反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

世界経済の不均衡発展は鉄則。先進諸国の世界経済の占有率の低下は著しい。戦前、2、4の列強最低から、現在8%の急上昇は日本経済のみ。アベノミクスは後退促進要因。自分たちさえよければ他は野となれ山となれ。

 JSミル。-竹中労ー人間は弱いから群れるのではなくて、群れるから弱いのだ。
 .確かに「政治」「軍事」の究極の局面ではこの覚悟が必要だったし、これからも変わらない。「 」は広い意味を含む。
フィンリーの挙げるJSミルの言葉はアメリカ大学教員職からの政治追放という経歴が大いに影響している。
「人間の行為の中で、社会に従わなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。
自分自身にだけ関係する行為においては、
彼の独立は絶対的である。
彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」
 
>「行政官の専制から身を守るだけでは十分でない。
支配的な世論や、感情の専制に対して防衛することも必要である。
つまり、社会が法的刑罰以外の手段を用いて、
自己の考えや習慣を
それに同意しない人々に
行為の規則として押し付けようとする傾向に対する防衛も必要である。」
 
アテネ民主政社会において<市民個人>は神々や部族、氏族などの中間団体、市民特権戸籍、そして何よりも、市民=戦士というポリス政治的共同幻想に埋め込まれていた。
ポリス共同体=市民個人だった。
 
 アテネ民主政時代を徹底的に批判した最後の客観分析的哲学者アリストテレスも、「人間はポリスに生きるもの」としており、国制をポリスという枠内に限定している。
その衆愚民主政批判は、当時としては専制や寡頭制の有効性、効率性によって、民主政の問題点、限界性を指摘して正しい側面があったが、フィリッポスーアレクサンドロス征服王朝体制に行きついた歴史的事実は重い。
 
 >>市民革命以降の近現代の民主主義政治の歴史に照らし合わせても、民主政体は寡頭政治や専制に転換する要因を内在させており、固定的絶対的なものでない。
 
 民主制の外見を装っていても中身が寡頭政治の場合をエマニュエルトッドは「帝国以後」で指摘している。
 
 <先進諸国では金融経済の傾向の深化によって、金融寡頭支配層の支配体制は強化され、必然的に民主主義は後退していくが、新興諸国においては民主主義は進展していく趨勢にある。>
一部特定に例外はあろうが、以上は現状に照らし合わせても、歴史の趨勢である。
 
 中国は趨勢的に民主化してきたのでなかったか。その先も想定できる。
中国共産党は中国国民の中にメルトダウン中だ。長い中国史の法則は専制と民衆の分裂と攻防だった。
 
 それに対して日本とアメリカの民主主義は振り返ってどうであったか。
 
 戦後の民主主義に関する歴史は逆回りしているのではないか。
それとも「正常に戻った」のだろうか。
だったら、「正常に戻った」過去に付随する政治的軍事的事態も形は違っても再現されると、するほうが自然である。
 
 そうでないとする絶対理由が見出せない。
 
また日本の政治家や官僚に判断力と調整能力があるとも思えない。
 
>日本政治体制の特性は危機的時代における、<後追い性>と、<なし崩しの体制総転換>である。
 
 >>が、専制や寡頭政治が民主政に転換する要素も内在している。
その場合は戦争と革命をも含む激烈な政治過程が必要であった。
 
 >日本の場合、こうした政治軍事過程の主導力は、歴史的に見て、外部よりもたらされた。
 
言い換えると、国内的には政治的少数派にしか、民主政体の専制化、寡頭体制化への転換の進行深化した体制を変革する政治的中核は見出せない。
 
 多数派獲得への政治ポジション、強い政治的意思と戦略、は絶対に放棄すべきでないが、現状、将来における日本的特殊性に基づくその限界を割り切っておく必要がある。
余計な絶望感は一切排除し、凛として決然立つべきである。
 
