反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

司馬遼太郎46巻、「北京から長安へ」~鉄の使用の歴史的意味~「 天山のふもとの緑の中で」~遊牧は生物的生存状態の人間が羊の群れに入り込んで移動する人々に奇抜で新しい暮らし向き。スキタイについて。

         司馬遼太郎全集46巻
    「長安から北京へ」
P220上段
「辺境に近い土地にいた線が列国にぬきんでて鉄器を多く生産した。この製鉄法は遠く市域から流れてきた技術によるものらしい。(秦そのものの祖がせいじゅうといわれるに近い遊牧民族だったらしい)
コレによって秦は農業生産高を高めたために、他の青銅器職よりも人口が多く持つことができ、さらには鉄器兵器を使う事によって、切れ味の悪い列国の青銅器兵器を圧倒して、中国最初の統一帝国をつくった。
鉄器の秦帝国の成立は、紀元前221年である。」

W.②参考資料②世界史講義録 
イメージ 1
アレクサンドロスの東方遠征
マケドニア人はギリシア人の一派なのですが、アテネなどギリシアの中心部の人々と比べて大分なまりがあったみたいで、彼らからはバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼ばれて軽蔑されていた。野蛮人とされていたんだね
マケドニア人はポリスを形成していなくて、王のもとに貴族層が支配者層になっていました。そういう意味でも遅れた地方と見なされていた。
ところがこのマケドニア、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間にどんどん力をつけてきたんです。
マケドニアを一大強国に発展させたのがフィリッポス2世(位前359~前336)。
彼は、若いときにテーベに人質になっていたことがある。ちょうどエパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃です。
重装歩兵の戦術をじっくりと身につけて、マケドニアで王位に就いた
マケドニアの軍制は貴族の騎兵が中心だったのですが農民を重装歩兵にして、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。
そして、相変わらずポリス間の対立抗争が続くギリシア本土に進出しました。
 
http://www.geocities.jp/timeway/010202.gif アテネ・テーベ連合軍がマケドニア軍を迎え撃ったのが前338年、カイロネイアの戦い。
結局マケドニアが勝って、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。
独立を失った諸ポリスの人々はどう考えたかというと、親マケドニア派と反マケドニア派があったんです。あくまでも独立と民主政の伝統を守ろうという人々は反マケドニア。ポリス間の長い抗争にうんざりしていた人々は親マケドニアですね。親マケドニア派はさらにマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。
http://www.geocities.jp/timeway/010202.gif ところが、この20歳の跡継ぎがアレクサンドロスだったんです。
http://www.geocities.jp/timeway/010202.gif 前334年、アレクサンドロスは東方遠征に出発。率いるギリシア軍は騎兵、歩兵あわせて約4万。
http://www.geocities.jp/timeway/010202.gif アレクサンドロスはその後も旧ペルシア領を支配下に納めながら東に向かって転戦していきました。
前326年にはインダス川を渡りインドに侵入しました。

彼は新たに征服した領土にアレクサンドリアという名前の都市を建設します。
中でもエジプトのナイル河口に築いたアレクサンドリアが有名ですが、帝国各地に支配の拠点として同じ名前の都市をたくさん造っている。全部で70以上あるそうです。
http://www.geocities.jp/timeway/010202.gif さらに、アレクサンドロスギリシア文明とオリエント文明の融合をめざしました。
具体的には民族融合を考えたようです。ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚なんていうのをやります。自分自身もペルシア王族の女性を妻にする。
広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用します。
こういう状況の中でアレクサンドロスは突然死んでしまいます。
アラビア方面に遠征計画があってその出陣を祝う宴会で突然倒れます。何日か寝込んだ後で亡くなります。死因はよく分かりません。33歳でした。

3ヘレニズム諸国

いちばん長く続いたヘレニズム諸国がプトレマイオス朝エジプトです。ここの最後の王が有名なクレオパトラ。世界三大美人だそうですが。このクレオパトラですが、何民族だったかというと、だから、ギリシア人なんですね。アレクサンドロスの武将プトレマイオスの子孫なんですから。
ヘレニズム時代というのはギリシア人が支配者であった時代でもあるわけです。

