反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

陳峻臣 「中国歴史の旅」改題。~魯迅翻訳の日本の作家たち~日本に留学した中国のエライ人?たち~魯迅、孫文、周恩来→魯迅の「藤野先生」は良い話。

 陳峻臣は作家であって、前回取り上げたような生々しい日中間の政治に触れた話題は、前回取り上げた部分だけであり、「中国歴史の旅」は作家陳峻臣の目から見た中国の歴史案内、興味ある史跡などの紀行文の体裁をとっている。文芸作品や地誌として読んでいるつもりで、欧米文化に比べて、中国に感心の余り向かわない自分にも読み進められた。正直に言えば、自分の興味の向かう方向は、欧米>日本>中国。最も今を生きる日本人である以上、そのままでは、どうかなとはいつも想っているので、無理やりこういう刷り込み作業のようなことをやっているわけだが、感性的な拒絶感の修正を志す。


         陳峻臣 「中国歴史の旅」  
芥川龍之介が北京を訪ねて北京によったのは、五四運動の二年後のことでした。(W、1921年)。
魯迅http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85が雑誌『新青年』に『日記』を発表したのは、五四運動の前年のことでした。魯迅の『狂人日記』はその内容だけでなく話し言葉で書かれたという点でも、読者にショックを与えました。魯迅の処女作であると共に、中国近代文学のスタート的作品というべきでしょう。
当時の最も進歩的と見られてた『新青年』でさえ、ほとんど文語体でかかれていたのです。彼の文名が決定的になるのは『阿Q正伝』によってですが、芥川訪中のときはまだ発表されていませんでした。
 
。『阿Q正伝』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D世界文学の傑作だと想う。
主人公阿Qと当時の中国農村地帯の社会風土、中国社会の政治風潮にリアリティーがある。私小説的要素を排除した様々な解釈が可能なフィクションとしての完全な小説である。自らの自然なハードボイルドな振るまいによって、気が付けば刑場に引き立てられていた阿Qの不条理そのものの存在は、実存小説に通じる。
カミユ『異邦人』(主人公ムルソーと阿Qは繫がるものがある)、カフカ『変身』(村に革命党がやってきた、阿Qの転身大胆行動)  『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』(この小説は異邦人にネタ本とされている。ラナターナー→ジャックニコルソン、ジェシカラングの二回映画化されている。後者は傑作だと想う)などの断片的要素が『阿Q正伝』に含まれている。
 
 W。日本文学では、芥川作品のように完全に口語体が使用されていた。
ウィキペディア引用 「魯迅の作品に見られる特徴のひとつとして、欧米語とりわけ英語の文法のをなぞった、本来の中国語(白話)には無い語法がある。彼は中国語が文法的な精緻さにかけているという発想に取り付かれており、欧米語は文法が精緻なので思考も理性的なのだと考えていた」
江戸時代、明治初期の文語は漢文調だった。→森鴎外
W。「魯迅の名はまだ一部にしか知られておらず、毎日新聞社員の肩書きを持つ芥川の訪中では面会相手に含まれていなかった」


