反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2019、5,1。あるSEALDs,青年の記事より引用。「個人として考える、そして自分の場所で戦う」→時代と場所を離れて価値決定はできない。

      あるSEALDs,青年の記事より引用
「個人として考える、そして自分の場所で戦う」

   俺は一人でもやったぞ、君はどうする?
 また私には今回の抗議活動を通じて、全国の同志に向けて意識的に提示した運動論的なテーゼがあった。
>それは個人として考える、そして自分の場所で戦う、ということである。
個人として考えるというのは自分が自分の主人公であろうとすることである。

 SEALDsの同志は本当にそこに至っていたのだろうか。
彼らの運動は既存のシステムの範囲内の活動でしかなかった。国会前の勢力を選挙という数のゲームに動員し、また警察と結託して安倍政権率いる国家権力にとっての治安維持に精を出した。
もちろん私は無碍な暴力革命 を吹聴しない。

 W、注釈。
「無碍」むげ・・・何ものにも邪魔や束縛されることなく、自由自在であること
障碍者←(障害者)~他方,、無下(むげ)の用法は。→無下にする。無下に扱う。無下に突き放す。むげに断る。ということで、Wは国語の勉強させてもらってます。)
*がしかし!(W。無碍の意味が前記であれば、無碍な暴力革命という用法は本質的運動論の過去、現在、将来において、~~使用している意図は理解できるし、歴史的総括として意義ある使い方だが、~~語の真の意味において間違っている。)

また個人として考えた結果そのように行動をとることもあるだろう。
 しかし、人間の主体は既存のシステムに身を置く存在でありながら、それを超えていく力を持っている。←W。既存のシステムの側がそれをやっており、対抗する側が保守に回っている現実直視。

特に変革の主体は、その先陣を切る存在だ。大衆に迎合するありかただけでなく、真理追及の姿勢から、既存のシステムの限界を乗り越えていかなければならない。
このままでは、我々は政治について考える「大人にとってのよいこ」でしかない。
 真に我々による社会に建設を試みるならば、

国家や天皇、警察、また身近な例では親や先生、党首などの、
>自ら埋め込まれた脳内チップを取り出してみよう。まずそこから自由になる。
W.丸山真男的発想です)注釈参照

     君たちの大学で原発推進や軍事研究が行われてるぞ
 また自分の場所で戦うというのは、自らの思想を単に机上の空論としてではなく、日常で直面する現実を前に貫徹することができるか、という徹底して自己を告発する批判意識の試みである。
~省略~
そして、この日常の現実こそ国会前のデモや選挙活動よりもはるかにキツく、しかも大事なことではないのか、と考えるようになったのである。
~省略~
これは決して私個人の自画自賛ではない。
むしろ突き付けられているのは、今後この発言の責任を問われる私のほうだ。しかし私はその責任を全面的に引き受ける覚悟があるし~省略~
一部の人間による支配を批判し、真に我々による社会の建設を試みているというのに、当の我々がしっかりしなくてどうする。

 注釈 キーポイント  なによりもまず、「時代と場所というstiuation~W"条件~を離れて価値決定はなしえないという命題に帰着する」

 引用 第3章 決断としてのナショナリズム
「したがって、丸山にとっての国民とは、様々な擬制(フィクション)の自然化の支えられた共同体(イメージコミュニティ)ではない。
 丸山の国民は
>なによりもまず、個人が己を取り巻く世界と対峙しようとする決断
つまり個人の実存的なありようなのである。(Wにとって実存主義とは→シジフォスの神話<カミユ>にある無益で希望のなき労働の罪を一生課せられたシジフォス~そこに悦楽がある~と死刑を前にしても些末なことに目が行ってしまう生の人間の日常的ありよう。)

>個人が己を取り巻く秩序の中に埋もれているとき、
すなわち個人の存在そのものが秩序にあらかじめ織り込まれているとき、個人はどこまでも自然的で原始的な世界の一要素に過ぎない
W。この前後の箇所がシールズさんの云う脳内チップ取り出せ

