反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第一回。古代ギリシャの社会と文化、戦争と民主主義。

 <参考資料>
A)フィンリー「民主主義ー古代と現代」。
B)フランソア、シャムー「ギリシャ文明」。
C)ビクター、デイビス、ハンセン。ジョンキーガン監修、図説「古代ギリシャの戦い」。
 
 まず、A)に基づき、古代ギリシャの時代区分をはっきりとさせる。
1、ミッケナイ文明の時代。(世界史の研究作成者:松本 徹に手短に整理されているので引用する。)
ア)ギリシア人とは、ギリシア語を話すインド・ヨーロッパ語族の一派のことをいう。論点2で見たように、ロシアの南部平原で暮らしていたインド・ヨーロッパ語族は、前2000年頃から移動を始めた。ギリシア人はエーゲ海周辺に侵入してきたのだが、その侵入の時期は、前2000年頃(第1次移動)と前1200年頃(第2次移動)の2回に分けられる。
ギリシア語にも方言があって、その方言の違いにより、ギリシア人は4~5の部族に分かれていた。青銅器時代イ)ミケーネの文明を作り上げていたのは、第1次移動によってやってきたギリシア人のアカイア族であることが判っている。それは、ミケーネで用いられていた線文字Bが、ギリシア語のアカイア方言であることが明らかになっているからだ。エーゲ文明の時代は、クレタもトロヤもミケーネも、それぞれ国王がいて、その土地と人民を支配していた(王政)。

 ところが、ウ)ギリシア人のドーリア族が、第2次移動によってやってくると、ミケーネの文明が滅び、同時に線文字Bも消えた。

 
  <古典期のギリシア語方言の分布。> 

西部:
0 北西方言
0 アカイア方言
0 ドーリス方言
中部:
0 アイオリス方言
東部:
0 イオニア方言
分類不明:M マケドニア方言
 
この分類は詳しすぎて、都市国家間の対立の基底に方言=主要種族があることが明らかにできない。
 
>シャムーの<前8世紀のギリシャ語方言分布図>では、アテナイと郊外を含むアッティカ方言とイオニア方言を一括して、イオニア方言としている。
 
>アカイア方言は北西ギリシャ方言に一まとめにされている。
 
>その方が古代ギリシャ諸族の「違いに対応する特定地域の支配的要素を特徴づけ、しばしば国家システムと一致していることが認められる状況を説明できる。」ーF、シャムー >
(説明省略)
 
>>>以上の方言関係を総括すると古代ギリシャの主要プレイヤーの言語相関関係を政治の支配的要素に当てはめると、<北西方言はほぼ=ドリス方言~~ドリス方言はテッサリアボイオチィアに影響を与えた。>のだから、
イオニア方言のアテナイだけが言語によって分類できる政治の支配的要素によれば
孤立している。アテナイの人たちの種族的な構成要素はドリス人でない可能性が強い。
ペロポネス戦争におけるアテナイVSスパルタ、コリント、テーバイには言語による政治の支配的要素、文化の違いがあるといっても、間違いとはいえないだろう。
 
>シャムーのミケーネ文明以降の時代区分、
幾何学様式の文明ーホメーロスの時代。(文字のない時代、土器の紋様を基準)
>アルカイック期(前8~前6世紀)
一貫してギリシャ文明の先進地域はアッティカ地方である。ただし、都市国家としてはアテナイよりもコリントなどが交易で先行して経済力があった。
 
>古代アテナイの哲学者のプラトンアリストテレスさらにまた現代の歴史家はアテナイの帝国としての戦略、戦術面の間違いを指摘するが、ペロポネス戦争において、アテナイの勝利は軍事的観点から絶対にあり得なかったのである。
上手く立ち回ったとしても、泥沼の消耗戦による引き分け。いずれにしても北からのマケドニア軍の侵入に飲み込まれる運命だった。
 
理由。その1 
ギリシャ都市国家は地域共同体社会であり、各ギリシャ人たちはそこに最大の政治的文化的価値を見出してきた。
 
官僚制忌避、市民軍、スパルタの場合、圧倒的多数の被征服民の奴隷的農奴の生産に依存し反乱の歴史と政治軍事危機を内在させていた。
 
支配圏の最大限の拡大した段階でも領域国家段階を超えられない内外構造にあった。
 
従って厳密に言えば、アテナイ都市国家の内外構造を帝国だとか、帝国主義と規定するのは間違いである。
ただ、都市国家という身の丈以上のことをやってきたことも確かで究極的には破綻の原因はここにある。
勿論、他の都市国家はいうまでもない。
 
その2
27年間に及ぶペロポネス戦争のアテナイは自国の食糧供給地帯である郊外のアッティカのすぐ北のボイオチィアの強力国家、テーバイとペロポネス半島の雄、強大な軍事国家スパルタに対して、
 
>>戦争陣形としては最もマズイ2正面戦を強いられている。
 
その3  
ペルシャ帝国は対ペルシャ戦争によって粉砕されたわけでなく、依然として物質力のある帝国。
 
ギリシャ最有力都市国家間の内戦に第三局として介入できる立場にあり、事実、物的援助によって、巧妙に覇権維持を画策した。
 
結果的に北のマケドニアのフィリッポス(アレクサンドロスの父)がペロポネス戦争終結後のテーバイを含むボイオティアの紛争に軍隊を派遣して直接介入し、ギリシャ政治と軍事のヘゲモニーを握っていく。
 
その4
ギリシャ本土の戦いの本格的勝利はアテナイのような突出した海軍力ではなく、陸軍による制圧戦によって決着をつけなければならないものである。
 
無敵の重装歩兵集団を有するスパルタの基本戦略はアテナイ農業地帯アッティカへの侵入、略奪よって、
アテナイ軍をおびき寄せて、正面激突戦に持ち込み、アテナイ陸軍を一気に壊滅の追い込むことである。
 
