反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本映画の巨匠、小津、溝口、黒沢の中で、作品の質が一番、安定しているのは成瀬巳喜男がダントツ。戦後日本の原風景とその崩壊過程が丹念に、さりげなく職人技で描かれている。

 <アリアドネの部屋>さんのYAHOO、ブログの記事を偶々、読んでいると、実に啓発されるところがあった。
日本の古典芸能、古典文学に造詣の深い方のようで、記事の内容は私の様な知識と教養のないモノにとっては、本当の処を理解しかねるが、何となく自分と問題意識が被っている処がある、とみた。
 
 <アリアドネの部屋>さんの関心は日本の古典芸能の深い処に沈潜しているようで、実は自分もブログを書き始めて、イロイロ考えることが多くなると、若いころに日本の古典芸能に触れる機会が全くなかった事を少し悔やむことがある。
 
 日本文化を考える上で避けて通れない事の様な気がするが、こういった分野は加齢してからやっても付け焼刃になる。
 感性と頭の柔軟な時に吸収すべき分野だった。
 
 が、当時の自分には、そんな時間的余裕もカネもなく、地べたを無理をして這いずりまわって、一銭のカネのもならない、身をそぎ落とすようなことをしていた。
 
 >しかし、そんな生活の中でただ一つ開けた世界があった。
古い日本映画に親しむ習慣が身に着いた。
時間とカネのないモノにとって行き着いた先は、古い邦画専門の映画館だった。
 
 初めて見た古い邦画のワンシーンに不思議な感覚が沸き起こってきた。
 
 冬の寒い一日。ボンネットを前に突き出したバスが郊外を走っている。
腰の前に小さな車掌鞄をつけた車掌が載っている。
低い声で何気なく日常会話を交わす乗客たちの分厚いコート姿が目に付く。女の人の中にはマフラーを頭に巻いている人がいる。
 
 主人公と思しき男はバスに乗っているうちに、あたりは暗くなり、バス停に降りる。
 
ところが、ここから先に風変わりな光景があった。
 
ナント、バス停付近で目的地へのバスを待っている乗客たちが、輪になってたき火で暖を取っている。
その中の一人が「どうですか、少し温まって行きませんか」などと、気易く、バスを降りったたばかりの主人公に声をかけている。
 
 >この風景は東京の郊外の寒い一日を想定していると想われるが、自分の子供時代の記憶を辿ってもバス停でたき火をしている光景は想い浮かばない。
 
 >が、バスの中の風景といい、バス停のたき火、見知らぬ者同士の何気ない日常会話の気易い調子。
記憶にないが、それらすべてが、自分の意識下に刷り込まれている様な不思議な感覚が湧いてくる。
それは懐かしい、と云う部分を大きくはみ出している。
 
 この邦画の中身は全く記憶にないから、多分、大した映画でなかったと想うが、これら一連のシーンに物凄く引きつけられた自分がいた。
 
 >そこで、これをきっかけに古い邦画を追っかけるようになって、自分の魅せられた一連のシーンを自然と意味付けした。
 1940年代後半から、日本映画黄金の時代の1950年代から、1960年までに、日本の高度成長から今に繋がる<<原風景>>がある、と。
 
1960年を過ぎて所得倍増の高度経済成長が始まり、日本戦後の<原風景>は急速に壊されていく。
 
 1940年代は戦前を色濃く引きずった時代風景があった。
 
だから、1950年代が日本戦後の<原風景>。<出発点>なのだ。
戦後日本人の<心の原風景>とも云える。そこに何気ない自然流の共生意識があった
 
ちょうどそのころが日本映画の真の黄金時代だった。全国津々浦々の超満員の映画館で上映される娯楽映画の裾野の広がりの中で、日本映画が日本映画たる創造性を発揮した作品群が溝口、小津、黒沢の巨匠たちによって次々と発表された。
 
>>成瀬巳喜男をこの映画館で初めて見た時に、多分自分の1950年代邦画、戦後日本の原風景論?を決定づけた、と想う。
 
 彼の映画黄金期の作品は日本映画屈指の名作に数えられている「浮雲」を除いて、全部の作品は当時の庶民の日常生活のセコイ、カネと欲に塗れた人間的弱さに引きずられた、葛藤の描いている。
 
