反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

中空に漂う<糸の切れた風船>、或は<電荷を持たない自由電子>が日本中に何十万、何百万、何千万と浮かぶ。それはほんの少しの風や磁力でサァーと動いてしまう。戦うナショナリズムでけん引する政治の台頭。

 タイトルは加藤紘一「テロルの真犯人」の一節を編集して借用。
昨日の記事のキーポイントは最後のカールシュミット、丸山真男を云引用し箇所。小沢氏の政治経歴の尋常でない出入りの激しさの原因を突き止めたかったが、踏み込んで論じる必要があった。
 
 泥をかぶろうとしないとか、我慢が効かない、とかの批判では、私の意図する<先延ばしにしない政治、決める(決断)政治への批判>に援用できない。
 
 小沢氏の出入りの激しさに、先延ばしにしない政治、決断の政治の典型的病理を見る。
実際に小沢氏は自分の原点を明らかにした「日本改造計画」の冒頭において、日本を普通の国する変革の要の真っ先に、「政治のリーダーシップの確立」を挙げている。続けて「政策決定の過程を明らかにして、<<誰が責任を持ち>>、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に明らかにする必要がある」と。
 
 民主党のマニュフェストの言葉で云えば、政治主導と云う事になる。
 
 そして民主党新政権誕生3年余、民主分裂の今となって、私が問いたいのは日本の支配機構における政治のリーダーシップの、政治主導の、実際の在り方であり、その中身なのである。
 
 官僚機構の壁は厚かった、だとか、もっと他にやり方がある(凶暴な市場原理主義を目暗ましの、第三極を自称する自民別働隊)、とか、果ては小沢さんに政治弾圧があって動けなかった、民主内に裏切りモノがいた、(植草一秀のこういう論点こそが典型的な裏切り史観であり、インテリが陥り易い安易な政治観)とかは本質ではないと考える。
 
 現状の日本的社会経済状況下では<政治主導や決断の政治論理>の現実政治への適応が、どうも混迷する政治過程の底に横たわっている様に見える。
そして、<日本的条件の下では大きな間違いである><政治主導や決断の政治>への希求が政局が政局を呼ぶ政治過程を呼んでいる大きな原因ではないか、とみる。
 
 先延ばしにしない政治、決断の政治を政治思想として体系づけたのは、ナチス政権奪取前のワイマール共和国の混迷する政治状況下のカールシュミットである。シュミット以前もドイツでは国家主義の理論化が盛んだった。マックスウェーバーの政治論も日本ではその方面が強調されていないが、国家主義である。シュミットの政治思想は今でも政治学の基礎となっている。
 
 シュミットの<決断の政治のできる政治的統一体>への希求の根底にあったのは、ワイマール共和国の混迷利害対立状況が民主主義の前提である国民の同質性さえも喪失させていると云う現状認識である。
同質性が喪失した状況の民主主義は利害対立の混乱と混迷の更なる条件となるだけだ、と云う認識である。
そして、彼は脱出口を決断できる政治的統一体に求めた。それが現実政治ではナチスの政権獲得に結びついた。
 
 >ところが今の日本国内を見渡して、民主主義の前提条件となる国民間の同質性は失われているだろうか。
確かに格差問題など国民意識の分裂の要素はあるが、シュミットの危惧した「内乱」につながる要素があるだろうか。
 が、今の日本では、むしろ国民間に同質性があり過ぎて、「横断歩道みんなで渡れば、怖くない」的な付和雷同の政治風潮が蔓延している。領土問題などに政治と軍事のリアルな現状の限界を弁えぬ言説が国民の底に浸透しているとみる。
コレはたまたたま、そうなっているのではなく、この同質性は日本固有の歴史的条件によって、良くも悪くも育まれてきた。(その自分なりの説明は過去にくどくどとやってきたので省略)
 
 >小沢一郎日本改造計画」の冒頭でも外部との交渉を歴史的に持たなかったが故の日本的同質社会の根強さを日本人の自立性の不足と云う否定的な意味でクドクドと取り上げている。
 
