CMソングを歌っても西田佐知子ワールド全開。
初めての街で
西田佐知子(CMバージョン) 永六輔 中村八大W。菊正宗CMソング。
デビュー当時の2曲(アルバムには入っていない)など西田の曲を聴き続けていると、円熟過程がはっきりわかる。西田佐知子ワールドの根幹である鼻にかかった軽妙なドライブ感のある節まわしは、洋楽「コーヒールンバ」の大ヒットなど従来の歌謡曲ジャンルを超えた歌唱の経験から獲得されたものである。その意味では天才少女歌手の延長線上で大衆歌謡の道を歩んできた美空ひばりが拭えなかった泥臭さとはきっぱりと一線を画している。
>西田は1971年の結婚によってそれまでの歌手活動から撤退したが、
>75年9月から全国一斉に茶の間に流れたCMソング「初めての街で」によって西田佐知子ワールドは完成形に達した、という奇妙な現象は日本の歌謡史上皆無であった。西田のデビュー2曲(1956年、1960年)以降の作品を聴き比べた結果の率直な感想である。
系譜でいえば1966年の「裏町酒場」から「初めての街で」へ。ここに西田佐知子ワールドの真骨頂がある。
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「コマーシャル(CM)用音源は1975年8月26日にレコーディングされ、同年9月からオンエアを開始した。
⇒W。西田佐知子は1971年の結婚により歌手活動を制限していた。1975年ごろは公開の場で歌うことはなかったはず。
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西田の活躍していた時代は高度経済成長期、そのもの。
1940年前後生まれの世代は物心ついた頃に戦後日本の原風景を肌身で知り、戦前が総括された完全右肩上がり、高度経済成長にどっぷりと浸った最も機会に恵まれた世代だった。(東西冷戦下の資本制国同時一国高度経済成長期)~~クレージーキャッツ、植木等の無責任ソング、TVと映画の世界は後にも先にも再生できなかった~~
反俗日記で過去に掲載。1年と10か月ほどしか経っていないのか、唖然とする。
この長旅の中で関口知宏が母親、西田佐知子にふと言及するシーンがある。「僕は代々東京育ちなんだけど関西弁がフト出てしまうことがある。母親が関西人なもので~~(W。石坂浩二の家は火消し、関口の祖父~国会議事堂建設に携わった~はとび職=火消し系は江戸の時代から町の顔役)」
西田佐知子は家庭内で関西弁で通しているたようだ。
関口知宏の中国鉄道大紀行3万6000キロ。ラサ出発⇒成都⇒桂林⇒上海⇒西安⇒天津⇒北京、瀋陽⇒フフホト⇒カシュガル
com 関口知宏の中国鉄道大紀行 W。1編~4編各1時間40分以上、全編見たわけではないがTV鉄道紀行番組の傑作だと思う。旅人の関口知宏は常に自然体、フレンドリー、この種の番組によくある騒々しさはない。口をぽか~んと空けて、よちよち歩き。しかし所々、要所要所で知識の一端をさらっと垣間見させてくれる。通訳を入れているが、中国語の簡単な会話は事前に理解できているようだ。本人の無理をして生きてこなかった人柄によるものなのか長時間旅番組に飽きることがない。 >鉄道旅番組の見どころは…
五所平之助監督「煙突の見える場所」1953年⇒「大阪の宿」1954年。
庶民を描いた系譜に東宝争議で組合側の戦いの先頭に立った五所平之助監督の心象風景が投影されている、とおもうが、イマイチ東宝争議の先頭に立った五所監督の立ち位置が<理会>できない。
戦後間もない混乱期とみるか、
<戦後革命期>との歴史の見方をとりいれるか、という歴史の見方によっても<理会力>が左右される。
とりあえず、当時を伝える文字も映像も風化しているためか、戦後生まれもモノにはリアルに解らないので東宝争議 - Wikipediaを調べてみる。
