反俗日記

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<第1回>司馬遼太郎全集46巻、項羽と劉邦二部(あとがき)~W。司馬史観による古代中国史原論と日本古代との関連を簡潔に全面展開←全集月報、原型について。司馬遼太郎。

   司馬遼太郎全集46巻(昭和59年第1刷発行~文芸春秋社~)月報。
原形について     司馬遼太郎
W。注釈。「項羽と劉邦」は古代中国史のハイライトともいうべき、秦の始皇帝~最初の皇帝という意味で始皇帝~が諸国視察の途上で突如死亡して、側近の宦官 - Wikipediaかんがん)が権力を掌握し、有能な長男を自刃に追い込み排除し、意のままに操れる二男を皇帝に付けて以降、法家 - Wikipediaによる中国古代史初の専制国家体制が一挙に瓦解し、全土的内乱の渦中から、
 
揚子江付近の楚の支配層を受け継ぐ項羽とそれよりもやや北側の地域で、庶民のインフォーマルな親分的存在であった劉邦の両巨頭の長期戦になり、
 
>ソコに様々なタイプの己を頼む戦略、策謀の<人士>が加担して、←司馬遼太郎は古代中国の近代に通じる個性ある人士も重要なポイントにしている≒司馬史観
 
>古代中国の展開する壮大な戦乱絵巻を、司馬史観を縦横に駆使しながら人間臭い物語とした1部2部、合計500ページにも及ぶ長編小説である。
 
人民史観とでもいうべきモノを基準として歴史をみつめるWがこの本を選んだのは司馬遼太郎が古代中国史をどのように小説にしているのか知りたかったからで、もともと項羽と劉邦の英雄激突物語風の小説は期待していなかった。←司馬は古代中国の英雄出現の歴史的条件を解り易く簡潔にまとめ、日本史と比較している。=司馬史観漢民族形成の歴史のくだりは中国歴史学者の通説と同じ史実を忠実に抽象化した概論である。

読み終えての感想。
 
司馬遼太郎国史の勘所を押さえて、読者をディテールでぐいぐい引っ張っていく小説にしている。
国史を理解するためにどうしても押さえておかなければならないエッセンスは外していない。
 
司馬遼太郎はソレ等の資料に全部当たって自分のモノとして理解しているいることが「項羽と劉邦」を読めばわかる。
 
*しかもディテールを組み合わせて読んで面白い小説にしながら、同時に読者に中国史理解のエッセンスを盛り込んでいる。
国史に興味を抱くものにとって、「項羽と劉邦」は一粒で二度おいしい小説である。
*天才である。

が、天才であるには、それなりの理由がある
秘密の一端が「全集月報46 原形について」P361下段、中程以降にある
引用
「私は少年のころからアジアが好きであった。
そのこと不貞にも、心のどこかに明治憲法風な*近代*思想と宮崎滔天 - Wikipediaふうな田舎民権主義をアジアの他の国に輸出したいと云う子供じみた(現に子供だったが)妄想があったが、しかし兵隊にとられて「満州」にいたころ、中国の農民を多く見て、日本と中国と、
>原形や発想が違えばこそ、互いに素晴らしいのだ、と想うようになった。」
「「長安から北京へ」(46巻P143~P305)は、面映ゆさを押していえば、自分が感じ続けてきた中国の原形というものを他の人に知ってもらう事が、中国的現象をみる場合、大本を見誤ることがやや少なくなるだろうと思って書いた。」
「原形を取りだそうとする場合、基本的に愛情がなければならないが、悪意や好意などという、瑣末な感情が入りようもないのである」
******
 
W。学徒出陣で満州北部駐屯の戦車隊の小隊長(少尉)に赴任した青年福田定一アジア指向の人物だった
ココに戦後生まれの欧米志向の世代と大きな隔たりがある。司馬遼太郎には中国理解のための少年時代の指向性と現地実体験のアドバンテージがあった。
Wは毛沢東思想に興味があったが(毛沢東思想は幼稚だと思ったが、軍事的な実践性はすごいと感心したが)、中国史マルクスのアジア的停滞論の視点で切り捨てていた。
このころの限界は日本史を理解する上で、自分のものにしていた人民史観~コレだけでは近世~近代以降の日本史理解は無理!~を中国史に適応できなかったことである。
>中国史を貫く専制国家体制の底流にある漢民族成立と中国人民の形成の歴史まで到底考えることができなかった。
 
~~
 
W。現地派兵の実体験を経て不逞な子供じみた妄想がお互いの原形や発想が違う、からこそ素晴らしい、という認識に到達した。コレは司馬の敗戦後の思想的総括でなかったか?
 