 それだけだったら、どんな監督も描きあげているところだが、成瀬はそれらを時代風景をさりげなく背景とし、個々の俳優の演技、カット割り、など成瀬にしかできない職人技を駆使して、演出に奥行きを持たせている。
 
 例えば、戦後の心も含めた原風景をそのものを描いている作品から、高度成長期に通じる事象と原風景の共存、葛藤を描く作品まで実に丁寧な演出が隅々まで行き届いている。
唐突な場面は全くなく、究極のリアリズムがそこにある。
 
 晩年の作品、加山雄三、高嶺秀子主演の「乱れる」では高度成長経済の消費生活の象徴であるスーパーマーケット進出による、繁盛していた地元商店街、小売店の没落とそこにおける夫を戦死させた未亡人と義理の弟の許されぬ愛がテーマとなっている。
 尤もこの作品は「浮雲」系のドラマチックな悲劇であり、成瀬作品としては異質であるが、成瀬作品屈指の名作と想う。
 
>映画作者としての他者には真似のできない職人技、極めているから、野球でいえば、リーディング、バッター。
 
>どの作品も、高水準を保っているので、見て裏切られることはない。
肩の力が抜けており、力んで映像を作っていない。
作品のストーリーは淡々と進行していき、カネ、イロ、欲、人間的弱さのオンパレードで、劇的山場のない作品が多いが、監督の演出力で見ているモノを飽きさせない。
 
黒沢明監督の側でスクリプターを務めた野上照代さんは自著で<黒沢さんが一番尊敬していたのは成瀬巳喜男さんだった>と述べているそうだが、理由は簡単だ。
 
 映画批評家としての黒沢明は自分の作品を客観的に評価できる人であり、決して自惚れた天皇ではなく、自分の作品の欠陥も解っていた。
 
しかし、独創的創造者だからこそ、欠陥を小器用に修正できない。
 
 黒沢は自分の対局に成瀬巳喜男を見ていたと想う。絶対にまねのできない映像世界を成瀬は全開できた。
 
>フランスの有名な映画批評誌は成瀬巳喜男を小津、溝口、黒沢に次ぐ、日本映画、第四の巨匠と位置付けているらしいが、外国の映画鑑賞者には成瀬巳喜男の映像世界は真に理解することはできまい。
 
>なぜなら、日本戦後の原風景が刷り込まれているモノでなければ、なかなか納得しづらい、場面が延々と続く。
 
 おそらく今の若い方々にとっても、日本の過去を知りたい、とかの特殊な関心がなければ、黒沢の様な劇的場面で引っ張っていく対局ある成瀬作品は退屈に想えるのじゃないか?
 
>成瀬ファンにとって日本映画屈指の名作との評が定着している「浮雲」のドラマチック性は成瀬作品の中で異質との意見が多いのは当たり前である。
 
>「アリアドネの部屋」さんのブログを辿っていくと、成瀬の戦前の作品「歌行燈」への感動を綴っていた。
原作は泉鏡花
後の成瀬作品の系列からすると「浮雲」に通じる作品だが、すでに成瀬は若いころから、凄い演出のテクニックを身につけてたと解る作品である。
 
北野武監督のグランプリ作品「HANABI」を見ていて嗤った。
小津安二郎のローアングル、長回しとともに、成瀬映画にしか出てこないシーンをそっくり使っている。
そもそも、あの映画のコンセプト事態がジョンヒューストンのロートレックを主人公にした「赤い風車」のパクリそのものである。
 
 あんなパクリ連発の映画にグランプリを与えるなんてフランス文化も地に落ちてきている。
アメリカンバブル崩壊に引きずられて経済混乱真っ最中のヨーロッパの現状は文化的にも明らか。
 
 日本はもっと自分の真価を知って自分を大事にして欲しい。
GDPは所詮、付加価値の総計。
 
と、すれば、付加価値の少なく、補助金の援護が世界中にある農業は付加価値を多く生み出せない。
 
が、人間は食いものと、自然がなければ、生きていけない。
 
 それを蔑にする政治家は二流三流政治家である。
そんな意見は米国でも、ヨーロッパでも通用しない人間としての魂を資本制の現象に売り渡したモノである。