反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第1回分。コロナ渦は世界各国のキャラクターと底流の社会的深層心理を白日の下に浮上させた(USAトランプ現象。日本欧州、中国)。腑に落ちる基本視座を提供する政治論文を連載。~歴史推移の底流にある精神構造が様々な時代の制度に現れる場合、その深層の精神構造と(起源を異にする)表層の制度が混合(新**)。民主制が広範に行きわたった時代の大転換期において、かつては君主制や寡頭制において現れていた現象が民主制において発現。

   時間不足のため、とりあえず貼り付けておく。後、編集再考する。

今目の前で起こっていることに対して、歴史的な視座で認識するのは難しい作業である(小林秀雄)。

過去ー現在ー時間経過の将来=結果。今現在の事象を測る尺度や基本視座が必要。

日本の特殊現象に対して民主を主軸に置けば丸山真男の視点は欠かせない。

この文章も丸山の日本の底流の精神構造、浮上論を下敷きにしている。

コレなくして日本のコロナ対策や、連動する言説の摩訶不思議(Wの視点から見れば、ということだが)は腑に落ちない。

なおコーポラティズムに関心を持ったのは直近では、コロナ渦のスウェーデンと日本の表面上のコロナ対策の類似性に着目し(コーポラティズム、エマニュエルトッドの家族形態の類似も参考)、出来る限りスウェーデン情報を集めた結果である。

そのずっと前は、イタリアファシズム、とナチズムの違いを反俗日記上で調べ、両者を一緒にする間違いを指摘した。戦前日本の社会経済構造はドイツよりもイタリアに近い。

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   今なおファシズムの世紀なのか?―日本における政治循環と新ネオ権威主義
     千葉大学人文社会科学研究科教授 小林 正弥

 

1 .比較政治学における「ネオ」の諸概念政治的精神形態

――民主主義との混成的政治

 
 フィリップ・C・シュミッターは「いまなおコーポラティズムの政治なのか?」という記念碑的論文(1974 年)で、歴史政治学において重要なネオ・コーポラティズムを提起した。

⇒W。調査。日本のこの方面の問題意識は浅すぎるようだが、今回の特集を深める意味でも興味深い情報を見つけた。今回の特集を深める意味でも。しかし項目だけを見ると問題意識が根源的ではない。

⇒W。1章読了。反俗日記の記事と同じ。枝葉末節に拘りだらだらと長いだけ。

>各項目を繋ぐ問題意識が不鮮明。知る人は知っている常識論を事細かく論じているだけ。削除しても良いレベルだが、事実を押さえておくという意味での価値はあるのでそのままにしておく。

      ↓

JILPT 調査研究成果DB/全文情報

はじめに-ネオ・コーポラティズム再訪-
第1章 スウェーデン・モデルの崩壊
第2章 試練のなかのオーストリア・モデル
第3章 ドイツ・モデルの適応力と困難
第4章 現代日本のマクロ・コーポラティズム-賃金決定と政策参加-
第5章 いままたコーポラティズムの時代なのか-メゾ・コーポラティズムとその日本的展開-
第6章 コーポラティズムと経済パフォーマンス
第7章 比較コーポラティズムの基礎的数量分析-韓国とアメリカ、日本の比較利益集団分析
第8章 新しい政治経済モデルの探索-「収斂の終焉」の終わりか-
第9章 要約と展望

 ネオ・コーポラティズムとは W,スウェーデン北欧方式

「主要な行政・経済政策の策定に、関係する各界の利益代表を参加させ、利害の調整を図って政策を実施しようとする手法」(デジタル大辞泉)と説明されており、新職能代表制」(篠原一)とか「団体統合主義」「新協調主義」などと訳されている
戦後の経済発展の中で、民主主義ないし多元主義と共存する形で利益団体、特に資本と労働の間のトラブルを調整するためのシステムとして浮上してきたのである。


