反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本映画黄金時代と埋もれた名作、B級傑作のセルロイド製フィルムのメルトダウン。フィルムセンター火災事故を深読み。日本映画評。ニッポン無責任時代」、ビートたけし、崔洋一監督「地と骨」、小津「東京暮色」。

>錆びたナイフ 石原裕次郎
http://www.youtube.com/watch?v=3fbzqrOSfgg
赤木圭一郎 霧笛が俺を呼んでいる
http://www.youtube.com/watch?v=6waO8Y-EyMs
>両曲とも大掛かりなイントロに当時を髣髴させるものがある。日本映画黄金の時代の末期、満席の場末の映画館の大きなスクリーン一杯に映し出された石原裕次郎の「狂った果実」を見上げた記憶ある。
映画の中身は何もわからなかった。色恋沙汰、人情の機微を理解できる年頃でなく、話の筋書きが納得できたのはチャンバラ映画に限られたいたように思う。近所のガキ大将に連れられて、いつも遊んでいる友達とモギリの前を素通りして館内に入った。
当時、家から小遣いをもらっていなかったから、カネを払ってい映画館に入れるはずが無いのだから、訳もわからず見た映画は全部、只見ということになる。3番館はいつも満員状態で見逃してくれた、今と違ってアバウトな時代風潮だったのだ。一度帰りに父親にすごい形相でしかられた記憶がある。
   
 館内には熱気があった。
悪代官に迫られたお姫様の危機一髪のシーン。
救助に駆けつける正義の味方が馬で疾走シーンが大写しになると、期せずして館内から大きな拍手が沸き起こった。
ヤッパリみんな、単純な映画の筋書きに入り込んでいたのだ。もっとも、危機一髪の状態さえいまいちピンと来ないわたしはよっぽど子供だったのだ。時代が変わっても、映画館で拍手した人たちは変わらない。

 美空ひばりの時代劇も見た。
子供心にも、何だかよく解らない映画だな、と思った。小さなひばりちゃんの周りを10人以上の男どもがぐるっと取り囲んでも、ばったばったとなぎ倒されていく。どう見ても、上手く勝手に切り倒されているようにしか思えないし、その割りに殺傷体が付近に転がっていない、不思議。
それで、刃傷沙汰終了、のひばりちゃんは涼しい顔で、突然、唄を唄いだす。
美空ひばり映画はミュージカル映画でもあったのだ。、それなりに大人の映画だったわけだ。ヤッパリコレじゃ、野原を駆け回って、チャンバラごっこ、西部劇ごっこをやっているものとしては、理解できるわけが無い
 
 上映中にフィルムが突然、切れてしまうという事故が使いまわしのフィルムしか回ってこない3番館ではよく起こった。
フィルムにセルロイドが混ざっているので、発火するのだと云われており、実際に一度だけ、映写室から煙が流れたこともあった。

 当時の家庭の身の回り品の化学製品はセルロイド製だった。
科学的な事情はよく解らないが、俗に言うプラスティックが大量に流通する前に、該当する製品は全部、セルロイド系だったように思う。安価なプラスティック製品が出回ってくるのは、ある時期を境に、突然でしかも大量だった、と記憶している。コレで生活必需品の物価は相当、下がったはずだ。
そういう意味でも、当時、水よりも安いと揶揄されていた石油への急激なエネルギー転換は石油化学製品の生活必需品の普及という意味で生活革命を起した。生活必需品の価格が低下すると、経済法則的に労働賃金は相対的に低下するのである。
ところが今、ガソリンは小売価格はリッター辺り150円を超えている。一次産品、資源エネルギー価格の上昇の趨勢は円安効果を相殺するばかりか、将来的に円安政策が過ぎると国内経済衰弱過程の加速要因になる。
この理屈から察すると、支配層のTPP推進の多いな要因の一つに労賃を低下させ、儲けを大きくするには、外国から安いモノ、ヒト、マネーを無理やり輸入するしかないという大方向が理解できる。
 そういう意味でアベノミクスは大いにやってもらいたい。(経済)帝国の没落過程は促進させなければならないのである。
 
