反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

司馬遼太郎記念館の2万冊蔵書展示は、同じタイトルの古本を展示したモノとは驚いた。収集した古本の元所有者(複数の場合もある!)の痕跡がキッチリと残っている、司馬遼記念館に場違いなパラドックス。

 かなり前から司馬遼太郎記念館に一度はいってみたいな、とおもいながら、そのままになっている。機会は何度もあった。生駒山に山歩きに行ったとき記念館に立ち寄るスケジュールを組みあわると簡単にできることなのだが、毎度のこと、ソレができなかった。山歩きの帰りの車窓からから、あ~あ、今回も記念館に立ち寄ることができなかった、と記念館の方角を見やったことが何度もある。山歩きは時間がかかる。山道を歩きながら周囲を見渡して想いにをめぐらせたり、思わず立ち止まってしまうことが多すぎる。
大好きな雑木林が多い。思わず立ち止まってしまうことが多すぎる。(木々の種類を確認する癖がいつの間にやらついている)、ヒトの営みが山系至る所に散在し、人間活動の過去、現状と自然が無造作に調和している日本では稀有な山々である。帰路は疲れいる。記念館に先回りすればよいのだが、なぜか時間が押してソレができなかった。
 
しかし、司馬遼太郎記念館を訪れたとしても、みたいモノはたった一つしかない。
高い壁の本棚ケースに展示されている膨大な蔵書を確認するだけで良かった。 
気になった本のタイトルをメモすることを考えていた。 
最も一番知りたかったのは、司馬の収集し創作に利用した資料である。
他の展示物には100%関心がない。
自分は司馬遼太郎歴史小説の天才だと認めるが、司馬に対してそれ以上の想いはない。
ましてや<この国のかたち>などどうでも良い。
 
そもそも、司馬遼太郎の生前、自宅の様子は偶々前の道を通った時に見て、エッーなんなんだコレはと思ったことがあった。(こんなところに住んでいるとはちっとも知らなかった)コレでは古い西部劇に出てくる騎兵隊の砦みたいじゃないか。(周囲はこの地方にしては、閑静な住宅街である。住民は中流的小市民層である。)
 
庭の周囲の一般民家としては高い塀の上に無数のかなり大きな槍状の突起物を設えている。さすが忍び返しの様なものはなかったが、司馬遼太郎砦のごとくみえた。
よくもこんなケバイ屋敷に平常心ですむことができるなという思いもした。住居に関してセンスのヒトかけらも感じなかった。じぶんならここまでして住みたくない。セキュリティーの確かな他所に移る。
 
ちなみにすぐ隣のソコソコ広い敷地を余して、こじんまりと朝日新聞東大阪支局の小さな建物がたっていたのが妙に印象的だった。
司馬遼太郎記念館は多分、かつての朝日新聞東大阪支局の敷地に立てられたものだろう。錢高組という関西系ゼネコン(大型土木工事の得意な中堅会社)施工。設計は安藤忠雄
 
大阪近郊、河内の中流小市民の街中に当代屈指の流行作家が居を構えると、こう云う防御策をしつらえなければならんのか、と少しは同情したが、思い返せば、阪神間にはセキュリティーのハッキリした住宅街は少しはある。
 
またまた、そもそもなのだが、司馬遼太郎の大阪の生家付近は、大袈裟な防御で威嚇することが当たり前のところだったように思う。
 
ということで、司馬が一戸の家を構えると、当たり前の感覚で、ケバイ防御になる上に
文化的環境と程遠い当地では流行作家は奇異な存在。何かと無言の圧力と云おうか熱視線に取り囲まれ暮らしていたのだろう。やはり同情しなければならない。

さて、今日はまたしても、司馬遼太郎記念館にでも行ってみるか、という想い去来した。
暇つぶしのようにネットの関連記事を検索すると
びっくりするようなことが文中に指摘されているブログ記事に行き当たった。
行間からなんとも言えない良い雰囲気が漂う。
直近の記事も読了したが、想いは同じである。しかし、ハードボイルで粗暴、無教養なWより遥かに上手の方である、と納得した。
 
司馬遼太郎記念館訪問記の肝心なところを引用する。
風聞異説
コラム/筆者:松岡周平 S31年生まれ、高知市在住。出版系企画・編集会社代表。文筆家、ジャーナリスト。
W。前ぶり部分は土地に余裕のある地方から大阪に来たヒトが誰もが想う感覚がつづられている。建設会社や不動産屋がセコイ儲けをたくらみ、行政に都市計画がないから(東大阪市はまともな街中の道路がない、農道を道路に転化)、マッチ箱住宅地が田畑を無秩序に侵食した。司馬遼の町は遼にマシな一帯であり、この地方では高級住宅地?の感がある。司馬遼太郎の住んでいた町はこの程度でも、閑静な住宅街なのである。
区画整理が当地方に珍しくソレなりにとできているので近鉄がその昔、中流市民向きに開発した住宅地ではないだろうか。無秩序部分は便乗してその周辺に自宅を建てた人たち~
 
