反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回分。 2 .「新極右」という「混成的ネオ・ファシズム」の台頭。~ネオ・リベラリズムは戦間期の自由放任主義の再来。もしネオ・リベラリズムが戦間期のように崩壊すれば、⇒W。トランプ現象。以降の筆者の論調は論理が詰められず、事象をなぞるだけに終始。丸山真男の破綻を想起させる。

 2 .「新極右」という「混成的ネオ・ファシズム」の台頭

 ~~W。緊張感のある選りすぐられた文言が続く。

1 .比較政治学における「ネオ」の諸概念と政治的精神形態――民主主義との混成的政治の基本視座が要約されており、一言たりとも省略できない。~~~

 引用

「シュミッターの楽観的な見通しとは異なって⇒W1注釈。1980年代の楽観的な見通しを特定する、ネオ」の諸現象は必ずしも歴史の進展に伴っているとは限らない。⇒W。ローマ以降のヨーロッパ中世のある時期までは歴史の逆行現象。先進はイスラム、中国だった。

むしろ古い思考パターンや精神形態が新しい歴史的環境のもとで再生しているという点において、問題だったり危険で憂慮すべきだったりする場合も存在する。

ネオ・クライエンテリズムや新封建制はその典型である。
 ネオ・リベラリズム戦間期の自由放任主義の再来であって、

その時と同様に社会的問題や経済的危機を招く危険を筆者は懸念していた。

リーマン・ショックや貧富の格差の拡大は、その現れであろう

@そして「もしネオ・リベラリズム戦間期のように崩壊すれば、⇒W。トランプ現象(排外主義、空疎な愛国主義保護貿易主義は市場主義がもたらした。

今度もやはり議会制民主主義には危機が訪れて⇒W。もっとも驚くことではないけれど、現職の大統領が議事堂前で扇動した、という意味でメモリアルな出来事であった。

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>IT世論、テレビの分立、分散によって、人々の状況認識はそれらの媒体に閉じ込められ、客観的な評価の基準に達しないまま事実や真相になり果てている。

>元々、アメリカという国では陰謀論が大流行りしていた。陰謀論者も割合も他国より多すぎた。

アメリカンデモクラシーが機能すれば、その対抗に事あるごとにザブロックが形成されていった、という問題もある。トランプはザブロックの情緒を解き放った。いわばパンドラの箱を開いた。

www3.nhk.or.jp

国家主義や強権体制が成立し、専制・独裁などに至る危険すらあるのではないか」⇒W。コロナパンデミックはこの傾向を加速する。株式市場の高揚と巷のコロナ渦の対比に独特の1930年代への突入を重ね合わせることもできる。財政赤字無用の現代貨幣理論も流行ってきている。

という疑いすら論理的には存在するように思われた。

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W。注釈1

引用

「シュミッターは上記論文で「私たちがなおコーポラティズムの世紀にいることを再確認する」に至るが、

それは国家コーポラティズムに戻るものではなく

>社会コーポラティズムが問題を乗り越えて新しいシステムへと発展することを期待した。

>それは「広範な、専門化されない非階統的で、蜂の巣状の共存関係をもった自発的単位」による利益システム(サンディカリズム)である。」⇒W.金子勝さんの日本のもう一つの道、の問題意識(地域分散型IT駆使エネルギー網と産業経済構造の構築)のアウトラインもほぼ左記のようなもの。

@「もう 1 人の代表的論者ゲルハルト・レームブルッフは「政策形成の制度化された 1 つの型」としつつ同じような類型化を行い、この 2 類型を「リベラル・コーポラティズム」⇒W。端的に言えばスウェーデン型の高福祉高負担、コーポラティズム民主政

と「権威主義的コーポラティズム」⇒W.自公政権+「いしん」はコレに近い、と思うが、読み進んでいるうちに考えをまとめたい。と呼んでいる。

@なお、コロナ渦のスウェーデン、最新情報はコレ定期的に情報を寄せている筆者は同国最大病院、カロリンスク大学病院勤務~1500床~の日本人女性医師。結婚して移住。政治感覚は半分スウェーデン人だが。半分日本人。報告の末尾においてノーガードコロナ対策、命の選別、施設の老人大量殺人の日本向け言い訳ををしている。

