反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

司馬遼太郎記念館を訪ね、膨大な吹き抜けBF1からF2までの壁面の蔵書の中から気になった本のタイトルと由来を調べてみた。

 慣れないHTML編集でHOTOの右側に文を配置したが使いこなせなかった。

近鉄電車奈良線八戸ノ里駅下車、奈良方面に向かって右側、正面に大きなスーパーがあった。その脇の道路を渡る。

 

横断歩道を渡ると正面に 布施高校のグラウンドのフェンスに司馬遼太郎記念館の方向を示した大きな垂れ幕が垂れ下がっている。撮影した写真は入れ忘れた。

歩道のこの敷石は道路を右折し布施高校の校舎を回りこんだところに設置。記念館は駅から500mの住宅街にある。この住宅街の景色は何十年も前にたま

通りがかった頃とは随分変わっている。                              当時は大阪では珍しい、落

ち着いた中間層の住む住宅地の佇まいがあった。今は<ケバイ>構えの家が多い。写真撮影したが割愛した。

今の雰囲気だと司馬さんはココに居を構えなかった、と思う。

 

左のHOTO、なぜか宗教団体の会館が。その隣の家の並びはいかにも~~という感じの豪勢な構えの家が並ぶ。

司馬遼太郎邸は宗教団体の会館の住宅地の道路を挟んで右20m。

昔の司馬邸の隣は朝日新聞東大阪支局だった。敷地面積は両者ほぼ同じ程度。

 

昔の司馬邸周囲の高い塀の先に侵入者防止の槍のようなものがぐるりと埋め込まれていた。

 

センシティブな近現代の歴史を扱う作品が多く、「非文化都市」大阪ではそれなりの圧力があったのか?

大阪圏では文化人、その他「高級」エンタメ系の居住する空気感が無い。

もっとも司馬さんの生まれた一帯は、昔、物取り何かが多かったはずで窓に鉄格子を配置するなんてのは普通で、通常感覚で外部への警戒心があったのかもしれない。

ひだりのHOTOは狭い庭の一部、手前は司馬会館を象徴する菜の花の苗が多数、大きくなるのを待っている。

@写真は編集過程で欠落した。

記念館で蔵書以外の見どころがあったのは45キロの<ケラ>の展示。この庭にすぐ近く。もっとも何のことは無い溶岩流の固まった状態とそっくりの茶色の不規則な塊。<ケラ>の状態が既に鉄の溶岩流状態なので刀の刃などに仕上げていくのは手間がかかって面倒だが型入れすれば職人技としては意外に単純作業ではないかな?

⇒W。調べると見当違いの大間違いと解った。

Validation request

「電車の車輪・レールは、熱処理(焼入れ・焼戻し)を施し、鍛錬される程に強度を増していく事に触れましたが、鍛錬される程に強靭な鉄へとなるものは、他にも無いものかと考えていたところ、ありました!

それは、日本刀です。

日本刀の三大条件は、「折れず、曲がらず、よく切れる」事だそうですが、そのために、鉄を何十回となく打ち鍛えます。そうすることで、鉄の余分な成分が外に出され、純粋な鉄に近づける事が出来る様です。

鉄は、純粋になればなるほど、錆びにくくなる為、日本刀は、日本人の手によって作られた貴金属の金属刃物であり、日本における鉄の最高傑作の一つです。

日本刀は、軟鉄を心鉄(しんがね)に、鋼(はがね)を皮鉄(かわがね)にして包む独自の製法です。また、刀の焼入れは、刀身全体ではなく、刀の部分だけに焼入れを行うため、刃文(はもん)が現れるという特徴も備えています。(※刃文は日本刀の見どころのひとつで、刀身に見ることができる波模様のことを言う。)

 

 引用 <ケラ>の展示物の説明文。

「2014年3月に記念館友の会の交流ツァーで「街道を行く~砂鉄に道~」を辿り、島根県東出雲町の全面的な協力でたたら製鉄(日本古来の精錬法)を体験しました。友の会の皆さんがそれぞれ手伝ってできた<ケラ>です。<ケラ>は木炭で1400度に高めた炉に入れた砂鉄が溶解してできた二つの合計は42キロです。

