反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

明治期の文明理念の諸相とその意義 ~西郷隆盛、勝海舟、中江兆民の文明観を中心に~HSU SHIN CHIA(W。福沢諭吉開発近代化路線批判~明治維新の相対化~)

https://www.fujixerox.co.jp/company/social/next/foundation/pdf/684.pdf

      明治期の文明理念の諸相とその意義

西郷隆盛勝海舟中江兆民の文明観を中心に~W。左記と並行し福沢諭吉の文明開化論を取り上げている中国人留学生の博士論文。

                                                                                       許 時嘉 Shu Chi  Chia


コピー貼り付け出来ないのが残念に思うほど、Wの問題意識に近い論考である。

 西洋VS東洋(日本、朝鮮半島、中国)の文明と歴史を対比する観点、思考は

福沢諭吉的文明開化論の政治技術的功利主義の範疇で収まらなかった。

西南戦争で敗れた西郷隆盛の素朴な農本日本主義的文明観は日本資本主義化に適合しない思想として置き去りにされることはなかった。

士族人口過剰の薩摩、長州土佐などの農業せざる得ない武士=郷士の素朴な「世界観?、自然観、人間観」を根っこに持つ西郷の農本主義の観点からすれば、明治藩閥天皇制絶対主義政府の江戸期と変わらぬ金納租税率と勃興する産業商業資本の都市と農村の貧窮的剰余価値の搾取と引き換えに西洋生産手段の導入を急ぎ、他方の鹿鳴館に代表される表層の西洋文明化は耐えがたい憤激を呼び起こすものだった。

 本質的に言えば福沢のような政治技術的功利主義路線は列強の中で最後に資本主義化した資本の原始的蓄積期の実情を覆い隠す欺瞞的な思想ではあり得ても、(ブルジョアジー市民社会未形成期の政治幻想、同時に藩閥政治の身内利益誘導の実態を覆い隠す隠れ蓑)資本主義生産様式の発展に伴う都市と農村における労働力過剰と貧困の蓄積という全社会的現実に応える思想ではなかった。
帝国主義の市場再分割戦が深化すると、

日本の近代化激闘期に生まれた日本思想は、

米帝国主義との争闘において日本帝国主義が東アジア地域を自らの市場とする必要に迫られた時期に思想的梃として社会政治の表面に浮上し、
>ついには国体主義に純化
>最終段階には国体明徴運動を通じて政治軍事の中枢を握るまで至ったのである(軍国「ファシスト」)。
 

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   論文の一部を引用する
福沢は~利己心による富の蓄積を国の富強に繋げて解釈している(W。市中の富の蓄積⇔国債、税収増、政府財政拡大⇔国の富強)。
日本の近代国家建設に殖産が不可欠である限り、利己心を発達させることが何よりも寛容ではないか。
福沢は西郷と同様に利己心を金銭蓄積の発露として認識しているものの、殖産を駆り立てる金銭欲が国家の資本蓄積に役立つならば金銭欲は認められるべきというところが西郷との差異を示している。
その一方で、

日本の資本蓄積の立ち遅れは、
鎖国による植民地略奪と交易から締め出されていたことと大きく関係している。
ノーマンによれば
@その立ち遅れを埋めるために明治政府は産業保護政策をとった結果、
発達した資本主義が多くの商品を生産するようになってからも
地租改正の金納化や不在地主の増加によって購買力が低下
@農村における過剰労働力と貧困を生んだ。
@そしてその過剰な商品の海外市場を開発する緊急性が生れたのである。
>資本の蓄積は過剰な商品の出現と海外への市場拡張に基づいて初めて成立するものである。

W。参考資料 三環節論 名和統一

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

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W。民需蔑ろ、軍需優先の日本経済の付加価値の高い商品(といっても綿製品輸出止まりだったが~日本資本主義の重工業化は第一次世界戦争後の1920年代、工業部品、汎用製品の輸出はできても工業製品の輸出は無理~)の交易相手は欧米列強市場であった。