W。日本と同じノーガードコロナ戦略(この女性医師によれば両国を結ぶ価値観は人権尊重らしい⇒本末転倒ではないのか!)をとっていたスウェーデンは、感染者急増、重症者死亡者治まらず、人的物的非常時動員、集中のコロナ対策一方で、一般手術患者の待機状態が生じる段階に達しているようだ。

Wの感触では、スウェーデンの高い生産性は、国、地域のレベル、職場住民個々のレベルにおける人性の解放によって支えられてきた。バイキング精神?コレは同じノーガードコロナ対策の国でありながら日本とは根っこが違う。

W。日本のノーガード対策の根底には、1つの有形無形の固定的精神構造(習俗文化政治軍事、経済諸々)がある。それは日本歴史の底流にあり続け、危機の際に浮上する無常観である。東アジア東端の付加体列島住民生活において天変地異が繰り返されてきた(方丈記一方で、

他民族侵略の歴史がほぼなかった「平和」で内乱といえども小規模陰謀が主流であった(平家物語)張り付いた精神構造である。

この世は仮の宿なのだ。そこに激発する天変地異の一種にコロナ渦を見たていると、日本人の精神構造の即自的な反応様式は、方丈記の俗世間の都に未練たらだらの人里離れた方丈庵への引きこもり日常性の維持である(マスコミは不安を煽るな!はこの精神の象徴~本人たちがテレビ視なけりゃ良いだけなのに~)。まず、住民全般~空気感~、個々人(キャラクター)の根底方丈記的政治アパシーが宿っている。安寧状態でいたいのだ。それに寄生する政治家の行動は、天変地異に際しての異常な精神的な高ぶりの回避、鎮静化することを第一目的にせざる得ない政治家は政治家で一般民の性向を見切り、空気を読んでそれなりの配慮をせざる得ないが

>その際に一番安易で、自らのエスタブリッシュメントを護持できる方途は<無為無策>状態を装うことだ。

末期の徳川幕藩体制も最初はそういう振る舞いをしてきた。

東アジア太平洋戦争に至る過程の支配層も同じ行動様式をとってきた。

>その一方で、状況が煮詰まってくると「平家物語」状態になる。

新旧支配層の内輪もめ、新旧折衷軍事体勢=への移行⇒権門体制という歴史用語でまとめられる。

この項についてはこの記事を参考に確認していく

現状の歴史の眼による評価は難しい

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 W。以下、ここまでとは一転して政治事象の羅列に終始し、根底的な問題提起はしていない。理念欠如の嘆き節だな。しかし事実の一端知るという意味で拝聴しよう。

「もっとも 20 世紀末の比較政治学では、冷戦終了という明るいムードの中で
このような懸念はそれほど感じられていなかった。J・リンスによって全体主
義論や権威主義論が提起されて論じられていたが13、全体主義論は主としてソ
連や東欧圏などの共産主義国の問題であり、権威主義論は主として発展途上国
の問題と考えられているように見えた。逆にシュミッターらによってラテン・

アメリカをはじめとする発展途上国や東欧諸国について権威主義から「民主主
義への体制移行」が注目され、活発に論じられていた14。南欧共産主義諸国、
ラテン・アメリカ、アジアなどで 1974 年から 1990 年代にかけて民主化の「第
3 の波」(ハンチントン)15 が生じていたからである。
 ところが世界史の流れは 21 世紀の 10 数年が過ぎたころから急速に暗転し
てきたように思える。9・11 以来の「反テロ」世界戦争は「文明の衝突」(ハ
ンチントン)を現実のものとして、中東地域に混乱をもたらしイスラーム
(IS)を生み出した。それらの結果、イスラーム過激派によるテロが起こり、
EU 諸国に対する難民や移民の問題が深刻になった。 