           陳峻臣 「中国歴史の旅」  
 芥川の訪中の翌年、上海の商務印書館から、『現代日本小説集』が刊行されました。利人とその弟の周作人の共訳です。何しろ15人の作家の作品30篇がおさめられているのです。そんな先行者の目を持って日本の小説を特別たくさん読んでいたはずです。
この『小説集』については、芥川は大正14年(1925年)(W、関東大震災1923年、治安維持法実施1925年普通選挙実施1927年だから、戦前の昭和史は戦争の時代といえる。)
の『新潮』3月号に、小文の中で(W。そんな古い時代から発行された、日本は文学の政治への影響の強い風土)
『コレに集めてあるのは国木田独歩夏目漱石森鴎外鈴木三重吉(引用 ウィキ。「鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介有島武郎泉鏡花北原白秋高浜虚子徳田秋声らが賛同の意を表明した。、『赤い鳥』は18年間(計196冊)刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われる。しかも学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたという。
 一方「童心主義」と呼ばれる方針は、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた[1]。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。」W。どうこう云うより、作品をじかに鑑賞したいが、ほとんど載っていない。シャボン玉って、あのシャボン玉とんだ、屋根までとんだ~というのかな。時代を経ての文学的評価はキビシイものでダメなものは廃れる)
武者小路実篤、有島武朗、長与善雄、志賀直哉、千家元麻呂、江馬修えましゅう(W。名前も知らなかった。「夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊、1926年以後ヨーロッパに渡り、帰国後、『戦旗』に属するプロレタリア作家として活動する。戦中から戦後にかけて、長編『山の民』を執筆し、中華人民共和国で最も有名な日本の作家だった。
戦前は作家・民俗学者江馬三枝子と結婚。戦後、豊田正子と知り合い夫婦同然に暮らすが、三枝子は離婚に承諾しなかった。ぬやま・ひろしとの交遊から文化大革命中の中国に渡り、豊田にこれを礼讃する著作を書かせるが、その後、50歳ほど年少の天児直美と恋に落ち、豊田を捨てて天児と暮らした。
W。なるほど、政治的に中国派に分類できるお人だったのか。」
江口(この漢字読めないは、一部では有名な人)、菊池寛佐藤春夫加藤武雄→W。大正末から昭和初期にかけて、中村武羅夫三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡。戦時下には戦意高揚小説を書き、戦後はやはり通俗小説を量産し、今では忘れられた作家である。
津久井湖(城山ダム・城山大橋)方面から国道413号の都井沢交差点を左折し直進した先にある、城山発電所の構内を抜けて坂道を登り城山湖畔に向かう途中に加藤の文学碑がある。この文学碑は女婿の丹下健三が設計した。門人に佐藤愛子がいる。ナルホドな。忘れ去られた流行作家にも華やかな時代があった。)
僕(芥川)この15人、30篇である。このうち夏目漱石森鴎外、有島武朗、江口?菊池寛、芥川6人は魯迅君の役で、それ以外は周作人の作である。
 と紹介しています。
 
魯迅は芥川の「羅生門」「鼻」の二編を訳したのです。芥川は少なくとも自分の作品には目を通しているはずで、「なかなか正確に訳している」と書いています。芥川が北京に入る間魯迅が芥川の作品を訳していたか、少なくとも呼んでいた可能性が大いにあります。
 
五四の年(1919年~)に、魯迅武者小路実篤の戯曲『ある青年の夢』を訳しました。そこに登場するある青年の言葉に、
    ↓
「その人間は嘘つきで有名な人ですから。それに平和のために戦争が必要だという人ですから。
平和会長としては軍備を亡くさなければ平和が得られないと世界に公言しながら、総理大臣としては軍備拡張に骨を折っているのですから。
そればかりではありません。彼は好んで戦争をしました。ここにいる私の親友はそのために死んだのです。」
というのがあります。
 
『その人間』が大隈重信のことを指すのは、ハッキリしているのです日本が中国に21か条の要求を突きつけたのは、『その人間』が総理大臣であったときでした。
 
W。有島武朗、とともに武者小路実篤大正デモクラシーの代表的作家。関東大震災までが、大正デモクラシーの時代だったと想う。震災のドサクサに紛れて官民共に、むちゃくちゃなことをやって地金を出してしまっているわけだから
「理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した」
「1936年、ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく[3]。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った[4]
1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。」
1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙揮毫したことでも有名だった。」
 
  W。一人の作家の紆余豹変は短い文章では簡単に、総括できるものではない。論じるならば、大正デモクラシーの質との関係を押さえてから論じるべきで、それをやらない角度から論じても表面的になりがちだ。所謂、転向問題を同じ次元で論じるべきでないことだけは確かだ。そこまでの一貫性、体系性を自らの政治思想、行動に自覚したわけでなかったのだから。武者小路的立ち場からする時代に対する抵抗の可能性として想定できるのは、永井荷風的に世を相手にしない、という立場しかないだろう。そういう立場を選んだ大正リベラリストは結構いるのではないか。戦時風潮に非協力、無視、己の世界に閉じこもり
 それで敗戦と共に、その中の政治指向の元々強かった者は敗戦直後のデモクラシーを主導する立場に着いた。他方で坂口安吾などの文学的世界が一斉に開示され、行き場のない知識分子になんとなく立ち位置を与えた。
それ以降の時代風潮の変化というか文化的世界の選手交代があって現在に至る。省略するが、こうして欧米指向の自分が、少し無理をして中国の話題を書いている事になっている。どういうことなんか?


