帰郷した九州中津の家に掲げられた額。
風と行き来しとい雲からエネルギーをとれ
>風の文学というのは中国では荘子から始まる。
>雲の文学も荘子から始まります。
荘子の言葉といいますと
千歳世を厭えば去りて
じょうせんし、彼の白雲に乗じて
帝郷に至らん
@結局、現実世界と天井の神仙世界との交通手段というのが一番古いのが雲、雲に乗って行き来する、
それから動物の竜に乗って行き来する。
>そこで<雲竜>という雲と竜のコンビネーション。
>それから鳥が次にきて<鳳(おおとり)>から<鶴>。
鶴に乗って仙人が神仙世界に行く。
@雲と水のコンビネーションで禅宗の雲水ということになる。⇒W。良寛関連。行雲流水(こううんりゅうすい)、浮雲(ふうん)流水の略で、行脚僧(あんぎゃそう)、雲水僧のこと。修行中の僧が一所にとどまらず、自由に諸国を遍歴し、よき師を求め歩く姿が雲水に例えられた。
@風と共にあり雲からエネルギーをとる。⇒つまり風雲児という中国語にもなる。
九州の田舎から風と雲を望んで世界に出たいという思いを持っていたのでこの額をぜひ欲しいと思った。W??
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質問
老荘の思想というのは風とか雲とかが象徴ですが基本的に言えばどういう考えですか?
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道という言葉、わかりやすく言えば命の根源、それから京都の哲学界などで真実在という言葉にも訳されていますが、根源的な真理、万物を万物として成り立たしめている根源的な真理
わかりやすく言えば万物はそれぞれ命をもってその万物の命の根源、コレが道ということです。日本ではどうとか道。
森羅万象の根源にあって、もちろん人間を含む森羅万象を森羅万象として存在せしめてている真理、私は命の根源として表現できるとおもいます。
それがはたらきをもっている、荘子の哲学の言葉で言いますと道は変化の流れ、流れとしてとらえていきますが、京都の哲学界では、
西田幾多郎 - Wikipediaさんのように生命の流れ、真実在というのは西田幾多郎が荘子の道を新実在という新しい日本語で訳された。道=真実在
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Q存在を存在たらしめている真理。超越的存在を神というような形で観念する宗教が多いがそうじゃなくて真理という言葉で表す?
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孔子さんという儒教の開祖。道という言葉は使いますけど孔子の場合は道は同時に、天皇の道=君主の道、支配者として多くの人の上に立つ理想的な人格。人の上という支配階級という身を同時に含む、支配階級として人を収めてくという君主としての在り方が君主の道。
その君主の道は勝手に作るのではなくて、理想的な支配者、天子。
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Q。そうすると老子荘子の言った道と孔子の言った道とは違うものですね。
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>儒教の場合は家族制度を基盤において、祖先崇拝ということがあってその祖先は天の神と繋がるということでコレを上帝王(じょうていい)=天の神、その天の神の委託を受けて地上の皇帝が出現してくる。
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引用
~~引用
「宗法(そうほう)とは、大家族制を基本とした伝統中国において、大家族を意味する宗族内の規律・規則を指す。
狭義では、宗族の本家である宗家(そうけ)における祖先祭祀の子々孫々への継承に関する規則を定めたものを指す。
宗族内には、総本家としての大宗を一族の要とし、小宗と呼ばれる分家が一致団結することが求められる。⇒W。鎌倉幕府、北条家。
得宗とは - コトバンク
キリスト教君主国家の国王はdivine right of kings、王権神授説 - Wikipediaとされた。」
~~「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想
⇒封建領主のもとに隷属する農奴を主たる労働力としてきた(W。ペストパンデミックの影響大、労働力不足から農奴との経済的力関係変化し個別領主弱体化、大封建領主のプレゼンス上昇)荘園経済はゆきづまり。アメリカ大陸から銀が大量に流入することなどによって貨幣経済が進行し、新興の市民階級が台頭。
王権は市民階級の力を一部取り込み、封建領主を臣僚化し、国外的には常備軍を設けて教権や皇帝権に対抗しながら国内的には封建勢力の抵抗を抑えようとした。このようにして展開された絶対王政であったが、実際には微妙な均衡の上に立っており、みずからの支配権は神によって授けられたものであるという王権神授説によって、自己の権力の正当化をはかった。
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孔子の場合は紀元前6世紀。
荘子の場合は紀元前4世紀。
ただし今残っている老子という書物の成立は前3世紀。
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Q。神様のような存在ではない基本原理=道(タオ)というのが生まれたのはなぜなんですか?
