反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

カールシュミット、丸山真男、坂口安吾の主要論点の抜粋。「ワイマール共和国憲法状況と国家学」「帝国日本のイリ」「堕落論、続堕落論」より。第一回。

 タイトルに挙げた本におけるカールシュミット、丸山真男坂口安吾の主要な問題意識は整理すると、自然状態の人間の本性におけるセキュリティー国家の根源~弱者個人に対する脅威(戦争)と国家成立。政治的統一体・民主主義及び多元主義
 
丸山とkim hangはホッブスの援用に始まるシュミットの政治理論の枠組みを利用して、持論を進めている。
坂口の堕落論は文学的視線の枠内で論を進めているが、東京大空襲下に自身が敢えて踏みとどまた経験や敗戦直後の昭和46年の世相を踏まえての生々しい持論の展開なので、自然とシュミット、丸山、kim hangの上記の問題意識を文学的立場で補強するものとなっている。
 
 シュミット、理論的な枠組みは内容はさておいても、一番論理的であり、その思考ルートに沿って3者の問題意識を取り上げたほうがいいと考えた。
 
1、シュミットは多元主義(直接的には当時の英仏米の民主主義だが、ここでは新自由主義への批判の視点として使用している)を経験される事態と一致するとしながらも、<国家倫理的な問題>を解き明かすカギにならない、としている。<国家に倫理を問う事自体日本の超国家主義と共通しており、その具体的政治体制の暴走が予告されている>が、以下の指摘は注目に値する。
 
多元主義者は次の様に主張している。忠誠義務の間での避けることのできない葛藤。例えば、一方の労働組合経営者団体に対する忠誠義務、他方の国家に対する調整義務、と云う両義義務間の葛藤に陥った場合には、個々人は自分一人で解決するに違いがない、と(コレは今の日本の決断できる優れた政治リーダーの出現願望に通じる)」
 
コレに対してシュミットの批判は込み入っているがりアリステックだ。
「その種の葛藤は社会的なモノである。(利潤と云うハッキリとした動機と目標のある会社経営と違うと云う理解でよい)
すなわちそれは私的な枠組みには関係しないのであり、社会的な状況と云うのは個人の嗜好によって変更することができないモノである。
従って、個人の自律についての多元主義の理論(新自由主義と読みこむ)はその主要な関心事、つまり、
<社会的な集団が有する具体的な権力を強調することができなくなってしまう>(橋下、維新の会の関西電力原発再稼働への前後の対応を想定してもよい)
こうした事から、現実に置いては国家が決断するのではなく、ましてや個人が決断するのでもなく、集団が決断するのである。(先延ばししない、決断する政治リーダーを売り物にする政治主導者の決定的場面における、状況追従の決断はなぜ発生するのか?解答と< >の部分に或る。現実の社会を構成する<社会的な集団が有する具体的な権力>の踏まえ、その相関関係上に経つ政治を指向していないからだ。
又、コレは民主党政権交代後の政治に見事に当てはまる。)
 
2、戦前日本の国体論の歴史的位置づけと批判。
「国家の統一性は、常に社会的多元性からなる統一性である。
そうした統一性は、時代によって国によって、非常に異なっており、しかもそれは常に複合的であり、ある意味では多元的でさえあった。
こうした<自明の複合性>を指摘する事により、おそらく極端な一元論の誤りは論証できる>であろうが政治的統一体の問題は解決されない」
日本の国体論は大正デモクラシー関東大震災までは美濃部達吉の国体(端的には天皇と文武の官僚、貴族と解釈)日本固有不変の国家キャラクター論として国法と異次元な存在と位置づけられていたが、内外政治経済軍事情勢の煮詰まりに並行して、国体=日本国家機構のして実体化されていった。
コレは一見、強固に見えるが、大事に際してはぽきっと折れやすい、硬直脆弱体制だった。だから敗戦によって茫然自失で国家と個人の緊張関係を失った。国家の解体が個人の解体だった。
 
