反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

福島原発事故。長谷川和彦監督の名作「太陽を盗んだ男」をフト想う。当たり前の分別なく、軽はずみの「太陽を盗んだ男ども」に事故現場の収束の責任が負えるのか!

 長谷川和彦監督の1979年作品「太陽を盗んだ男」は当時人気絶頂のジュリー、沢田研二を主役に抜擢した異色の作品として、当時も今も作品としての評価は高い。
映画ファンなら誰でも知っている作品である。監督の長谷川和彦も監督作品はこの映画以後、一本もないのにその世界の有名人である。
 私も映画ファンとして、本や雑誌などでその人となりに度々触れることがある。なかなか魅かれる人物である。夫人は女優の室井滋さんである。
 
 今回の福島原発事故の記事を連日書いている最中、フト、映画「太陽を盗んだ男」のストーリーを想いうかべた。
 そこで、昨日やっと、ツタヤに出向く時間が取れたのでDVDを視聴した。
 
 ストーリーは沢田研二扮する無気力、高校理科教師が東海村原子力発電所からプルトニウム239盗み出し手製原爆をアパートで製造し、脅迫する話である。
 
ちなみに長谷川和彦は当時珍しい、東大出身の映画監督である。
 この時代、映画産業は完全に業界としての先が見えており、若者が映画界に飛び込むということはドロップアウト寸前を覚悟しなければならなかった。長谷川和彦は反体制の人である。
 同時に彼は広島原爆投下によって母親の胎内被ばくをしている原爆手帳所持者である。
 
 この作品はとにかく、考えさせられる、イロイロなことが圧縮され過ぎている、と云う意味で映画全体の評価としては技術的な弱点がいっぱいある。
 
 が、映画の中で提出されている問題点は深いし、今日性がある。 脚本を長谷川と京都大学などで教えていたアメリカ人脚本家が共同で書いている、という背景もあって、あのような先鋭な映画ができたのかもしれない。
 
 例をあげると、冒頭部分。後に沢田の手製の原子爆弾を巡って、対決する菅原文太の警視庁警部と沢田との運命の出会いの場面がナント名優伊藤雄之助演じるバスジャックに設定している。
 
 高校教師として沢田がクラスを率いてバス旅行中、伊藤雄之助のバスジャックに遭遇し、その始末をする責任者が菅原警部で、お互い面識のある同士になり、脅迫犯人沢田は菅原警部を名指しで脅迫の交渉相手に選ぶわけだが、伊藤雄之助バスジャック犯人の犯行の動機が特筆モノである。
 
 「天皇陛下にお会いして、戦死した息子に代わってお尋ねしたいことがある」
このために、機関銃を突き付けて、運転手に皇居突入を命じている。
 
 この冒頭の両主人公の出会いのシーンがなぜ?もっと穏便な出会いが想定されてもよかったのに、演出として強引に特殊、超過激要求を掲げるバスジャックでなくてはならなかったか?
 
 「陛下にお会いしたいという要求を掲げる」バスジャックを登場させることで長谷川は太平洋戦争と戦後、日本の政治構造と歩みを踏まえて、その流れの中で原爆テロリストの出現を演出の力技で何とか位置づけようとしている。
 
 この意図の壮大さ、先鋭性と現実の映像の唐突性がこの映画の終始一貫した長所であり、欠点である。
 
 この作品の評価が今でも高いのは、映画の志の高さ、時代が変わっても残る先鋭性を汲んでいるからだ。
長谷川がその後作家として筆折ったように1本の作品さえ発表できなかったのは、この映画の中に余りにも自分の監督としての長所と欠点をさらけ出し、そこも含めて評価が余りにも高くなりすぎている、と痛感しているからだ。
 
 この辺の事情はもっと説明する必要がある。
 
 冒頭に超過激要求を掲げるバスジャックを設定したのは奥崎健三の天皇パチンコ事件、天皇一家ポルノ写真事件を念頭に置いて、奥崎謙三の太平洋戦争の戦地における実態追求と戦後の経済成長を遂げてからも執拗に戦争指導者としての天皇の責任を追及する姿勢に長谷川が感じるモノがあったからだろう。
 
 長谷川和彦は広島原爆投下によって体内被曝し、原爆手帳を持っている。と云うことは、長谷川を体内に母親は爆心地の近くで被爆した。被曝程度が高いから、体内被曝が認定された。
云い換えると、長谷川の肉体に戦前と戦争は宿っている。問い返すのは当たり前だろう。奥崎の問いかけと行為を自分の映画の中に挿入したくなるのもうなづける。
 