 
引用終わり
「秦の勃興は「後発の有利」のおかげとも言えます。
質問者様の仰るとおり、秦は戦争にだけ特化していました。そして外交、軍事両面で道義を無視したのが秦を勝者とした要因でしょう。」
「道義を無視して国家の利益を追求する人材が多かったのが秦が成功した一因でしょう」
「趙の武霊王は騎馬戦術を取り入れて後、確かに軍事力の増大に成功しました。楚も呉起の改革で一時は強力でした。これらの国々の軍隊も劣悪ではなかったでしょう。
しかし秦は地理的に建国期より西北の遊牧民族と延々と死闘を続けています。建国初期の数代の秦公は戦死し、『詩経』には秦の軍歌(と言い得る)が記載されているほどです。
>秦は中華のどの諸侯よりも対騎兵戦に慣れていた可能性が高いのです
特に出土する兵器に関する報告では秦の弩や戦車は精巧であり、遠距離の戦闘に長けていたのではないかと見られています。そして秦の剣は青銅製ですが白兵戦では有効だのと見解があります

W。ほぼ同時代のマケドニアアレクサンドロス王のギリシアポリスの重装歩兵密集縦列の兵法をさらに発展させ騎馬兵の機動力を加味した戦法と、中国の秦の戦闘技術を具体的に比較検討したかったが、短時間で目的に沿った論文を探せなかった。
 
Metamorphose Planet アレキサンダー大王 [人物] 
Wはマケドニアの楯と長槍の関係を忘れ、ギリシアポリスの重装歩兵密集隊をイメージしていた。しかし、このような本隊は単独では戦えず、下図のような1軍団の編成の中核部隊として機能した。
当時最強を誇ったファランクス(重装歩兵密集隊)
イメージ 2>W。しかし、秦の軍隊が弩(弓の機械化された武器)や戦車を突破力にしている限り、その戦闘隊形はアレクサンドロス王の西方遠征で粉砕されたペルシアなどの西方諸国の戦法と余り変わりはないモノとみる
>馬が曳く戦車や射程距離の限界のある弓では、ギリシアポリスの楯で密集重装歩兵集団をカバーした槍ふすまの重装歩兵密集縦列の突撃し一点突破全面展開の殲滅戦の戦法には勝てない
 
ゲレニズム、マケドニアを粉砕したローマ軍の戦法マケドニアの密集重装歩兵集団+騎兵の機動力の敵戦闘力の殲滅戦をさらに発展させ、腰にさした両刃の分厚く鋭利な中剣で敵を二度と戦場に復帰できない様に殺傷してしまう事であった。
 
*転載。マケドニアファランクス1集団は約9千人の兵力から構成されており、下図のような編成であった。
イメージ 3
W。司馬遼太郎項羽と劉邦」には両軍の戦闘隊形と使用している兵器の詳細な記述はなく、主として秦王朝瓦解期の項羽と劉邦を中心とした戦乱人物絵巻風につづられている。
 
>巨大軍団の中核部隊は食わんがために武器をとった貧農の「民兵」の素人部隊であり、ソレを戦争のプロの各級指揮官が率い
頂点に全軍を人格的に象徴する項羽劉邦がいた、と想われる。
 
>言い換えると、項羽と劉邦が戦死すると全軍は集中力をなくし分散する
暗殺という手法が最も手っ取り早い戦術なのだが、ソレを恐れて、周囲に十重二重を遥かに超える宦官などの取り巻きが必要になったのであり、このリアルな組織面では古代中国は西洋文明の権力機構よりも幸か不幸か発達している。
 
古代、中世の中国や東アジアの戦争方式はモンゴルを含め軍としての独立した論理性に欠けおり、結果的に普遍的でなかった。
 

司馬遼太郎長安から北京へ」に戻る
 
日本に製鉄が成立するのは、遥か下って紀元前4世紀か4世紀で、コレがやがて古墳時代という日本最初の農業生産力の飛躍をもたらしたことになるのだが、鉄に関しても日本の島々は中国世界との間に千年以上の遅れがある。
*************
W。以下は司馬遼太郎的リアルな人間観が開陳されていて面白い!
W。司馬遼太郎レベルの作家でココまでハッキリと経済と社会、文化の関係を覚めた目で云いきるヒトは少ない。
 