 そして今では、移民排斥や反 EU を訴える右翼的ないし極右的な政党がヨー
ロッパ諸国において経済的困難の中で伸張している。たとえばイギリス(イギ
リス独立党)、フランス、オーストリアスウェーデンなどで議席を増やして
いる。2014 年の欧州議会選挙では、フランスでは極右政党である国民戦線(党
首マリーヌ・ル・ペン)が 25%の得票で 24 議席を獲得した。またドイツ国
民主党ギリシャにおける「黄金の夜明け」、フィンランドにおける「真のフィ
ンランド人」、デンマーク国民党、オランダにおける自由党ハンガリーのヨッ
ビク(右翼青年協会)、オーストリア自由党、イタリアの北部同盟などが欧州
議会に議席を獲得した16。

そしてパリ同時多発テロ(2015 年 11 月)後のフラ
ンス州議会議員選挙(2015 年 12 月 6 日)では第 1 回投票で国民戦線がフラ
ンス全体では 28%の得票を得て、13 州の内の 6 州で首位となった。第 2 回投
票では国民戦線は、その特に強力な地域で左派連合が右派連合の候補を支持し
たためにどの州でも一位にはならなかったが、得票率で 27%を得た(右派連
合 40%、左派連合 29%)。

さらにアメリカでも現在進行中の大統領選において共和党では過激な言動で
知られるドナルド・トランプ氏が優勢になっているし、第 2 位のテッド・ク
ルーズ上院議員リバタリアニズム的な強硬派である。トランプ候補は経済政
策では累進課税の強化や社会福祉の拡充を主張するものの、メキシコなどから
の移民やイスラーム教徒の移民に対する拝外主義的言動によって極右と呼ばれ
ることもある。
 先進国と言われる西欧諸国で、右翼的ないし極右的な政党や政治家がこのよ
うに多くの支持を集めることは 21 世紀が始まった時には予想できなかった。

1980 年代初頭からすでに極右の台頭現象は存在していたが、短期間の内にヨー
ロッパ主要国の主要政党や、アメリカにおける 2 大政党における大統領候補
者になるとまでは思えなかったのである。
 このような現象は時に「ポピュリズム(人民主義)」と呼ばれることがある。
アメリカでは同時に民主党でも、「民主社会主義者」を自称するバーナード・
サンダース上院議員が(本命とされる)ヒラリー・クリントン候補と競って予
想外の善戦をしているので、これもあわせて「ポピュリズム」とみなされるこ
とがある。

 

>政治哲学者マイケル・サンデルは、サンダースとトランプの双方の
人気をアメリカ政治におけるポピュリズムとみなしている。アメリカン・ドリー
ムによる地位の上昇に希望を見出せなくなった人々には 2 人が「救済者」の
ように見え、民主党共和党双方のネオ・リベラリズム的な主流派に抗議して
2 人を支持しているというのである1。

ポピュリズムという概念は、もともとはアメリカにおける 19 世紀末の人民
党や、1930 年代から 50 年代のラテン・アメリカの大衆的運動を指すところ
から始まった。前者は、鉄道などの独占企業に対して農民が職人・労働者と連
合して、通過増発や累進所得税、鉄道や電信電話の国営化、直接民主主義的な
制度などの革新的・進歩的政策を主張した。後者は、アルゼンチンのペロンや
ブラジルのバルガスなどの個人的カリスマを持った指導者によって農民や労働
者の保護や社会正義の実現を主張した。
 これらのようなポピュリズムは、政治的エリートやエスタブリッシュメント
に対して人々(人民)が抗議・反対するという点で反エリート主義的であり、
しばしばカリスマ的リーダーが民衆的・人民的な意識を鼓舞して現状を打破す
る改革や革新を主張する。そこで政策の妥当性や質は別にして、進歩主義的・
改革主義的ないし変革的な外観を持つ政治になる。明確な思想やイデオロギー
はあまり持たないが、特権や既得権益に対するその批判は道徳主義的であり、
敵と味方という二分論的なものになりやすい。

 

>そこで通常政治の観点からは民主主義に対する脅威とか衆愚政というように
危険性されることも多い。もっともたとえばアメリカの人民党は反動的な農民
政党とされることがある反面で、その後の革新主義につながる政治的革新をも
たらした面もある。だからポピュリズムは直ちに民主主義に対する危険を意
味するわけではない全体としてはこの両面が存在するから、それぞれについ
てどちらが優勢か考察する必要があるだろう。⇒W??