**********力作である。当時の新聞記事(朝日、読売)を資料として使いながら、東宝争議の全貌を臨場感をもって描き出している。小冊子1冊分を超える長文は東宝争議の経営側の背後にいたと思われるのがGHQと公職追放中の阪急東宝グループの創業者小林一三 - Wikipediaに及ぶ。
<東宝争議を敗戦後、最大の労働争議(戦車も飛行機も来た、来なかったのは軍艦だけ!)と位置付けるなら、戦後世界体制の緊張と激動との関連を強く押し出す必要がある>。
GHQの対日対策の肝はマスコミ新聞、映画など大衆娯楽を使って米世界戦略に従順な日本国民に宣撫すること。東宝の監督俳優なども含めた従業員組合が日本共産党の影響下にある産別組合の傘下にあって、経営参加や撮影作品への影響力を持つ段階に至ると世界戦略の拠点日本を危うくする。
「1946年からの東欧における、また1949年の中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖
>特に東宝争議は
マッカーシー上院議員らによる赤狩り(ハリウッド映画関係者パージ)との時系列関係で再認識すべきだ。(1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除」
戦後1940年代後半の切迫する朝鮮戦争勃発に至る朝鮮半島情勢や1947年2月1日ゼネストGHQ司令部による中止、国鉄3大謀略事件(1949年下山国鉄総裁列車轢死事件、三鷹駅無人列車暴走事件、東北本線福島県松川町列車打線工作事件、
「270名に対し、個人宛て解雇状を発送した」日本映画の運命を決定づけた戦後最大の労働争議はなぜ起こったのか
小池 新
「270名に対し、個人宛て解雇状を発送した」日本映画の運命を決定づけた戦後最大の労働争議はなぜ起こったのか | 文春オンライン
バリケードに立てこもった女優たちにも向けられた「空には飛行機、陸には戦車」…「娯楽の王様」だった映画界で何が起こったのか | 文春オンライン
本当の目的は、これを機会に東宝から赤を追放することだ」
苦肉の策の「出稼ぎ」
スターも浜田百合子が松竹に借りられたのをはじめ、池辺良、志村喬が大映、龍崎一郎が東横へ出演契約金の一部を組合へ寄付するし、その他若山セツ子、久我美子、三船敏郎ら男女優は谷口、黒澤、成瀬、小田監督らの率いる11班の文化事業班に加わり、本格的に撮影所劇団
を組織し、日建て1万円(同約10万3000円)から3万円(同約30万8000円)ぐらいで稼ぎ回ることになり、まず谷口組は若山セツ子らを連れて2週間の予定で日立連合会の各分会を回る豊田四郎は戦前「小島の春」、戦後は「夫婦善哉」などで知られ、志村喬は黒澤明監督の「七人の侍」「生きる」などで主役を務めた名優。若山セツ子は三船らと同じ東宝ニューフェース1期生で「青い山脈」などに出演したが、のち自殺。「谷口」は「暁の脱走」などを監督し…"
「2人がいる限り、仕事をしない」
"このころの撮影所内部のことを黒澤明監督は自伝「蝦蟇の油」に書いている。「外から入り込める所には全て鉄条網を張り、お手の物のライトを配置して夜間の襲撃に備えた。傑作は表門と裏門の防備で、両方とも門に向かって大砲のように撮影用の大扇風機を据え付け、いざと…~~~~""
「東宝・山本嘉次郎監督ら演出、脚本家、プロデューサーから成る芸術家会議全員24名は12日、撮影所紛争につき『渡辺社長、馬淵重役の2人が東宝を主宰する限り、仕事をしない』旨の声明書を発表した。"
「会社の言い分は言いがかりに等しい」
"メンバーの1人だった黒澤監督は「新日本文学」1948年7月号の「東寶の紛争―演出家の立場から―」という文章で「僕たちは、今度の紛争における会社側の言い分ややり口について、次のような点が容認できない」と述べ「会社側がこの首切り案を合理化するために発表し…"数字には多分に意識的なうそがある」とした。"
「東宝争議 きよう仮処分強行」
"申し入れを日映演側は受諾したが、会社側は17日の重役会で拒否を決定。渡邊社長は「既定方針で進むよりほかない」と語った。仮処分が決定した以上、強硬姿勢でいくという意思表示だった。"
「飛行機3機、戦車7台、騎兵一個中隊をもって、警察に先んじて出陣した」