中段の部分も司馬遼のリアルな背景説明で想像できると想う。本人は言葉で批判しているほど気にならなかった。
 
引用 W。下線部分だけでも良かったが、念のために。
 
「例の、写真でよくみる、本を壁一面にならべたコーナーへ行ってみた。なるほど巨きな書架だ。高さは11メートルあるという。圧倒的な本の数。それにしても、これでは本を手にとって見る方法がない。場所が高すぎるのだ。はて―。そばにいたボランティアの説明係のひとに、どうやって本を手に取ることができるのですか?と訊いてみた。すると、意外な答えがかえってきた。
 
 
これら2万冊もの本は、司馬の6万冊におよぶ蔵書の一部とまったく同じ本を新たに購入し、並べたというのだ。つまり、これらの本は単なる飾りで、司馬の蔵書そのものでもなく、手にしたり読んだりするものでもないのだという。これにはあきれた。いったいこんな本の扱い方があるだろうか。苦労して、お金をかけて同じ本をもういちど買い集めてたんなる飾りとして並べた。ばかげているにも、ほどがある。
 もちろんこれは建築家・安藤忠雄のアイデアだろうが、安藤というひとは、本というものの存在意味と価値がまったくわかっていないようだ。これが、司馬遼太郎という無類の本好きにして、膨大な作品を書いた作家の記念館なのである。
 こんな想像をしてみた。
 司馬遼太郎という国民的作家は、遺した作品も膨大だが、6万冊ともいわれる蔵書は、個人のそれとしては類をみない量だ。圧倒的だ。となれば、司馬遼太郎記念館を設計するにあたってのキーワードは、「本」であろう。では、どうすれば建築で「本」を表現できるか。そう、日本を代表する建築家の安藤忠雄は考えた。おそらくみどり夫人は、夫が死んだときのまま家を遺したいとおもった。もちろん書斎も、そして玄関といわず廊下といわずびっしりと並んだ蔵書もすべてそのままにしておきたいと望んだのではないか。ではどうするか。そうだ、司馬の蔵書と同じ本をできるだけ買いあつめて、レプリカとして巨大な棚に並べてはどうか。さぞや壮観だろう!
 しかし、わからないのは、あのような記念館を、夫人がほんとうに望んだかどうかである。夫の司馬遼太郎ほど本を愛した人はいないはずなのに、手にとってみることができないような本を、それも夫の蔵書ではなく、そっくり同じものを新たに買いあつめて並べた巨きな棚をたんなる飾りとして設える。かなうものなら、司馬遼太郎自身に司馬遼太郎記念館のアイデアをみせて、その感想を訊いてみたかった。安藤さん、このおおきな本棚はいけません、そんなに無理しなくてもいい。ちょっとシニカルな笑顔で、そうつぶやきそうな気がする
 わたしはコンクリートの記念館を出て、雑木林をあるいてもういちどふるい木造の旧司馬邸の書斎の前にたたずんだ。灯りの点いた、だれもいない部屋がみえるだけだ。だがここだけは、何度でもみたいとおもった。」
 
W。手に取ってみたいとは思わない。ソレはこうした展示館にはできない相談である。
が、どんな本を読んでいたか知りたい。
この記事を読むと、ソレにも余りにも大きな限界があると解った。
 
6万冊の蔵書の中から誰がどういう基準で2万冊を選りぬいたのか?非展示の蔵書4万冊の目録は公開されているのか?
 
2万冊もの本は、司馬の6万冊におよぶ蔵書の一部とまったく同じ本を新たに購入し、並べた」
 
W。本物を展示するのがこういった展示の常識である。 需要の多い同じ本を何冊もそろえるのは、図書館の感覚でもあるが、コレは広く読者にいきわたるためである。
 
安藤というヒトは本物の司馬遼2万冊蔵書の文化的意味、価値が解っていない(古書としての価値など司馬遼記念館を訪れる人々はどれほど気にするだろうか。関心を示さないのではないか)
司馬遼が読み込んだ形跡にも価値がある。
もっとも、読んで頭に入れるスピードが人並み外れて速いので、本の表紙には大した傷はないだろうが、
 
同じ本を買い集めたと云う事は、収集した古本の元所有者(複数の場合もある!)の痕跡がキッチリと残っている、司馬遼記念館に場違いなパラドックスが生まれているのだ!
>安藤が本について真に解っていない子はココである。
 
できるなら膨大極まる資料を確認したいが、この状態ではもっと叶わぬことである。
 
ま、生前の司馬遼の館のケバイ感覚に通じるモノを認める。