反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

読書に没頭している間に、「未来の党」早々と空中分解なり。堀田善衛「方丈記私記」から、東京大空襲で焼かれ殺されしても、「申し訳ありません」と瓦礫に額をこすりつけ天皇に土下座する下町の臣民。

 読書に没頭してPCを触る時間ももったいなかった。その間に「日本未来の党」は早々と空中分解。ここに至る背景は一応、記事にしたつもりだ。
 
 民主党から「生活が第一」の分裂を支持していなかった自分としては、衆院選公示直前の日本未来の党結成を支持できるただ一つの条件は、小沢一郎氏の不出馬宣言だった。
 
 こうも書いた。日本未来の党は競馬(サラブレッド)で云えば、血統的背景が悪すぎる。両親の血統的背景を見るとその配合には大いに疑問で、その子である党として、成立し難いと云う意味だった。
じっくりと双方の事情を考えるとそういう結論に至って当然。極めて常識的な意見だったと想うが。
 
 小沢熱烈支持者の政治心理の在り方(コレには小沢派国会議員も適応できるから深刻)も問題にした。
政治内容と排他性のバランスが悪すぎる。当然、行く先々で他から大きな拒絶反応を受ける。唯我独尊と云う事です。それが構造化している。その自覚全くなく、何時も他に責任を転嫁している。
 
 植草一秀氏にも噛みついた。10日ほど前の衆院選総括の如き記事ではナント、共産党まで含めた既得権勢力と戦う主権者勢力の日本未来の党への総結集をブチあげていた。元学者さんにしては、現下の情勢の分析はお粗末で、政治的分岐、分類は実に粗雑、幼稚。一つだけ確かな事がある。小沢一朗氏絶対。
 
 結論的に云えば、熱烈支持者はもう良い。
が、相対支持の方は、コレを機会に小沢氏をもう少し突き放して眺めたら、いかがか。彼は長年プロの政治家をやってきた。あなた方が支持しようとしまいと、今までがそうだったように彼は自分の想う政治をこれからもやっていく。その政治が結果的にあなた方の想いと重なることがある場合もあるし、そうでない場合もある。
今と将来の彼の政治が敵味方のぎりぎりのせめぎ合いの常態にある訳ではない。もう彼から、そういう機会は完全に遠ざかっていった。小沢一郎を軸に据えて政治を見ては視野が歪み、狭窄するのではなかろうか。
 以上、コレまで政治弾圧や何やからあって、批判は差し控えてきた。
今後も批判はなるべきしたくない。取り上げると自分の視界が歪になる。
 
さて、この話題は非生産的で打ち止め。
 

堀田善衛 - Wikipedia

方丈記私記。
 この作家は東京空襲下の青年期、鴨長明方丈記」を愛読していた。鴨長明は今でいうジャーナリスチックな視点を持つヒトで好奇心旺盛、現場主義。興味のそそる処にはに勝手に足が向いてしまう性分。
堀田も戦時中に方丈記を愛読していただけあって、東京大空襲の事態を自分の内面も含めて冷静に観察しようと心がけている。これは坂口安吾が敢えて、東京に留まって事態を見据えようとしていた姿勢に共通のモノがある。
 
 1945年3月10日の大空襲で東京の下町は焼夷弾によって、徹底的に焼き尽くされた。東京全体で死者8万。
下町に甚大な被害をもたらしたのは、焼夷弾が雨の様に降り注いだ事によって、町全体が溶鉱炉の様な灼熱地獄になった<合流火災>によるものだった。街と人は瞬く間に燃え上がって亡くなってしまう。
 
 >堀田は知り合いの深川の女は助かってはいまいと想いながらも、消息を訪ねていく。
遥かかなたまで見渡せる程、一面の焼け野が原に堀田は異様な光景に遭遇する。
 
「ほとんど外車である乗用車の列が焼け跡特有の砂埃を巻き上げてやってくる。その中の~小豆色のピカピカと、上天気な朝日を浴びて光る車の中から、軍服に磨きたてられた長靴を履いた天皇が下りてきた。大きな勲章まで付けていた。
 