"組合員は職場別に中央広場に隊伍を整え、四列縦隊に腕を組んでインター(ナショナル)を高唱しながら、籠城134日に及ぶ撮影所を後に、裏門から撤退を開始した。先頭の赤旗について、伊豆から病躯を押してかけつけた五所平之助の悲壮な姿が見え、谷間小百合、若山セツ子、久我美子、中北千枝子らの涙にぬれた顔も見えた」"
"労使交渉の結果、伊藤・日映演委員長ら20人が自発的に退社することで決着。第三次東宝争議は195日ぶりに解決した。
>しかし、それで全て終わったわけではなかった。約1年半後の1950年5月、会社側は1200人の人員整理を通告。争議が再燃したが、同年6月に"始まったレッドパージで最終的に共産党員とシンパは映画界から追放されることになる。"
"「東宝争議・レッドパージとは何だったのか」は次のように解説する。"
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なお、五所平之助監督の前記2作品は近年までYou Tubeで無料公開されいた。「大阪の宿」は3回ぐらい繰り返してみているが、どうやらDVD化されて著作権関係が厳しくなり(分程度)のシーンのアップに留まっている。結局、カネを払ってまで繰り返し見る価値があるかどうかに尽きる(ネットクラウドに出ていれば300円程度でダウンロードできる)。「大阪の宿」は小品である。それ以上ではない。しかし、当時の大阪の庶民の風俗はそんなものだった、だろう。芸達者が演じるから面白く興味深いのであって、他の地域のモノが実際に遭遇すれば癖が強くて、辟易するだろう。
原作者の水上滝太郎の小説は超エリート社員(明治生命創業者の孫~徹底した上層家系)の入社間もない大阪支社出張時の宿泊旅館で働く人々を中心に据えた大阪庶民の逞しいリアルな日常への率直な共感が描かれていると思うが(三田文学の永井荷風調に描かれているのか?)、
五所監督が脚本にも参加した「大阪の宿」は映画評論家からは転向映画の系譜に数えられている。~もっとも無党派のモノが考え方を大きく変えたことが<転向>といえるかどうかの問題が東宝争議参加者の俳優などの幅広い顔ぶれをみると浮上してくる。~~
東京本社から大阪支社の出張した佐野周二は創業者に血を引く超エリート社員(実際、原作者水上は明治生命重役と作家活動兼務~「三田文学」の資金的精神的支柱~)ではなく、東京本社での労働争議により本当は解雇されるはずが経営陣との縁故関係で大阪に左遷されたインテリ社員を演じている。終始、苦み走ったインテリ社員が庶民の逞しさに戸惑う受け身の演技に徹した中で存在感を醸し出す難しい役どころをこなしている。同じ松竹の同僚、上原謙も同じような演技が得意でなのだが、横顔だけで絵になる寡黙演技のできる俳優は極少ない。
- 大阪の宿(1954年)- 新東宝創立7周年記念作品、原作水上滝太郎、主演佐野周二
- 久我美子、山田五十鈴などが第3次東宝争議以降の戦いに参加しているのもびっくりした。水之江たき子が争議の闘士だったのは有名だったが。
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西田佐知子 年譜
W.高校を止めて1950年代中期からプロ歌手の道を歩み始めた。
戦後日本の原風景は1950年代にある。
戦前の風景風俗と戦後が混在し衝突し戦後が戦前を否定しやがて生まれる高度経済成長期の助走が始まっていた時代。
日本映画黄金時代でもある。
高校を止めて歌手活動を開始した
>歌手西田佐知子は戦後日本の原風景の中で育まれた。
独特の鼻にかかったハスキーボイス、情緒に流れ込まない冷めた歌唱。
タミー・ワイネット - Wikipediaボイスに似ている。おそらく西田本人もタミーウィネットは知っていると思う。
1950年代はジャズとカントリーミュージックの影響力が強かった。「進駐軍」の界隈で多くの日本のジャズやポピュラーミュージシャンが育った。
*****年譜、西田佐知子。*******************************
1956年(昭和31年) - 「伊那の恋唄」でマーキュリーからデビュー
