反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

書評、第一回。「中国史概説」熊本崇編。「専制国家史論」。「1932年春」「刻々」宮本百合子。「日本の知識人」小田実。明石書店「最新フランス事情」。同「ドイツ」「イギリス」「メキシコ」。

1、「中国史概説」。
 
現在は過去の集積であり、将来は基本的にその延長線上からは出ないものなのである。
 
 北方征服騎馬民族匈奴モンゴル族満州族など)による、中国基幹民族である漢民族支配の頻発してきた歴史にもかかわらず、中国史におけるファンダメンタルズは連綿として継承、発展してきたのである。
北方異民族支配の社会システムは漢民族の海に溶解し、再び漢民族支配体制が成立したときには、北方異民族支配体制が取り込まれていったのである。
 
 かくして、中国史の連綿とした継承があり、西洋史の世界とは隔絶された独自の進化がなされていった。
 
 日本史はそういった中国史の独自進化の大河の本流における支流としての中央集権的官僚体制の不徹底性から、分権の発展ー東アジアでは時期遅れの150年余にわたる長期の内乱内戦を通じて日本的中央集権封建体制へと移行したのである。古代祭政一致の中核である天皇制の残存もこういった歴史的視点と東アジアの辺境という地政学的位から読み解くことができる。
従って、日本封建体制とヨーロッパ封建体制は大きく違っているのは当たり前に事実であるが、日本の戦前戦後の歴史観の特徴はあえて両者を混同し、明治維新による日本近代化、国民国家形成を位置づけようとしていることである。
 
 2、この点において、「専制国家史論」は
中国、日本、ヨーロッパの歴史的事実を抽象化し、フランス、イギリス(オランダも大いに含まれるし、モデルの根底には古代のギリシャ、ローマの民主制がある。)に共通する歴史発展の近代国民国家形成、民主制のコースを価値判断の基準としている。
すでに方法論として、講座派的な欧米先進、アジア後進の単純化の間違いがある。
 
 明治維新の近代化、西洋化、近代国家建設を準備した前提に日本の封建制の成熟があり、それとヨーロッパの民主制獲得にいたる歴史コースの類似性を見出し、それとの比較によって、中国史の特徴を専制国家と民衆次元の、自治性=団体性の欠如に絞って、裁断したものである。
 この方法論は近代以降の日本の歴史家の陥ってきた歴史観における主体性の欠如を引き継いだものである。
 
 年貢のムラ請負というシステムの連綿とした継続は、経済の論理という人間生活の基礎的要因に基づく、ムラ構成員に一体化、合理化、効率化を迫る反面、
強烈な政治的同質性の要求と異分子の排除を必然化させる。
ヨーロッパキリスト教社会の宗教性とは別次元での、宗教なき宗教社会、経済基盤に根ざす固定的停滞、排他的社会が日本の伝統的ムラ社会にあった。
かくして、ムラ社会は領主の支配と経済収奪に都合のいい、構成員同士の矮小な恒常的相互監視、自主規制の温床だった。
 
 明治維新専制政府による統治機構としての天皇制の民衆への持込が、大きな抵抗なく作動したのは、以上述べた日本的ムラ社会が内包していた伝統、習俗によるところが大きい。
 
 「専制国家史論」の著者の次の日本近代化史観は、あまりにも一面的、独善的である。こういうものは日本人と一部の外国人にしか通用しない。
「近世社会(江戸時代)は共同団体という自治主体を広げ続けたし?共和制につながる??制度的伝統を作り出していた。それらを発展させたのは百姓の共同体?!であった。
ムラは代表制度とそのための選挙制度、財政会計管理制度、監査制度を作り出した。(字面だけから読めば、あたかも民主制度のように思えるが、年貢のムラ請負を中世以来ズット続けていれば、否が応でも、その程度のことはするようになる)。
 厳格に自己規律された団体を基礎に(モノはいい様である)、実力による組織的な異議申し立て(江戸時代の数千に及ぶ百姓一揆のことか)によって、<政治参加の枠組みを作り出していった>(きれいごとが過ぎる)。
近代国家形成の社会的条件は、したから準備されつつあった。」
 