>コレに対して、アテナイ史上、最高の政治軍事指導者であるペリクレスの選択した戦略は農村地帯のアッティカ市民(市民の数から言えば、半数以上)のアテナイ城塞内への退避=籠城作戦と
長い城壁の通路によって連結された港町からの制海活動<同盟に所属する諸島と小アジア沿岸都市への覇権維持)や
 
ペロポネス同盟地域、特に内部に社会構造問題を抱えるスパルタに対するヒットエンドラン的出撃、及び海外からの食糧輸送ルート確保であった。
 
>確かに、このような持久戦はそのまま有効に機能する根拠はあったが、それは対スパルタに関してであって、古代ギリシャで一貫して経済力発揮してきた交易都市コリントや農業国家、テーバイを含む対アテナイ連合戦線にとって最後まで効力を発揮できたのかどうか、大いに疑問である。
 
>2正面戦は戦略的に苦しい。
 
>結果的にまず第一の災厄は前420年の城塞内の疫病の蔓延によって、市民の4分の1の死亡。指導者ペリクレス自身も死去している。
 
>第二は戦争末期にはスパルタ連合はペルシャの財政援助などもあって、海軍力を強化するようになり、海上アテナイの圧倒的優位の形勢は怪しくなっていた。
 
>>こういうペロポネス内戦の趨勢の只中で、起死回生作戦のような軍事的冒険とも言えるシチリア大遠征の提案に対する民会の賛成と遠征軍の壊滅は発生した。
 
ソクラテスはこの状況を生身で体験した当事者である。
さらにはそれ以前に重装歩兵として対テーベ軍を中核とするボイオチィア軍との戦いに従軍して勇敢に戦って敗北した経験がある。
 
>そのようなソクラテスが知識人として、アテナイ政体に一貫して批判的観点をもち、問題意識を深めるのは当然のことである。
ただ、前回の記事にも書いたことだが、この時代は言葉と行動の主導する時代であり、共同体意識を規範とする対面社会の直接民主政治によって政策決定がなされており、それはソロン(前639年~前559年)の改革~クレイスティネスの改革(前508年)を継承してアテナイ市民が具体的政治闘争の積み重ねの経験経て獲得したものであって、多数派の市民の生活の充実もアテナイ帝国主義とそうした民主政体の発展と共に獲得されたものである。
 
 さらにその長期期間において、ほぼ3年に1回程度の対外戦争を繰り広げながら、域内では内乱的政治衝突はなかった。
それは典型的な場内平和の環境だった。
 
 文字を残さなかったソクラテスー弟子のプラトンーその弟子のアリストテレスアテナイ民主政体の反対者であり、政体論としては民衆の政治参加は衆愚政治に陥るとしてエリート政治の称揚者である。
 
 また現代のアテナイ民主政体の総括は彼らの論拠によるところが大きいが、果たしてそれでいいのかどうか?
 
 フィンリーは「民主主義ー古代と現代ー」の中で指導者のシュンペーターなどの「民主主義のエリート理論に対して自身の専門分野である古代ギリシャ史=アテナイ民主政の俗論を超えるリアルな提示を持って、論争を挑んでいる。現代の民主主義状況において、支配層の政治はシュンペーターの民主主義のエリート理論の遥か上を行く民主主義の寡頭制への転換が進行している。
こういうこともあって、ソクラテスプラトンアリストテレスの古代アテナイ民主政=衆愚論には
ハイ、そですか、と鵜呑みにはできない。それは民主主義のエリート理論とそれ継承する現代寡頭制民主主義の古典的出発点である。
 
>フィンリーの毒舌とうか逆説の提示は次の通り。
「西欧に限ったわけでないが、彼らに相当する(民主主義のエリート理論と追随者)おそらく圧倒的多数の人々は民主主義が最良の統治形態であり、最もよく知られ考えられた裁量の形態であることは認めている。
 
それでいてしかし、
 
彼らの多くは民主主義を伝統的に正当化してきた諸原理が実際に機能していないということ、
さらには機能することは許されないということを認めている
皮肉なことに、民主主義のエリート理論がとりわけ強力に主張されているのは、近代の、経験的に最も成功した二つの民主主義国、イギリスとアメリカにおいてである。
どのようにして、このような奇妙で、パラドシカルな状況にわれわれは到達してしまったのあろうか」
 
>>最後になるが「世界史の研究」の世界の言語学的分類から類推すると、
インドヨーロッパ語族の古代ギリシャ人はアルファベットを自らの語族と別種のセム族ハム族語族に属するセム系のフェニキア語から転用したことになる。
前1200年の東地中海規模のカタストロフィー、続く半島へのドーリア人の南下はシュンペーターではないが、イノベーション、創造的破壊だった。
シャムー。
「ドリス人たちはギリシャ世界の大部分に広がっていったのであるが、彼らが見出したのは、~滅び行く社会の瀕死の文明でしかなかった。(シャムー「ミュケナイ文明の遺跡調査では過去との全面的な断絶や大規模で激しい破壊の痕跡は丹念に調べるとほとんど出ていない」)
確かに彼らの到来はギリシャの全般的貧困化を加速した。
それが、より豊かなアナトリア海岸の土地に向かって移動を引き起こし、ギリシャ文明は輝きを取り戻す??こことなる。
しかし、外部世界との交易が復活し、?オリエントとの接触によって、本来のギリシャ(W。そんなものあったっけ?)が豊かになり、少ずつ息を吹き返す?のは前9世紀以降のことである」
 

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