マーキュリーレコードの戦前、戦後を通じた系譜は下記。
1924年(大正13年)~~関東大震災1923年9月~~兵庫県西宮市に設立された合資會社内外蓄音器商會⇒蓄音機(タイヘイレコードのレーベル使用)⇒大日本蓄音器に組織改編(関西の老舗ニットーを吸収)。荒川区尾久に分工場九段下ビル)に『ニットー・タイヘイ東京吹込處』。
1956年マーキュリーからデビュー。
伊那の恋歌
日本映画黄金の時代。日活映画「帰ってきた勘太郎」主題歌。セリフが入るのも当時の定番。名和宏は時代劇俳優。映画産業全盛期の主流は紙芝居の最高発展形態のような粗製乱造された大衆娯楽映画~勧善懲悪、復讐劇のチャンバラ映画が多かった。
映画館は場末の盛り場にも映画会社の名前を冠したものが複数あった。
超満員の館内から勧善懲悪、復讐の、危機一髪のシーンに思わず掛け声が上がった(~体験したのはガラの悪い地域だったからかもしれないが。悪ガキに連れられもぎりの前を無料で駆け抜け館内に入った。もっともその悪ガキは弱いものを守る「正義」のひと運動神経が抜群、運動会のスターだった。)
いわゆる芸術映画は3番館ではかからなかった。現代劇の映画もチャンバラ映画に比べて人気が無かったようだ。16歳17歳の西田にチャンバラ映画の主題歌が回ってきたのもそういう事情からだ。いくら何でもいい加減すぎるが、当時の映画産業と音楽界の肝は大衆動員だから普通のこと。
セルロイドフィルムなので映写中に時々テープが切れ、暗闇の館内が眩しく照明され映写技師のフィルムをつなぎ合わせる時間が長く感じた。映写中にフィルムが発火して映写室から煙が上がった事態にも遭遇した。映写中のフィルム発火で火災になった映画館は当時、全国規模でかなりにのぼったのではないか、と想像する。
たばこの臭いと便所の臭いが充満していたはずだがガキどもは気にしなかった。
チャンバラ映画が一番解りやすくて(面白かったが、さすがに美空ひばりのお嬢侍何とかでバッタバッタと取り囲んだ者共が簡単に切り倒されるのには違和感があっった、鉄砲から発射された弾丸を刀でチャリ~ンと受け止めるなんて技も、日ごろチャンバラごっこと兵隊ごっこで野を駆け回って者には余りにリアル感がなさすぎた。大人は騙せても子供は騙せないってことはある。
石原裕次郎、北原三枝の「狂った果実」は何のことやらさっぱりわからなかったが大人向きの映画、ということだけは雰囲気としてわかった。子供が見てはいけないものを見ている感がした。
出典musasino 2 演歌(歌謡曲) - YouTube
W.弱冠17,18歳で美空ひばりもどきを狙っていたのか。当時の西田は進駐軍系洋楽の影響下にあったはずなんだけどいかにも無理筋感漂う駄作。
W。美空ひばり的天才少女歌謡路線で売り出されたが不発(マーキューリーレコ―ドの大衆底辺娯楽路線のラインナップに少女歌手西田佐智子を投入)。少女時代から抜群の歌のうまさで注目されプロデビューのパターン。上京しないで地元大阪で歌手活動をしていたのかな?当時の大阪のエンターテイメント業界は活気があった。
W.この項については関連事項まで徹底的に調べたので別の機会に独立した記事をアップする。
その時のために参照した資料を掲載する。コレで西田デビュー後の沈黙期間4年の謎は解ける。要するに所属するマ-キューリーの衰退混乱に若年西田(若すぎるしヒット曲が無いのだから仕方がない)は巻き込まれ他者移籍の順番も遅れた。
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AMAZONでも西田佐知子全集の触れ込みでCD盤が出ているが、全曲がカバーされている訳ではないので苦情が出ている。もちろん、マーキュリーのデビュー曲の収録はない。1960年のポリドール2作目も未収録(デビュー作にくらべて物凄く上手くなっている。後の西田佐知子ワールドの片鱗が伺えるが水木藤原コンビの作だが、情緒に流れ過ぎて西田のタッチがでていない。演歌っぽいな。)