 シュミッターはこの論文で、幾つかの異なる政治体制の類型と共存可能な「利
益代表の具体的な観察可能な一般的システム」とコーポラティブの概念を定義
し、「社会コーポラティズム」と「国家コーポラティズム」という下位類型を区した。

>前者は団体が自律的で下から国家に浸透していく型であり、後者は団体が依存的で国家に上から浸透される型である。
 

ゲルハルト・レームブルッフは「政策形成の制度化された 1 つの型」としつつ同じような類型化を行い、この 2 類型を「リベラル・コーポラティズム」と「権威主義的コーポラティズム」と呼んでいる。
ごく簡単に言えば、戦前にファシズム権威主義などでしばしば見られたよう
国家主導的で強権的な国家におけるコーポラティズムと、戦後における民主
主義的体制下で議会と共存しているコーポラティズムとを区別しているわけで
ある。

 

@シュミッターは上記論文で「私たちがなおコーポラティズムの世紀にいることを再確認する」に至るが、⇒W。20世紀。グローバル資本制の21世紀は異なる。さらにそれはコロナ渦を経て転換すると予測する。コロナ渦は歴史を加速させた。


@それは国家コーポラティズムに戻るものでなく、社会コーポラティズムが問題を乗り越えて新しいシステムへと発展することを期待した。⇒W。今現在の状況が戦間期に螺旋的に回帰しているとの指摘があるので、国家コーポラに螺旋的に回帰する、と考えるのが筋道。

@それは「広範な、専門化されない非階統的で、蜂の巣状の共存関係をもった自発的単位」による利益システム(サンディカリズム)である。⇒W。もう一つの道。
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   W.参考資料
https://www.jil.go.jp/column/bn/colum0184.html#note1
「労働のある」コーポラティズム(1)って? W.長く引用すれば何となく当地の雰囲気が解る。職場で声を上げる労働者の存在が協調主義の土台。
@日本は、「労働なきコーポラティズム」と言われている 。
では、逆に「コーポラティズム」の国の労働とは、言い換えればそうした国の労使関係とは、一体どのようなものなのか。

普通、スウェーデンと言えば、もっと他に興味深いテーマが沢山あるはずなのだが、労使関係、しかも伝統的なブルーカラーの労使関係を勉強しようと思ったのは、「労働のあるコーポラティズム」の労働の部分を知りたいという、素朴な思いからであった。

そんな素朴な思いを胸に、現地語もままならぬまま、現地に飛び立った(経費節減のため関空→タイ→ストックホルムという南回りルートで。しかも、エールフランスの片道料金よりも往復料金の安いタイ国際航空で)。

で、結局のところ何が分かったのか。
>分かったことは、杜撰な人事管理の存在と、やんちゃで少年のような大人達(組合員)が存分に職場で交渉力を発揮している、という他愛もないことであった
スウェーデンでも賃金に能力査定が導入されている。

しかし、職場のほぼ全員が最高評価を受けていたり、年々の事業所レベルの労使交渉で青天井に賃金が上がっていったりと、とても経営による人事管理が行われているとは思えない有様であった
>と同時に、その成果を誇らしげに語る組合員は、さながら腕白小僧のようであった。こうした発見の結果、「労働のある」とは、この職場交渉のことを指しているんだな、ということが初めて分かった。

>もちろんこれは、他愛もないことだけれども、社会的連帯が成り立っていると言われ、とかく産業レベルやナショナルレベルの労使関係の存在が強調されるスウェーデンの職場が、杜撰な人事管理とそれに乗じた職場交渉によって成り立っていたという事実は、日本の社会的連帯のなさ、精緻な人事管理との対比で、非常に興味深い事実として、自分自身の目に映った(2) 。

この職場労使関係の姿こそが、スウェーデンと日本の労使関係の最大の相違点なのではないだろうか。

@大雑把に言うと、この国の賃金制度は、60年代から70年代にかけては出来高給によって、80年代は時給(3)で、そして、90年代からは月給+査定と変換している。
@この流れは、北海を越えたところにあるイギリスと似ている。違うのは、賃金制度の変化とともにイギリスの職場労働者の交渉力が衰退し、労働組合のプレゼンスも低下していった一方で、
スウェーデンでは今なおそれが維持されているという点である。能力査定を目の前にしても。