>政治的統一体の問題は解決されない、と云う部分から、シュミットの得意のファシズム統一政体の理論的基礎付けが始まる。
が、ここにも政治と民主主義の本質論が含まれていると理会する。
 
3、「権力」と「同意」の相互関係の現実。
「同意が権力を生み出すだけでなく、権力も同意を創出するのだ」
いよいよファシズム論理に突入している。選挙による多数派形成への手段を選ばない執着、多数派原理の強調
。この政治過程をワイマール民主体制下で政治論理を伴って、実行したから、論理的ドイツ人はドイツ国社会主義労働者党に政治的脱出口を見出した。
 
4、政治的統一体(ファシズム政党)の他団体への優位は「それが絶大な力を持って命じたり、他のすべての統一体を水平化したりするからでない」
「むしろそれは政治的統一体の下位にある何らかの統一体が、その同じ政治的統一体に属する他の統一体に敵対関係を表明する事を許さないからである。
「<政治的なるもの>いかなる領域でも<戦争と平和を決する権力の独占である>、すなわち、それは他の諸主体から取り上げた権力なのであって、その結果、他の諸主体は政治的統一体の内部に留まっているのである
 
>持って回った理論的な言説だが、コレは端的にって、ナチスに先立つ事、7年前に国王によって政権委譲されたムッソリーニファシスト党のコーポラリズム(一国の政治体制を一つの生命体の如く有機的に関連ずける)政体論の焼き直しである。なるほど、それでは表面上「絶大な力を持って命じたり」する事は少なくなる。
 
5、<政治的なるモノ>の基準となり、それを独占している事を示すモノは<内乱が無いと、宣言できる>空間である。
「政治的統一体は<決断するが故に>その内部で全ての敵対的な集団が分裂して、極端な対立関係(内乱)に陥るのを防ぐことができるが故に<最高の統一体なのである」
>予防反革命としての絶対能力の保持が最高統一体の絶対条件としている。
それだけならまだしも、こういう絶対統一体制は強固な反対派の存在を内部で許さないものである。
 
6、民主主義と同質性。議会主義。(政治的統一体が可能である具体的基礎。社会条件)
「代議士制度の特徴は法律が意見の闘争から生み出されると云う点にある。討論には前提条件として共通の確信、進んで納得しようとする心構え、党派による拘束から独立している事、利己的な利害関心にとらわれていないことが必要である」
>尤もらしい理想論は、ワイマール民主主義を否定するがためである。
 
7、議会の機能は政治的エリートの育成にある。
コレはマックス、ウェーバーが盛んに述べていた事と同じで、彼は民族的天才指導者の出現を願望した。
>日本の国会議員定数削減などの論調にも政治エリート論が根底にある。
 
8、民主主義の前提は<実体的な同質性!!>であり、しかもそれを保持するために結果として生じる(結果としてではなく必然だ!)<異質なるモノの排除!!を伴う実体的な同質性>である。
「従って、民主的??同質性は統一政体にとっての実質的社会的基礎なのである。<異質なるもの>の排除と内乱の除去が同時に行われば、紛争発生の事由が根絶されることを意味する。
その様な同質的な社会の内部ではもはや敵対関係に至る様な著しい分裂が発生する事はあり得ない。
同質性は民主主義的秩序???にとっての基盤であり、それゆえその秩序の規範と手続きを有効なモノにする前提条件となる」
 
>この結論的部分に至るまでの論証を戦前戦後、そして今の日本に当てはめ、イロイロ類推することは可能。
近代以降の日本人は同質過ぎて間違った部分を生み出した。
なのにさらに同質性を政治やマスコミが強化する方向に走れば、どうなるか?その結果としての不利益は自分たちに跳ね返ってくるのである。
こんな社会状況では「100人がいたら100人の正しさがあって然るべき」というホッブスの自然状態想定以前の言説が半語として正当性を帯びる。