★ 九 帝国主義の批判
少数の者の手に集積されていて、もろもろの関係や結びつきの異常にひろく張りめぐらされている細かな網の目――中小資本家ばかりでなく、極小の資本家や経営主までも大量に金融資本に従属させている網の目――をつくりだしている、巨大な規模の金融資本、他方では、世界の分割と他国の支配のための、他の民族国家の金融業者グループとの激烈な闘争、
――これらすべてのことは、すべての有産階級をこぞって帝国主義の側に移行させている。
労働者階級は万里の長城で他の階級からへだてられているわけではない。今日のいわゆるドイツ「社会民主」党の指導者たちは正当にも「社会帝国主義者」――すなわち口さきでは社会主義者、行動では帝国主義者――という称号をもらったが、ホブソンはすでに一九〇二年に、イギリスには日和見主義的な「フェビアン協会」に属する「フェビアン帝国主義者」が存在することを指摘している。帝国主義の基礎を改良主義的に改めることが可能かどうか、事態は帝国主義の生みだす諸矛盾のいっそうの激化と深刻化にむかって前進するか、あるいはその鈍化にむかって後退するかという問題は、帝国主義批判の根本問題である。
半世紀まえにはドイツは、その資本主義的力を当時のイギリスの力と比較してみれば、あわれなほど微々たる存在であった。ロシアとくらべた日本も同様であった。
一〇年、二〇年たっても、帝国主義列強の力関係が依然として変わらないと推測することが、「考えられる」だろうか? 絶対に考えられない。
資本主義の現実のうちにある「国際帝国主義的」あるいは「超帝国主義的」同盟は――それらの同盟がどういう形態でむすばれていようとも、すなわち、ある帝国主義的連合にたいする他の帝国主義的連合という形態であろうと、すべての帝国主義列強の全般的同盟という形態であろうと――、
不可避的に、戦争と戦争とのあいだの「息ぬき」にすぎない。平和的な同盟が戦争を準備し、戦争からこんどは平和的な同盟が成長するのであって、両者は相互に制約しあいながら、世界経済と世界政治の帝国主義的な関連および相互関係という同一の基盤から、平和的な闘争と非平和的な闘争との形態の交替を生みだすのである。
一例をあげよう。たとえば、ある日本人がアメリカのフィリピン併合を非難すると仮定しよう。さてこの場合、これが併合一般をにくむことからなされたのであって、自分でフィリピンを併合しようという願望からなされたものではないということを、多くの人々が信じるかどうか?
>この日本人の併合反対「闘争」は、彼が日本による朝鮮の併合に反対して立ちあがり、日本からの朝鮮の分離の自由を要求する場合にのみ、誠実で政治的に公明なものと考えることができる、ということを認めるべきではなかろうか?
同時に、日本の問題を棚上げにして、アメリカ批判を繰り返すのも、排外主義の一種である。アメリカは市場を外国に開いて、来たのも事実。それによって、安定的雇用の見込まれる製造業の衰退があった。エマニュエルトッドによれば、自国産業を蔑にし、IT金融産業主導の決定的転換点は90年代のクリントン時代にあったという。
IT金融産業がGDPの多くを占めるようになると経済の寄生性は一気に進行する。その収益は貢物、債権、労働からの不当収奪によって、保障されなければならない性質のものである。