福沢諭吉脱亜入欧路線は日本経済の付加価値の高い商品の交易相手は欧米列強市場であった、という意味では半分正解。

 しかし、東アジアにおける戦争を主導し発展してきた日本資本主義は民需蔑ろ、軍需主導の構造転換はできるはずがなくあり得ないが仮に欧米に軍事的に対抗できないと割り切ったにしても、欧米との交易関係は必然的に悪化の趨勢にあるわけで(政治がどうこうというよりも純粋な経済問題として世界市場を巡っての争いは激化し戦争発火する)、結局アジア重視で行くしかなく、その場合、福沢の脱亜入欧路線は思想的バックボーンにならなかった。

>結局、明治維新以降も今も日本の東アジア地域での位置取りが課題であり続けていることは間違いない。福沢諭吉的な脱亜入欧は東アジアとの交易関係の強化という意味では無効になっている。

 冒頭の回答者は高橋是清財政金融膨張政策の評価が間違っている。

まず、治安維持法をの実施を背景としてこの時代は一部の歴史家で暗黒の時代視されているが、この一面的な把握の間違いの裏面においてこの回答者のような政治軍事音痴の何とかボケ経済主義丸出しの時代評価を今になって生み出した。

結論的に言えば高橋是清金融財政膨張政策の出口は1936年の2,26事件だった。高橋は斬殺された。出口戦略として主導する軍需を引き締めることはできなかったし、金融財政膨張政策の効力も薄れていていた。それが中国戦線の拡大、対外関係の悪化、国内物資不足につながった。

1933年以降の高い経済成長を示す数値は、

その1として

それは、中国東北部への軍事侵略を牽引車とする軍需大増加によってもたらされたものであり、

その2として慢性的な過剰労働人口の一部が軍拡により軍隊に吸収されたことによって、工業部門の人手不足による賃金上昇がみられ民間消費が増加した。その様子は小説にも描かれている。

その3として、金本位制の縛りがなくなって平価切下げ飢餓輸出が可能になった。いずれにしてもドイツでも政権を取ったナチスによる経済復興が一時期成功した。

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引用に戻る
*福沢の資本蓄積至上の態度は後日の日本の植民地獲得の肯定へと繋がっていく。
  ただ、注目しておきたいのは
福沢の資本論は西洋列強の文明国家の政治体制、経済体制を早く身に着けようとする意図に由来するのである。

福沢の唱えた資本蓄積は、国威の発揚と日本の優越性、を目的としており

産業革命による近代ヨーロッパ型の資本主義の発達と因果関係を逆転させた倒錯させた論理を示している。

一方資本蓄積と国家の構造に関しては西郷の視野に入っていない。

  連帯と侵略と紙一重~西郷の後継者,頭山満

しかし頭山は西洋諸国の弱肉強食を野蛮とみなし批判したにもかかわらず、日本の英米の勢力を恐れずアジア進出を果たした行動を大いに肯定し~

頭山の西洋のアジア進出に対する確信、および西洋からアジアの弱小国を救い出さなければという連帯感は注目すべきことである。

孫文1924年渡日し21か条をはじめ不平等条約を取り下げてくれるように頭山の協力を求めた。

頭山は他国からの侵害を防ぐために満蒙地方への進出が必要と考えている。

日露戦争においてロシアの南下を防げたのは日本のおかげである。したがって、中国の勢力がまだ強大にならないうちに山東半島などへの他国の侵犯を防ごうと思えば、中国との強い連帯関係にある日本に支配される以外にない。

頭山は日本の中国進出を中国を侵略するつもりはなく、中国を保護する立場に基づいていると認識している。

松本健一竹内好の観点を引用し頭山満の発言(アジア主義))の二面性を見出している。

植木枝盛,大井憲太朗らに民権派のアジア連帯と頭山らのアジア主義と対立させるのは難しい。

W参考資料①

民族自決 - Wikipedia

引用

1917年、ロシア革命中にウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権による布告「平和に関する布告」は、「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案した。この民族自決は、ヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく、植民地を含めた領土・民族の強制的「併合」を否定して、民族自決を、全面的承認した内容であった。フランスやイギリスなどの同盟諸国はこの布告を無視したが、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンはこの布告を「世界に貴重な原則を示した」と評価した1918年、ブレスト=リトフスク条約で、ロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニアポーランドウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄した。

