今回の反俗日記の課題。 岩波新書、「戦国と宗教」神田千里著の疑問点。
戦国時代の浄土真宗の蜂起と織田信長の関係を神田千里は2「石山合戦の実像」~織田信長路の戦いを見直す、としている。
同著引用 「織田信長と一向一揆との石山合戦」という見方ももまた、一向一揆の反権力神話に基づいている。そもそも現実に起こったのは、将軍義昭と彼を擁立した織田信長の側と、
三好三人衆(W。将軍暗殺や一時的な畿内覇権状況にもかかわらず歴史書にはあまりに言及が少ない。歴史資料が少ないためもある)、朝倉、浅井ら反義昭勢力との戦いであり義昭信長は対立してからは京都、5畿内をおさえる信長と義昭の命を報じる諸大名との戦いである~~~
>本願寺はその二つの抗争において、一方の側に参加したに過ぎず(W.一貫して反信長であったのも歴史的事実~~なのでなぜ一貫して反信長側についたのか?世俗封建武装勢力と仏教(宗教)武装勢力との対立の構図はヨーロッパ中世史になかった)
YAHOO知恵袋
中世ヨーロッパではローマ教皇の権力が強かった理由は、中世の時代はキリスト教のカトリックの影響が強かったのと封建制を敷いて国王や諸侯に忠誠を敷いていたからでしょうか。
W。参照歴史資料
引用
「1059年枢機卿会議による教皇選出規定が決定され、教皇選挙への皇帝権の介入は排除された。さらにグレゴリウス7世(ローマ教皇)は1075年の「教皇教書」により、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言したが、それは教会政策を帝国統治の基本にするドイツ王(ザーリアー朝)ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)との決定的な対立を引き起こすことになった。いわゆるカノッサ事件(1077)である。」
カノッサ事件の顛末
「カノッサの屈辱」
「グレゴリウス7世(ローマ教皇)は、書簡を送って国王ハインリヒ4世の司教叙任を叱責し悔い改めを迫った。しかし、国王は逆に1076年1月ヴォルムスに聖俗諸侯を集め、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議した。そこで、教皇は翌2月ハインリヒの廃位と破門を宣言すると、ドイツの司教たちは動揺し、世俗諸侯は再び国王に反旗をひるがえした。諸侯たちは集会を開き、波紋から1年後の1077年2月までに国王が波紋を解かれないかぎり、ハインリヒの王位を廃することを決定した。1076年の暮れ、孤立した国王は教皇に謝罪することを決意し、ローマに向かった。そして翌77年1月末、トスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒはカノッサ城に滞在する教皇に許しを請い、雪の城門で3日間素足のまま祈りと断食を続け、やっと破門を解かれた。これが、いわゆる「カノッサの屈辱」として知られる事件である。
**ベストアンサー**
封建制であったため、諸侯の力が強く、国王や皇帝などの権力が相対的に弱く(W.日本の封建制は戦国時代の内乱の到達点である末期の織豊全国統一封建権力の過渡期を通じてを中央集権的幕府体制が成立。ヨーロッパ封建時代は内乱を通じて絶対主義に転回)、権威も低かったためです。それらの権威を与えるのが教会でありローマ法王だったわけで、世俗の権力レベルが低かったために、相対的にローマ法王の権力(実際には(W。教皇は)軍も警察力も持っているわけではないので、権力としては未完成なんだけど)が高い様相になったわけです。 廻りのビルが低ければ、100m程度のビルでも、超高層になる。周りのビルが高くなれば、同じ100mのビルなのに埋もれて目立たなくなる、ってのと同じ光景ですね。
****
W。日本中世=権門体制と理解すればヨーロッパ中世と日本中世の違いが判る。
引用
「中世に台頭した武家と寺院。どちらも朝廷・公家ら既存権力との協力関係をテコに、地域における影響を強めていく。公家・武家・寺社が複雑に絡み合い、社会の姿が凝縮」
「日本中世の国家形態・支配機構を示す歴史学上の概念。 ①天皇家・摂関家をはじめとする公家<日非武装の古代祭政一致国家の権威の残存威光>,
②寺社(寺家・社家)<非武装の宗教権威であるキリスト教とちがって自ら武装勢力化>,
③幕府(武家)など複数の権門勢力が<ヨーロッパ中世の領主との違い⇒日本列島の平地は狭隘、強固な武装勢力が覇権を握り易い。
>相互補完また競合しながら