(W。1947年は済州島4,17蜂起虐殺鎮圧。日本では2,1ゼネスト中止命令。ただ丸山によると、その後も民主化と逆コースは重なっていた)急激に台頭してくるのが、マッカーサーが1950年の念頭の辞において自衛権の容認を声明し、6月に勃発した朝鮮戦争の直前からなんですね。
それにしても僕らの実感では、なんとも短い春だったという気持ちです。
45年秋に軍国主義から解放されて、僅か5年足らずのうちに、社会的雰囲気がまた変わってしまった。
同じパージという言葉を使いながら意味が180度転換する。
それが共産党中央委員のパージから始まり、各産業、官庁、報道機関、大学に及ぶことになる。
そのとき清水域太郎さんがこんな比ゆをしました。
「樽に水が一杯溜まっていて、それが今度は、共産党員及びその同調者をくみ出して、以前くみ出した人たちを元に戻す。そうやっていつも満杯にしておく。」
(W。1949年中国統一、蒋介石国民党大挙して台湾逃亡。
【今、台湾では台中経済関係強化の法的措置でもめているが】、
両者の経済関係の基本は、個別資本、国民所得レベルでは圧倒的に台湾優位。
>促成栽培の中国資本家は台湾に企業進出してもカネを投資はできるが、儲ける術を知らない。
>逆に台湾企業家の中国進出は中国資本を淘汰する。
>生きた資本主義ではそうなっている。
従って日米のTPPとは重なるところもあるが、違うところが大きい。
間違いなく中国本土とのコレまでの経済関係の強化が台湾一般「国民」に直接的な利益を提供したし(経済成長率だけを見ても解る)、今後もその方向は変わらない。
>今回の法的措置は台湾資本家層の中国本土進出への飽くなき欲望を示している。
一言で言えば、今までの経済緊密化によって、超過利潤が得られてきたし、今後とも半資本参加の規制下でもえられるということだ。
>グローバルマネーの生きた動きからすれば、こうした規制は基本的に一形式に過ぎない。
台中以外の金融拠点を迂回して(既に香港、シンガポール、台湾など華人、金融ネットワークがある)、資金を洗浄して、中国資金のラップを被せることで、法の網を掻い潜ることができるのではなかろうか?技術的なことは解らない。
日本経産省の直近の通商白書の中国投資動向分析から、そのような想像ができる。
なお、中国観察の基本視点は中国史歴史的事実を総合すると、共産党権力関係と中国人民のリアルな活動の場の乖離は大きいということである。大人口多民族国家、広大な領土などの地政学的な問題系を抱えていることもある。
従って、アーミテージレポートにあるように軍事費と治安関連費の支出が同じなどということになっている。
>台湾資本家は、その程度で折り合っても十分権益は獲得できる、ということだ。
>逆に中国資本家は、台湾資本家の活動を規制しなければ、個別に潰されてしまう。
中国政治支配層の面子を立てた妥協点を見出した。
>また、日本を含めた地域の戦略的観点から先を見通す必要がある。
ウクライナ情勢との関連、比較も大事である。
世界の基本情勢が変化してきているが、新冷戦体制ではなくグローバリズムへの収斂である。
ただし、単純全地球一体化ではなく、帝国主義論の不均等発展の観点から、もう一度再考することが求められている。
なお、台湾が中国に飲み込まれる込まれるなどというのは、現実を無視した政治煽動の類である。
100%、あり得ない!