W.新植民地主義的支配や衛星国化によって民族自決は骨抜きにできるので民族自決が世界的に実現したのは冷戦体制崩壊後である。

1918年のロシア革命中に発表されたブレストリトウスク条約にたいしてボリシエビキと政権を結んだ左翼エスエルはこの条約に猛烈に反対した。

W考資料②

二十一カ条の要求

引用

第一次世界大戦中の1915年、日本が山東省の利権などドイツ権益の継承を中国に要求した。民衆の反発をうけたが袁世凱政権は最終的には一部を除き受諾した。日本の帝国主義的大陸進出の第一歩となったがヴェルサイユ条約で撤廃されなかったことから五・四運動が勃発し、中国での民族意識が高揚する第一歩ともなった。」

第5項問題 

W。朝鮮半島植民地化の最終要求と同じである。居直り強盗の理屈である

(1)中央政府の政治、財政、軍事顧問に有力な日本人を就任させること
(2)必要な地方の警察を日華合弁とするか、あるいは警察官に多数の日本人を採用すること
(3)兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場を作ること
(4)武昌と九江・南昌を結ぶ鉄道、南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
(5)福建省の鉄道・鉱山開発等はまず日本と協議すること
(6)日本人の布教権、など(全7条)

 

「 日本政府(大隈内閣、与党は立憲同志会)は、事前に英、米、仏、露の列強に二十一カ条を内示していた。しかし、それは第一から第四項までであり、第五項を秘密にしていた。それは1~4項は列強も戦争の帰結として当然と受け取るであろうが、第5項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、列強の既得権やアメリカの「門戸開放、機会均等、国土保全」という中国政策の原則にも反することだったからである。」

米英政府は第五項の内容を日本に問い合わせてきたので、外相加藤高明は第五項は「希望条項」にすぎないと弁明し、かえって不信を買った。そのため政府の予測に反して交渉は難航、2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州山東などの駐留軍を増強して圧力を加えたが歩み寄りはなく、5月、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除して最後通牒とした。当時、野党の政友会総裁だった原敬も、中国を侮った外交姿勢を批判している。

引用に戻る

   国威宣伝と国家建設の間で~勝海舟の文明観~

引用

康有為 - Wikipedia

への勝海舟の返事は中国と日本の体質は基本的に違うのだから中国の近代化は他力に頼ることなく自力で行うしかない。かつて3国連携を主張した勝海舟の政治観は日清戦争の時点に至ってかなり変わった。」

勝海舟から見れば日清戦争は国庫に負担をかけ国内の世論紛争を再び引き起こし民心を余計に乱した。←W三国干渉W。不満を抱いた民衆が日比谷公園周辺で暴動を起こす。

国家の施政方針が停滞したり空回りして事態に機先を制することができなくなった。

彼の目にうつつ申告は決して仮想敵国ではない。

勝海舟は商業上の利益に目を向け清との戦争を起こすのは日本のそんである。

勝海舟は最初から日清戦争に反対していたので3国干渉によって民族意識を挑発されなかった。

1895年新聞に載せた談話によって日清戦争がもたらしたものを東洋の逆運と称して中国と敵対することは東洋の脆弱性を西洋にさらけ出すとした。

勝海舟の中国の民族性に対する評価は非常に高く日清戦争後に至ってエスカレートしていった。

中国人の性格の大きさを評価し~敗戦に平然としていられる~。

物産の豊かで広大な商業市場に期待できる中国はアジアが欧米に侵略から逃れるために欠かせない存在である。

1885年の脱亜論において福沢諭吉は文明国と進退を共にし東洋の悪友と断絶することを宣言し晩年の自伝において1998年過去30年間の明治政府の文明開化策がいかに成功したか喜び日清戦争を官民一致の勝利としている。