 女性の髪のブラシの透明のケースハセルロイド製だった。
映画館で云われていることが事実かどうか確かめるために、火を近づけると、あっという間に、今に燃え尽きた。
 それで、話題がそれるので、止めておけばいいのに<セルロイド>をネットで確かめてみた。
ま、コレをやってしまうから一つの記事に主旨が二つも三つもできることになるのだが、興味深いことがでてくるはずである。
 
 ウィキ、<セルロイド
「映画の初期作品(1950年代まで?)はセルロイドをベースとしたフィルムで記録されており、映画館ではフィルム照明のアーク灯や電球の高温や摩擦によりセルロイドフィルムが発火するなどの事故も起きた。」
セルロイド (celluloid) は、ニトロセルロース樟脳などから合成される合成樹脂(硝酸セルロース)の名称である。歴史上最初の人工の熱可塑性樹脂である。象牙の代用品として開発され、加熱(大体90℃)で軟化し、成形が簡単であることからかつて大量に使われた。」
 
1880年代後半からセルロイド乾板に代わって写真フィルムとして使われるようになった。それらの製造技術を開発したハンニバル・グッドウィンの会社が現在のイーストマン・コダックの前身である。
W。ということは映画はアメリカで生まれた。
1955年セルロイド製品の火災事故が多発していた事を受けアメリカ可燃物資規制法が成立。これにより日本製のセルロイド玩具などは全てアメリカへ輸出できなくなった。またこの出来事を期に世界的にセルロイドの製造や消費が落ち込む事となった。
W。この項でとりあえず、確認しておくことは、古いセルロイド製の映画フィルムを一定量以上大量保存する場合、都道府県条例の規制を受けなければ、ならないということである。
 
 >話題が前後するが、次の指摘は重要。
可燃性でフィルム自体が退化しやすいセルロイドの特性は、フィルム原本の保管を基本とするフィルム保管施設の作品の長期アーカイブ上の課題となっている
ということは、日本映画黄金時代の隠れた名作というか、B級映画の名作はほとんど、二度と日の目を見ることなくく葬り去られた。
一時隆盛を誇った映画5社は破産したり、最後は何だか訳のわからないようになっているのだから、自分たちの作り出したものを保管するどころでなかった。
 
>>国さえも粗末に扱っている文化貧困振りである。上記の事項を全て押さえつつ、ここから話題は<フィルムセンター火災事件>に発展する
1984年9月3日ごご2時50分ごろには東京都中央区京橋3丁目の国立近代美術館最上階5階のフィルム保存庫に保存中の日本国外の映画フィルム>が、クーラー停止中に自然発火し、日本国外の421作品の内、330作品が焼失した。
 ウィキ引用。
「当時の映画用フィルムは可燃性のセルロイド製のものが多く、自然発火を防ぐため25℃以下で保管できるようクーラーが設置されていたが、9月1日土曜日夕方は涼しかった??1日の東京の最高気温は31.5℃)ため電源が切られ3日月曜日の正午ごろまで停止していた。しかし2日の最高気温は35.2℃3日はさらに38.1℃と記録的に気温がったため、警視庁中央署ではフィルムが自然発火?したとしている」
しかも、
5階には窓がなく、壁に穴をあけて放水が行われ、70m2の保存庫を全焼して同夜8時半ごろ鎮火した。この消火活動で消防隊員3名が負傷した。」
 
>窓がない70㎡って、常温、常湿の特殊保管倉庫ということだが、外気との換気設備はあるはずで(大量フィルム保管は少量危険物に該当し換気は地方条例で定められている)、普段はどのように運転していたのか?
室温の記録計の記録紙もセットされていないことや冷房を中断していたことなどから察して、用事で中にはいる時くらしか換気運転していなかった。コレは既に地方条例違反行為。
 