**************徹底的に深堀する!
西田の所属したマーキュリーレコードの戦前の前身(レコード関係者の人脈は特殊技能業界なので敗戦にもかかわらず続く)。西田年譜のデビュー以後の4年間の空白を理解するために。さらにこの際、話題を戦前戦後のレコード業界の俯瞰にまで広げる。
戦前の関西には民族系レコード会社である帝国蓄音機~奈良本社~、大日本蓄音器~兵庫西宮~があった。
戦後、
帝国蓄音機はテイチク。
大日本蓄音器は日本蓄音器時代の有志が奔走しタイヘイ音響から
1952年、アメリカのマーキュリーレコードとの独占契約を結び
>1953年日本マーキュリー株式会社と改めた。
所属歌手一覧の中に西田佐智子(後の西田佐知子)~歌謡史に名を残す有名歌手多数。全員、歌謡調の歌手。マーキューリーの基本路線は大衆歌謡。
***************************************
W資料
第二次世界大戦以前の日本レコード産業と外資提携
6 社体制の成立 大久保いづみ
>この資料から、戦前の日本資本制の在り方と戦争政策による新聞マスコミ、大衆娯楽の隆盛を問う。資源物資枯渇機までの総力戦体制は新聞マスコミ、大衆娯楽を右肩上がりする!アメリカが戦争を止められない理由でもある。日本の今後も予測させる。
>戦争に至る道=暗い時代観は一面的歴史観である。支配層と軍部に熱狂した国民がいたが、そこで梃子の役割を果たしたのが新聞ラジオ、大衆娯楽。
@MLB大谷恭平10年、1014億円契約。報道。日本国民に対米隷属意識を刷り込む役目を果たしている。この報道を受け取る側はアメリカ現地の実質実効為替レートに換算する習慣を身に着けた方が契約金額をリアル感を持って受け止めることができる。ドル表示のみが正確な大谷に支払われる金額。無理やり円に換算すると600億円~700億円。年棒にすると60億円~70億円。リアル感のある妥当な金額である。日本円は交換レートで円安になるし、その上に円からドルに換算したドルの購買力が物価高によって円は二重に目減りする。円の購買力は物凄く後退している。この現実が大谷恭平などのMLB移籍に大きな影響を与えている。この現象は日本買いの一種である。裏面ではNPB球団は優秀な外国人選手を手に入れなくなっている。もっとも経済関係ばかりに原因は絞れないが。
日本から韓国に行っても以前よりも商品の価格が高く感じる、と動画などで報告されている。
円表示はあくまでも為替市場における円ドル交換レート。また今後続発するこの種の報道を自己修正できる。
***********W資料 に戻る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj/49/4/49_4_25/_pdf
日本の会社別レコード製作・売上枚数およびシェア(1938年 7 月~1939年 6 月)
(単位:1000枚)
レコード企業 製作総枚数 シェア(%) 売上総枚数 シェア(%)
1 日本畜音器(コロンビア) 米 7,500 27.7 7,100 31.1
2 日本ビクター蓄音 米 5,121 18.9 4,486 19.7
3 帝国蓄音器(テイチク) 日 3,934 14.5 3,190 14.0
4 講談社キングレコード 日 3,328 12.3 2,329 10.2
5 日本ポリドール蓄音器 ドイツ 3,153 11.7 2,425 10.6
6 大日本蓄音器 タイヘイ(日)⇒マーキュリー 2,213 8.2 1,523 6.7
**********
>1957年独占契約満了に伴い、マーキュリー・レコードの発売権をキングレコードに奪われ、日本マーキュリーの看板が有名無実化した。
>1958年新興の東芝レコードによって藤島桓夫、松山恵子ら看板歌手を引き抜かれたのを始め、専属の作詞家・作曲家やスタッフまでもが集団で競業他社に移籍し、致命的打撃を受ける。西田佐智子マーキュリー、デビュー1956年。メジャープロ歌手活動の基盤であるレコード会社が没落。生粋の大阪人なので地元で歌手活動をしていたのではないだろうか?当時キャバレーなどの隆盛期。関西のエンタメ業界も充実していた。
@1960年 休業状態に陥り、旧盤の版権の一部はマーキュリー・レコード本社に移った。