 あたりで焼け跡をほっ繰り返していたまばらな人影が、こそこそと云う風に集まって来て、それが集まってみると実はかなりの人数に成り、其々が持っていたとび口などを前に置いて、湿った灰の上に土下座した。その人たちは本当に土下座をして、涙を流しながら、
<陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。誠に申し訳ない次第です。生命をささげまして>、と云った事を口々に小声でつぶやいた。~
 
 生きている間はひたすら生きるためのモノであって、死ぬために生きているのではない。なぜ一体、死が生の中軸でなければならない様な風に政治は事を運ぶのか?
 とは云うものの、実は私自身の内部に置いても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃の言葉で云えば、大義に生きる事の、戦慄を伴った、ある種のさわやかさと云うのもまた、同じく私自身の中にあって、この二つのモノが私自身の中でせめぎ合っていた。
 
 焼け跡の灰に土下座して、その瓦礫に額をこすりつけ、涙を流しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんと繰り返していた人々の、それは心底からの言葉であり、その臣民としての「優情?」もまたまことに驚くべきことであり、それを否定したりすることも許されない事だろうという、そういう考えも又私自身の中に実在していたのである。
 
 もしそうだとしたら、そういう無限に優しいその情と云うモノは一体どこから出てきたモノであるか。
又それは情として認められるものであるとしても、政治は果たしてそれをどう考えるべきなのだろうか?
あるいは逆に政治は人民のそういう優しさに乗っかることは許されるのかどうか?
 
 しかし、一切は実にきわめて明瞭であって、理会も理解不能もへったくれも、実はないのである。
天皇陛下と臣民であって、掌を指すがごとくに明快であり、その明解さの上に居直ってだけいるとするなら、そこに何らの疑問の余地もありはしない。
 
 人民の側において惨禍を受け、いかもそれは天災などでは全くなく、あくまでも人災であり、明瞭に支配者の決定に基ずいて、例え人民の側に同意が在ったとしても、政治は結果責任と云うモノはるはずであった。
けれども人民の側において、かくまで惨禍を受け、なおかつ、かくまで<優情>があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下まで全体が難民に成ったにしても、この体制は維持されるであろう、と私としても、何程かはやけくそに考えざる得なかったのである。
 
 しかも、人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治に置いて結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治でない。
政治であって同時に政治でないと云う政治ほど厄介なモノはないはずである。
こんな政治は時として、想いあがって倫理に化けたり、規範だと自ら想いこんだりし始める。」
 
>作家らしい、屈折した文章でイマイチハッキリしないが、B29に焼かれて殺されても、瓦礫に額をこすりつけ土下座して「私たちの努力が足らず、むざむざ焼いてしまいまいました。誠に申し訳ありませんでした。」はないだろう。
優情なんて、作家の造語の奥に或るものを探り当てるのは人文科学の役割だろう。
 
「我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい土人形のようにバタバタと死ぬのがいやでたまらなかったのではないか。戦争の終ることを尤も切に欲していた。その癖、<<それが言えないのだ。>>そして大義名分といい、また天皇の命令という。
天皇の停戦命令がなければ、実際に戦車に体当たりをし、嫌々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んでいたのだ。」
「尤も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民もさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには慣れている。その自らの狡猾さ、大義名分と云うズルイ看板を悟らず、天皇の尊厳の御利益を謳歌している」
>そうすると、堀田善衛の云う「申し訳ありません」を繰り返していた人々の言葉は真底のモノであるとは、あくまでも天皇と臣民関係に置いて成立する事態。江戸時代であれば、領主と百姓の関係だが、あの時代には4000件の百姓一揆があり、それなりにシビアーな領主側の仁政と天下の御百姓意識の力関係が潜在していた。
一番類似物があるとすれば、中世ヨーロッパの教皇と人民の関係。