>>深読みすれば、国立近代美術館のような絵画などの美術作品の所収している館内の空調設備は録音スタジオのように温度だけではなく、湿度もほぼ一定に保つように設計されているはずで、
そうすると、冷房を停止しても、保管庫の湿度=フィルムの湿度は余り上がらず、温度だけが急上昇した可能性があり、当然、セルロイドには自然発火条件が出揃ったことになる。
この事態にもう少し詳しく立ち入ると、
1)最上階の外国フィルム貯蔵庫は下の美術品の展覧会場と同じ湿度も一定に保つ空調設備の系統に属するものと想定できる。わざわざ別系統はあり得ない。
 ウィキより論証する。
「5階には主に日本国外の映画ポジフィルムが保管されていたが、その多くが焼失した[1]。自動車の排気ガスによるフィルムの傷みを避けるため、神奈川県相模原市にフィルムセンター分館を着工した矢先のことであった。」
排気ガスによるフィルムの痛みを心配する管理感覚からすると、温度ばかりでなく湿度も調整できるようになっていた。温度調節だけで湿度などどうでもいいとか考えられない。特に美術品にとって湿度管理は大事。
また当該保管庫は少量危険物保管に該当する換気設備を有していた。
2)温度と湿度の自動的に管理をできる空調設備は通常のエアコン設備でなく特殊な加湿付帯設備を必要として、全体を稼動維持する費用は相当嵩む。
様々な形態があるが、基本はボイラーで熱湯を発生させる空調とは別系統の設備とエアコン時点でミックスなければならない。したがって夏場だと熱湯を発生させるガス代と夏場の冷房の電気代が相乗的に嵩む。
>3)そうすると、管理者側の感覚では、年間トータル費用の数字にはっきりとでるわけだから、せめてフィルム倉庫の空調系統だけでも、温度が下がっている時には止めておけという感覚が生まれる。
上野の西洋美術館さえ客足がまばらな状態なのだから、日本橋の近代美術館に足を運ぶ趣味人は日本にでは極少数人種。役人の感覚としてはどうしても管理コストダウンに向かうしかない。
 
>想うに結局、高価な美術品より、映画の名作のネガフィルムの価値を低く見ていることにも原因がある、ようだ。
また、薄っぺらくいたセルロイドの巻物製品を大量保存していることの危険性を察知できていなかった。要するに無知だったわけだ。
以下は少量危険物の規制リストである。

大阪市火災予防条例 別表第7
品名
数量
指定可燃物
綿花類
キログラム
200
木毛及びかんなくず
400
ぼろ及び紙くず
1,000
糸類
1,000
わら類
1,000
再生資源燃料
1,000
可燃性固体類
3,000
石炭・木炭類
10,000
可燃性液体類
立方メートル
2
木材加工品及び木くず
10
合成樹脂類
発泡させたもの
20
その他のもの
キログラム
3,000
その他指定可燃物に類する物品
マッチ
200
竹及びその製品
1,000

 
 以上の事情を考慮に入れると、セルロイド系フィルム時代の日本の映画館の映写室にはいつも放火魔がいたような状態で危なくて日本映画映画黄金時代はありえなかった。
ウィキの指摘する外気38℃によって、フィルムが自然発火したような表現はアバウトな表現で誤解を生むものである。案内中心のウィキでは仕方がないが。
大量に保管していた事の影響は勿論あるが、発火するかどうかのギリギリの発火点の条件の問題だから、量は余り関係がない。見ての通り、名目は少量危険物の規制条例だが、規制の本願は燃え出して以降の危険性による規制である。
 