 日本政治の基本的ありようは形は違っても本質は繰り返す。
 
ファシズムは民主政体の国内的争闘激化にしか発生しなかったし、1930年代の時代状況に大きく規定されたものであった。
 
 日本の戦前軍事体制はファシズム体制ではなく、既存の国家行政支配機構のなし崩しの軍事体制への転換であり、それが世界分割戦の重大な促進要因となった。
 
 以前の記事で取り上げた政治弾圧下にあった宮本百合子の小説「1932年春」の突然のアジテーションの内外情勢分析の70%は正解だった。
以降の日本内外の政治的軍事的推移をピッタリと言い当てていた。
 
 少数派にか真理はみえないときがある。
 
日本思想の本質は日本の自然的風土への非論理的完全依存にあって、<時と場所を選ばない形而上学>の理屈をでっち上げ、自分たちに不都合な現実を隠蔽することであり、重大政治判断をさまられる事柄についてその傾向が顕著になる。
従って、その政治判断や決断の政治は、現実を超えた架空のものであり、いづれ重大な事態によって、でっち上げた架空世界は粉々になってしまうのである。
そういう自らの本質的政治体質をわかっているのかどうか知らないが、世界的戦略はアメリカ依存である。
アメリカが傾いたら背中の小亀の日本はこける。
 
 が、行き先を誤って、大変なことになっても、みんなで責任を取ろうというのだから、政治指導者にとって、こんな好都合な環境はない。
 
言い換えると、政治本質として、政治判断や決断をしている振りをしているだけであり、先のことなど、本気で考えていない。
 
二千数百年以上前のアテネソフィストの次の言葉は過去現在の日本支配層の深層心理に適応できる。
 
引用、フィンリー「民主主義ー古代と現代」第3章、民主主義、合意及び国益より
「国における支配者たちー<本当の意味での支配している人>のことだがーそういう支配者たちが被支配者に持つ考えは、<<ちょうど人が羊に対して持つ気持ちと同じだ>>ということ、支配者たちが<夜も昼も頭を使っている>のは、<どうすれば自分自身が利益を得るかということ。」プラトン「国家」。
 
>支配層のための中間イデオロギー媒体の巨大に発展した現代において、ファシズム、ナチズムのような運動体を含む政党独裁は必要でない。
政治共同現素を刷り込む手段としてマスコミ主導、政党体制補助で十分である。
 
 要は少数の金融寡頭支配層の利益に沿って、多数としての自らの階層固有の利害に反して、<<一次元的に思考し行動する人間を大量に拡大再生産>>すればよいだけだから。
 
>>現状の経済政治体制は巨視的に見ると、日本国民経済の世界経済に現有の占有率、8%程度からの急激な後退過程と捉える。
 
 云うところのアベノミクスは必ず次の経済の後退過程のパノラマに転換する促進材料に過ぎない。
 
 言い換えると、金融寡頭支配層だけが潤ったらいい、他は野となれ山となれ、という決断の政治の実行であり、そうした輩が体制となる政治を、民主党政権交代ー大震災=原発事故の国内激動政治過程や海外の経済体制の動揺に耐え切れず、多数の国民自らが選択した、ということだ。
 
 この事態を陰謀、謀略などで説明しようとするのは、事態を直視できない観点である。
 
各種選挙結果を見れば、多数の国民の政治意識のあり様は、全国一斉国政選挙以前にハッキリしていたではないか。
 東日本大震災原発事故のとき、直ぐに関東大震災と以後の政治過程を思い浮かべた。
日本を過剰に煽ったら、どうなるか。やってはいけないことをやっていると想った。国家と市民の分岐が鮮明にできないのが日本人の特性であり、そういう国家共同性はいい面もあるが悪い面もある。
緊急事態だからこそマスコミはこの点を弁えるべきだった。
 
 そもそも、がんばらなくてはならないのは機構としての日本でなく、生きた人間集団としての日本国民、一人ひとりのあり様だ。「がんばれ日本」は政治責任から逃れるごまかしであり、個人のあり様を問わない無責任である。
 