 

とはいえ、確かに非民主主義的・非理性主義的な政治に向かう傾向も存在す
る。特にナチス・ドイツやイタリア・ファシズムなどの独裁政治も、少なくと
も当初はカリスマ的リーダーによる反エリート主義的で善悪二元論的な政治と
いう点においてポピュリズムに似た形で勢力を増やしていったからである。ま
た戦前にはこれらのような完全なファシズム(真性ファシズム)にはならなく
とも、その前駆的な形態とみなせる政治運動がヨーロッパの各地に存在した。
これは「前ファシズム」(山口定)と呼ばれる。これらの中にはポピュリズ
ムと似たものも存在しただろう。だからそれらを「右翼的ポピュリズム」ない
し「極右的ポピュリズム」と呼ぶことも不可能ではないだろう。
 

戦前においては民主主義的体制において極右政党が台頭し、政権に近づいて
いったのである。

 

W.反俗日記は古代ギリシアアテナイ民主政を論じたフィンリーの議論を連載した。

アテナイデモス戦士支配の民主政は共同体を基礎にしていた

フィンリーはソクラテスプラトンアテナイ民主政批判路線に対してデモス戦士共同体こそが民主政の基盤という立場から、それを徹底的に擁護している。民主政共同体のいわゆる衆愚政治への転換ととらえるのは、果たして歴史の眼に忠実な立場なのだろうか?またアテナイ民主政を現代の理念として抽出するときにソクラテスの理念で良いのか?プラトンで良いのかという大問題がある。

Wはデモス支配は戦士の民主政共同体によって成り立つという立場であり、合衆国憲法修正条項を認める立場である。民主政は話し合いに終わることはない。行動に直結する。国会議事堂前に集結した民衆はトランプ大統領のデマを問いただすべきだった。その政治思想や行動はねじれ屈折している。

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古典古代における民主政の経験とこれには共通性があるアテネにおいて世界初の本格的な民主政が成立したが、優れた指導者ペリクレスの死後にはデマゴーグたちにアテネの市民たちが惑わされてスパルタとの無謀な戦争を続け、アテネは衰退した。政治哲学においてこれは衆愚政と呼ばれる。
20 世紀の独伊においても民主主義が一度は衆愚政に転落し、極右政党が台頭し
ファシズム的な独裁に移行していった。それは全体主義体制とも言われる。

同じことが 21 世紀に起こらないという保証はない。そこでポピュリズム
衆愚政に陥って独裁に至るのではないか、と危険性されるのである。それでは
今日台頭している極右政党は民主主義の崩壊や独裁、さらには真性ファシズム
へと展開していく危険があるのだろうか。
 今の段階ではたとえばフランスの国民戦線がかつてのドイツやイタリアのよ
うな真性ファシズムに展開するという予測はあまり聞かない。なぜなら国民戦
線党首のマリーヌ・ル・ペンは、名誉党首となった前党首ジャン=マリー・ル・
ペンの三女だが、移民排斥以外の点では福祉充実・弱者保護などを主張して以
前よりソフトなイメージに転換して現実主義的路線を追求しているからである。
それによって党勢を上昇させ、反ユダヤ的発言などのような過激な発言を行う

前党首とは確執が深まり、前党首は除名されて新党を結成した。だから国民戦
線の議席増加がかつてのようなファシズムに直ちに結びつくと考えられてはい
ないのである。
 このような傾向は、今日浮上しつつある極右政党一般にもしばしば見られる。
戦後に、独伊の真性ファシズムを崇拝してそのような運動の復活を目指す勢力
は「ネオ・ファシズム」と呼ばれた。たとえばイタリアにおける「イタリア社
会運動」やそれを中核にする「国民同盟」、ドイツにおける社会主義帝国党や
ドイツ帝国党、ドイツ国家民主党などがそれに相当する。これらは既に保守主
義に変質したり消滅したりしていて、今ではドイツのネオ・ナチズム(国家社
民主党など)やイタリアのネオ・ファシズムは小さくなっている。