W。①司馬の訪中は4人組台頭の1970年代半ば頃、
月報46執筆時点は4人組が逮捕され裁判にかけられ、文革時代に追放されていた幹部たちが復権していたころで、
歴史家や小説家にありがちな、歴史の事実が判明した後に、ソレを解釈している側面があり、「反俗日記」の手法である過去を知って現状を分析し将来予測をする<競馬予想>に習った現状への参画と将来への投機スタイルとは違う。)
W。方法論重視のWとして納得する基本視座。
この基本視座によって、古代中国史と付随する古代日本史を簡潔に展開した「項羽と劉邦」のあとがきの歴史観は腑に落ちるものである。だから、「反俗日記」で筆写しようとするのだ。←筆写は後半。

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W。ここでは文革毛沢東皇帝、4人組宦官論が展開されている
 
新中国の要人だった廖承志(りょうしょうし(1908年~1983年)にあったときのことをいま思い出している。
廖承志さんは東京小石川のうまれで、生粋の江戸っ子の風韻を持ちつつ、一方で中国革命の申し子というべき人(父はテロで倒れ、母も闘士だった)でもあった。
が、一瞬もそういう険しい前半生をヒトに印象させることがなく、北京政府の同僚たちから、このヒトだけは旧中国の大人に対する尊称である「公」と呼ばれていた。
~~
毛沢東は革命後、多分に象徴的な位置に祭り上げられた。
しかし、その後、軍隊を工作し、少年(紅衛兵)を扇動すると云う異常な手段で奪権運動をはかる。
プロレタリア文化大革命といわれた狂気の時代であった。その中心的存在は毛沢東夫人江青だった
その彼女を、それまで無名だった『上海組』がとりまき、
>古来の宮廷政治を再興し、全中国に皇帝への忠誠運動とソレについての宗教的歓気、同時に政治的パニックを引き起こした。
>こんにち、中国では、この「文革の時代」を「動乱の10年」(1966年~76年←W華国鋒主席が4人組逮捕)
と呼んでおり、
>功罪の判定は後世に譲るとして、ヒトによっては中国建設が百年遅れたと嘆く」←W。文革は現中国共産党によって否定されているが、
 
さんは、ユーモアを交えて、当時の混乱と政治的惨状をを江戸弁で話してくれた。
後悔の場でないだけに、暗黙のうちにオフレコードの気分があったが、さんも鬼籍に入られたし、歳月も経っているから、記憶している一部をココに書いておきたい。
さんはのっけに、
『部屋に朱徳 - Wikipediaが大変だと云って飛び込んできたんですよ』といった。
異常な季節がそこから始まった。
~~
『皇帝(毛沢東)が、宦官(かんがん)を引きいれたよ』と朱徳 が云ったと云う。
『動乱の10年』について多くの本があるが、事態の原因についてこれほど本質的に云い表した言葉を私は読みも聞きもしていない。
~~
宦官と云うのは、云うまでもなく去勢をして皇帝の家庭に仕える者のことである。あるいはされてW、司馬遼太郎ペンネームの由来は漢の皇帝の怒りをかって去勢される辱めを受けても歴史記録官吏の道を歩み、「史記」を完成させた宦官司馬遷 - Wikipediaに遥かに及ばないの意味。福田定一はそこに己を空しくしても文芸者の自立した業の究極をみた)
皇帝の家庭に仕える者のことである。
 
彼らは皇帝の身辺の世話をするだけでなく、后妃いかの宮廷女性の面倒をみる。
皇帝や皇太子の生母と密着しているために、自然、病的な権力を得、しばしば府中(政府)を打倒した←W。秦の宦官のケースだけで司馬は宦官の影響力を強調するために大袈裟に云っている。
清朝の終末まで、古代以来、中国政治史は、宦官の害毒史であったともいえる。
 
確かに『4人組』の3人は元々無名に過ぎなかった。
宮廷の江清夫人とその背後の毛沢東に密着することの実で権力得たことも、また府中を圧倒した事も歴史上の宦官と同じである。
確かに『4人組』の3人は元々無名に過ぎなかった。
宮廷の江清夫人とその背後の毛沢東に密着することの実で権力得たことも、また府中を圧倒した事も歴史上の宦官と同じである。
~~
わたしどもを最高幹部の一代表として人民大会堂の広間で接見した<とうぶんげん>氏は、色白で、豊かな頬と額がつややかだった。
しかし実務家の風雪にに鍛えれれてきた相貌ではなく、水のように光る眼は、議論の強者を想わせるだけだった。
3年前の72年の新聞では『とうぶんげん氏が毛沢東の後継者可」と報ぜられたこともあり、私はいあいながら、目の前の人物は現実感が薄く、今我々は劇場に入るのだとしきりに思おうとした。