⇒W。写真は編集中に消滅!たたら製鉄 - Wikipedia

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 上のHOTOは書斎らしき空間。時間の都合でHOTOの横に文字列を配置するのは中止した。

CDラジカセが気になった。

無趣味を自称するだけあって音楽への興味はあまりなさそうな雰囲気がした。

安藤忠雄作の「有名な」吹き抜けの巨大な本棚館内の照明が暗すぎて半分から上のタイトルは完全に目視できなかった。

館内撮影禁止を硬く云われる。下はコピー写真。

現在の自然光の取り込みは写真の上3分の1程度からしかないので館内は博物館や美術館よりも暗い感じがして書籍のタイトルも解り辛い。夕方の吹き抜けの高い天井からの淡いライトと自然光だけだからこの近辺は薄暗い。

本物の中身の詰まった本がコレほど垂直壁状(擁壁)に並んでいたら誰しも地震の心配をするはずだ。建築許可は下りない。地下1階の床からし本棚を見上げられない。手前の1Fからは本棚は斜め過ぎてタイトルはさっぱり読めない。上の通路は見ての通り閲覧用ではなく業務用階段も係員の監視がある手前、許可を得ても登り辛い。そもそも手すりが設置されていないところから用途不明。そこからどんな本が見えるのか、期待する気にもなれない。階段の手前におじさんORおばさんの監視員が椅子に座っている。係員は全員、高齢者風である。

ウィークデーにもかかわらず常に館内に複数の入館者がいるので土日ならそこそこのヒトが訪れる。大阪というところはこの手の文化スポットが少ないが、余程の司馬遼ファンでない限りリピーターは無理。リピートする目的が無さすぎる蔵書しかないはずだがそれもこの状態では~。Wは双眼鏡を使ってタイトルを確認することを想いつき2回目の入館を果たした。上の方の本のタイトルは双眼鏡でも照明が暗すぎて全く確認できなかった(日差しが明るい時期なら何とかなるかもしれないが上の本は無味乾燥な本が多い感がした)項目別に分類して並べられているようでそこまでの一貫性は無い

>全体の建築様式美をき立たせるための巨大な蔵書の擁壁はおそらく世界中探してもココだけかもしれない大阪万博の木造大屋根リングに通じるものがある。

蔵書が主役のはずだからもっと展示の仕方はあった。そもそも膨大な蔵書の持ち主は格好よく本を整理していない。生前の司馬さんは本に無秩序に囲まれ暮らしていた、と想像するがどうだろうか。

 山歩きの都合もあり2日に分けて出向いた2日目は双眼鏡を用意し、上の方の本の題名を確認しようとしたが山歩きに時間を食って夕方になり、天井からの自然光が薄暗く、やはり2日目も巨大な書棚の半分より上の本のタイトルは十分確認できなかった

2時間弱、ひたすら本棚を双眼鏡を使って見上げていると根気が続かななくなった。監視員には断ってはいるものの、突飛なことをやっているという意識は常にあった。

さらに司馬遼太郎、本人への興味はまるっきりないのも手伝ってあきらめの心境になった。ただ、膨大な蔵書への興味は残っていたが薄暗い中での作業に帰路の時間も気になり引き際とした。夕方5時ごろだったと思う。

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 偉そうなことを云うが本の趣味が良い!⇒本棚を見渡した率直な感想司馬さんはリベラリストだのだなぁ~昔はその人の本棚を見ると興味の向かう傾向が解った。日本古代史や天皇関連の本(大きな公立図書館の本棚の巨大なスペースを占領している。昔はその人の本棚を見ると興味の向かう傾向が解った。考古学的な実証性が断片的にしかない分野をアレコレよくやるよ>)は創作に必要な限りでもほとんど見当たらなかった。司馬さんは合理主義者でもある。

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>司馬さんが大衆的に支持された原因も巨大な本棚の蔵書のタイトルを見るだけで何となくわかるような気がする。

