南海トラフと根室沖の巨大地震 発生確率80%|災害列島 命を守る情報サイト|NHK NEWS WEB
この情報は2018年2月に公表されました
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引用
887年の巨大地震、南海トラフの西側と東側で同時発生:朝日新聞デジタル
「887(仁和3)年に起きた「仁和地震」は、南海トラフの西側と東側の震源域で同時に起きた巨大地震。
静岡県磐田市で見つかった津波堆積(たいせき)物の分析と、文献の記述から、年代を推定した。
磐田市で見つかった津波堆積物の地層に含まれる植物断片などの放射性炭素年代測定により、7世紀末、9世紀末に津波が押し寄せていたことを特定した。堆積物が確認された地点は当時の海岸線より2キロ以上内陸だという。
一方、平安時代の歴史書「日本三代実録」W注 には、887年に南海トラフ西側で地震が発生したことが分かる記述があり、同じ日に「(東海地方を含む)広い範囲で強い揺れを感じた」という記録もある。
W注 日本三代実録
平安時代中期に編纂された清和、陽成、光孝天皇の代である天安2年(858)から仁和3年(887)の国史。
>宇多天皇の命により編纂され、醍醐天皇の延喜元年(901)、藤原時平らの手で完成。
日本における国家事業としての史書の編纂は飛鳥時代から平安時代前期にかけて行われ、6つの史書が残されたため、これを六国史と呼んでいる。そのため、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。
↓
>六国史の後も「新国史」と称される国史編纂計画は存在したが完成には至らなかったと言われている。⇒W。当たり前!中国に倣った偽律令国家体制(藤原摂関政治)が崩壊し、中世軍事貴族が政権を握る(二重権力状況)、顕密権門体制<荘園公領制>⇒室町時代まで続く。
また明治維新後にも六国史以降を対象として、史書編纂は計画されたがさまざまな事情により実現せず、
>代わりに大日本史料が編纂されることとなった
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W。宮廷内政治の暗闘の結果、藤原氏が引き続き摂関政治の実権を握った。
W。道真神格化は「いしん」以後だろう。
菅原道真(天満宮) のように、実在の人物が死後に神として祀られたケースには他に何がありますか? - Quora
「
菅原道真のような人は、死後に怨霊として祟りをもたらしたとされ、それを鎮めるために神として祀り上げられました。
この場合、
- 生前からの知名度や影響力
- 政争で彼に勝利した側の「彼は恨んでいるだろうな」という後ろめたさ
- 天災が発生し、それが「怨霊の仕業」と見なされること
などの様々な文脈が合わさった結果が神としての祀り上げになります。」
「一方、日本には古くから「ご先祖様」を祀る祖先崇拝の習慣はありました。しかしこの場合、「ご先祖様」の数は膨大なので、固有名を持った個人として祀ることは通常ありません。
怨霊化を経ずに、天寿を全うした人を個人として神に祀り上げる習慣は、おそらく室町時代の吉田神道に始まります。
吉田兼倶(1435–1511)は吉田神道を創始し、日本中の神社はすべて吉田神社大元宮の分社だと主張(捏造)し、実際に全国の神社の神職任免権を掌握する権力を握りました。
死者を埋葬した上に廟を建てて神として祀る、というシステムも、この吉田神道で考案されたことです。この吉田神道式で神となった人に、天下人・豊臣秀吉がいます。豊国神社は秀吉を祀る神社です。
明治時代になって、朝廷に対する功績があったとされる歴史上の人物を祀る神社が数多く作られました。後醍醐天皇や楠木正成など南朝の功臣を祀る神社の多くはそれです。
これは「天皇中心の国家作りのための明治政府の意向による」ものです。
というわけで、本人の意志であれ後世の人々によるものであれ、かなりの部分は政治的意向によって決まります(道真の時代には「神事で怨霊を鎮める」のも政治の内でした)」