 消防隊に3名の負傷者が出たのも美術館という環境上、手荒なまねはできず、かといって延焼の可能性があるから早急に鎮火しなければならず、当然、人力に頼った消火作業になるから、当然の結果であった。
重箱の隅をつつくようなことを日ごろやっているから、大損害が発生したのである。
お粗末の限りであるが、実に日本らしい事件である。
原発事故事情の超超小型版だ。
 
 勿論、芸能文化に関する基本的なスタンスの問題もある。
言いがかりをつけているようだが、文化程度の低い国に限ってクラシック音楽を過剰崇拝する。
発祥の地、はヨーロッパは世界に冠たる自国、地元の伝統文化を全うに尊重しているのである。
ところが日本にその用件は無い。
クラッシク音楽系の高等教育機関がそこら中にあるのは日本だけ(多分)。
要は音楽がわかる、できる、状態を作り出せばよいわけで、音楽教育と称して、あんなものを子供のころから義務教育で上から叩き込んでいるのは文化程度の低い証拠だ。
 
 これ以上深入りはできないが、映画に関して常々、なんとなく感じているのは、世間の言う名作の他に一杯、面白くていい作品があった、のじゃないか、ということ。
そういう意味で、近頃、フト思うのは、民主党政権交代時に無駄の象徴として槍玉に上がっていた<アニメの殿堂>。
アレは建設しておいたほうがよかった、と。
国内に散らばっている古い邦画フィルムなどを一箇所に収集しておくいい機会だった。
勿論漫画やアニメも重要な文化でセレクトする基準が必要。現に今の子供は、その種のものが、活字文化に成り代わっている。
 
>上記の条件からは日本映画黄金時代の大量の作品の中にうづ漏れたいい作品の数々は闇に消えて今は無い。
そして、いいもの面白いものを捨てた代わりに、案外のものを手元においておく場合もある。
評価の基準に問題がある。その筋の専門家が価値があるとしたものが良いとは限らない。
 
 数年前に街中の大きな映画館が閉館になるということで、古い大映作品を只で見せてくれた。
確かに未知の作品ばかりだったが、選定の基準が何処か自分とは違うと思った。
影の薄いスローテンポな中途半端な文芸作品の退屈な作品ばかり集めていたが、大衆娯楽作品からいいものを選ぶという姿勢が欲しかった。若尾文子の作品が目立ったがピンとこなかった。演技ヘタ、表情演技に輝きが無い。大衆娯楽作品だから普遍性がないとは絶対にいえない。
 
 あの様子じゃ、いいものが破棄されている可能性が強い。
販売ルートに載る値段になるかどうかは別として、アナログ、フィルムのデジタル化自体にはそんなにカネはかからないと思う。
結局、ある程度の作品の量が揃っていないと、後世の評価に答えられないし、文化の蓄積にも適合しない。
 
  <極端な私見
 フェデリコ、フェリーニの「無防備都市」。
世界的な評価としては名作中の名作になっているが、何回見ても、退屈な当時のイタリアの風俗映画にしか見えない。
扱っている主題がナチズムと抵抗と重いから、名作に見えるが、映画は所詮映画であり、人が実際に死んでいるわけでなく、死にいたる人間を、生きた人間が筋書きに沿って、演技しているだけだ。
だったら、作品そのものの評価が問題になる。そういう意味であの作品は凡庸、風俗を描いている。
 何がいいたいか?
私のような偏屈モノがいるから、ある程度の量を集めておく必要がある。自分のような評価の基準が説得力を持つ時代がやって来ないと言い切れない。少数者にも理がある場合は多い。
 