戦中派リベラリストの主流は戦後の日本国憲法状況の只中に居て日本と米国、東アジアを解釈した。そこに明治維新後の近現代史による「健全な意味」での愛国心は全面的に位置づいていなかったが日本国民の過半はNHKの丁髷大河ドラマや大衆大小説家、その他によって愛国掻き立てられ続けていた。それらは欧米流リベラリズムを薄めていた。

またアメリカ文化、アメリカ風俗が闖入するか、ヨーロッパ民主政の歴史観によって代替えされていた

その意味で戦後の体制派リベラリズムの大きな知的空間愛国の中身を入れられないまま放置されていた。入れ物はあっても中身が無ければ渇望が生まれるのは道理だ。

 短絡的に言えば、戦後日本の体制的リベラリズムの空気感を共有する多数派司馬さんの描く

明治維新と明治の時代精神から、大正デモクラシーの歴史的過程を肯定し

1920年代後半から、1930年代に向けて日本が歴史的窮地に陥っていく筋道を埋め合わせる

>体制派リベラリズムの空気感と素朴な愛国を結合する<大きな物語>を得てやっと満足した。

「竜馬が行く」とか「坂の上の雲」は日本だけにしか通用しない他愛も無い物語である。

この分野に適合し、日本人の歴史好き傾向を満足させる作家は司馬遼太郎しかいなかった。体制派リベラリズム、何となくリベラリズムは1960年代の激動に晒されることなく生き残った。彼らの背後には剥き出しの国家権力がいた、事が確認されたのは日本の極狭い空間だけで、そこでも体制派リベラリズムにつく反対派に収斂されて、最後は彼らの議会的進出は尻すぼみになり、逆に我々の側には社会的レッテルが大きく刻印されそれがその後もついて回った。

そして東西冷戦の終結とグローバル資本主主義と金融寡頭制の世界が訪れ、遂に世界市場の戦争手段を駆使する再編成の時代に突入している。この件に関する認識の違いはずっと前から亀裂としてあった。

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「竜馬が行く」「坂の上の雲」、反俗日記はタイトルを見ただけで中身を想像し、反発を覚える。

「竜馬が行く」は出だしは十分に読み込んだ資料とリアルな情景描写がマッチして地歴的興味を湧いてきたがコレだったら「街道を行く」でも良かった。

案の定、竜馬が江戸に出てきたからの小説のフィクションが始まったあたりから、通俗小説丸出しぶりに嫌気がさして投げだした。人物像が立体的に描きあげられていない。急に竜馬は大物風を吹かせるようになった。細かいディテールの積み重ねが足りずリアル感が出ていない。そもそも各々の歴史作家が描いてきた坂本龍馬の人物像に欠陥がる。その手の人物に歴史の歯車を動かせる力はない。暗殺されたのはそういう意味だった。

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 司馬さんは名前の通り、司馬遷の<司馬>と司馬遷には「遼」には「はるか、遠い」というう意味を持つ<遼太郎>というペンネームを選んだ。

 敗戦後、膨大に流れ込むアメリカ文化にほとんど興味を持たなかったいう。その一方で反米でもなかった。会館の自筆の案内文にあるように生来の歴史好きから中国、蒙古、さらには東アジアの歴史と文化の中に沈潜し足場を築いていた。

その意味で戦後革命期の弾圧をへて朝鮮戦争から民同的民主主義から日本資本主義の強蓄積下の風俗的民主主義の高度経済成長時代を潜った村上春樹 - Wikipediaと双璧をなす作家である。司馬さんは短編小説が面白い。ノモンハン事態を小説にしようとしたが断念したのは取り扱う世界が異次元で大きすぎたからだ。彼は元々、西洋には関心が薄い。それが彼流の西洋被れしていない合理主義(歴史的商都大阪の風に由来)と相まって小説世界を純化させていた。二人のノーベル賞作家は個人的にはランク外だけれど川端康成の戦前の新感覚派時代の短編小説を読んだとき、志賀直哉と同類の小説描写の凄さを感じた。もう一人の方は馴染めない。悪文の反俗日記の参考外だ。

