反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

抜粋続き。実録から読み解く、昭和の戦争と人間、支配層、庶民。堀田善衛「方丈記私記」より関連箇所の抜粋。

  「女は深川富岡町の富岡不動尊富岡八幡宮の中間辺りに住んでいたが、そこら辺りに該当するはずのものは何もなかった。」
「他と異なる点は、ここではトタン類さえが、ときには溶けて異様な塊になっていることであった。加熱が異常に高かったことの証拠であろう。」
 
目の届く限り、一切が平べったくなっていて、とんでもない方向に石川島重工業の鉄骨だけと化したものが見えてくる。平素はそんなものがそんな方向に見えるはずはなかった。」
 
B)深川富雄町の焦土の天皇と臣民のリアル風景への展開。
 
「時に、7時半ごろであった。永代橋に差し掛かる辺りから変に警察官や憲兵が大きなとは想っていたけれど~」
 
 W。堀田は富岡八幡宮の焼け跡の凄まじさ目撃した後、しばらく付近を散策し、その場を離れ、9時近くに富岡八幡宮跡へ戻っていった。
 
 「そうしてもう一度私は驚いた。
論点その1。 天皇、神聖化の現在に継承された手口
焼け跡とはすっかり整理されて憲兵が四隅にたち、高位のそれらしい警官のようなものも数を増し、背広に巻き脚絆の文官僚のようなもの、国民服の役人らしきものもいて、ちょっと人だかりがしていた。
 
 9時過ぎと想われる頃、驚いたことに自動車、ほとんど外車である乗用車の列が現れ、なかに小豆色の自動車が混じっていた。
それは焼け跡とはマッタクなじまない後景であって、現実とは信じがたいものであった。」

C)昭和天皇焦土に登場。
「これ以上不調和な景色はないといってよいほどにも不調和な後景であった。焼け跡には、他人が通りかかると
ときには狼のように光った目でギラリと睨み付ける息の頃の罹災者のほかに似合うものはなかったのである。
 論点その2。
 
 
乗用車の列が、サイドカーなども伴い、焼け跡に特有の砂埃を巻き上げたやってくる。
 
小豆色の、ピカピカと、上天気な朝日の光を浴びて光る車の中から、軍服に磨きたてられた超過をはいた天皇が降りてきた。大きな勲章までつけていた。
私との距離は200メートルはなかったであろう。
 
D)廃墟では奇怪な儀式のようなものが開始された。
W。日本の固有の古層のM(序列従順で安心したい犬的マゾ心理)とS(サド、犬ではなく感情の動物の人間だから、従順のはけ口は絶対、即物的に必要。序列従順不満鬱屈は身近な対象に向かう)犬人間心理。
 
「アタリで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそという風に集まってきて、それが集まってみるとかなりに人数になり、それぞれが持っていたとび口やえんじを前において、湿った灰の中に土下座した。
 
 
 その人たちの口々から出た言葉に瞬間に身体が凍るような思い出した。
 
<次の情景心理描写は前後の文脈から文学>
 
 早春の風が何一つない焼け跡を吹き抜けて行き、恐ろしく寒くて私は身の凍える思いをした。
 
 心のなかも恐ろしく寒かったのである。
 
 風は鉄のにおいとも、灰のにおいとも、何ともつかぬ陰気な臭気を運んでいた。
 
 私は方々に穴の開いたコンクリート塀にしゃがんでいた。
 
 これらの人々は本当に土下座して、涙を流しながら
 
 「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第です」
 「命を奉げまして」
 
 といったことを口々に小声で呟いていたのだ。
 
 私は本当に驚いてしまった。
 
私はピカピカに光る小豆色の自動車と、ピカピカに光る長靴をちらちらと眺めながら、
 
こういうことになってしまった責任を、いたっい誰が取るのだろう、と考えていた。
 
こいつらをぜ~んぶを海の中へ放り込む方法はないものか、と考えていた。
 
 
論点3。
ところが責任は、原因を作った方にはなくて、
結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまったものの方にあることになる!
こういう奇怪な逆転現象がどうしていったい起こりえるのか!
 