 こういう角度からの先鋭シーンを映画の中で表現した先駆者が長谷川であり、後に日本映画史上の特殊な名作に数えられる、原一男監督の奥崎健三、当人をドキュメンタリーの主人公に据えた「ゆきゆきて、神軍」撮影開始の1982年より、3年前の1979年に「太陽を盗んだ男」が公開されていることに注目する。
 
 トーキー映画が公開されるようになって半世紀を優に超える時間が経過している。
芸術としての映画のコンセプト、シーンなど諸々の演出技術は究極的に使い古されている。あの場面はあの映画の剽窃でというのが余りにも目につく。
 
 北野たけしの海外映画賞受賞作「HANABI」などコンセプトそのものが、ジョン、ヒューストン監督の「赤い風車」まる写しである。数多くの象徴的シーンもあそこが小津安次郎のカメラの低い位置からの長回しで、ここで猫が登場するシーンは猫好きの成瀬巳喜男のシーンとそっくり、なんて、嫌になるほど、これでもか、これでもかと
パクリの連続である。
 
 私は思った。あんなものに賞を与えるフランス映画はもう衰退しているのだな、と。
昔はフランス映画が封切られていた。今、お目にかからないのはビート武のあんなパクリ、オンパレードに気付かないほど、フランスの映画関係者は力をなくし、邦画の名作さえ、じっくりと見ていないと。
 
 北野たけは監督として評価できない。
おすぎも、たけし映画はダメとバッテンをつけている。オリジナリティーなく、パクリの酷過ぎる、やり口を知っているからだ。
 
 長々と説明したのは、長谷川のオリジナリティー、ラジカル性、普遍性を云いたかったためである。
器用につぎはぎだらけの場面を連続させても、嫌気がさす人も一方でたくさんいるということだ。
芸術は模倣に始まるが、最後はオリジナリティーだ。
 
 長谷川の「太陽を盗んだ男」は今でも色褪せていなかった。
核ジャックをアメリカが問題にし、恐れだしたのは、長谷川の「太陽を盗んだ男」公開からずっと後だ。
 
 >福島原発事故現場。
太陽を盗んだ男」どもが、事態に対処しているのではないか。
映画「太陽を盗んだ男」の様な分別なく軽はずみな、原発推進をしてきた東電の「太陽を盗んだ男たち」が事故対処している。
 
 事故現場の実態に引きずられ、日和見主義、事なかれ主義、問題先送りの精神に骨の髄まで冒された連中に事態を収束できるわけがないし、国家がプロジェクトとして事態に向き合っても、好転しないと、想う。
 
 これが福島原発事故のありのままの実態である。
 
 京大の小出さんも、本当の所、途方に暮れているのが毎回のラジオ出演で解る。
どうしようもないと、云わないだけである。
 
福島原発事故は事実上、東電、原発推進派が引き起こしたといって、どうして過言であろうか?
私の連日の記事は細かい現場事情の「分析」に終始しているが、この事故を見つめる観点ははっきりしている。
彼らが事故を引き起こしたのだ。
 その意味で加害者と被害者の立場ははっきりしている。
これをあいまいにしてはならない。
 
  <極端にいえば、東電や原発推進派は「太陽を盗んだ男ども」なのだ>
映画の「太陽を盗んだ男」はしがない無気力高校理科教師の原爆製造、脅迫の話だが、今、福島で進行中の事態は東電、原発推進、利権癒着勢力による、先の見通しの全く立たない福島原発事故を盾に取った国民脅迫以外の何物でもない。
 
 そこに政権基盤脆弱、民主政権だとか戦後日本の経済成長の歩みだとか、事が個人でなく歴史と利権癒着集団でなされた、など諸々のカーテンが垂れ下がっているから、事の本質が見えなくなっているだけである。
 
 彼らは先行き不透明極まる原発事故現場を盾にとって自分たちの都合のいい体制を構築しようとしている、と云って過言でない。これからの政治的推移はその方向に進んでいくだろう。
 
  >東電ではこの事故は処理しきれない、人材もいないし、事故現場の修復責任も取れない。
>>国家プロジェクトとして処理していくしかないが、それでもどうなるか見当がつかない。
 
>>事故を引き起こした東電や原発推進派は意気地がなくなっている。
>>メルトダウンが起こっている、水素爆発がある、などと最悪の事態を口にするようになっている。もう腰が引けて、最悪の場合が起こった時の逃げを打っているのだ。
 
>>政府は誤魔化そうとしている、と云うよりもこのような決定的な時に至って意気地がなくなっている現場、関係者の中で何とか持ちこたえようと足掻いている、と云うのが正直な現状であろう。
 
 京大小出さんも昨日の放送で指摘しているように「追いつめられている」と云いたほうが適切だろう。
 
 >国が前面に出て云ってもどうなる、云うほど、現場状況は単純でない。
しかし、最終的に国が前面に出ていかなければ、国民が納得しない、だろう。