個人的には司馬、村上両氏には興味は無いが評価はすることに決めている松本清張の方が面白いが。独特のリアリズムでディテールを積み上げていく手法は迫力がある。

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元々坂本龍馬なんて全く無関心な人物だし明治「いしん」にはロマンを全く感じないたちだ。徹底した民衆史観の持ち主なので。高校レベルの日本史でも丹念に注意深く読み込めば真相の糸口が隠されている。年貢ムラ請負は日本人の村社会の精神を育んだ。明治維新後も農民収奪しか当面の剰余価値は見込めず、追加して朝鮮侵略による賠償金(日清戦争)が日本資本主義の原始的蓄積となった。明治維新を日本的内乱の一種、続編とすれば、いしん」主導勢力の藩内に既に明治維新の予行演習はあった。日本的な中央集権的封建制度も資本制を準備する絶対主義の予行演習みたいなものだった。内乱の敵味方は地方氾濫をへて中央集権の絶対主義に収まった。

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明治維新で活躍した人たちの中で

大久保利通 - Wikipediaは革命家の風貌をしている。本物違うかな?新選組反革命家の近藤勇と風貌はよく似ている。

薩摩藩士時代の大久保(明治元年頃)

が、近現代史は素朴な民衆史観では片づけられない。講座派史観では代替えできない。

一番大事なことは、マルクス資本論的世界観で解釈するのではなく(産業資本主義段階)帝国主義論の構造主義の立ち場で世界を見ることだ。そうすると第二次世界大戦に対する戦後民主主主義的欧米的位置づけへの拘りは無くなる。いろんな媒体や教育機関を通して刷り込まれた歴史観から自由になれる。大昔からそう云う意見だったので、思想的な右翼の連中も呆気に取られていた。

 

天皇制と同じく大衆的共同政治幻想の領域で<確固>として<存在>するモノは<否定>してもそれは頭の中の作業でしかなかった。日本国憲法の1条~8条を否定し新たな憲法を志向する、と徹底してもそれがどれほど説得力を持てるか、自問すればわかるが体制に反対する者にはそれなりの覚悟はある。前回の記事、ニーナシモンの Ain't Got No, I Got Lifeなのだ。

 司馬竜太郎記念館の蔵書の一部。他のことはほぼ無関心だったが、どんな資料を集めていたのか、だけが気になり、館内の写真撮影は禁止だったので、筆記した

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「釣り針」直良信夫 ⇒W。物凄く興味が湧く。目の付け所が的を得ている。人類はいつごろから魚を針で釣ることを覚えたのか?そこから単なる教養ではないリアルな人類史が垣間見える。歴史を見るセンスが良い。

釣針 (ものと人間の文化史 17) 単行本 – 1976/5/1

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鉄は自然界において独立した形で存在することはほとんどなく、例えば鉄鉱石や砂鉄などに代表される酸化鉄のように化合物として分布している。そのため、そこから鉄を取り出すには還元が必要であり、さらに銑鉄を生み出すためには炭素と結合させねばならない。

たたら製鉄は、初期に鉄鉱石の使用例があるものの、おもに砂鉄を原料とし、燃料にはもっぱら木炭が使われた。

粒の細かい砂鉄を炭火の中に投入することで短い時間で還元吸炭が進み、また近現代製鉄にくらべて低温で加熱するためにリン硫黄などの有害不純物の鉄への混入が少なく、結果として非常に純度の高い鉄を取り出すことができる。

     AI による概要
 
「たたらを踏む」には、次のような意味があります。
  • 勢い余ってから足を踏む様子
  • 踏鞴(ふいご)を踏んで風を送る
     
     
「たたら」は足踏みのふいごを意味し、製鉄炉で風を送るために使用されていました。製鉄の作業は労働力が多く、その辛さを紛らわすために「たたら節(歌)」を歌い始めたといわれています。⇒W毛沢東の1950年代後半の大躍進運動
鍋谷鎌を
農民が日常に使う鍋や鎌を持ち寄って溶解し工業原料の鉄資材にしようと試みて大失敗した。
「たたらを踏む」の由来は、古代朝鮮語で「もっと加熱する、強く加熱する」という意味の「ダッタン語(モンゴル・トルコ系)」の「猛火」とも考えられています。⇒文字化けが出た。