>ただ、どうして、そうした交渉力が維持されているのか。この点については分からなかった。いつかどこかで考えてみたいテーマである⇒w。スウェデンの生産性は日本よりはるかに高い。世界企業も複数ある肝心なことを調べていない。

が、その前に精緻な人事管理について学びたいという思いに駆られている今日この頃である。幸いなことに、この職場では、日本企業の調査の機会に恵まれる。嬉しい限りである。

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  本文引用に戻る
政治哲学においてはその頃からリバタリアニズムが台頭し、経済学におけるネオ・リベラリズムとともに現実政治に大きな影響を与えていった。

@イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権がその起点であり、
@日本でも中曽根政権における国鉄民営化や、小泉政権における郵政民営化はその代表的政策である。
 
@この経済政策は戦間期における自由放任主義の再生である。
@だから「ネオ・リベラリズム」というように「ネオ」が用いられている。

@「ネオ・コーポラティズム」にせよ「ネオ・リベラリズム」にせよ、戦間期ないし戦前における現象が新しい姿を纏って再生しているわけである。⇒W.スウェーデンのコロナ対策によって、死者の多くは施設収容の高齢者であった。スウェーデン社会民主主義の裏面がコロナ渦で明かになった。創始者は社会ダーウィニズム社民主義を結合させた政策を打ち出していた。

 

 @筆者自身はクライエンテリズム(恩顧主義)を研究して、

農村の名望家を庇護者(パトロン)とする「伝統的(地方型)クライエンテリズム」と区別して、

@政党が政権や行政などの組織との関係によって利益を配分して
@庇護者になる恩顧主義を「ネオ・クライエンテリズム(新恩顧主義)」ないし「組織的(連結型)恩顧主義」と呼んだ。⇒W.庇護を受けているひとたちの空気を読む、忖度。それ以外ものが空気を読んだり忖度すれば、ソレは目に見えない服従でしかない!

これは、伝統的クライエンテリズムにおける人間関係(親分⊖子分関係)が議会や行政という近代的制度の枠組みにおいて再生したものである。
  ↓               ↓
55 年体制における自民党治では、派閥・後援会・族議員などに存在するこのような人間関係が主軸だった
それが政財官癒着として批判され一度は民主党政権へと政権交代が行われた。

>ところが自民党が政権復帰したとたんに再生し、甘利明内閣府特命担当大臣(経済財政政策)の辞任事件(都市再生機構への口利き疑惑)のように、かつての自民党体制下の政治腐敗と同じような事件が次々と起こっている
 

 また官僚制について、S.N. アイゼンシュタットの「新家産制(neo-patrimonialism)の概念に示唆され、⇒W。支配層の高級使用人といういみか?調査必要。

@家産制(マックス・ヴェーバー<日本流解釈学者によってでは思想の一部しか紹介されていない。ワイマール憲法の負の部分を推し進めた学者。ブルジョアの政治力が脆弱な当時のドイツ状況が見えていなかった。あるいは見ようともぜず、ワイマール民主政に均衡する首相特権を入れヒットラー登場に合法性を与えた。>)の性格が残る「新家産的官僚制(neo-patrimonial bureaucracy)」ないし「習合的(重層的)官僚制(syncretic bureaucaracy)」という概念を提起した。
@これは、日本の行政指導のように人的な家産官僚制の前近代的な特質が近代的な行政組織の中に現れていることを指している。⇒W.コロナ渦と感染症村も古い行政指導の再現だが、今この時期にやれば行政指導の最悪の側面が満開。