時代は変わる→The Times They Are a-Changin
 時代は動く The Times They Are A-Changin' ボブ・ディラン Bob Dylan
W。歌詞の内容は今でも新鮮リアル含蓄がある。
 
仲間を求めるがよい
  どこにいようとも
  君の周りでは
  流れが渦巻いてる
  だから気をつけろ
  でないと溺れるぞ
  もし君に
  未来があるなら
  ちゃんと泳ぐんだ
  沈んでしまわないように
  時代は動いていくのだから

  作家や批評家たち
  予言者を自認するものよ
  目を見開きたまえ
  時代をよく見るんだ
  早急な物言いはするな
  歯車が回らないうちに
  誰が勝者で誰が
  敗者かというな
  今負けたものが
  明日には勝つこともある
  時代は動いていくのだから


  上院議員や下院議員
  謙虚であれ
  威張り散らすのが
  能ではない
  世の中は色々で
  人々もさまざまだ
  議会の外では
  嵐が渦巻き
  君たちの足元を
  掬わないとも限らない
  時代は動いていくのだから


  お母さんやお父さん
  国中の大人たち
  嘆いてはいけない
  自分の理解を超えたことを
  あなたたちの子供たちは
  あなたたちには理解できない
  あなたたちの生き方は
  通じないのだ
  余計な世話は無用だ
  できないことはできないのだ
  時代は動いていくのだから

  ラインが引かれると
  呪いが放たれる
  足の遅いやつだって
  早くなることもある
  今新しいことも
  明日には古くなる
  秩序だって
  混沌に変わる
  正義だって
  悪徳になる
  時代は動いていくのだから

 
Come gather 'round people            イメージ 1        
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone.
If your time to you
Is worth savin'
Then you better start swimmin'
Or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'.

Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'.

Come senators, congressmen
Please heed the call
Don't stand in the doorway
Don't block up the hall
For he that gets hurt
Will be he who has stalled
There's a battle outside
And it is ragin'.
It'll soon shake your windows
And rattle your walls
For the times they are a-changin'.

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'.
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'.

The line it is drawn
The curse it is cast
The slow one now
Will later be fast
As the present now
Will later be past
The order is
Rapidly fadin'.
And the first one now
Will later be last
For the times they are a-changin'.


       日本に留学した中国のエライ?人たち
(1)魯迅  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85  W、中国読みのルーシュンのほうが良い。
「込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。その間日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに処刑される様を同胞である中国人が喝采して見物する姿があった。その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊』自序)。学校における細菌学のスライドを用いた授業において、当時の時事断片が余り時間に上映され、その中に処刑の場面があった、という記述もある(『藤野先生』)。」
 
    魯迅と仙台
仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。その藤野との関係は、小説『藤野先生』に以下のように描かれている。
    
私の講義のーと取れてますかと彼は尋ねた。「どうか見せてごらん」 私は筆記したノートを彼にさし出した。彼は受け取って一両日中に返してくれた。そして毎週持ってきて見せるようにといった。
持ちかえって開いてみて、私はビックリした。同時にある種の困惑と感激に襲われた。私にノートははじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の過ちをことごとく訂正してあった。このことが彼の担任の骨学、血管学、神経学の講義全部にわたって続けられた。
~~
だがなぜか私は、今でも彼のことをよく思い出す。我が師と仰ぐ人の中で彼はもっとも私を感激させ、最も励ましてくれたひとりだ。私はよく考える。彼が私に熱烈な期待をかけ、辛抱強く教えてくれたこと、それは小さく言えば中国のためである。中国に新しい医学が生まれることを期待したのだ。大きく云えば学術のためである。
新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。私の目から見て、又私の心において、彼は偉大な人格である
その姓名を知る人がよし少し少ないにせよ。
 
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華人民共和国中華民国では国父国家の父)と呼ばれる。
海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。
    呼称・号
中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。
    号の由来
孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。中華民国国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学南極大陸中山基地、そして現在台湾中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
 
     日本留学
南開中学卒業後の1917年に、日本留学。日本語の習得不足により第一高等学校東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園靖国神社三越呉服店浅草など、各所を積極的に見てまわっている。1918年5月1日には靖国神社の大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」。また6月2日にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。同年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月については記録もなく、よくわかっていない。苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。
船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。
   黄埔軍事学校での周恩来