彼は日清戦争に対していくら戦争に勝っても軍艦ができても国が貧乏で人民が食えなけらば仕方がない。

やれ朝鮮は弱い、しな人の頭をたたいたといって喜んでいても国家の生命に関する大問題がそっちのけにされるようでは鎖国の根性が抜けないというモノだと酷評している。

国の一番大事なことは国民が平穏に生活できるかどうかの経済問題である。それに目を向けず国威発揚の宣伝として自慢するばかりでは国家の運営方向が間違っている

同じ時代を生き向いたにもかかわらず勝海舟福沢諭吉と完全に異なる心境であった。

彼から見れば文明開化を提唱してきた明治政府は徳川時代と比べて政策が優れているわけではなく逆に劣っているといってもいい。

1896年6月16日の三陸地震津波で、政府は何も対策を講じず口で法律規則云々を唱えるだけで責任逃れをするばかりであった

勝海舟は怒りを抑えきれず同様の被害が生じた場合、徳川幕府は一方ではけが人や飢餓者を助けたほうでは年貢を緩めるから被害の窮民は喜んで業につくものだよ、という。

   足尾銅山鉱毒事件に対する福沢諭吉の論評。

人民の請願活動を「文明の法律世界に如何にも穏やかならぬ挙動として批判し~

こうした福沢の法律至上の文明観は勝海舟の言葉を借りると口では法律云々を唱えるが責任逃れる行為にもみえる。

日清戦争が文明と野蛮の衝突とする伊藤博文陸奥宗光内閣に歩調を合わせる福沢は殖産に欠かせない銅生産を優先するあまり被害者農民の救済に向かわなかった。

以下15ページ下段の私的参照。

   文明と道義~中江兆民の文明観察

山形有朋

富国と恭平が両立しがたいという認識があったにも関わらず軍事力が国家の独立と国民の権利の保全に唯一の良法であることでたとえ増税が国民の不満を爆発させても断行しなければならないという覚悟があった。

軍事外交の定着はその後の政府の中心方向を大きく規定した。

>しかし政府の強兵外交に反対したものはいる。それが中江兆民である。

文明、野蛮という西洋的図式と普遍的人間性としての道義心との相克を意識できるかどうか、そして西洋的図式を無批判的に受け入れるのではなく、積極的に解体しようとする意欲があったかどうか、それらが中江兆民と福沢を隔てる差異であった。←W。中江兆民の項は抽象的でよくわからなかった。その論法を深めるためには後代の知識が必要だったと考える。

W。福沢、山縣明治政府の強兵富国路線の底流にはヨーロッパ金融資本の借金で軍需主導の拡張路線があり急速資本主義化の道を選択すれば、当然侵略して賠償金を取ってきたり、権益拡張で不等価交換を目論むしかない。

   文明の特質は動物的天性の克服  幸徳秋水

中江兆民の弟子、幸徳秋水の「20世紀の怪物帝国主義」はイギリスの経済学者ホブスンの「帝国主義」に先立つこと1年、レーニンの「帝国主義論」の15年前に刊行された。

ホブスンの論点に踏まえるならば帝国主義は急進的な愛国心差別意識、軍事侵略に触発されたものでなくむしろそれらは帝国主義の副産物とみていい。

W.秋水の帝国主義認識を概略すれば、上記のホブスンの帝国主義の経済下部構造と政治上部構造の、帝国主義の基礎と、副産物の関係を逆転されたもの、その意味で道義心なる抽象論を基準とする中江兆民の弟子らしい思考パターンである。

>しかし次の愛国心=動物的天性という説は傾聴に値する

W.ちっぽけな孤島、しかも資源も何もないところに対する異常な執着を見ると動物のテリトリー意識をつい連想してしまう。もっとも日本人だけではないが。

引用

愛国心の発露とは自然の欲情を制御できず野獣的天性を発揮することと解すべきであり、それを高尚な文明国民の行為とたたえることはできないのである。」

W。幼児に愛国心があるのかどうか、共同体への帰属意識は人間の発育とともに自然に備わっていくものと想像できるが、地域共同体への共同幻想のはるか上を行く国家共同体幻想は教育生産工場において脳内チップに埋め込まれる質のモノである

引用

「彼の社会主義認識が『愛国心の打破』と『道義心の拡張』から出発しており、「下部構造が上部構造を規定する』という唯物史観社会主義理論の論理行動から明白にずれている。」

