反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「将門記を読む」。戦争と平和に関連する部分を抜粋、引用。将門以前の戦争の主要戦争手段に焼土作戦があった。

     将門記を読む>文学から見た将門記ー引用
「将門の乱は一過性でなく、後世の貴族にとって、世代を超えて憎悪を抱かせる大事件として認識されていた。
例えば、将門の乱が貴族の日記などの先例として現れるピークは大きく二つあった。
一つは12世紀の源平の争乱期。もう一つは14世紀後半の南北朝の動乱期である。
つまり大規模な戦乱が起こるとその先例として将門の乱が想起されたのであった。このことは親から子へ子から孫へと、将門の乱の記憶が、いわばトラウマとして伝承されたことを意味する」
 
将門記の(中世軍着物と異質な点を)戦闘記述の特徴として次の3点を挙げる
1)戦士像を具体的な行動よりは戦わんとする身上において捉えること。
2)勝敗の行方を、名文の有無や戦闘力の優劣ではなく、時運に記すること。
 
3)戦闘の結果として第三者をも巻き込んで現れる悲惨な情況に筆を費やすこと。
 特に3)はこの書の根源的本質といってよい。
「作者が戦闘の当事者でなく、第三者としての被害者の立場に立つことによって、乱全体を的確に記述することが可能になったとともに、被害者の立場を、乱をおこして自分たちの生活を脅かすものはそれが誰であっても困った存在とみなす立場、と捉えている。
生活を脅かす戦いそれ自体を憎しみ否定する論理こそ<「在地の論理>と称してもよいだろう。」
 
>ー戦いを控える行動、抑える行為が賞賛の的。英雄とは、戦場で力を発揮する者でなく、むしろ戦闘を自嘲し回避し、抑止するはずが、復讐の連鎖は止まず、エスカレーションしていった
「戦闘の当事者も加害者であるととともに被害者として描かれている。彼等は悪人でもなければ英雄でもない。
加害者として批判されつつ、被害者として同情され共感される中、
>戦いを控える行動、抑える行為が賞賛の的となっている。
将門記における英雄とは、戦場で力を発揮する者でなく、むしろ戦闘を自嘲し回避し、抑止するものである
 しかし収束を図る英雄的行為が有効に継続せず、加害と被害が反転的に繰り返され、その応酬が悪化の一途を辿るところに将門記の捕らえた危機の深刻さ根深さがある。
 
>癒しがたい心身の苦痛を受け、やり場の無い憎悪と悲嘆を抱いたものが、相手に苦痛を与えることをせめてもの心のやり場として、進んで加害者になるという応酬を繰り返し、新たな苦痛と悲嘆を憎悪が次々ともたらされる様相こそ、将門記が捕らえた乱の姿であった。
将門記とは、この悲しき報復の連鎖が予想外の大事件(国衙勢との戦争)へと拡大する経緯を追跡し刻印し記録に留めることを自らに課した書である。」
 
       将門記ー<武器、武具と兵>引用ー>焼討作戦についてー
W。戦争形態は騎馬武者を中核とした寄せ集めのパートタイム戦士集団の攻撃と後退だけで、城塞防御、兵站を想定しない遊撃戦。長期対峙戦になれば、物量によって簡単に決着が付く。
火を放って敵の根拠地を焼いてしまうのは、戦争が未熟な段階である証拠。日本の古代の戦争は綺麗ごとしか公式文書に記されていないが、全部、この類。
 
1) 「焼討作戦はあくまでも襲撃の際の戦術ではあるが敵側の領地、人民を損なうことを避ける戦国時代の戦闘とは対照的である。
コレは将門の乱当時の戦争が敵の殲滅、壊滅を目指し、戦国時代は領地の争奪戦であるという戦闘目的の相違に由来する。(W。会戦で壊滅的打撃を与えられず、大半の敗者は無傷のまま根拠地に帰還するから、勝者は勢いをかって、敵拠点の焦土作戦を敢行せざる得なくなる。戦闘技術の未熟性、にも原因がある。)
焼討作戦が敵の殲滅、壊滅に適していることは解りやすいであろうし、
 
>領地の争奪戦では、争奪後の活用を考えて敵の領地や人民を損なうのを極力避けるのである。(W。間違いとはいわないが、戦国時代でも、そんなやわな合理主義で大将が戦争に臨んでいたら、やられてしまうのではないか。戦争は殲滅、総力戦の要素を常に含んでいる、限定戦争は無制限戦争にエスカレートする、という弁えが大切。言い換えると限定戦争に制限する努力が要る。)
 