>このところ、日本映画をレンタルして、調べなおしたり、楽しんだりしている。
繰り返してみてみると、解らなかったことや大きな勘違いをしていたことが、解ってくる
 
 溝口健二監督の「山椒大夫
を今度見返してみて、自分の過剰な思い入れから、勘違いが多過ぎて、がっくりと来た。
映画のディテールさえキチンと押さえておらず、名場面だけを過大評価していた。
こういうケースは映画ではよく起こり得ることかもしれない。
 アレは基本的に日本的勧善懲悪ドラマの域を出ていない。
そこに日本中世の無常を読み取る自分はドラマの重要な出だしも押さえていない、勘違いだった。
 そもそも、本物の中世説話では山椒大夫は成敗されず、末永く繁栄した。
説話の作者の貴族的立場からすると(当時は文字で文章にできるということは特権者)、山椒大夫のようなものは、大きな年貢を上納する体制維持に不可欠な有能者であり、成敗される理由が無い。
ただ、そのために奴隷的酷使が過ぎたのであり、その点が修正された。
近代以降とは人間観がまるで違う。
 そこで中世的無常観は出てくるはずがないのに、どうして現代人、溝口が描ききれようか!原作者森鴎外についても同じ次元のことが言えるだろうが、その小説を知らないので断定できないが。
なお、中世人の<無常>観は字句の通り、<レミゼラブルの無情>ではなく万物と世界は流転するという意味であり、個人の発するとことは(発心)、積極的行動的なものであるという気が最近してきた。中世は自力救済の世である。そして自力救済できなければ、仏の境地を目指すしかないのである。前に記載した今昔物語集の突如、発心して強烈な行動力発揮して出家して、自死の道を選択した仏の世界に旅立った讃岐国従五位の武士、源太夫に脆弱な<無常観>は無い。
 
 新規ものには率直な感想がある。
今回は、
1)植木等主演、古沢憲吾監督「ニッポン無責任時代」、「日本一の無責任野郎」
2)木下圭介監督「日本の悲劇」ー省略ー
3)勝新太郎、田村高広、増村保造監督、「兵隊やくざ」ーソコソコいけるー(省略)
4)勝新太郎、田宮次郎、田中徳三監督、「悪名」ーコレは傑作だー(省略)
5)ビートたけし主演、崔洋一監督「血と骨」ー救いようのないほどの愚作であり、高給学芸会レベルー
6)小津安二郎「東京暮色」ーこの監督の悪いところが満開している。
7)その他
 
論、5)、6)は稀に見る愚作である!
であるから論じるに値する、悪い意味で監督の個性がよく出ている。
 
1)系列の作品の自分の知っている限りの最高傑作は日本一のゴマすり男」という中期の作品だと思う。
初期の1)の両作品(普通はコレラが代表作)は
植木以外の役者としてはど素人のクレージーのメンバーに重要な役どころを振って、脇を固めている関係上、人気者で勢いに乗った植木だけが前面に出て、脇の演技で作品に説得力を持たせられていない。
喜劇にも脇を固めるものの演技力がいる。
映画初出演のど素人、ハナ肇の植木の相方役に相当する社長役なんて何の説得力も無い。スーパーマン出世主義サラリーマンのチャレンジする頂点がハナ肇では演技力も存在感もなく、どうしようもない。それでは舞台が回らない。
 
日本一のゴマすり男は(1965年作9
クレージーを後ろにやって、脇を役にはまった名優で固めている。
会長後藤又之助:東野英治郎。小泉社長:進藤英太郎。春山部長:有島一郎。山根係長:人見明。ジョージ箱田:藤田まこと。目高静代:京塚昌子。細川眉子:浜美枝。出演すると存在感ありづぎで全体のバランスは微妙になるハナ肇は出演していない。よくできているシナリオに適役が見当たらなかったためと思われる。
ストリーのテンポは速いが筋書きは理にかなっている。トータルでエンターテイメントとして完成度が高い。
それなりに、カネがかかっているともいえる。
 
日本一の色男」という作品も見たが
目も当てられない鈍作であった。そもそも植木が次々に女に持てるなんて設定自体に喜劇としての無理がある。ストリー展開に説得力を持たせるために、違和感を払拭しなければならず、肝心の植木が時おり、演説調にさえなっている。持てる男が女の前で口八丁では西鶴の「好色一代男」の原則に反し、単なる詐欺師である。
これではシリーズのキーポイントである痛快、爽快感が出ていない。
 草笛光子のお色気、演技力が光っている。長く女優を続けられているのも実力があるからだ。歌も踊りもやってきたはずで、もっと評価されてよい女優である。
 