W参考資料

パリ・コミューン - Wikipedia

引用 W。愛国とコミューン武装蜂起、プロレタリア独裁。さらには民族自決植民地解放と愛国心幸徳秋水愛国心の打破は政治軍事のダイナミズムの渦中、あるいは歴史上の愛国心の変化を視野に入れていない。幸徳の打破しようとした当時の愛国心の末路は2次帝国主義戦争においてはっきりした。今の日本の愛国心のうち偏ったものが主導権を握ると過半の日本国民の利益を大きく毀損するだろう。

W。フランスの最小地域行政単位は今でもコミューン。この間調べているスウェーデン最小行政単位もコミューン。最小行政単位に権限を与えることで住民生活に最も必要なサービスを維持できる。

引用に戻る

「>これら知識人たちが強調した文明観には利己主義の批判が共通しているといえよう。W。国体主義者も欧米思想の特徴として利己主義を挙げている。

資本蓄積は利己的な行為とするかどうか、利己主義は道徳観の欠如を意味するかどうか

という点を巡って東洋と近代に西洋にある種の認識の差が認められる。

     W。あとがき

勝海舟の論評に興味がわいた。感性的な都会人。しかし口数は多くなく隠居気味で、世論に影響力を及ぼそうとする野心が全くないように思われる。

後のヒトは田舎者。明治維新の立役者はみんな野心満々の田舎小侍。外国嫌悪排外からその武力の威力を目の当たりにするとコロッと態度を変えて、近づいて行って利害を共有しようとする。列強は東アジア東端の列島を武力制圧するよりも力を見せつけてカネをむしり取ったほうが良い。明治政府の後ろ盾はすでにインドから東上し中国大陸に拠点を築いた当時まだ世界の工場に地位にあった英国だった。

当時の広大な太平洋を隔てたアメリカは南北戦争(市民戦争)の戦後処理で日本に派遣を及ぼす余裕はなくむしろ隣国のメキシコをどうにかするほうを優先させていた。

フランスは軍事力に優れた隣のドイツとの戦争的事態を繰り返していて、極東の日本まで食指を伸ばすことはできなかった。オランダは江戸時代に交易の特権を与えられていたし、かつて一時的な栄光は落日を迎えていた。

ということで日本を侵犯する可能性は英国一国に絞られていた。他の国々は英国主導の下で日本列島に食指を伸ばす程度だった。

その英国では世界で一番近代的な議会が日本列島のような本国はるか離れた辺鄙なところで武力行使をすることの見返りをきっちりと求めた。

明治政府は英国だけを警戒すればよかったしその英国は日本を植民地化することに利得はなかった。

明治政府は列強が条約で権益を獲得したのと同じ手法で朝鮮半島に触手を伸ばし英国を後ろ盾に日清戦争を通じて不平等条約を締結し、1905年ペテルブルグ蜂起の最中の日露戦争において、部分的に勝利しその後、朝鮮を植民地にした。

 明治から大正、第一次世界大戦までの日本は外的政治環境に恵まれていたといえよう。

しかし、1868年の明治「いしん」から1929年世界恐慌の間に日本資本主義を発展させてきた外的環境は大きく変わった。

 第二次世界大戦後の世界体制の最大に受益者は日本資本主義であった。東西冷戦体制終焉は、日本資本主義を発展させてきた外的環境の喪失である。

反俗日記がこういう問題の時にいつも持ち出す数値は、戦前の日本の工業生産指数の列強との比較(列強最低レベル)と海軍戦艦建造比率(英米の8割という異常)。

現在のGDP世界第3位。

どちらも日本を取り巻く環境の結果である。

戦前の軍事突出、工業力の弱さは帝国主義戦争の総力戦の敗北となった。

今のGDP3位の位置は戦前の最低レベルの経済力からの台頭であり、このような大きな経済台頭を示した国は日本だけである。

しかしそれは修正され日本経済の世界経済に占める位置は後退する。その趨勢において、資本と労働力商品の利害が対立する以上、支配層はほとんど大きさの変わらないパイの分け前をできるだけ大きく分捕ろうとする。その結果、消費は低迷するので大きな資本は海外で金儲けをしようとする。その際、資本輸出が最も効率的な手段になるので内の生産資本と金融資産は海外流出する。多くの国民は低賃金労働と相対的な貧窮化の現実を身をもって知ることになるだろう。