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W。現天皇醍醐、上皇宇多の確執と藤原氏の摂関政治の継続意思が絡む宮廷内の陰湿な暗闘の結果、殿上人の総意を集めた藤原氏が勝利し、菅原道真一家は排除された。
「太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた.」
「左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。」
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日本三代実録、以降。
偽律令制の崩壊と武家政権への移行に伴って消滅した天皇中心史観が明治「いしん」後復活し、敗戦後途絶えたが
>「1951年に坂本太郎が史料編纂所所長に就任し、W.タイトルを大日本史料と変え1952年より刊行を再開した。100年を超える大事業となり、平均すると年に数冊の刊行ペース、これまでに422冊(2022年1月現在)が刊行されている。東大の史料編纂所というのはそんなところだったのか!全く知らなかった。籍を置いて他の専門研究をしている人もいる。福田英子 - Wikipedi
第一人者は史料編纂所所員(女性)。
↓
「1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。」
「敗戦に伴い1945-1951年の間、刊行が途絶えていたが、1951年に坂本太郎が史料編纂所所長に就任し、1952年より刊行を再開した。100年を超える大事業となり、平均すると年に数冊の刊行ペース、これまでに422冊(2022年1月現在)が刊行されている。」
「学位論文である「大化改新の研究」は、先行する津田左右吉の「大化改新の研究」(『史苑』5-3~6-5、1930年 - 1931年)を批判するものであった。坂本は、津田の『日本書紀』の記載についての史料批判については一定の理解は示すものの、津田が『日本書紀』の記載を否定的にとらえるのに対して、坂本はその記載を厳密に史料批判しつつも、とくに大きな矛盾を生じないものについては容認してきた。ただ、坂本の考えた大化改新の位置づけは、明治以降に形成された大化改新像そのものであり、原秀三郎から、近代天皇制イデオロギーの立場に立つものとして批判された。
また、六国史中心の古代史研究について、アカデミズム守旧派の中心人物であるとの批判を受けた。
大化改新の詔の「郡」の字は「評」でなかったとする、いわゆる「郡評論争」において、坂本は論文「大化改新詔の信憑性の問題について」(『歴史地理』83-1、1952年)で、井上光貞の「評」説に反駁したが、藤原京より「評」字の木簡が出土されたことによって、井上の説が正しいということが証明された。のち、坂本は自叙伝(『古代史の道-考証史学六十年-』)のなかで、「ただ『日本書紀』がどうして郡字に限って評字を使わないで、後世の用字を原則としたかという疑問を私は未だ捨て去ることができない」(著作集12巻、137ページ)と述べている。
坂本は自らを歴史家と呼ばれることをよしとはせず、史料の取扱人でよいとした。⇒六国史の文章(漢文)と大和朝廷の地方支配の実態が「大化の改新」でしるされている唐的律令制度と大きく違っていたということである。地方豪族支配に中央派遣貴族が乗っかった体制は「大化の改新」とは言えない。現地取材の実感が無さすぎる。歴史的記述の信ぴょう性は他の歴史材料ですり合わせて証明するしかない。遅れてきた皇国史観の持ち主である。
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M 8.3などと推定されているが断片的な記録しか有しない歴史地震である
発掘調査
愛知県稲沢市の地蔵越遺跡から平安時代前期の層から噴砂の痕跡が確認され、東海道沖の地震の震源域で地震があったことを示唆している。さらに東海地震震源域である静岡市の上土遺跡でも地震の痕跡が発見されている。