直感に過ぎないが良く的中する。
中国共産党独裁崩壊のタイムウォッチのボタンは既に押されている。
何時どのような形で、ということが、問題になっている。
>TPP問題にもいえるが民族や国家に依拠したグローバリズムへの反抗は安易な政治傾向であり、グローバリズムの推進者で国民国家を実質的に超えようとしている支配層の限定政治傾向である国家主義、民族主義を補完するものである。
民族国家意識を取り込もうとして理論的に苦労した社民右派は敗北した。
民族国家の共同政治幻想という基盤から一固有市民として、一端脱落したところから、新たに結集する。
そういった方向で、この脱落過程を促進するものの傾向は各種、様々である
GHQと旧治安機関、闇の人脈との連携→官、民基幹産業への大合理化と首切りに反対する労働運動と当時、それを主導する共産党にダメージを与える三大謀略事件
>朝鮮戦争特需を契機に日本経済は戦前ピーク時1935年~36年を回復。
>レッドパージによって、労働運動の主導権は産別会議から完全に民主化同盟<通称、民同。総評。→ところが鶏がアヒルに。日本型社民の戦闘性。労働運動の代表的指導者は高野実(多分、初代総評議長)、政治評論家の高野さんの父、反戦平和、労働運動へ。教職員の教え子を戦場に送るな!の勤評闘争。→
1950年代後半にキャッチアップした高度成長経済に溶解する傾向へ】
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治安維持法という法律はむちゃくちゃなもので、およそ民主主義の原則とは相容れない。そのリストがそのままGHQへいっている。
それから僕の知る限り、当時解放感を味わったヒトは、保守派のヒトが後になって言うほど占領軍に対して甘くなかった。
W。解放感を味わうのが世界的にみて普通。虚しい戦時体制を、肯定するのが異常!日本主義者の人のなかでも東条体制を批判する人は多数いる。
むしろ占領軍に告げ口するような日本人に対して嫌悪感を持っていた。
ただ神国日本の不敗を信じてきた国民に日本が負けたということを身をもって知らせようとする方針は徹底していた。
(W。当時の様子は都会から地方へのヤミの買出しと共に邦画にも良く描かれている)
乗り降りは全て窓からです。
そんな状態だったときに、占領軍専用の電車はがら空きでGIがパンパンを乗せ、悠々と走っている。
(W。邦画の主人公がパンパン、オンリーとなる日本映画屈指の名作がある。林芙美子原作、成瀬巳喜男監督作、高嶺秀子、森雅之主演、「浮雲」(厳密には主人公はオンリーとよばれる特定の占領軍兵士専用の現地妻、有名な所では女性評論家の桐島某女。恋愛関係と区別不明。)
敗戦の現実をそういう形で見せ付けたわけです。
それでも日本におけるアメリカの占領は史上稀に見る緩やかな軍事占領だった、という事実は否定できない。
コレは一つには第一次大戦からの教訓が大きかった。
>ウィルソン大統領は今度の戦争は軍国主義に対するデモクラシーの戦争である。
がから今までの戦争のように負けた気にから領土を取ったり賠償を課したりしない。つまり無併合、無賠償を提唱したんです。
ところが現実には、フランスのクレマンソーなどの報復政策のほうが通った。
戦後のドイツのインフレは物凄く、良く笑い話になりますけれど、ビール3本飲もうと思ったら、先に3本注文しなければいけない。
1本飲んでから注文すると、そのときはもう値段が上がっている。そのくらい凄まじい意インフレを引き起こした。
コレは予断だが、そのころドイツに留学した人が一番得したんですね。
本を買うにも、一冊づつではなく、棚ごと買えたり、聞いたらビックリするような世界的教授が日本の一留学生の家庭教師をしたりする。
そういういうアルバイトでもしない限り食べられなかった。
1929年の世界恐慌時のドイツの工業生産値は13で11のイギリスを上回っていた。
ちなみにアメリカは約43、日本はイタリアより下位、最低の約2,8。軍需生産一点張り。)
>『そうした徹底的な抑圧の反動としてでてきたのがナチなんです。
連合国はその教訓が身にしみて、負けた国をあまり抑圧すると逆効果になるという反省があった。
一つにはそれで日本は助かったんですね。
勿論、連戦の激化が早くから見通されていたから、共産圏に対して日本を抱き込もうというアメリカの現実的な狙いもありました。
『もうひとつ、敗戦直後の状況として、食糧事情の緊迫たるや、戦時中も超越していた。
高等学校時代の親友が農林省の食糧管理局にいてこのままだと餓死者が1千万人出るというんです。
(W.植民地を失って、もともとの当時の日本列島の人口扶養力が露呈した側面もある。
当時の人口を7000万程度と想定すると日本の潜在的、自然的な人口扶養力は6000万人<1000万人餓死者、米軍救済?>
現在の食料自給率は40%は栄養事情が改善した面と農業の生産性向上を勘案すると、現時点の日本列島の人口扶養力は8000万にも満たないと想定している。
アーミテージ報告でも資源エネルギー問題に引っ掛けて日本の食料、農業問題をそれとなく匂わせている(恫喝材料)