カネがかかっている大掛かりな映画の割りに出だしのシーンから、ミエミエのCGを使ったりして漫画チック子供だましである。出演の主な顔ぶれは全部、ワンパターンの力のはいった演技を最初から最期まで、繰り返している。無意味な直裁的な暴力シーンとセックスシーンが多過ぎる。もっと別の表現の仕方ができるのが映画で特権のはずである。その意味で北野たけし映画の亜流の如しである。
崔洋一映画監督としての演出力と資質にさえ、疑問を感じる。映画全体でナニを云わんとしているのか、理解に苦しむ。穿った見方をすれば在日朝鮮人としての自己否定映画といえなくも無い。コレでは救いようが無い。
勿論、そうさせる日本社会にも原因は大いにある。
それは同じ在日のドロドロ有りのままの側面を世界を描いても井筒和幸監督の「パッチギ」の自己肯定から感動の世界とは別次元である。
偶々、良い作品を撮る監督もいる。崔洋一はそういうヒトなんじゃないかと思う。
 
なお、この映画で出ずっぱりのビートたけしは目も当てられないワンパターン演技に終始している。
所詮、かれは存在感でしか演じられないそろうと役者。細かい表情やしぐさで内面や状況を微妙なところを表現できない。監督がたけしを使いきれず、ビートたけしパターンの映画になっているともいえる。
 
それにしても、この映画を見ると日本映画は監督も役者も、ストリー展開も落ちたものだとつくづくと感じる。
その証明のような映画である。
仮にこの映画に高評価を与えるものが多かったら、映画鑑賞力も地に落ちているといわざる得ない。
 
小津安二郎「東京暮色」
この作品が小津安二郎の失敗作としってレンタルしてみることにしたが、噂にたがわず、酷いレベルの作品である。
基本的に彼は「東京物語」1作の監督と以前から思っている。
自分にとって彼が丹念に描く家庭モノなどまだるっこくて見ていられないたちである。
そもそもが、敗戦10年も経たない東京の高級小市民の生活感情に拘る神経が気に食わない。
 この物語の主人公を演じ笠智集も都心の銀行の監査役である。
娘の原節子は夫が不満でおっとりと出戻って、帰らないが夫婦関係が危機的状況に陥っているわけでもない。
学生仲間の子を孕んだ下の娘の有馬稲子がこの映画の一方主演者のような存在でこの子の問題が周囲に引き起こす波紋がこの映画の主題になっているようだが、完璧に演技ができていない大根役者の典型で最初から最期まで通しているから、もう映画全体の構図の芯がガタガタである。当時のアプレゲール娘は例え高級小市民家庭の出であっても、ああいうハネッカエリ度の低いものではあり得ない。ただの銀行幹部の娘が妊娠してうろうろしているだけである。この辺の微妙なバランスを演技指導できていない。
笠智集も改めて演技がクローズアップされる役になると、不器用ワンパターンの大根役者振りが目立つ。
 
結論的にいえば、監督の選んだ題材が自分の好んで描く世界をはみ出していたから、上手く演出できなかったのである。
その意味で成瀬巳喜男監督の世界を選んだ時点で失敗していたのである。
オズ、ヤスジロウは良くも悪くも笠智集であった。
ワンパターンのりリシズムの世界に拘るのは保守的精神の賜物である。
彼はその精神から、戦後の新生事物が気に食わなかったから、この題材ををあえて描いたといわれているが、批判するならばもっと徹底できる題材ではずが、途中で打ち止めしている。
リリシズムを訳して叙情的などとされているが情緒主義といったほうが解りやすい。