 「<にもかかわらず>
日本は国際対応のために古代国家形成と同様に、後発に位置から急速な近代国家形成を進めることを条件付けられていた。(こういう結局は自分たちの自己認識に甘く、先進外国の他律性に日本歴史発展の原動力を見出す歴史観は払拭されなければならぬ。手前勝手な完全な自己合理化であり、歴史観でとしては二流である)
強引な近代的集中のために、やがて神を含めたさまざまな手段が動員されることになった。
専制的要素は(著者の歴史観では日本封建支配体制は中国専制国家モデルしか知らなかった事がギリシャ、ローマというモデルがあったヨーロッパ統治体制の民主的推移との大きな違い、であるとしている。)ここで継承され、肥大化している。」
 
 以降の著者の記述において、上からの天皇制の一貫的系統的民衆レベルへの持込の成功裏の貫徹は説明されていても、それを結果的に受け入れた国民側の根拠について、追求されていない。
 
 「立憲君主制的な天皇機関説を否定し、国体を確認したとき、この体制は完成した(完全な平板の予定調和の歴史観であり、結果解釈オンリーの手法は最悪の歴史観である。どうして日露戦争から大正デモクラシーの時代まで主流を形成していた天皇機関説が葬り去られたのか、その日本の立憲君主論のあり方と国体論は本質的に同根のものであると、踏み込んで分析した韓国の新鋭学者kim hangの視点がまったくない。
ということは、現状の安部政権の推し進める、憲法改定、国防軍構想への主体的批判も十分にできないということになる。ただ安直な危険だとかの平和論の観点からの批判しかできないことになる。歴史的に民主制は内乱内戦、戦争の論理の中からはぐくまれてきたという歴史的事実がある。丸山真男の思想的行き詰まりは、民主主義を抽象的な永久革命として言葉の上で確認しただけで、目の前の騒乱に対して立ち止まりることができなかったからだ。故に、丸山は民主主義をリアルなものとできていなかった。)
 
 こういった、停滞的、閉鎖的、排他的な日本独自の封建制ムラ社会と、
中世オランダに典型的な、都市国家の貴族、商人、工業従事者などの構成員の政治参加による合議体制は歴史家ならば、明確に一線を引かなければならない。混同を生む紛らわしい記述は歴史家のやることでない。
 著者は最後に例によって、丸山真男もどきの、上は天皇から下は庶民まで通じる無責任体制、主権者としての責任意識の乏しい、日本人の行動様式、集団主義を指摘している。
が、コレは事実や現象を列記しているだけで、国民側の要因の追求が蔑ろにされている。
 
 次のような百姓一揆の解釈は日本封建制の過大評価という、日本的イデオロギーの極地である。
百姓一揆は村の一般構成員においても、(一揆参加要請は村八分の強制による脅しがセットになっていたことを知らぬはずはあるまい)、その指導者においても(この点は正当な評価である)はるかに責任ある個人と組織?似支えられていたのではないか。」
 
 「専制に依存した近代化の背伸びが、組織と個人を無責任にしたのではないか。(堂々巡りの議論。結局、ヨーロッパ民主制の一面的歴史コースを至上モデルとして、東アジアの歴史を全面否定している。)」
「団体性と専制の結合が、日本ファシズムの基礎であった。(この程度の認識であれば、深い分析にいたらず。なぜ?が徹底的にかけている)
 
 著者の日本封建制の経済基盤であるムラに見出す自治性、団体としてのまとまりの根底には、年貢のムラ請負という経済基盤が大きく影響していると、私は著者よりも重く受け止める。
 
 また、年貢のムラ請負が中世以降、日本では比較的安定的に機能してきた歴史的背景は、ナント云っても、日本のムラ社会流動性が東アジアの中国、韓国と比較して格段に乏しく、固定的だった、という歴史的事実がある。
その大きな要因は日本の地政学的位置取りから、他民族の侵略と統治を免れてきたことが大きい。
朝鮮、中国のムラは日本よりもはるかに流動的で外に向かって開かれており、特に中国では財産の平等分割を基礎に家族制度は個人主義的であった。中国史は国家と社会の分裂した歴史であったし、今も現にその通りである。専制支配の住人掌握度は低かった。逆に日本封建社会の住民掌握は厳しかった。
この面からも中国に日本的ムラの団体性がはぐくまれる要素は少なかった。
 
