反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ホッー、そうか。「革命(民主政権交代)には反動が付きもの」で、第二維新とは西郷隆盛や後藤新平を目指せ、と云う意味だったのか。空疎、安っぽいお説教だが、士族反乱は根絶やしにされてまっせ。

 う~ん。流石の変わり者の自分でもここまで、日本歴史の変わった見方はできなかった。
以前の記事で、幕末から明治初期にかけての暴力性を帯びた百姓一揆、新政反対一揆、困民党蜂起を辿って連載記事を書くつもりで調べていたら、急にモチベーションが萎えてしまったことが在った。
 私の様な民衆史観の観点に拘って、明治維新前後の時代を解き明かすのは、この時期の歴史を全面的に見ていない事になる、と痛感したからだ。
 その線に沿っての記事を断念したが、明治維新前後をネットで調べていくと、大久保利通のこの写真に出会った。
 
 衝撃だった。長刀を引っ提げて京の街を疾走していた、革命家大久保のリアルな姿を想像し、グッとくるものが在った。頬はげっそりこけて、眼光鋭く、生き死の極限で革命に賭けるモノの殺気が漂っている。
近寄ると強烈な存在感に圧倒されるだろう。ホンモノである。
この写真をみて、明治維新戦後の実情が解ったような気がした。
実情は否定できないのである。
なるほど、この時期の実録や人物像に憧憬を抱く日本人が多いはずだ。
 
 が、悲しいかな、一貫性、体系性の私の立場からは、そんな感情を自分の中で野放しにしておくことはできない。
明治維新は越えなければならぬ。
例え架空の自分の世界であっても、そうしなければ、自分の大切にするモノは毀損される。
 
 が、公平性を欠いてはならぬ。
明治維新の正史はキチンと評価する。
歴史上の事実の正面の流れは捻じ曲げてはならない。
 
 毛沢東の言葉に次の様なモノがある。
「我々は問題を全面的に見る事を習得しなければならない。事物の正面からだけ見るのではなく、その反面をも見なければならない。
一定の条件の下では、
悪いものでも、良い結果を生み出すし、よいものでも悪い結果を生み出す」
 
士族反乱が第二維新とは、こじ付け過ぎだ。明治維新を全貌する反面ではあるが。
そして、確かに良いもの(明治維新)でも悪い結果(帰結は軍国主義と敗戦)を生み出す。
 
 が、こうした歴史の壮大なドラマと民主党政権交代後の事態を二重写しにしては余りに矮小、見当違いの強引なこじ付けすぎないか。
個人の思い込みってやつですよ。
自分勝手に弩壷を掘って、その中と周辺で善と悪の二項対立の世界を描きあげている。
その世界を受け入れる人もいるが、違和感を持つ人も多い。
 
>「政治は血を流す戦争であり、戦争は血を流す政治である」
 
>大久保たちは血を流す政治の世界にいた。(その気概をそっくりお隣の民族と国家まで拡張した)絶対権力の形成過程に置いて、西郷や江藤が大久保たちに武力排除されていったのは、日本近代国家建設の要点、封建制改革の進捗性を巡る政治路線の対立が根底にあったものと考える。
 
西郷や江藤が大久保らに代わる近代化と国家権力形成路線を持っていたとは考えられない。
 
又多分に、維新を達成した藩閥の主導権を巡る争いだったのではないか。
部分ではなくトータルの事を云っている。
 
 この時期の国家権力の形成過程を総合的に見ていく場合、西郷や江藤の反乱は新政反対一揆、困民党騒擾、自由民権運動も含めた、絶対権力形成過程への対抗運動として見ていく必要はある。
 
 その場合、西郷や江藤の反乱は大久保らの近代国家形成過程の急進的な欧化路線で、封建身分を合理化される全国の士族の利害、既得権を根底に置いた不平不満があった、と理会する。
 
 それ以前の明治維新まで至る日本の内乱=戊辰戦争を争った両軍の実体構成にも注目する必要がある。
双方に動員された軍事力の実態は封建藩閥の軍隊である。
動員された士族たちに内乱終結後、それに見合う報酬がなければ、不平不満が発生する当然である。
が、明治国家の国軍形成の基本方針は彼らを丸抱えしないと云うモノである。
ましてや、全国武士の封建身分制度は急速に近代化された。
 