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孔子の儒教の場合は人間とは何かをなすという存在である。何を成すか、いかに成すか、
成すという、作為というますか、孔子の教えは成す有らん、有為の教え。⇒孟子の言葉ですが、
その有為の教えに対して~これは一種の理想ですから現実にはその通りに行かない場合がある。細かい規定がいっぱいあって現実には実行できないから、実際のところは表と裏の二重帳簿、一種のごまかしが横行するということになる。
そういうごまかしを根本から洗いなおす、
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W。注
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/18670.pdf
引用 長文
「まず、17 世紀の日本の江戸期(1603-1868)における徳川儒学は、その歴史はたかだか 260 年に過ぎない。とはいえ、日本における儒学にとって最も輝いた時期である。
5 世紀にすでに日本に伝わっていた儒学は、
>特に 13 世紀末の鎌倉期(1185-1333)に僧侶が日本にもたらした朱子学が文献解読の長いプロセスを経たのち、しだいに思想が再構築される段階に到り、とりわけ宋儒の思想を解体することを理論的目標とした結果、「儒教の陣営を逸脱する」可能性のある「古学派」(仁斎学、徂徠学を代表とする)4が内から芽生え、
さらに、徹底して中国の学問の「漢意(からごころ)」を排除することを企図し、日本文化の優れた伝統を再び汚染させないよう学術的に志向した「国学」(宣長学を代表とする)が出現して、外来文化たる中国儒学はついに重大なる「修正」(丸山真男氏)
に直面せざるを得なくなり、後世の人達が言う「日本化」した徳川儒学 5 が形成された。
引き続いて 19 世紀末の明治期(1868-1912)には、欧米による近代化の洗礼を受けると同時に、早期近代の時期の「徳川儒教」、とりわけ徳川儒教にあってすでに衰微した朱子学が、幕末陽明学に取り替わって、意外なことに、新たなる近代日本の朱子学の姿に変わりながら時代の表舞台に出てきた。そこにあって、儒者兼明治天皇の侍講として権力の中枢にいた元田永孚(1818-1891)、西村茂樹(1828-1902)そして井上毅(1839-1895)といった人たちは、徂徠学などにより一度徹底的に解体された朱子学が政治イデオロギーと「見事に合致」しうることを見出し、朱子学を復活することで、そのメルクマールと見なされた「大義名分」「忠孝節義」などの体制的儒学、倫理的儒学を、帝国の新秩序を強固にするために完全に機能させることができることを見抜いていた。
例えば、1890 年に明治天皇が公布した『教育勅語』とその翌年井上哲次郎(1855-1944)の『勅語衍義』が世に問われたことは重大な指標であって、これは帝国主義の新形勢にあって、国家主義、民族主義を宣揚することを特色とする「国民道徳論」運動が日本を席巻してゆくであろうことを予見していた。この運動は明治 10 年の儒教道徳思想の復活を指標とし、「太平洋戦争末期に行われた国粋思想」に至るまで 極めて長期にわたる放射反応を生み出した。この際に、朱子学は改めて「徳川氏三百年間」の日本において、「国民道徳の発展上に偉大の影響を及ぼしゝ」 ものと認められるようになっていた。