   
W。<第一次、第二次天安門事件
ゴルバチョフ情報公開路線、及び経済発展政策のとん挫から共産党解体、経済マフィアの台頭→経済ぜい弱化へ!の現時点の歴史総括>
 
>またこの時期はベトナム戦争中であり、コレへの反対が世界中で広がっていたことも忘れてはならない。
文革は権力を独占する政党に発生した急進主義政治の問題でもある。
急進主義政治は時として歴史と大きく展開させてきた
歴史環境の違いは大きいが、。。ヨーロッパ政治、米国政治の源流も急進主義政治でなかったか!急進主義が資本制の必要構造物を生み出した。
          ↓
歴史はらせん状に進展すると云う観点に立ち、
>ロシアと中国の資本主義化の道程を見据えると、
文革時代の党内外の大衆的動乱の権力闘争、とイデオロギー論争の道程こそが
改革開放初期の政治動揺過渡期に中国共産党が権力機構を手放さなかった事に繋がり、
経済構造の資本制化を軌道に乗せた最大の要因となった。
          ↓
一端、経済下部構造の「資本主義化」を目指せば、政治権力の独占が政治の「安定」の要になり、急速経済発展に導く基盤になったと今になって云える。
          ↓
国史の将来的なことは別の課題として、
国史全般を見渡すと歴史的過渡期の経済発展に、政治の独占は必要な要素であったと理解できる
歴史的に形成されてきた欧米流の民主主義は混乱期を引き延ばすものであり、ある時点で決定的処断は不可欠であった。
 
欧米と別コースの文明発展を遂げながら同次元の必要物を生み出してきた国史の停滞は、
政治の独占があったからではなく、
むしろ政治の独占が足りなく卑近な宗教的統治思想を補完された漢民族の中途半端に分立する専制治が災いし、社会の二層分裂化を招き、
全土動乱から遅きに失した専制政治への転回の失敗が、北方騎馬民族に全土を蹂躙され、近代への扉を閉ざしたためためである。
 
日本の近代現代史の紆余曲折も日本と日本歴史及び日本国民の政治性文化性と欧米流民主政治のハッキリとした違いを示している。
従ってこの歴史的文化的民族的本質から、
米軍による日本軍事力の一掃によってもたらされた市民革命なき民主政治
日本資本主義蓄積過程の相対化を基底に形がい化する政治のファッショ化は必要でない。資本労働環境のファッショ化で良い)
一方で風俗の民主化はグローバル資本制に適応していく
 
政治権力は自民党諸派を巻き込んで、今後とも一貫して担当していく事は避けられないのだから(別コースがあるとすれば、同類政治のもっと過激方向になる)、日本政治の世界的位置関係は、中国的独裁政治と米国的政治、ヨーロッパ中央部的政治の中間項であり続ける。
**********
 
←W?この原形化は粗雑過ぎる。
>当時の世界情勢は文革の急進主義を後押しした。
ベトナムが中国と陸続きである地政学的意味も大きかった。
>日本「民主」政治の戦後的展開点が1949年勃発した朝鮮戦争である、と同じ政治的位相
>主語がGHQから、中国共産党に替わっただけではないのか?
 
中国共産党と人民軍は朝鮮戦争に参戦し米軍と戦った党と軍隊であり、
それ以前の10年前まで国内戦争を戦い勝ち抜いたベクトルは、
1930年代以降のロシア共産党的党官僚への独裁者による司法行政的抹殺の在り方を許さなかった。
 
スターリンは党官僚を人民裁判にかけ殺したが、
毛沢東中国共産党の一部は人民を巻き込んだ大衆暴力闘争で党官僚組織を排除しようとした
 
その手法は大衆の自然発生性に依拠していたがために自然的に終息する宿命にあった。一端排除された党支配機構の復権スターリン的な司法行政的殺人による大量抹殺がない限り、不可避だった。
文革を発動した毛沢東自らが終息に向かった政治力学の真相はココにある。
毛沢東神話を煽った林彪が逃亡せざる得なかった政治力学の背景はココにある
*百花斉放をやらせておいて行き過ぎを無慈悲に締めあげる手法が大規模化され繰り返された。
 