2)財産を奪う制裁としての<焼掃>ー将門記ー在地社会から見た将門の乱ー引用ー
将門記に登場する集落<焼掃>の特徴を再確認すれば、他所で行われた戦争が終了した後に、わざわざ敵方の拠点集落を訪れてコレを焼く払うという得意な手続き?に尽きるだろう」
「なぜこのような手続きを経て集落の焼掃がおこなわれたのだろうか?」
>「古代末からの集落の<焼掃>にも、刑罰の一種?すなわち、一端戦闘に踏み切った以上、敗れてしまえば、勝者の側から二度と戦闘に向かわせないように私有財産を消滅させられることもやむをえないという考え方
が、当該期の社会の根底に存在していたと見ることが自然なのではないだろうか。(W。回りくどい。もっと戦争の論理に沿って考えるべし)」
 
「将門を支持して行動を共にする伴類の集落の人々は、おそらく出陣、参戦と同時に、自宅を焼き払われる覚悟もあわせて持っていたのではあるまいか」(W。この戦争参加者の覚悟と論理は一方の当事者だけが持ちうるものではなく双方向なのだから、先にあげた自嘲抑止回避の能力を戦争をする力よりも優位に置くべき。戦争が発火する前段にそういった戦争をしない情況を生み出す必要がある)
 
>当然、論者もそういう方向に思考が向かう。
 
「そもそも地域や時代を問わず、あらゆる戦争において、人々は参戦に踏み切るという決断を下した際には、(W。人々は参戦に踏み切る決断を下せるのだろうか?)このようなリスクを覚悟しなければならなかったはずである。」
 
>そういう問題設定をすると次のようになる。
 
「例えば近年、東京大空襲をはじめとする太平洋戦争時の空襲被害体験を記録しようという動きが盛んである
私もこのような活動を支持する立場を取るが、そのような中で<何の罪もない年寄りや女性子供を無差別に殺戮する空襲は許せない>という言説がよく語られる。
 しかしながら、わたしはこの<何も罪も無い>という表現には少々疑問を抱いている。
 
 市民が結果として国家の参戦を阻止できず、戦争推進に間接的にせよ手を貸すことになったのは事実であり、
(現在から見れば)市民の戦争責任も否定することができないのではないだろうか。
あのような空襲被害を二度と繰り返したくないのであれば、<何の罪もない。という表現を安易に用いることなく、市民も国家の参戦、戦争水深を阻止し得なかったことを自覚し、反省しなければならないのである
 こうした自覚反省がなければ、また<いつか来た道>を辿ってしまうのではあるまいか。」
 
W。論旨も気持ちも、よく解る。自分と近い問題意識の持ち主である。
が、こういう論法にはズット違和感を持ってきた。陥らないようにしてきた、というべきか。
 
 940年の縁辺地域の北関東の戦乱に参戦する住民にとって、自宅を焼き払われる覚悟の敷居は現代人が想像するよりも遥かに低いものだっただろう。
日常生活は粗暴段階に留まっており、財産といっても知れたもので、失っても、生き延びている限り再建できる。人々の自然な生活観、死生観は流転感覚が非常に強い。
近代的人間の自意識に遠ざかれば遠ざかるほど、暴力へ忌避観は少なくなる。
そもそも、自力救済の粗野な社会の緊急事態ではやらなければ、やれれてしまう相互関係がたちまち成立、横行する。
 当時の参戦する人々に今風の財産焼失の覚悟を問うのは、無理がある。現代人的立場からの深読みが過ぎる。
そういう論法を立てると、どうしても、話題が現代の近場の悲惨事態への対処に飛躍する。
 それで、<現代から見れば市民の戦争責任>を否定できない、という観点から、戦争被害のみを強調して、国家の参戦を阻止できず、戦争推進を間接的にせよ手を貸すことになった事実を問うが、
>コレは歴史的条件の大きな違いはあっても、940年の北関東の戦争参加住民に住居を焼失される覚悟を深読みするのと次元は同じである。
 
治安維持法下において、どういう形であれ参戦、戦争推進を阻止の活動をすることは並大抵ではなかった
そういう厳しい次元を当時の国民に求めるのはお門違いであり、現時点でも問い直さなければならなのは、そういう風に論じる自分自身が戦前の場にあって、どうであったのかと想定することであり、戦争推進に反対してきた人たちの意思を受け継ぐことである。
 