鉄に使用ほど、人間の精神と社会を、それ以前に比べて激しく変えてしまったものはないように思われる。
農業生産が上がるために社会が変わり、又私有への執着が強くなりさらに好奇心が増大して形而下的な好奇心が社会に充満する一方、ソレが変質して形而上的な好奇心を生む思想や学問を持つようになった
 
「私有への執着が強くなり、さらに好奇心が増大して、形而下的な好奇心が社会に充満する一方、ソレが変質して形而上的な好奇心を生む思想や学問を持つようになった」という見方がリアルであり独創的だ。
************
W。さすが作家。物は云い様。こんなフォーカスからの解説はきいたことがなかった。
      ↓
鉄器の使用が始まる以前の石器や木器たによる小生産の時代は、人間の欲望も少なく、従って好奇心も寡少で、実にのんきでお人よしの世の中であったろうと思える。
開墾して自分の田を増やそうとしたり、あるいは他人の田まで取ろうとなどという事は起こり得ないのは、
木器や石器では他の地面まで耕し様がないからである。
 
日本の島に住む人間が木器や石器を道具として粗放しながらも稲作をやり始めたころに、すでに中国は秦漢帝国も終わって、三国の争覇時代になっていた。
 
W。司馬は生産力史観を運用したかのような<技術力史観>とでもいうべき誰でも解り易い説明方法を用いている。高度経済成長経済の根底にあった「思想」である。
 
曹操 - Wikipediaのたてた (三国) - Wikipediaの国のころようやく中国人の史絢に東海の向こうの卑弥呼の国がかすかにみえてくるという中国、日本両地域のはなはだしい落差が、鉄器が充満している社会とほとんどそれをもっていない社会ということによるであろう。
 
~~~
       金属を鋳るには、信じがたいほど膨大な樹木がいる。
人山の木を切り倒してそれを木炭にし、ソレを持って蹉跌もしくは鉄鉱石を溶かしたところで、得られる鉄の寮は僅かなものである。
私は2,3年前、この想像にひどく凝って、。20世紀初頭まで砂鉄製鉄をやっていた島根県のあちこちを訪ね歩いたことがある。
極端にいえば砂鉄はどこにでもある。
鉄をつくるのは巨大な量の樹木なのである。
 この点日本の島々はモンスーン地帯にあって、土壌そのものが水を含んだスポンジのようなものだから、樹木の復元力が必ずあり、かつ早い。
島根県の古い砂鉄業者に聴いたところでは、山は30年で元通りになると云う。その業者の家は江戸期から山を買い始め、一山を裸にして鉄を作り、さらに他の山に移り、転々と裸にして、30年経って元の山に戻ると、蓋タブ立派な木炭になるまで木が成長している、というのである。
この家はこの仕事を明治期いっぱいまで切り返すことによって、中国山脈のほとんどを買ってしまった。
つまり一件の業者で山脈をまるまる買ってしまう結果になると云う事は、製鉄というのはそれほど樹木を必要とする、ということの裏返しになる。
『そいう云うものらしいんです』
と私はあくまでも製鉄の話に即しつつ、儀礼として新中国の歴史観に抵触しないよう、あるいは疎に歴史観の立場から多少の参考になるかもしれないと思いつつ、話を聞いてもらった。
 

新しい中国は儒教をを拒否し、中国の隅々からこの残滓を取り除こうとし、非林非孔運動を徹底させている。
その価値意識からいえば武帝 (漢) - Wikipedia前漢の第7代皇帝は良からずと云う事になるのだが、
 
>しかし伝統的な中国人の思考方法の特徴の一つとして、
善悪観に基礎控除とも云うべき許容性の幅が広く歴史上の人物の善悪についても
『6割良ければ良い』ということになっており、このことはこんにちでも続いている。
武帝は辺境の患い~今日でもなお続いている~を除いたと云う事で『6割良かった』のである。
 
秦の始皇帝。唐の則天武后儒家を退け合理主義に基づいた政治を行ったと云う事で
~つまり『6割」方良い。
いずれも旧中国で悪党として分類されていたところから救い出されて、良い政治家の仲間に入れられている。