農民も土地評価制による年貢の金納制に変えられ、旧時代の収奪に変わらなかった。
 
国会開設の勅語のもたらした自由民権運動の高揚も加味される。
 
>結果、政治対立が内戦や騒乱になった。
 
我々は正邪紆余曲直の次元の次元ではなく、全貌に迫る必要がある。
 
>裏切り史観的思考パターンが根強く頭にこびりついているようだ。
それを今に適応したのが第二維新達成なる、得手勝手な思い込みである。
よ~く考えると、士族反乱は壊滅させられているではないか。
トロツキーの様に国外追放されるまで戦えと云う事か。
 
それでは常に負け戦への誘いとその当然の結果の正当化の繰り返しだ。
羽ばたく局面を自分の方から閉ざしている。思考パターンは関係者以外に事実上閉ざされておいる。
 
>そもそもが民主政権交代後の事態から今日までの政治過程は、内乱内戦や直接の国家獲得とは無縁な議会政治の政治勢力を巡ってのモノであり、革命と反革命のリアルな論理はあくまでも比喩の次元に過ぎない。
革命とは国家権力の問題である。民主党政権交代は国家権力内、政治(行政へのコントロールは?だが)担当部門の差配変更に過ぎない。大きな国家権力分譲マンションの1階の賃貸フロアーに入居したに過ぎない。
入居直後に家主が出て云ってくれって云う異常事態ではあった。
この特殊事情が植草さんなど一部に勘違いを生んでいる様だ。実体験があるのに、強引でも<推断>してほしいものだ。
 
 確かに私もそういった表現を最盛期にした事があるが、あくまでも比喩であり、事態を解り易く描きあげるための方便と云う弁えは在った。主として検察などの国家暴力機構に絡めて使用したはずで、
>民主政権交代を直接、革命などと正面から主張することは恥ずかしく云えない。
 
 なお、小沢支持デモにも2回参加したが、あの小沢コールにはぞっとするモノが在った。恥ずかしい!居たたまれなくなった。
多分、今回の選挙で代表としてアチコチ駆けずり回った嘉田滋賀県知事も同じ位相の想いを持ったと想うな。
世代的に感情として受け入れられないんだよ。余りに一途、手放し、明け透けな個人政治家への想い、なんて我々の世代は違和感を強く覚える。
我々世代には人間みんなちょぼちょぼ観が浸透していた。
かなり年上だけど、仙谷由人管直人の小沢氏への想いは身体感覚から発する反発もあるのではないか。
マスコミ幹部にもそういう次元は多分あるのでは。
そういう面でも、小沢さんはかなり損をしているのだが、その自覚がるのかないのか。
 
>コレからの政治過程に置いて次の様な原則的視点が大切。自民党憲法改正草案を権として見てつくづくそう感じる。すでに引用済みだけど改めての確認。
 
「権力政治に、権力政治としての自己認識があり、国家利害が国家利害の問題として自覚されている限り、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの<<限界>>の意識が伴っている。
コレに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした<<限界>>の自覚は薄れていく。
<<道徳>>の行使にどうして<<限界>>があり、どうしてそれを抑制する必要があろうか」
 
>以下は自民党憲法改正草案
(前文)
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する
 
>個人の基本的人権は国家、家族のサンドイッチ状態。
 
(現憲法
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 
>自民改正草案では基本的人権条項は
第十一章 最高法規
>〔削除〕
 
問題点は数えあがたらきりがないほど。
国家権力行使(軍隊の武力行使も含む)の限界認識が緩い、歯止め空文化。として道徳や国家イデオロギーが全面化している。
 
 コレを普通の国基本法と想えば、東アジアにおける日本民族の特殊性の良い面と裏面への理解が足りない。
基本的に、この特殊性は世界でも稀なモノ。
 
 先の毛沢東ではないが「悪いものでも良い結果を生み出す(古代日本の東アジアでの後進性が日本封建性を生んだ。それが明治維新の基礎になった)。よいものでも悪い結果をもたらす(横断歩道。みんなで渡れば怖くない。気がつけば、何時も間にやら。同質性は他所にない大変いい事でり、原動力である。が、原発54基、林立事故でもまだ懲りない。忘却とは忘れ去る事なり<君の名は>戦争の印象が残っている時代の超有名なラジオドラマ。こんな無意味な文句が流行ったのも民族性。)」
 
>選挙終わり、ほとぼりのさめやらぬ頃に、もう。云わないでおこう。