この個人を相対化しうるためには、
その秩序の外へと 「出てー立つex sistしかない
そうすることによってこの秩序は個人と対峙する。
国民国家とはこういう個人の実存的な決断に支えられねばならないがゆえに国家そのものの抽象的な実体化は国民国家の形骸化へと行きつく。
「個人の人間を離れてある抽象的な全体が実体的な価値を付せられた場合には、
その瞬間から、近代ナショナリズムの進歩的側面は消失する。
>つまり個人の実存的な決断からなる国民、その国民から支えられた国家が、抽象的な全体として実体的価値を持ってしまうと、国家はその歴史性と普遍性を失ってしまうのである。
ナショナリズムは豊富なヴァラエティーに富んだ個人の自発的創意に支えられ」ねばならないのだ。

 したがって丸山のナショナリズムは、実存的な決断という人間のもっとも高度な精神でありつつ、
もっとも原始的な心情(否定的な形で)根差している。
というのも、この高度な精神は、原始的心情から外部への
「出てー立ちexsist」という、「実存的な」決断だからである。

>ここで注意せねばならないのは、
丸山が原始的心情と呼んでいるいるものが、
太古の精神や信仰などの内容ではないという点である。
ここで問われている原始的心情とは、
ある秩序を自然化し実体化する形式のことで、国家を抽象化、実体化することもこの範疇にいる。
ゆえにナショナリズムが高度な精神と原始的申請に基づいているというとき、それは国民たろうとする実体的な決断が繰り返されねばならないということを意味する。
 なぜなら、この日々の実存的な決断は、常に個人がそこから抜け出そうとする原始的な心性を前提としており、この心性からの脱出が国民国家とい新たな秩序そのものだからだ。
>>だがここで問題は、なぜ既存の秩序出て立とうとする「決断」に、国民国家という名が付されている、かということである
つまりこの決断の主体であるであるはずの「あらゆる非人格的イデーを排除し、一切の価値判断から自由な人格」は、
なぜシュミットの主権者でもなくキルケゴール単独者でもなくニーチェ超人でもなく
>>国民ととならねばならないのだろうか

>この問いこそは、丸山が沢論において究明しようとしたものに他ならない。
>>丸山は福沢の思考が、なによりもまず、「時代と場所というstiuation~条件~を離れて価値決定はなしえないという命題に帰着する」と明言する
同時に丸山は、この場合の「状況的思考ということは無原則の機会主義とは全く違う」ことを強調する。
そしてその福沢の状況的思考が機会主義と峻別されうる契機は、
19世紀の日本が直面した「パラドックスな課題」にほかならない。
 「アジア諸国ナショナリズムの特徴は~国際社会のなかから、つまり中世的な普遍主義の解体から諸国民が相互に自己の一体性を意識したのではなくて、従来の国際社会そのものがむしろ一体として外から迫り、これに対するリアクションとしてまず興起したということである。」

>>つまりアジアにおけるナショナリズムは、根源的な受動的な決断として起こった。
しかしそうであるならば、迫ってくる脅威とそれにさらされる主体があらかじめ決定されていて、受動的でしかない主体は状況に追従するしかない。その限りで個人の決断はあらゆる秩序から独立ではなく、新たな秩序への順応~~以降省略。
 
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W自身がこうした方面に対して奥深く考え行動できなかった。
理由は注釈の福沢に至る思考の外に<出て><決断>してきたからだともいえるが、今更と。
 この日、特別な想いで記事を仕上げている最終局面で、携帯が鳴った。
記事の大状況的流れの思考と携帯で相手が言う内容では、世界があまりにもかけ離れすぎている。
思わず怒りさえわいてくる。
自分には大切にしていることがあるんだ。他人に話すわけにはいかない。
しかし、すでに当該問題の記事の連載で到達点に達しているにもかかわらず、人間の生理的内容に対処しなければならない。
なぜなら、この場所を放棄できないということ。

引用 シジフォスの神話 
一つの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ
この運命を不条理だと知った時には、
意識が明るみに出す‘この運命‘を全力で挙げて自分の眼前にささえ続けなければ、
人はこの不条理な運命を生き抜いてゆくことができぬ

永久革命の主題がこうして個人の経験のうちに移される
>生きることは不条理を生かすことだ
>反抗とは人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。
不可能な透明性への要求だ。

時代背景もある。
個人で対処するには大きな限界があるし、制度ミックス対処にも限界もある。
が、そういうことであった。