生産設備の半分は山口組の力を借りた吉本興業の手に渡り(創業者林家⇒株式公開で非上場~マスコミ各社資金提供で吉本株購入=吉本とマスコミは資本関係にある、という現実はジャニーズ問題よりも根深い!影響力消滅)
プレス専業工場のヤンマー音響として再出発し、日本クラウンや日本ビクター等の生産を請け負ったが、日本マーキュリーの残党も同所と東京都文京区で営業を継続するなど、経営上の内紛が続く
若年末席の所属歌手西田は所属のマーキュリーレコードの急激な弱体化もあって沈黙。
******2枚目のシングルはポリドール発売
1960年(昭和35年) - 「死ぬまで一緒に」発売
後に西田でヒット曲を連発した作詞 水木かおる 作曲藤原秀行のコンビ登場。まだ、ジメジメした歌謡調を払拭しきれていない。
>「世は歌につれ」はないけれど「歌は世につれ」ということかな。軽快なタッチの洋楽「コーヒールンバ」のヒットを取り込んで一部の社会風潮にマッチした「アカシアの雨が止むとき」で西田佐知子ワールドに至る。
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1961年(昭和36年)- ギリシャ映画『日曜はダメよ』同名主題歌のスマッシュヒット。映画史に残る作品。反独裁政権が背景。主題歌の洋楽も日本でヒットしたはず。軽快なリズムの曲。
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1961年
続けて外国曲のカバー「コーヒールンバ」のメガヒットで一躍その名を知られるようになる。
1962年(昭和37年) - 「アカシアの雨がやむとき」⇒W、一応、代表曲と言われている.
村田英雄の「王将」とともに第4回日本レコード大賞特別賞を受賞
1967年(昭和42年) - レコード売上1000万枚を突破の記念曲「たそがれの恋」発売。9月30日にはレコード売上1000万枚突破記念チャリティ・リサイタルを東京厚生年金会館で開催
1971年(昭和46年) - 関口宏との結婚を発表する。これを機に芸能活動を大幅に縮小
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W,音を聞くうえで大切なことはココ。
オリジナル音源を過度に修正すれば、原曲のオリジナリティーが脱色されソフィスティケイトsophisticateされ別物になる場合もある。ビートルズのCD盤。アレはレコードステレオ盤とは完全に別物。ビートルズのLPレコードは当時の最高録音技術が駆使されていたのか、音の広がり、臨場感がものすごかった。
↓
引用 ⇒この時期に活動していた多くのスター歌手はモノラルからステレオへの過渡期にあり、過去のモノラル録音曲をステレオで再録音することが多かった。
>西田も結婚後の1970年代後半にモノラル時代の主要曲をアルバム用にステレオ再録音したが、現在は廃盤となっている。⇒W。本人が聴いて、コレでは駄目とする音楽センスは素晴らしい!本物だ。歌が次第に上手くなったのも天賦の才もあるが本人の努力が大きい。晩成型のヒトである。
また、現在発売されるコンピレーション・アルバムでは(W、西田佐知子の代表曲を編集したCD盤が発売されているのだろう)
>モノラル録音のものはモノラル・オリジナル音源を収録することで統一されている。⇒W。1962年(昭和37年)公称代表曲「アカシアの雨が止むとき」レコ大特別賞受賞 1961年(昭和36年)「コーヒールンバ」⇒W多分、西田最大のヒット曲。西田、独特の歌い方を思い浮べるのはこの曲。原曲は多分、トルコ語か?スペンイン語の歌だった。
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>コーヒールンバを調べていると同じ曲を歌っていた
森山加代子 - Wikipedia行きついた。
