反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

スティーブン・スペンダー 日記1939年~1983年抜粋。


      スティーブン・スペンダー - Wikipedia日記 1939~1983。2002年渓流社刊行。
 引用。1939年9月の日記。
「性的自由を実践し、誰もそのためにどんな仕方であれ苦しんだり犠牲を払ったりしないかに見える人性、それは極めて魅力的である。
どのようにしてそれは実行されるのだろうかと思う。
>ドイツの場合、
私はそれがあらゆるものとを全く同じ次元で存在させるという代価を払って実行されるのだろうかと思う。
新建築、バウハウス、社会的平等、この上ない気安い情事、結婚、妊娠中絶、パーティー、それらはみな同じものだった。~
危うい感じに構築された、まったく平等な価値を持つ一組のカード~だから一つが壊れると家全体が倒壊した。」
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『ドイツ人の困った点は』と彼は話しを続けた。
>政治的自由を経験していないということです。
前世紀までずっと彼らは滑稽でちっぽけな君主に支配されていました。
それからプロシャの軍国主義者たちの支配下にいりました。
奴隷のような指針的態度から自分たちを一度の解放しなかったわけです。
ドイツ国民は政治的自由の意義を学ばなければなりません。
あなたたちイギリス人は数百年前にある王様の首を切りましたピューリタン革命 - 世界史の窓 1642年
お国の自由の基礎h暴君に対する反逆が心の中に可能性として存在するということです。
>ドイツ人たちは一度の暴君に対して蜂起しなかったのです。いつも屈服するのです。」

W注!
1524年夏、南ドイツから始まり、ほぼ全ドイツに波及した大農民反乱。指導者のトマス=ミュンツァーは、南ザクセンの教会説教師で、ルターの宗教改革を支持し、自らも教会の腐敗を批判していた。教会批判にとどまらず、封建領主による収奪が強まって苦しんでいる農民の救済をめざし、農奴制の廃止、封建地代の軽減、裁判の公正など、「農民の12箇条」をかかげ、領主や教会など封建諸侯と戦った。おりから封建諸侯は、カール5世のフランス王フランソワ1世との戦争で。   ~~~W。以降、ドイツは領主分割体制へ

こうして、ドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになった。南ドイツの農民は、このとき諸侯軍側についたルター派から離れ、現地ではカトリックが主流となった。
一方、勝利した諸侯勢力は、勢力を強めて各地で割拠し、ドイツはその領邦的分裂をさらに強めることになったのである。」
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W注!
【ジョン=ボールが作ったという「アダムが耕しイブが紡いでいた時、だれが領主だったか」という歌詞の歌が流行し、1381年6月、まず農民一揆として反乱が始まった。 農民一揆始まる. イングランドの南東部のエシックスやケント州に始まった一揆は、たちまちほぼ全土に拡がり、指導者ワット=タイラーのもと反乱軍を組織し、ロンドンに迫った。ロンドンの市民は反乱軍を受け入れ、ロンドンは反乱軍の手におち、大司教や大蔵大臣は殺害され、大商人の屋敷は焼き討ちされた。国王リチャード2世はロンドン塔 ...
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ワット・タイラーの乱が起きたのは誰のせい? 英仏の長過ぎる百年戦争が招 ...

2017/07/14 - ワシ天才!^^」 としか考えないものですから、当然、民衆からの恨みを買います。 特にこの時代のイングランドの場合、ペストの流行も労働力を減らす要因となっており、人手を確保するために農民から「移動の自由」を奪ったことも大きな要因でした。 要するに農奴制です。 こうなると農民たちも黙ってはいません。 ワット・タイラーの乱も、そうして起きた農民反乱のひとつでした。 乱の名前にもなっているワット・タイラーという男の出自や経歴は不明ながら、なかなかの求心力を持った人物だったようです。

ピューリタン革命 - 世界史の窓 W。イングランド宗教改革は不徹底、上からの「改革」英国国教会にとどまった事態に対する議会に勢力を持つ改革派の戦い。
「イギリスの絶対王政による国教会の強制に対するピューリタンの信仰の自由、特権的商人を保護する重商主義に対するジェントリ層の不満などが要因となって1642年に内乱が始まり、49年に王政が倒れて共和政が成立した革命権力をにぎったクロムウェルの独裁政治によって共和政は有名無実化し、1660年に王政復古して終わった。1688年の名誉革命と併せてイギリス革命と言われる。」



③ イギリス国教会(アングロ・カトリック

④ フランスの宗教改革 ユグノー