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「この地震は嘉保年間に起きたが、この天変地異を期に約1ヶ月後の12月17日(ユリウス暦1097年1月3日)に永長に改元され、年表上では永長元年となることから永長を冠して呼ばれる。『後二条師通記』、『中右記』、『百練抄』および『康富記』などに地震被害の記録がある」
地震の記録
「藤原宗忠の日記である『中右記』には、この地震に関する詳細な記録があり、地震動が一時(約2時間)程続き、東大寺の巨鐘が落下、薬師寺の回廊が倒壊、東寺の九輪が落下、法成寺の東西塔が破損、法勝寺の御仏等光が破損したと記されている。」
の地震前後から約2年後の康和地震頃まで多くの地震の記録が見られ、活発な余震活動が続いた。永長2年11月21日(ユリウス暦1097年12月27日)には再び改元され、元号は承徳に改められた。
、マグニチュードは M = 8.4に換算されている。震源時間の長い多重地震を思わす長時間の地震動から永長地震が南海道沖の地震を含んだ宝永型であった可能性を検討する必要もあるとされる。」
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康和地震 - Wikipedia1099年
「この地震は承徳年間に発生したが、この天変地異やこの年の夏に流行した疫病を期に康和と改元され[2]、年表上では康和元年に相当することから「康和」を冠して呼ばれる。『後二条師通記』および『広橋本兼仲卿記』などに地震被害の記録がある。もともと、畿内付近の地震とされていたが、土佐の被害記録の発見により南海道沖の地震と推定」
マグニチュードは南海道沖の巨大地震と仮定するならばM8.2」
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「室町時代前期(南北朝時代)の1361年に発生した大地震。南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている[2]。
この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも呼称され、多くの史料が北朝の年号で書かれているため現在の日本史学の慣習に従って「康安地震」と称した方が良いとする意見がある。」
摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺、薬師寺、山城東寺など堂塔が破損、倒壊したと記録される。『斑鳩嘉元記』によれば、法隆寺で金堂の仏壇が崩れ、東大門の築地の破損、東院伝法堂の壁が落下し、塔の九輪の上部の火炎(水煙)が折損した。
6月22日の地震(前震?)の日は盛夏にもかかわらず冬至前後の様な寒さで雪が降りだしたことが記録されている。この夏雪の記事は当時の公卿の日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる
海岸から約4kmの距離にあった天王寺(W.現、四天王寺のこと)の西に位置する安居殿御所の西側まで津波が押寄せたことになり、津波は宝永地震よりもさらに1km程内陸に及んだと解釈され、宝永地震と同様に連動型地震の可能性があるとされる。ただし宝永期とは海岸線が異なることが考慮されていない。⇒W.一遍上人絵詞では四天王寺の西門の直ぐ近くに海が迫り入水自殺をする庶民が描かれている。
>奥書には、1299年(正安元年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いたとある。
W。絵巻の絵の選択。視線が低いところにある。
このサイトの絵は炊き出しの場面が多い。遊行する一遍上人一行を迎える側は、まず歓待の意を表すために飯を出す。そこに地元に人も集まる、説教と念仏踊りが始まり陶酔の境地になる。今、こういう教宣スタイルの宗教はなくなった。矢野阪神前監督がはまって選手たちに胴上げまでさせた予祝とかいうのもこの一種かな?