このヒトも独特の軽いタッチの歌かい方をしていた。どこか西田佐知子に通じるものがある。❝超売れっ子アイドル❞だったが、1962年7月、所属事務所のマナセプロダクションとの契約満了により突然独立し、20歳で自分の事務所を設立(W.当時の一大芸能事務所網<渡辺プロダクションの兄弟事務所>からの独立でオミットされた)。活動してもテレビやラジオ、マスコミに取上げられる機会さえ奪われ、事務所独立と同時に森山の人気は急降下。⇒W.今のジャニーズ=芸能TVマスコミ問題の根っこは逆らったモノは村八分。20歳で独立?バックに親が付いていたのか、それにしても大胆な先駆者だったが、その後、キャバレーの仕事さえ入らない中、水原弘の紹介でコロンビア復帰、訳の分からない曲調でヒット。準メジャー的歌手の位置へ。先駆的ジャンプをした芸能人なのに流行歌手の域を越えられなかった。歌に深みはないな。西田佐知子とは次元が違う。このレベルの比較になると持って生まれた才能の問題だから仕方がない。
>動作が重くなるので動画掲載は止める。マウス右クリック。
初めての街で 西田佐知子(CMバージョン) - YouTube
W.数バージョンアップされているが、このCMバージョンが一番いい。歌詞1番からずっと<一人酒じゃない>のフレーズで通しているが、
最後に<菊正宗>のおなじみのフレーズが登場する仕掛け。コンセプトがはまっている。
CMが放送されてからCMバージョンのシングル盤が発売された。
独特のドライブ感ある節まわしは西田以外の誰にもまねできない。
歌詞が情景を物語っているので情緒を抑えて淡々と歌って説得力がある。歌手として理解力がある。
シングルレコード盤のジャケットは西田佐知子。
W.動画を掲載した方が解りやすい!
www.youtube.com
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W.東京ブルースの立ち位置変わらず
この唄も傑作。CMソング<酒は菊正宗>~タイトル「初めての酒場」~~の西田佐知子ワールドのドライブ感ある節まわしが既にこの唄で完成していた。名曲である。
1966年1月発売。
www.youtube.com
歌:西田佐知子
作詞:水木 かおる
作曲:藤原 秀行
発売:2008-11-04 06:08:57
酒をのもうと 生きよと死のと
あんたなんかの 知らぬこと
どうせまともに 生きたって
つらい世間の うしろ指
男なんかにゃ 欺されないと
鼻で嘲笑ってひくルージュ
夢を持ちなと 云う言葉
それもどこまで 本気やら
弱い女に 帰ってしまう
雨がしょぼつくこんな夜
酒にこころを しびれさせ
生きる裏町 灯も暗い
www.youtube.com
www.youtube.com
W.エリカは歌詞に歌われているようなロマンチックではない。
下記の理解でエリカ(花の咲く低木)のイメージが付きやすい。以前調べたエリカの形状を失念したのはイメージ不足。
「ヒースとの関わりからヨーロッパで古くからよく親しまれている」痩せた土地にシブトク繁殖する低木。
1:「エリカ」の花言葉
「エリカ」全般の花言葉は、「孤独」「寂しさ」。明るい色合いのこの花に、どうしてそのような名前がついているかというと、英名の「ヒース」に由来があるのだとか。「ヒース」とは、イギリスやアイルランドなどの農耕に向かない荒れ地に生えている植物をさします。他の草花も咲かないような荒れた場所に生えている姿が、寂しげに見えたのかもしれませんね。
⇒W.シャーロックホームズの「バスカビィル家の犬」の背景。意外にも20世紀前期のヒトだった。シャーロックホームズの登場人物、舞台背景は貴族周辺か貴族趣味の人物が多いせいか。今。NHKBSプレで放映中。絵空事にみえる。上流階層に興味は全くない。彼らが死のうと生きようと知ったことじゃない。「酒をのもうと 生きよと死のと
あんたなんかの 知らぬこと」
アーサー・コナン・ドイル - Wikipedia 1859年5月22日 – 1930年7月7日反共主義者であり、第一次世界大戦中にロシアで起きた共産革命を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。ドイルの後年の心霊主義傾倒は共産主義に対する反発もあったようである。また英国労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた
バスカヴィル家の犬 - Wikipedia
plaza.rakuten.co.jp
W。エリカの花の咲く地。
マメ科のハリエニシダ属(Ulex)。常緑低木。
背丈は90cmぐらいまでで、さらに背丈の低いものもしばしば見かける。