 著者は日本封建制の団体社会の上に向かっての積み重なりを、明治維新の近代化において日本のムラ社会を基盤とする日本封建性が有効に対応できた根拠としているが、そうであるが故に天皇制のヒエラルキーに日本の個人家庭、諸団体が容易に身を寄り添うことができた根拠と、私は見なす。
 
 結局は著者のような歴史観はヨーロッパ中心の世界史観であって、現状と将来の日本と世界の歴史的推移の中で、果たして、それでいいのかどうか?克服すべき歴史観ではないのか?大いなる疑問を呼び起こす。
 
 ヨーロッパ近代国民国家、民主制にいたる歴史発展コースは、一体化する絶え間ない戦争、激烈な宗派対立、内乱内戦による殺し合い、奴隷貿易植民地主義という重大な歴史的事実と不可分なものである。
 
 そういう総合的な視点からの、ヨーロッパ中心の世界史観がこれからは問われてしかるべきである。
 
 なぜならば、日本を含めた先進諸国の従来の民主主義は経済的相対化と新興諸国の台頭によって、変容せざる得ない趨勢にあるからだ。
民主主義は金融寡頭制の進展を根拠として、先進国の内外での排外主義への従属を深めるのである。
その民主主義は金融寡頭制の新興諸国への、あるいは、国内住民への攻撃の道具に堕す、のである。
われわれの民主主義はそういうやつらを殲滅する自由のことである。
 
 以上のようなヨーロッパ中心の世界史観の欠陥が反転すると、非科学的、独善的日本中心史観(その究極は皇国史観、国体史観)になってきたし、行き詰ったらその傾向に流れる要素を常に潜在させている。現にその傾向に現在進行形である。
 
3、小田実は「日本の知識人」において、
 
 日本人は論理的認識を論理的認識として深めていくことが不得手であるとしている。
「現実のばらばらな諸現象、事象の間にいわば、論理のリベットを打たなくてはならない。つまり現実をそのまま書いていくという自然主義私小説的発想とは逆のところにたって、その作業をしなければならない。論理のリベットを打つためには、ヒトは論理的なものの考え方をなすだけの能力を持たなければならない。」
 
 小田によれば、日本の知識人の思考形態は思想の場=領域(「論理の場)と生活の場=領域は入れ子細工になっているのが特徴であるという。
したがって、日本知識人は論理に行き詰ると、生活の論理を安易に代替する。
マスコミなどでは頻繁に国民、民意が持ち出して、知識人が自己正当化をする。
強大マスコミ自体が国民や民意の代弁者面する。
挙句の果てに、その日本的巨大媒体の威力を駆使して、世論、民意の捏造にまで及ぶ。
自ら捏造したものの代弁者面ができるだから、マッチポンプどころの騒ぎでない。世論操作は掛け算の世界である。
 
 それに引き換え、欧米では思想論理の場=領域と生活の論理、場=領域の明確な区別がある、と小田が言う。
 
確かに小田の指摘する通りなのだが、この我々の重大欠陥を常に認識する必要はあるが、日本人の歴史的習俗的あり方と、もっと云えば、日本語のあり方を根拠として、論理追求をとことん追い求めることの限界も知っておかなければならないだろう。
 
そうしないと、所詮そうだからという、小林秀雄的世界を容認することになり兼ねない。
できないことを追い求めると挫折する、その結果としての日本的特殊性に居座った開き直りの世界である。
 
日本語という言語は論理を積み重ねていくことに不向きである。言語に繊細さはあっても厳密性はない。
主語、動詞、肯定文なのか、否定文なのか冒頭から明示できない以上、文脈の流れの中で論理を証明していくしかない。文法も曖昧であり、それを頼りに文脈を理解すると、かって混乱する。
 
その点で中国語の方が遥かにヨーロッパ語族に近い。
 
従って、日本語は論理の積み重ねには言語学的に限界があるのである。
実際にところ、日本語では感覚的に難しい本も英語で読めば、意外にシンプル化される。