              天山のふもとの緑の中で
    <草原>
「遊牧」
というのは、よく誤解されるように古代的な未開の形態と考えるべきではない。
すでに地球のあらゆる場所で農業が営まれていた歴史時代に、突如として表れた新形式の暮らし方なのである。
 
 それまで草原には人類は住んでいなかった。
むしろ砂漠の縁辺の方に、人は住んでいた。
砂漠の縁辺のオアシスに住み着いて水を得、農業を営んでいた
 
中国の新疆ウイグル自治区という日本レットの4倍もある広大なトを普通我々はシルクロードとよぶ。
その例でいえば、中央にあらゆる生物を拒絶するタクラマカン砂漠がある。
その南の縁辺には、崑崙(こんろん)山脈など行き止め水が伏流水となったりして、所々にオアシスが出現している。
 シルクロードの南道などは、一見、砂の色の血で利ながら、オアシスが数珠球のように並び、ソコに農業を営んできた人たちが、古代オアシス国家のきらびあかな文化を残した。
**********
 
 ひるがえっていえばオアシスという砂漠の縁辺の方が人類にとって衛生的だったかと思える。
 
私はかつて暑い時期、南道のホータン(和田)へ行ったとき、夜、電燈の周りに飛ぶ羽虫を一匹も見かけないことに驚いた。このとき
『どういう駆除法をやっているのか』
と同行の藤堂明保 - Wikipedia教授が流ちょうな中国語で土地の指導者に聴いたが相手は害虫そのものの存在概念を理解せず、しきりに首をひねっていた。
ホータンから数キロ離れれば大砂漠なのである
虫さえ育ち難いこの環境では、人間や家畜の生命に害を与える微生物の種類や数も、温暖多湿の農業適地に比べれば極端に少ないだろうと思われた。
エジプトやメソポタミアといった古代文明が砂漠の縁辺で起こったと云う理由の一つが理解できたような気がしないでもない。
 
 草原は、そういうものではない。
蝶もいるし蟻もいるし、タバルバガンのようなリスに似た小動物も、この地に穴を掘って時毒飛ぶ出してくるし
ウサギやキツネもいる。
ヤギやヒツジも野生で暮らしていたし、彼らの敵である狼も住んでいる。馬も野生時代は主として草原が住みかであった。
 
>ただし、遥かな古代、草原は人間だけは生息し難かった。
採集すべき木の実もないし、獣につかづこうにも、一望の平坦地であるために相手が逃げてしまう。
>採集時代の人間は森のある土地がその生息の適地で、農耕時代になると、森から出て低地にすみ、河の氾濫が繰り返される湿潤の地やオアシスで穀物などを栽培した。
むろんこの段階において草原は見捨てられた地だった。
草原にすむ』
イメージ 4という暮らしのシステムを考えついて偉大な民族は、スキタイ - 世界史の窓であった
******************
******************
 
「昔も今もユーラシアには騎馬遊牧民がいる。
その代表的なルーツは、
西のスキタイと東の匈奴にあった。
いずれにも王がいて、強力な軍事力を誇っていたが~」
「本書はヘロドトスの『歴史』第4巻を通してスキタイを浮上させ、司馬遷の『史記匈奴列伝を通して匈奴を浮上させる。」
スキタイと匈奴に共通するのは、2つの集族がユーラシアを代表する古代騎馬遊牧民だったということである。両者は、①農耕をおこなわない純粋の遊牧民である、②家畜とともに移動して定住する町や集落や都市をつくらない、③男子は全員が弓矢にすぐれた騎馬戦士になっている、④戦術は機動性に富み、不利なときはあっさり退却する、という著しい特色をもっていた。
 その動向範囲はユーラシアのほぼ全域。
文明(civilization)についての定義は曖昧である。メソポタミア・エジプト・インダス・古代中国に共通する特色は、一応は「都市の発生」「王権の誕生」「巨大構築物の建設」「官僚制度の確立」「裁判の実施」「文字の発明」などになっている。
ユーラシアの騎馬遊牧民mounted nomads)の社会にはすでに「王」がいた。騎馬遊牧民の歴史に王が登場したのは紀元前9世紀の、ユーラシア草原地帯の東部でのことだった。そのころ、ユーラシアの西にはアッシリア帝国があり、東には西周の王朝が広がりつつあった。