当時、天王寺西門の坂下には「西浦」などと呼ばれる、ハマグリなどを採集・販売を生業とする商人らが居住する地域が広がっていたという。当時の海岸線は江戸時代とは異なっており、西浦と呼ばれた地域の西端は天王寺と今宮の境界である日本橋筋辺りと推定され、津波の遡上高は最大で4.65m程度、少なくとも3.3mと推定され、安政津波は上回るが宝永津波を上回ったかは不明であるとされる。」
地震・津波の描写と思われる『太平記』の冒頭の部分は『方丈記』にある文治地震における「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。」の記述に似る。難波浦(大阪市の上町台地を少し降りた中心部~中央区~)では津波襲来の約1時間前に数百町(数10km)潮が引き、干上がった海底の魚を拾い集めようとした漁師ら数百人が突如襲来した津波により溺死した。」
「阿波の雪湊(現・徳島県美波町由岐地区)において大津波で1700余りの家が流失した様子も記され「家に居た僧俗男女、牛馬鶏犬。一つも残らず海底のもくずとなった」とある[19]
>雪湊は『平家物語』にも登場し、この頃、土佐および九州への中継の立寄り湊として1700余戸の家数を持つ当時としては大きな湊町であったことは妥当であると推定される。
W. NHKBS「とうちゃこ」で訪れていた。寂れた過疎地という雰囲気はなく小さくまとまった田舎街風情。周囲は農業地ではない。あんな狭いところにそれなりの人が寄り集まって暮らしていけたのが不思議だ。大昔から人間が寄り集まって暮らしているところにはそれなりの雰囲気が今でも残っている。こんな町が寂れ切ってヒトが居なくなったころ、本来ヒトが住むべきところにヒトが居なくなって、日本はしかるべき状態になっている。
マグニチュードは M = 8.4に換算
遺跡の発掘や地質調査および大坂における津波の遡上範囲から、正平地震は宝永地震と並ぶ大規模な南海トラフ巨大地震であった可能性を示唆している。
>また潮岬の橋杭岩の転石は、高い流速をもつ巨大津波によって移動した津波石と推定され、その移動は①1707年の宝永地震によるものと、②12-14世紀頃の移動の痕跡が認められ、正平地震の可能性がある⇒氷河が巨石を運ぶのは知っていたが、日本では<ツナミ>が巨石を運ぶ。正確に言えば転がした(転石)。名所旧跡は関心ないがこういうのは興味が湧く。
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室町時代後期(戦国時代初期)の西暦1498年9月20日[注 1](明応7年8月25日)に日本で発生した大地震
紀伊から房総にかけての沿岸に津波が押し寄せ、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千などの被害が出たという
マグニチュードはM 8.6 に換算
、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。
津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。
古文書の記録や伝承によると、静岡県沼津市においては、津波が斜面を駆け上り、海抜36メートルを超える地点まで達していた可能性があることがわかった[。明応東海地震の津波の高さは、1854年に発生した安政東海地震の約3~4倍もあったと考えられている。
ちなみに、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震 (M9.0) による大津波では、津波が岩手県宮古市の斜面を39.7メートルまでさかのぼったとも報告されている
津波は鎌倉の鶴岡八幡宮参道にも襲来し、また高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある[43](後述、異説有)
日本最古の高台集団移住
志摩半島の三重県鳥羽市国崎町は最大波高15mに達したとされ、大津集落は明応地震津波で壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという。
>1707年の宝永地震津波や、1854年の安政東海地震津波では溺死者を少数に抑えた。
特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば7丈5尺(22.7m)にも達したと記録されている。⇒W。先人の知恵と決断実行力。東北太平洋岸の低地の住居の高所移転の現状はどうなっているのだろうか?
もちろんそれ以上に、来るべき西日本大震災に備えて~。
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江戸時代初期の慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こったとされる地震・津波である。震源については諸説があり、南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説、ニューギニア海溝やフィリピン海溝などの遠地地震説など。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れの記録が殆ど確認されないのが特徴である。
また震源や被害規模も不明な点が多い。
津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、
>また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、現存が確認される歴史記録は乏しい[
従来想定されている南海トラフ沿いの地震とはメカニズムが異なるため、将来の活動は予測できていない。
津波地震という性質のため、三陸津波・チリ地震津波などと同じく、予兆なく津波が襲来した場合の被害は想定以上のものとなる可能性もある。」
*************以下、時間不足で中断******
「この地震(W,1946年南海地震)からおよそ70年が経過していることなどから、政府の地震調査委員会は、これまで今後30年以内の発生確率を「70%程度」としてきましたが、
>2018年、「70%から80%」に見直しました。
国の被害想定によりますと、
⇒W。列島原住民でないヒトは政策の優先順位が違う。
津波と建物の倒壊、火災などで、最悪の場合、全国でおよそ32万3,000人が死亡し、238万棟余りの建物が全壊や焼失するおそれがあるほか、避難者の数は、地震発生から1週間で最大950万人に上るなど影響が長期化するとしています。」