ロシアソ連は既存の官僚組織の司法行政的措置により、他方中国の党は暴力大衆運動と論争によった
 
後者は既存の生産機構、権力機構をまひ状態に陥れたが、混乱期を潜り抜けた党の独裁政治の有効性を学ばせた。
復権した主導的政治家どもは民主制度を中国で実現しようとはしておらず、党の独裁を政治支配のキーと改めて見直した。
 
 
 
欧米流民主政治の本質も暴力装置に支持された議会代理選挙制を通じた政治権力の独裁的運用である
各々の特定の条件においてタイプ別の運用方法が柔軟に駆使され、そこに違いがあるだけだ。
 
資本制の運動形態の特徴は屈伸性にあり、ソレに即応した民主主義制度も緩和されたり強制力を強めたりできる構造を持っている。
意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する。その逆はない!
 
********
W。司馬遼太郎がこの言説を書いているのが、昭和59年頃(1984年ごろ)である。
当の人物に接見したのが、1975年ごろである。
 
接見した時点で「「私はあいながら、目の前の人物は現実感が薄く、今我々は劇場にいるのだ」としきりに思おうとした』とは常識人の感覚であって、特別な先見性があったわけではない、とみる。
 
劇場型政治超大規模、暴力的政治を発動した主人公たちを日本の常識人作家が人民大会堂で接見を受けた『今我々は劇場にいるのだ』と書いた。司馬は、この用語を1984年ごろに使用できたのは文革を覚めた目で観察する術をもっていたからだ。ソレが中国史を原形化してつかみ取ることだったのか?
自分はそういう視点を徹底しない。
        ↓
司馬遼太郎の持ち味は一つ一つのディテールのりアリステックな組み立て方と
歴史的経過を柔軟に一体的に記述できる才を天から授けられているところである。
        ↓
この才はもっぱら過去の天才的解釈の物語にしか使用できないもので、今の我々がソレを鵜呑みにすると自己と他者の断定に陥る危険性がある
        ↓
司馬遼太郎史観の方法論は過去の解釈においてのみ有効性を発揮するものであり、現状の分析と将来予測に無媒介に運用すると決定論から宿命論に陥るのではないか。決定論や宿命論の視点に立てば歴史理解は楽になるが、19世紀20世紀21世紀の200年間で時代は急速に流れてきた。司馬は今の中国をみないで死んだ。今の中国を決定論や宿命論で片づけられるはずがない。
 
彼の歴史観は原理論はすっきりまとまっている。Wの支持するのはココだ。「項羽と劉邦」は圧倒的な智識がないとかけない。
しかし段階論になると怪しくなり、(史実として眉唾が多い)
現状の分析では得意技が発揮し小説にすることはできない。(「坂の上の雲」以来の日本史を題材にした歴史小説が書けない。なぜだろうか?
 
小林秀雄はいった。『歴史は遠くのものはよくわかるが近づくにつれて解らなくなる。』
 
司馬遼太郎は歴史的文献を平易に要約して読み込む稀に見る才を天から授かっている。
>しかもその理論を学者のように深入りする手前で寸止め、を意識的にできる。
 
「街道を行く」をかなり読んだが、意識的にソコで書かれている議論が深入りしないように努めており、自分などは物足りなさを感じる。あ~そうなのかで終わってしまい新しい発見は見いだせない。つまり雑学なのだ。
しかし雑学でとどまるのならば、解説者付きの映像番組で見た方が良くわかる気がする
 
ときおり難しいことに深入りすることがあるが、ちっとも知的興味を満足させられるものではなく、難しいことの核心をつかず周辺を堂々めぐりしてまだるっこしい
>ソレを読むと彼に学者的領域の才はない、とみる。
 
項羽と劉邦」のあとがきに展開されている司馬史観に同調するのは自分の歴史の味方と余り差異がないからだ。
>もっとも俯瞰的歴史観という方法を採用すると同じ見方になるのは止む負えない。
司馬史観が受容される鍵はココにもある。
 
彼は歴史的事実の取り方は司馬流儀だが、歴史の前に謙虚である
ココが司馬遼太郎が「坂の上の雲」以降の歴史小説を書けない理由でもある
それ以降の日本の歴史は小説家司馬遼太郎にロマンを喚起させるものではなかった
司馬遼太郎は昭和史を身体を張って生きてきたが、そこに小説家的イマジネーションを掻き立てるロマンはなかった。