 騎馬遊牧民の王は「王墓」を造り、その権力の大きさを誇示した。最初は地上に墓所をおいてそれを墳丘で覆ったが、やがて地下に墓室を設けた。かれらは動物文様、馬具、武器を独特の様式で意匠(デザイン)した。こうしてわれわれの前にスキタイがあらわれた。
いま日本の高校教科書ではスキタイの出現を前6世紀としているが、実際にははやくも前7世紀には動きまわっていたようだ。スキタイ時代は「草原の古墳時代」なのである。
 スキタイの黄金装飾品はべらぼうに美しく、完成度が高い。180度体をひねった動物表現から合成獣グリフィンのような造形まで、目を奪う。これだけの造形をくみあげる集団に文明がなかったとは言えない。
 
一方、前3世紀後半にユーラシアの東に匈奴が出現した。匈奴の社会は十進法からできたヒエラルキー構造をもっていて、それを軍事組織にもいかしていた。
スキタイについては『遊牧民から見た世界史』(1404夜)にも『アーリア人』(1421夜)にもふれた。~~
 
 
引用
「アジアの遊牧文化についての従来の見解が、ひっくり返りました。
遺跡の古さは、スキタイ部族が、中央アジア出身で、その後、黒海沿岸まで到達した事を物語ります。
スキタイ人の出身地についての議論は、ヘロドトスの時代に始まりました。
スキタイ人の墓は黒海沿岸で見つかりますが、ヘロドトスは、アジア出身の部族だと記述しました。
何百年間も、アジア起源説は疑問視され、スキタイ人ヨーロッパ起源説が主流でした。
発見された頭骨の特徴から、スキタイ人が、モンゴロイドではなくコーカソイドと判断されたからです。
スキタイ文化の一番の特徴である、装飾品の動物文様は、スキタイ部族が、近東への遠征から帰還した後に始まったと、学者は考えていました。つまり、紀元前7世紀以降です。
これは、当時の古文書の記述から、判断されました。
>アルジャン村の近くの平原(トゥヴァ北部、西サヤン山脈の支脈のトゥラン・ウユク盆地)は、前から考古学者が注視していました。
ここの「王家の谷」に、ユーラシアの初期遊牧文化の大古墳群があるからです。
アルジャン古墳アルジャン古墳(アルジャンこふん)とは - コトバンクの発掘品から
紀元前1千年から紀元にかけての時代の、ユーラシアの初期遊牧文化の起源が明らかになったからです。

>発見された「王家の谷」と呼ばれる、紀元前7世紀~8世紀の古墳群は、
考古学的知見から、黒海沿岸にスキタイがいなかった時代の物です。

詳しい分析で、スキタイの王族に属さない「首領」の墓は、紀元前7世紀よりも新しい事が分かりました。
アジアの遊牧民文化の常識を覆しました
スキタイの高度に発達した芸術はもっと後の時代の古代ギリシャ芸術を凌いでいます。

>発見した遺跡の年代の古さから、スキタイ人は、中央アジアから黒海沿岸に勢力を伸ばした事になります。
しかし、クジル(訳注:トゥヴァの首都)で、調査結果の最初の発表がなされたあとに、話題になった「トゥヴァ住民がスキタイの子孫である」と言う「科学的」な説は、ペテルブルグの学者らが否定します。
>主な理由は、スキタイ人の頭骨がコーカソイドの特徴を持ち、イラン語族である事です。
>ある地域の古代文明の担い手が、後から来た地域住民の、本当の先祖であるとは限りません。

**************
**************
司馬遼太郎 「天山のふもとの緑のなかで」に戻る
 
この古代民族は、紀元前3世紀に滅んで今は存在しない。
ヘロドトス(紀元前5世紀)の『歴史』の中に出てくる多少の記述と、彼らの残した隙台風の金属加工品などの文物を通してしか知ることができないが私は常に興奮なしに彼等の文化、気質、そう棒などを想像することができない。
 