 具体例。 現代ビジネス開成、麻布高校出身者の高級官僚、政治家、記事挿入。

権力とは具体的にどのような形で存在し実力を行使するかの具体例。


 さらに 55 年体制下の自民党政治において、日米安保体制下における恩顧主義「内外二重恩顧主義」と呼び、地盤・看板・鞄に支えられて世襲議員が当選する現象「新封建制とも呼んだこともある。
これは、世襲の 2 世・3世議員などが数多く議会で当選するという点において、封建制度のような議会政治を指⇒W.確かに、そうとしか呼びようがない。

@第 2 次安倍内閣では閣僚 19 人の内の 11 人が世襲だったから
@55 年体制下の自民党よりもさらにこの性格が強く、「新封建制的内閣」そのものと言えよう。
@このような民主政は「新封建的民主主義」とでも呼びたくなる
            ↓
このように比較政治学や政治哲学では「ネオ(新)」を冠する現象や思想が多々存在する。
>基本的には同じ現象が時代や地域を超えて形を変えて現れているように見える。
時代や地域が変わっても人間の精神構造や思考パターンには共通性があるので、一定の条件がそろうと類似した政治経済の現象として再現するのではないだろうか。

 

 たとえば恩顧主義的人間関係や封建的人間関係は戦後の日本政治学では前近代的人間関係」と言われてきた。
戦後の経済発展の後もそれが残っているから、政権復帰後の自民党においても再生するのだろう。

 

@国家からの干渉に対して自由放任を望む思考も根強く存在するから、ニュー・ディール政策やケインズ的経済政策によって一度は衰退しても、
福祉国家が財政的危機を迎えると復活したのだろう。

@さらに様々な団体やその担い手における協調志向も人間性の深いところで存在するから、国家主導的な形であれ団体主導的な形であれ、繰り返し現れてくるのだろう。
              ↓ 
@その意味では人間の政治経済に関する思考のパターンはだいたい限定されており、歴史的状況に応じて盛衰を繰り返しているようにも思われる
このような思考パターンを「政治(経済)的思考パターン」と呼ぶこともできよう。

 

>かつて丸山眞男日本ファシズムに関してその「精神形態」を考えたように
>その底にある人間の精神のあり方から見れば、それは深層の「精神形態」ないし「精神構造」の表れと言えるだろう。

@たとえばコーポラティズムないしネオ・コーポラティズムには服従や協調・抱え込みなどの精神形態が存在するし、
@恩顧主義には庇護と随従による相互依存の精神が深層に存在するのである。

 このような精神構造が様々な時代の制度に現れる場合、その深層の精神構造(起源を異にする)表層の制度が混合することになるから、
しばしば「混合(的)政治」ないし「混合(的)体制(mixed regime)」が現れることになる。

 たとえばネオ・クライエンテリズムやネオ・コーポラティズム、新家産制、新封建制などの比較政治学上の概念は、
いずれももともとのそれぞれの現象が議会制民主主義の制度において再生していることを表している。

@民主制が広範に行きわたったので、かつては君主制や寡頭制において現れていた現象が民主制において現れているわけである。
これらは多かれ少なかれ非民主主義的性格を持っている
このことを明確にするために、必要な際にはもともとの現象を「古典的」(ないし「伝統的」とか「原」)という言葉で表すことにしよう。
たとえば「古典的(伝統的・原)クライエンテリズム」などである。これに対して、民主制のもとに現れているこれらの現象を「ネオ(新)●●」と呼ぶことができるわけである。

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「混成体制(政体)」論に従って「混成的政治」という概念自由民主主義(体制)と他の政治体制や政治的様式、
特に権威主義との「混合」を指すものとして用いることにしたい。

ネオ・クライエンテリズムのように「民主制」とそれ以外の政治的現象が混合して現れている「ネオ」の諸現象が、「混成的政治(現象)」であり、
これは「混合的政治」の 1 つである。

@このような混成的政治が生じるのは民主制が普及した結果ではあるが、

@もともとは非民主主義的な現象がそこに現れているわけだから、

@混成的政治は自由民主主義との緊張関係を持っていることになる。

     2 .「新極右」という「混成的ネオ・ファシズム」の台頭

                       次回に続く