E)閉塞時代に転向もできなかった戦時体制下の青春時代を送った、遅れてきた青年堀田善衛は臨時召集令状が届いたにもかかわらず、この景色に遭遇してようやく、
 
論点その4 
満州事変以来の、中学生の頃から続いている日本の戦争と、その政治の中枢といったものについて、
まともに、一番最初に自分のこととして考えた。」
 
F)その単純反発だった心理状態。
 
「臨時召集令状なるものを受けとり、人を招集しておいて臨時とは何だ、命をよこせといってきておいて、御名をサインもせず、印も押さぬ無礼さ加減を一人憤慨していたという程度であったのだ。
 
G)E)の奇怪な責任の転倒、に対する考察の続き。ー
 
一転、戦時の遅れてきた青年の内面葛藤から、<生きぬくという結論に至った>視点から、死ぬことを生の軸にさせる政治体制批判。主体的内省を通じた戦時体制への見方。論点その5。
 
ただ一夜の空襲で10万人を超える死者を出しながら、それでいてなお生きること方のことを考えないで、死ぬことばかりを考え、死の方向へののみ傾いていこうとすることはコレはいったいどういうことか?
 
「人は生きている間はひたすら生きるためのものであって、死ぬために生きているのではない。
 
「なぜいったい、死が人生の軸でなければならないような風に政治はことを運ぶのか?
 
 論点その6。
とはいうものの、実は私の中に天皇に命を奉げて生きる、その頃の言葉での、所謂、大儀に生きることの、戦慄を伴った、ある種の爽やかさというのもまた、同じく私自身の肉体のなかにあって、この二つのものが私自身のなかでせめぎあっていた。
 
「その頃の私の判断というものの中軸には、どちらがデカダンでどちらが健康な判断というものであるかという判断の仕方が巣くっていた。
 
「奏してやはり前者のほうが人間として健康な判断というものである、と想われた。
 
4)そういう判断に到達した理由、英訳レーニン耽読によって、レーニンは最も男らしい男、政治の中枢に市を置かない唯一の男、の革命家像をみいだした。
 
「生きて成さなければなら名ぬことが山のようにある男、あった男、というふうに想っていた。
 
「そこで私の考えの中では、<生きて>という点に重点が置かれていた。
 
5)日本の思想政治体制を見つめる。
「日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなく死が人間の中軸にいるようなぐあいにさせてきたものがあるはずであである。論点7
 
 
「もう一つ考え込んでしまったのは、焼け跡の灰に土下座して、その瓦礫に額をこすりつけ、涙を流しながら
申し訳ありません、申し訳ありません、と繰り返していた人々の、それは心底からの言葉であり、その臣民としての優情もまた驚くべきものであり、
 
「それ否定したりすることもまた許されないであろう
「そういう考え方もまた、私自身の中において実在していたのである。
 
「いったいその優情というものはいったい何処から出てきたものであるか。
 
「或いは逆に政治は人民のそういう優しさに乗っかることは許されてしかるべきなのだろうか?
政治は現実に、眼前の事実として、のうのうと、この人民の優情に乗っかっていたではないか。
 
「政治がもしそれに乗っかることができない許さざるべきことであるとしたら(W。自己への批判があれば)例えいかなる理由付けがなされても、のこのこと視察に出てくるなどということは、現実には不可能のうなことでなければならないであろう。
W.。この辺は作家的ナィーブな展開。
 
6)そして見てきたままの事態の結論に至る。陛下ー臣民の関係において上に居直ってだけいるとしたら、
 
「なんら疑問の余地はない。
 
7)政治とは何か?「政治は王様ありき」、だった。池上彰「政治のことを良くわからないまま社会人になってしまった人へ」より。
「王様がその国の人民をどう治めていくかということが<まつりごと>です。政治は、王様ありきで始まりました。」
 国体政治は政治は王様=天皇ありき。
民主主義の服を着たお喋りな独裁国家の支配層と人民側の政治関係は民主主義のスタイル。
NHK報道主幹池上彰
 
堀田善衛に戻る。
 
論点8。
「>>日本国の一切が焼けてしかもそれは天災などではなく、あくまで人災であり、明瞭に支配者の決定に基づいて、例え人民側に同意があったとしても、
<政治は結果責任>というものがあるはずであった。(私は政治学科に籍を置いたこともある)
>>けれども人民の側においてかくまで惨禍を受け、なおかつ、かくまで優情があるとすれば、
落ちて平べったくなり、
上から下まで全体が難民と、例えなったとしても、
この、と今の言葉を援用して言えば、体制は維持されるであろうと、半ばやけくそに考えざる得なかったのである
 
>>「新たなる日本が果たして期待できるものかどうか。」
 
>しかも、人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、
>>>政治における結果責任もへったくれもないのであって
 
論点9。
>>>それは政治であって、同時に政治ではない。このケジメというものがない。
政治は時に思い上がって倫理に化けたり、規範だと自ら思い込んだりし始める。