 冒頭のタイトルの問題意識と関連する大切な論点なので詳しく引用する。
 
 自己責任や自由競争に基づく小沢氏の云う欧米型民主主義が日本に今になっても根付いていない原因は
まず第一に多数決原理ではなく全会一致を尊ぶ日本社会の特質があり、それは又、決められない政治の原因であるとしたうえで、
 
 「こういう社会ではあくまでも自分の意見を主張するとどうなるか。事が決められず、社会は混乱してしまう。
社会の混乱を防ぐためには、個人の意見は差し控え、全体の空気に同調しなければならない。同調しないモノは村八分として押さえこまれる。その代わり個人の生活や安全は村全体が保障する。
社会は個人を規制し、規制に従う個人は生活と安全が保障される」
 
 「個人は集団への自己埋没の代償として、生活と安全が集団から保証される。それが云わば日本型民主主義の社会なのである。自己責任の考え方は成立する余地がなかった」
 
 明治維新で門戸を開いて欧米型民主主義の理念を始めて導入したが、
「大正から昭和に入るや、政党政治の終焉と軍部の台頭と云う流れの中で、日本は再び同質社会特有の独善的な発想に陥った。」
「この傾向は敗戦後も、冷戦構造下でも温存され、今日に至った」
 
>しかし、「今や時代は変わった。日本型民主主義では内外の変化に対応できなくなった。今更鎖国できない以上、政治経済社会の在り方た国民意識を変革し、世界に通用するモノにしなければならない。」
 
>「日本改造計画」の小沢氏の日本型民主主義に絡め取られている国民と云う現状認識と
多数決原理の尊重、政治のリーダーシップの政治の間には大きな溝がある。
 
>仮に「 」内の小沢氏の云う現実に国民意識があるとすれば、国民はまるで非主体的な存在なのだから、多数決原理の尊重に基ずく、政治権力者の強引な主導による政治を行ってはいけないのじゃないか。
政治権力の頂点に立つモノにみんなが簡単に靡く可能性がある。
 
>その場合、頂点に立つ政治権力者が誤って、国民を政治主導しないという保証はどこにあるのか。
そうならない担保はどこにあるのか?と云うことだ。
 
 小沢さんの場合、担保は
基本的に次の三つしかない。
1、二大政党制による小選挙区による政権交代
地方自治体への権限委譲による中央政府の国家的課題への集中=それによって中央権力は限定されるらしい。
3国民の自己責任の自覚。意識変革。自立。(まるで抽象的)。地方分権すると自動的に個人の自立性も生じる様な安易な発想。
 
今の橋下、石原、安部などの政治手法、実際の組織実態を見ると、「日本改造計画」の小沢構想は、こうした輩に先鞭をつけたモノと云うしかない。
 
>>小沢氏の「改造計画」は日本人固有の集団性とそれへの埋没のもたらす悪弊を云うが、今や多くの国民の置かれた事態は<埋没すべき集団(家庭、地域、会社)さえ希薄になっている現状>で、加藤紘一さんの次の様に指摘する時代になっている。
 
 コレまでの日本は、「家族や地域共同体の人間関係が希薄になっても、高度成長から約30年間、勤め先社会が強力な共同体として機能してきた。」
しかし「最近は大企業の工場でも3~4割が派遣社員に成り一層人間関係が薄くなっている」
 
「この数十年で日本人は余りにも多くのことから、自由になった。そしてあたかも糸も切れた風船のように中空5メートル位のところを漂っているのである。そうした風船が日本中に何十万、何百万、何千万と浮かんでいる。
あるいは電荷を持たない自由電子と云い換えてもよい。
ほんの少しの風や磁力でサァーと動いてしまう。
そういう中でみんなが何か帰属するモノ、頼るべき価値観はないかと求めている。
 