 W。当時の司馬は、前段のソ連時代のスキタイ古墳群の発掘調査で、スキタイが中央アジアの草原地帯から黒海方面に進出した事実の判明をしらなかった。中央アジアから黒海やイラン、トルコの広大な地域の民族移動の激しさは。日本列島住民の我々には感覚的にわからない面がある。現在のトルコ人と称される民族は比較的新しい時代に東方からやってきて居ついた人々(1000年も経過していない。イギリスのノルマン人の侵入も同等である。縁辺定着型の日本列島住民の歴史が特異なのである。)で、古代ギリシア史などに登場する住民とは全く別物。
 
>地球儀を西に回して黒海をみることにする。
*スキタイは、紀元前6世紀からわずか300年ほどの間、この国会北方の内陸の草原で栄えた。
 
彼らはイラン系の民族で、何処から来たのは諸説ある。←Wさすが肝心なところは押さえている。
紀元前6世紀にこの草原に出現して(W。それ以前の古墳群が中央アジア現ロシア領で発見された)
先ず馬に乗ると云う他の人類にとって奇抜すぎることを創始した。
*********
  W。この辺の論法が司馬遼太郎の真骨頂
 
と同時に遊牧を考え出した。
>草原に群生している羊の群れの中に入り込み、ソレらが草を食って移動していくままに人間も移動する。
(こう云う角度で遊牧生活史を考えることは、1940年代に内蒙古地方に滞留して遊牧生活史を観察研究した
今西錦司 - Wikipediaによって最初になされた。W、ナルホド)
 
更には他の肉食獣から彼らを守ると云う役割を人間が果たすことによって人間の方から羊の群れに寄生すると云う不思議な方法の発明であった
それまで人類は羊を人間の住居に引き寄せ、手元において飼う事はしていたが、人間が逆に羊の群れの中に入り込んで移動すると云う暮らし方はナントも奇抜なものであった
 
 その文明を成立させるためには、機敏にヒトが駈けまわらなければならない。
そのために騎馬が必要であったし、更には家屋を固定せず、簡便に移動しうる天幕(パオ、ゲル)も開発せざる得なかった。
山羊を飼い、馬も飼った。
豚だけは飼わなかった。
豚は農民という定着者のための家畜で、遊牧者がコレ飼うと、軽快に移動できなくなるのである。
ヘロドトスも、スキタイは豚を飼わなかったなかったと書いている。
 
W。家畜の餌の草原には限りがあるので遊牧するしかないのだが、必然的に作物を適地で育てる農耕とは生産性の格差がうまれる。人口扶養力の格差といってよい。
ソレを解消する手段は遊牧民の機動的組織性を発揮できる、交易及び豊かな農耕地域の作物物品の掠奪人身売買しかない。
**********
地球上の多くの人類は、そうもう の中で動物とさほど変わりのない暮らしを営んできた。
恵まれた可耕地に住んで比較的に大きな社会を構成している人々は別として、河川漁労で生きるものや森林を方向してささやかな道具で小動物をとっている者たちは、血縁グループによる小社会しか構成しておらず、その生産もココと元ないものであった。
彼らは常に食べるのがやっとであり、その食べ物さえとられない日が幾日も続くといった具合の心もとない暮らしをしていただろう。
 
>人類のうち、このような部分に属する人々は、ごく最近に至りるまで、
普通の歴史の記録の価値基準から云えば、記録されるに値しない消長を続けてきた。
紀元前に地表の様々な部分に散乱しつつ生きてきた彼等にとって、苦しみと云えば、ギリシャ人のような形而上的なものでなかった。
 
>いかにすれば生物的に生存を続けられるかどうかという事であった。
>そこへ出現したのが遊牧であった。
以上のような意味において、彼等が生きるための手段を発明したスキタイ人の偉大さはギリシア文明に劣らず、世界史的なものであった。
~~
馬が人間の文明にとりいれられたのは騎馬民族がせんじょうではない。
 
>西方ではインドヨーロッパ語系の人類が
そして当方では漢民族が馬に車をひかせ、戦車として用いた。
 
しかし人間が直に馬にまたがり、馬上の人間が疲労することなく馬の俊足を自分のモノとし、かつあいている両手で弓矢や刀槍を用いると云うのは、人間の運動能力が一変した形態だった。
20世紀の自動車も、古代の騎馬の出現ほど画期的なものではなかっただろう。