 そもそも当時に日本には日本国民という概念は皇国の民として強烈に意識させれていただろうが、国家と市民社会の区別、市民の自律性という政治概念とそれに基づく行動生活思考パターンは存在せず、そういったものが導入されたのは敗戦によってである。
 また、一方向の情報が社会に充満していて、選択の余地はなかった。全体的な教育水準と内容に大きな限界と問題があった。
 
 現在において、「戦争被害」を強調する視点は確かに片手落ちだが、それさえも時代の経過とともに忘れ去られようとしており、国家と市民社会の区別や市民としての自律性の中身も怪しい現実がある中で、限界はあっても敗戦の事態を再確認することは、実際上、市民の「国家の参戦、戦争推進を阻止する」ことに即、繫がっていく。
 論者のような抽象論よりもよっぽど、広範な市民に浸透するものと考える。
特に現代の戦争の背後には核兵器がある。リアルな現実は大規模戦争抑止は核兵器によって成り立っているという理屈もある。
 
 論者のような論法は今現在の日本で広範に浸透するものでなく、一部の理屈に留まり、その矛先の一方向は戦争を忌避する人たちの素朴な心情に向けられているような気がしてならない。
それでかく乱し、結果的に戦争の論理を推進するものたちに有利に働いているのではないだろうか。
 
   <在地社会から見た将門の乱>
1)10世紀の民衆像
今日、10世紀の在地社会について具体的なイメージを持つことは難しいとの指摘がある(W。同感する。解説を読んでもイメージがハッキリしない。学者さんは、辻褄あわせをしているような気がしてならない。)
荘園関係の古文書などほとんど残されていない関東地方にあって(W。西日本と荘園の管理状態が杜撰、緩い、生産性も低い。開発可能地多く私営田化が急進展し、そこに国司が税を強制するから大きな反発が起こる。コレも適当なイメージだが。)この時期の在地社会の実態を解明する作業は勢い考古学の発掘作業の成果等に期待せざる得ない。
当該期は従来までの主たる住居だった台地上から、沖積地へと集落が立地条件を替え。
>住居の構造も竪穴建物から掘っ立て柱建物へと変わっていく時期である。(W。この点についても考えたが結論が出なかった)」
 
    <発掘された<焼掃>集落>ー貴重な古代集落の<焼掃>の事例ー
埼玉県上中里町に所在する中堀遺跡。(栃木県との県境)神流川(かんな)が大量の土砂を運んで形成した扇状地の扇央部分に位置する。
>「各区画が景観を整えた直後の10世紀初期頃に、集落全体が代位規模中際に遭遇したことが判明した」
「さらに、焼失した各建物の焼土の形状から、特定の場所より出火した火が延焼したというよりも、各建物がほぼどう一次に其々放火され、結果として集落全体が炎上したと考えた方がよい。集落は明らかに<焼掃>されたのである。」
 
「現在この遺跡所在地の北側には<勅使河原>の地名が残されていることから、この遺跡が829年とその翌年に武蔵国に設置された<勅旨田(ちょくしでん)>(天皇の勅旨によって開墾された公田)の現地管理施設ではないかとしている。
その経営は、在地の私営田領主が荘官として担当したものと思われるが、10世紀初頭、何らかの政争に巻き込まれ、結果、制裁として焼き払われるような事態が生じたのだろう。」
 
W。考古学調査によって、将門の乱以前の主要な戦争手段に焼土作戦があったという事実が提示されている。
古代大和朝廷の「全国制覇」の際の戦争手段にも焼土作戦があったと推定できる。戦争技術が未熟な段階では焼き払うことは重要な戦術になる。
 
 もう一つ、「天皇の勅旨によって開墾された公田の現地管理事務所」としているが、はたしてそれは何処まで事実を物語っているのだろうか?
全部焼き払われるような事態が発生している、ということは、少なくとも牧歌的な天皇勅旨による公田ではなかった、いえる。
現地管理事務所は土地占有し、周囲の土地を収奪する経営拠点であり、明確な自分の開墾地を管理していただけと思えない。この当時は土地支配に転換していたが、公地公民、班田収受への疑問である。元々、経営環境のハッキリしない天皇の土地を私営田領主が管理しているところに複雑な問題が生じる。