今多くの人がインタネットに様々なコミュニティーに集い、お互い顔を合わせることもないまま一種の共同体を形成していると聞く。
しかしそれはかつての様な地域社会や共同体とは違う。
インターネットのコミュニケーションの特徴はすぐ取り換え可能なことである。その空間が自分にとって居心地が悪くなれば、、すぐ消えてしまえる。
そうして自分にとって最も居心地の良い場所を探して、何時までも漂い続けるのだ。コレが私の云う、地上5メートルに浮遊する風船>と云う現象である。
かつてであれば、自分が基盤を置く社会コミュニティーと否応なく折り合いをつけていかなければならなかった。
ネット社会に限ったことでないが、今はそんな面倒な作業をする人が少なくなった。
いきおい、一人一人の考え方が<タコつぼ的>になり、<極端なモノに傾いて>しまう。
それをナショナリズムでけん引してしまうと、かつての日本が辿ったのと同じように、一気に坂道を転がっていきかねない非常に危険な状態になってしまう。」
 
>又以下の様に民主主義制における政治決断の実態を醒めた目で見ておく必要もある。
 
 前回の記事で引用したシュミットの言説で はイギリス、アメリカの民主政体下における、政治指導者のリーダーシップの国民向けの格好のいい、勇ましいアジや言説と裏腹に、厳しい政治局面での政治決断、選択の実際は
「現実に置いて、国家が決断するのでもなく、ましてや個人が決断するのでもなく、集団が決断するのである。」
 
 厳しい政治局面での政治リーダーの生々しい決断、選択の現場は国家(国民)と利益集団の間での利害調整に成らざる得ず、そこでは政治リーダーの主体的決断は実際には薄められ、集団的決定に流されてしまう。
なぜなら、シュミットの論理によれば、リーダーに葛藤と決断を迫る局面そのものが極めて社会的なものであって、私的な枠組みと何なら関係がない。だから、決断を迫る局面の厳しさが増せば増すほど、リーダーの個人資質や思考の枠組みでは、その状況は変更できないモノとなる。
こういうリーダー個人の決断では変更できない葛藤する両義的多義的客観情勢にあって、政治リーダーの現実に即応しない決断を強調することは、「社会的な集団の有する具体的な権力」を強調する事が出来なくなってしまう。解り易く云えば、政治権威の集団である政党を基盤とした政治を蔑、空洞化に繋がる。よって政界は液状現象をきたす。
 
 前回の記事で引用した加藤紘一さんの小沢評は肯定的なものだったが、よくよく考えてみると、国の政治指導者に小沢氏の様な出入りの激しさがあれば、国民は大変なことになる。だから、こういう事を踏まえて、小沢氏は自らの著書「日本改造計画」で厳しく批判している同質社会特有の独善的な日本型民主主日本国の議会政治家でよかったね、と云っている。日本以外の先進国の議会政治下で小沢氏の様に激しい出入りを繰り返して生き延びらている政治家がいるとは思えない。小沢氏の天才気質によるところも大きいが、小沢氏に厳しく批判している政治三流国日本だからこそ、その所業は成り立つことでないか。
 
 組織的な観点からの判断力を迫られる決定的な政治場面において、大きな政治組織内部の葛藤を経て自分たちの意図する政治に少しでも近付こうとはせず、自分の意のままに動く徒党、固有の政治論理を優先していた。その徒党の政治論理的純粋性は自分の政治活動に厳しい批判をする集団内の意見を聴かず、その都度、遠ざける、あるいは排除してきたから、保持できてきた、とも云える。
そして、言い換えると、純粋培養してきた自分の徒党のその時々の政治論理に引きずられてきた。
コレが小沢流政治のリーダーシップの真相ではあるまいか?
確かにその都度、リーダーとして決断してきた。政治的責任を持ってきた。
 
コレは決定的な局面で純化路線と云われる、独自路線の真相である。
典型的な旧来の自民党の派閥政治の威力に小沢氏はズット頼ってきた。組織的に自己脱皮できなかったのである。コレも民主党内に必要以上の反小沢の反発心を引き起こした原因と云わねばならぬ。過去の出入りもこの要因が大きく左右してきたとみる。身内も周囲もこの点の反省はなかった。
残念ながら、国民の生活第一党の結成に際してもこの組織的欠陥の反省はない様だ。
だからまた分解が発生するだろう。