その他の
先述の極右政党の中でかつてのファシズムと似て暴力的なのは、ギリシャの「黄
金の夜明け」やハンガリーのヨッビクくらいである。

そこで山口定らによって、かつてのファシズムの復活・再来・継承を目指す
「ネオ・ファシズム」のような「古い右翼」と区別して、1980 年代中葉以降に
現れたそれ以外の新しい右翼を「新右翼」と呼ぶことが提案された21。ここで
いう「右翼」は「極右(extreme right)」とあまり変わらないとされているから、
この 2 つを「旧極右」と「新極右(neo-extreme right)」と言ってもいいだろう。
 「旧極右」と違って、今日議席を増やしている極右政党は、一応は議会制民
主主義を認めて選挙による政権獲得を目指している。だからこれらは「極右」
と呼ぶよりも「急進的(ラディカル)右翼」(radical right)ないし「ポピュ
リスト右翼」と呼んだ方がいいという見解もある22。ポピュリズムという観点
から言えば、「右翼的(極右的)ポピュリズム」と言えるだろう23。

 

 アメリカやラテン・アメリカなどのかつてのポピュリズムが改革的志向を
持っていたのに対し、1980 年代以来の急進右翼的ポピュリズム(フランスの

国民戦線など)が電子メディアなどの新しいメディアを活用するなどして世界
の各地で伸張したことに着目して「ネオ・ポピュリズム(neo-populism)」と
呼ぶこともある24。またラテン・アメリカなどで 1990 年代にネオ・リベラリ
ズムの政策を推進する権威主義的政権が出現した(メキシコのサリナス、アル
ゼンチンのメヌム、ペルーのフジモリなど)。これらやベネズエラチャベス(貧
困層や農民などのための社会主義的政策を主張)は民衆に訴える政治を行った
が、ペロン(アルゼンチン)やバルガス(ブラジル)のように農民・労働者の
保護を主張する「古典的ポピュリズム(classical populism)」とは政策や支持
層・形態などの点で違うので、やはり「ネオ・ポピュリズム」と呼ばれている。

 

W。何を言っているわからなくなった。こういう些末な分析はすべきでない。

何も語らないために何かというの類だ。政治学は行動の裏付けがなければ真に迫らない。

 

しかしこれらの極右政党は移民の排斥や反 EU などを過激に主張し、そのイデオロギーや思考様式は戦前の極右やファシズムを想起させる。制度的には議会制民主主義の枠内ながら、極右ないしファシズム的な思考パターンが存在するのである。

そこで、上述のネオ・クライエンテリズムや新封建制と同じように、このような右翼は「新極右(new extreme right)」25 という性格を持っている。

戦前のファシズムそのものの復活や再来ではないという点ではこれは「ネオ・ファシズム」ではないが、ファシズム的精神形態は持っている。だから議会制民主主義とファシズムとの混成形態である。その意味で「混成型ネオ極右」とか「混成的ネオ・ファシズム(hybrid neo-fascism)」と呼ぶことも不可能ではないだろう。

      

   W。 筆者の結論 社会管理の立場に貫かれている。

このような政治が戦前のような真性ファシズムへと転化しないという保証はないからそれには不断の警戒が必要だろう。そこまではいかないにしても、このような政治が台頭するということは、

移民の排斥や少数者への不寛容、ヘイト・スピーチをはじめとする暴力的・抑圧的政治的行動、自由な言論や政治への威嚇や侵害、戦争への積極的姿勢など、様々な点で深刻な問題をもたらす。
仮に民主主義体制が制度としては維持されるにしても、これは実質的な民主主
義の危機をもたらすのである

 

  3 .戦前戦後循環論――日本における民主政の盛衰 ⇒W。丸山真男の底流精神行動浮上論の適応が予測される。であれば独創性パッションがない。

                   次回に続く