 一つの国家体制の次の大きなステップへの転換要因、いや促進要因として、日本国民多数派の政治意識の現状からの、更なる深化を位置づける必要があるのであって、今更それをどうこう解釈しても、意味を成さない。
 
 歴史が急速に歩みを早めている時代に置いて、国民多数の政治感覚は日本固有の歴史の急速な転換に完全従属しているのだから、価値判断の埒外にある。
人は何処にでも向かう権利がある。巨大な人間集団の向かう先を、止めることはない。
 
>>過去の記事で戦前列強の工業生産数値、戦後の先進国のGDPの推移を比較検討した結果、日本の現状占有率戦前列強最低の2、4%-戦後8%の急上昇しているのは日本のみという異例性を他の先進国と比較して、度々指摘している。
 
 この異例性は歴史的な時間をかけて是正されていくのである。
日本だけが例外などということは100%ありえない。
 
要は世界経済の不均衡発展の問題に尽きる。
全地球一体市場化、及びその反面である市場の再分割という事態が同時に進行深化しているから、世界的な政治的経済的軍事的激動を引き起こしていく。
 
先進諸国と新興国の世界経済における占有率の急激な変化についても、図表で示している。
その図表は下の図表欄に残っているはずだ。
それを見ると、私の指摘は一目瞭然であり、明確な根拠を伴っていると解る。
 
例えば米国の占有率は戦前44%、現状、23%程度と約半分に後退。
その他の戦前の列強の現在も米国と、たいした違いはない。
 
 ただし、封建制の残存度の高いイタリアの占有率後退の低さから類推すると、突出している日本の後退傾向は
劇的な様相を取らない可能性が強い、とみるが、突出が強烈だから、反動も急激になるかもしれない。
 
 >いづれにしても、第二次大戦後の日本経済成長を可能にした内外環境が何処にあったかということが、この問題を解く鍵を握る。
 
>冷戦体制の最大の受益者は日本経済だった。
この視点から、中国、朝鮮の戦後史、アジアの戦後史と日本の戦後史を比較し、それらの現状に照らし合わせると、大きな俯瞰図を描けると想う。
 
>究極のところ、想定される着地点まで至る歴史的な時間との関係や途上の政治軍事内容が問題となる。
 
>>日本はオランダの歴史的政治の歩みとを参考にすべきと想う。
最もあの国は天然ガスに恵まれ、北海油田の恩恵も受けているが、歴史や立地条件から、市民が情に流されず自らを弁えて、政策選択する習性が何時の間にやら身についているようだ。
 
>政治体制の本質として、フィンリーの批判するミヘルスの次の見解は正しい、と想う。
「民主主義は寡頭制に繫がり、必然的に寡頭制的核を含んでいる。」
 
 
  <追記>
世界経済の不均等発展の下、全地球一体化市場の形成と同時に進行する争闘局面の深化のー反面としての新興工業国台頭による世界市場の再編を煎じ詰めつとリアル世界的現実はどのように収斂するのか。
>世界的にあらゆる分野の格差の拡大、資源、財、富の人類史上かつてない層的個人的偏在に結果しよう。
現状の国家機構行政機構は支配層の関与によってそれを公的に追認する機関となっている。
 
 近代以降、人類の戦いによる英知として獲得してきた政治権力による国民への再分配機能は麻痺しつつある。この機能が喪失すれば、国家機能はホッブス的危機管理権能に集約しよう。
 
 近代以降の国民国家の政治的国家共同幻想はグローバル資本制の深化の趨勢と共に制度的根底を掘り崩されつつあり、成立根拠である社会的物的根拠を喪失しつつある。
 
 ならば、どうか。
世界戦争を変革のチャンスと歓迎する全世界の住民は程度の差こそあれ、当該現地の支配層の鼓舞する国家政治共同幻想のとりこになる必要は本質的に一切ない。
敵は自国の支配するやつ等だ。