夏の終わりから秋にかけて、黄色の花を咲かせる。
南スコットランド、イングランド、ウエールズ、アイルランド、
フランス、スペインの北西域に自生。
ヒースと同じ土壌・環境に生育する。
英語名:Irish Gorse(アイルランドエニシダ)W.南アフリカ原産のエリカの花はとんがり帽子のもっときれいな色。なぜか花は南アフリカ原産のものが華麗。西田の歌うエリカはこんな雑草もどきとは違う、ようだが<エリカ>は名前の可憐さと実物がかなりかけ離れている。
痩せた土壌で、酸性度の高いものから低いものまで、湿ったものから乾いたものまで、多様な土壌に適応し、羊やヤギや牛などに何度食べられても、ダメージを受けることなく芽を繰り返して出し、生育する強靭な「ヒース植物群」。
管理も「火入れ」、即ち、焼くことで、次の芽を出すという簡単さ。⇒w。西田の歌う伊豆のエリカは山の斜面の畑の雑草防止に植え込まれていた、と想像する。乾いた低木は延焼し易い。そういう農作地の管理方法もある(休耕田のレンゲ)。
*********そうとう本題とはづれて来たが*****面白いことは良いこと****************************************
かっては、ヨーロッパ大陸は、ほとんどが広葉樹林で覆われていた。
しかし、人類文化の発展は、山野の大森林を焼き払って、農耕地として、ヤギ、ヒツジなどの家畜を大量に林内に放牧して、森林を破壊し、原始の大森林を荒涼たる草原にすることで発展してきた。(草や低木が壊滅すると、その上の高木の森も壊滅)
ミズナラやシラカバに覆われた豊かな森は、4000年に及ぶ過放牧や岩塩採掘、森林の伐採などで土地がやせ、「エリカ」などの矮生低木やイネ科の植物が繁茂するようになったのだという
とりわけ地中海沿岸地方のフランス、イタリア、スペイン、北アフリカ地域は、植物の活動期に少雨のため、一度失われた森を再生することが困難で、裸にされた土地は、今もそのままである。
>(この地域に長く君臨したローマ帝国は、この帝国が滅亡した時には、地中海沿岸地域の豊かな森はすべて破壊しつくされていたという。)
このように見るとヒースの草原は、人類文明が森を破壊した跡地に必死に適応し、繁茂して、生き延びている植物群落であるといえる。
人類が4000千年かかって、破壊してきた森を、現代は、この100年ぐらいの間に、さらに世界的規模で、一気に破壊して壊滅しようとしている。
森を破壊しつくした時、古代文明は滅んだ。
ヒースの群落は、現代の私たちに、生物社会の連鎖のなかで、命を繋いでいくことは、どうあらねばならないかを警告している。
>以上、何だか自称マルクス主義者の若い大学のセンセイの教説の補強のような話題であった。グローバル資本制の信奉者はテメェーが率先して地球環境を破壊し世界的に戦争を引き起こしている一方で環境問題や平和を世界の民衆に「強制」する。奴らの際限なく肥大した欲望の表裏の発露である、と考える。
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イギリス、フランス、などでは、この2種類のエリカが、生育環境に応じて、カルーナと
共存して、繁茂するこが多い。W。西田佐知子の歌うエリカも歌詞から想像するとこの種のもの(品種改良でもっと華美な花を咲かせるものだが、)であろう。
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赤木圭一郎 霧笛が俺を呼んでいる🎈2曲🎈 CD音源 昭和35(1960年)
W。映像の上でしか経験が無いが、もの心つくまえにこういう時代風潮が実際にあったような気がするから不思議だ。
どこか郷愁を誘う一方で男女共々その格好のつけ方は今は絶滅。一種わらえる要素になっているとしかおもえない。
>1950年代のモノクロ映画が一番好みに合う。
昔、専門映画館のスクリーンで初めて見たときにショックをうけた。映画のシーンはいつかどこかで見たような気がした。あり得ないんだけれど自分の精神が記憶していた。冒頭の演奏は石原裕次郎のヒット曲に多用されている。テンポ、リズム、歌詞の醸し出す雰囲気も同じ。当時の日活映画調なのか。
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