先進大国の食料自給率を見ると、日本支配層の政治意識は正常状態とは、とても想えない。
何かモノにとり付かれているのではないか。
日本では人民側が間引きという人口自主規制を行っている。人民にとって悲しく、怨念の渦巻く歴史である。)
『僕の意見ではもしそういう事態になったら、占領軍の不名誉になる。ただ、日本国民を懲らしめるためにギリギリまで放出しないだろう。
実際にその予測は当たって、その後、食料放出が一斉に行われた。
>だからその意味では戦後デモクラシーというのは飢餓デモクラシーなんです。
>丁度飽食の時代に民主主義が空洞化していった、その後の現実とは正反対と思えばいいんです。
>そういう状況の中で、言論、出版結社の自由というのは、本当にうれしかった。
>飢餓状態での精神的な自由で、喜びを感じたのはインテリだけではないんですね。
民主主義といったって、何のことか解らないですから、まず民主主義とはどういうことなのかを話し始めるんですけど、庶民は決してしったかぶりはせずに、わからないことはわからないとはっきりいう。
ぼくは米屋の二階に泊まっていたんですが、話が終わってから、米屋のご主人が二階に上がってきて、さっきの話の続きですがといって、しばらく話していると、「アッ、今の言葉はいただきました」という。
いただきましたというのは、頭でなく体で解ったということなんですね。
敗戦直後はまさに、学問のススメの時代で、庶民の中にそういう思考が生まれた。
羅針盤がなくなり方向感覚を失ったわけですから、新しいものの考え方を求めざるえない。
>学問というのは情報じゃないんです。
>主体の問題なんです。
(W。そういえば、切ったりはったりの理研の若手女性研究者がいた。
マスコミは大騒ぎしているらしいが、彼女はまさに今風の御人。
個人の吊るし上げようなことをやるよりも、教訓とすべきことはある。>
>『コレが飢餓の中も民主主義の原点です。
だから戦後民主主義ナンセンスなんていう人がいますが、僕らから観ると逆にそれこそナンセンスです。
そこでいっている民主主義というのは制度のことです。
はなはだしきは戦後政治の現実を戦後民主主義といっている。
理念と運動という民主主義のもっている二つの側面が全く欠落している。
敗戦当時は、憲法制定以前ですから制度はまだできていなくて、理念と運動という民主主義のイロハから始まったわけですから、
高度成長後の所謂『民主主義』とは丁度逆ですね。
その辺の出発点を理解しないと、戦後の出発点はわからないと思います。
【敗戦直後の憲法草案時期のリアルな描写】
そういう流れの中で憲法草案が考えられてきた。
確か45年10月頃だったと思いますが、僕は近衛さんとあったことがある。
30才ソコソコの若輩なんですが、田中耕太郎先生と一緒に首相官邸に呼ばれて、雑談したことがあります。
それからほぼ1カ月後は戦犯指定を受けて毒をあおった。
彼等の跳梁跋扈で日本は滅んだ。
戦後日本体制における天皇ー国体の地位の改変はあっても、が身分は保障されると言い切っている。
『しかし少なくとも敗戦の年の暮れまでは、一般には憲法は余り争点になっていなかったですね。(W.暮れに旧体制国会の解散ー総選挙実施)
1)それからまもなく幣原内閣の私案ができ、松本案が発表される。
僕はそのメンバーの中で一番若手だったから書記役をやらされた。
そこで帝国憲法の審議をやっていたんですが、その最中にGHQの原案に基づく政府案が発表された(46年3月6日)
(W.それは
↓
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
3)その直後に各政党が憲法草案を発表していましたが、社会党でさえ国家に主権があるという国家法人説(W.国家法人説を採用すると天皇の位置づけは、まさか<総覧する>は拙いから国家の代表(元首)みたいな表現をするしかない。)
>憲法研究会のメンバーもみんなビックリしてたのを覚えています。
W.我々にはただの戦後天皇の地位の規定条項しか思えないが、戦前の空気感のないモノには彼等の心境には想像しがたい部分がある。
山あり谷ありの生きた歴史の中で、対抗物(免疫力)を持たないもにはそれは半ばDNA化していたのではないか。
東大法学部のこれ等メンバーに天皇制=国体への明確な対抗物(免疫力)があったとは思えない。
だから、1条にみんなビックリした。
『そのうち帝国議会に政府の修正を経た草案が提出されることになり、東大の委員会は対策を作る時間がないから、
手続き問題だけを起草して南原総長に具申したわけです。(W。議会に政府草案が提出されれるわけだから手続き問題は時、既に遅し。やはり政治理感覚が鈍い。
研究会の銀に基づいて僕が原案を書いたので良く覚えて今しけれども、
簡単に言いますと、草案を国民におろして憲法制定会議を開催せよということです。
その発言の背景にはそういう経緯もあったと思います。
こちらはわりと若手が多かったので、東大の憲法研究会よりもラディカルな意見が多かったですね。
W,戦前戦後の歴史は敗戦を画期としても継続していた。
ー「戦後民主主義の原点」終了ー