心理はなんとなくわかった。
イギリスは次第次第にチマチマしている国になっていった。もともと海外植民地支配を前提とする封建的枠組は産業革命の原資であり、先行した市民革命は徹底化されず、ブルジョア支配体制を形成した。
 
現状のイギリスはアメリカの後押しがなければ、大陸ヨーロッパの政治のダイナミズムの周辺に追いやられがちな立場にある。
世界の覇権国家の遺産はロンドンのシティーの金融だけになった。19世紀一杯まで内外で稼いだカネは現状、下々に分配された痕跡はなさそうなのだから、一体どこに行ったのか?誰かがどこかにしまい込んだのか?どうつかったのか?
結局、19世紀後半の世界資本主義の時代に産業資本では対抗勢力が複数できて、それまでの資本蓄積を元手に外国や植民地からの不労所得でやりくりしようとして、落ち目の身に余る軍拡に走って、ヨーロッパ戦争の一方の火種を作り、世界戦争で、後退局面は早まった。
また内外から得た膨大な剰余価値は金融資本の転化され、金融寡頭支配層によって、私物化され海外で運用されたままになった。
そのような大きな時代の流れの中のイギリスの民衆政治文化も、政党政治もそれに即応するものでしかなかった。一定の整合性はある。しかし、その時点だけの。そんなところにダイナミズムがあるはずがない。
日本の保守を自称する者どものイギリス指向には知に走りすぎの無理がある。
アングロサクソン、と一口に英米をまとめるが、イラク戦争労働党ブレアがブッシュと一緒に先頭に立って旗を振るイギリスの立場が大きな歴史の流れの中で、納得できた。