反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「良寛」井上慶隆著を主題に、良寛さんを考える。父山本以南が破滅型の地方インテリであり、その子供たちにも破滅型のタイプ。←キーワード。良寛が破滅しなかったのは、無抵抗主義哲学に徹したから。

 225ページ読了。作者、井上慶隆さんの専門は郷土史で、その方面から、客観的に良寛の実在していた当時の周囲の社会状況を描き出すことで、本人の意図する以上に、従来の清貧一方の良寛像を是正することになっている。
例えば、次のように。
W。献立まで調べ上げて、良寛と周辺のリアルな歴史像を描いていく。
 
「やや後になるが遠来の珍客に対する具体的な献立を、天保15年(1844年)に代替わり挨拶のため越後各郷の有力な檀那を訪ねた伊勢神宮御師が「越後入国の私記」に丹念に書き留めている。~神宮文庫所蔵~

>その中から、<良寛の外護者>でもあった中村村斎藤家の例を挙げてみよう。
 
4月14日~神事の後<入浴>した。上がると酒が出た。
   <酒の肴>
吸い物(あらいみそ かき ふき)  鉢(タイ浜焼き) 大平(小シイタケ たこ タケノコ 松露Wしょうろ、きのこ類
 
   <夕飯>
皿 タイ 切り焼き(不明)   汁 (かまぼこ 青み)   平(タイ一切れ ふき)  めし
菓子椀 漢字判読不能甘味 シイタケ まめ
 
   
 
良寛は国上の付近で、三峰館の学友や地蔵堂町中村家とのつながりから、その出目を知られていた。更に庵居の過程で、学徳の並々ならぬことも理解された。
イメージ 1←W、心の時空 良寛と貞心尼‥恋愛のかたち
イメージ 2
 草庵雪夜作    そうあんせつやさく

           回首七十有餘年   こうべをめぐらせば 70 ゆうよねん
           人間是非飽看破   じんかんのぜひあくまでかんぱす
           往来跡幽深夜雪   おうらいのあとかすかなりしんやのゆき
           一炷線香古匆下   いっしゅのせんこうこそうのもと

    振り返りゃ もう70年以上 生かせていただいとるんじゃが 
    それにしても 人の世のいろんな是や非、何とぎょうさん見させてもろうてきたことか… 
    じゃが その覚えも、前の通りに残る足跡のように、この深夜の雪で消えてしまいそうじゃ
    いま燃えとる一本の線香もあと僅か…、そうそう 古ぼけた窓の下に居る この爺じゃての
           注)上記口語訳は 老生の 手前勝手な訳であります、念の為。

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良寛」 井上慶隆著 引用
 
襤 褸 又 襤 褸
襤 褸 是 生 涯
食 裁 取 路 邊
家 實 委 藁 莢
看 月 終 夜 嘯 
迷 花 言 不 帰
自 一 出 保 社
錯 為 箇 駑 駘
襤 褸(ぼろ やぶれ衣)   藁 莢(よもぎ あかざ 雑草)  終 夜(よもすがら)  
嘯(ウソブク、W。嘯の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典) 「口をすぼめて息を強く吐き出すこと」
 
W。この漢詩のキーポイント。看 月 終 夜 嘯 迷 花 言 不 帰 
<月を見ては夜通し詩を口ずさみ、花に迷うて家にも帰らず>。
      ↑
引用  百不知百不会 【ひゃくふちひゃくふえ】 http://blogs.yahoo.co.jp/halcion_mamian_art_blog/28670765.html
 
W。越後帰郷後の良寛の生き様について、結論めいてしまうが、この境地を得た。悟り、達観の境地か。恵まれた人生を歩んだヒトだった、と思う。
 
良寛の後半生情感の動きだけに従った人生であった。前半の人生で辛苦を重さね、徒労をくり返した後、良寛の内部に残るものだけが残った。それがその情感だったのである。
帰郷後の最初の十年余は、空庵を求めて各地を転々とした。この時の心境は、「寓るところ便なれば即ち休す、何ぞ必しも丘山をたっとばん」という風なものであった。やがて国上山中腹の五合庵に定住するようになるが、それもここが気に入ったからというより、単にここに些少の便益があったからに過ぎない。
彼は規範というものをすべて棄て去っていた。一切の固定観念を排し、最低限の生を保つに必要な便宜を求めて移り動くだけであった。
良寛は「衆人愛敬」ということを心懸けさえしたら、あとは自分の好きなように生きていいのだと考えていた。人はこの世に偶然生を受けたのであり、人間の生き方に固定した定則定軌がある訳ではない人間に特別な使命や義務などありはしない。人は単に、与えられた寿命を生きて行くだけなのだ。
良寛の生活と作品を眺めていると、彼が「ひと」として互いにいたわり合い、敬愛し合う気持を忘れなければ、あとはどう生きようと、その人間の自由だと考えていたことが分かる。
人生に定まった規範などありはしないとする姿勢は、人間の行動を死に至るまで試行と遊びの連続と見る開放的な生活態度をもたらす。鬼窟」を抜け出れば、生きることが容易になる良寛は徹底して易化された世界を生きたのであった。
中江藤樹伊藤仁斎良寛三者を比較すると最も横着に居直っているのは良寛であり、だからこそ彼は情感の動きをさながらに示すような「書」を書き、屈託のない後半生を送ったのである。」
 
**
W。しかし、片方に自律した規範、原理、義務感、使命感がなければ、今時の普通のヒトの漠然とした人生観ではなかろうか?世間では常識あるエゴイストだらけじゃなかろうか?良寛には、前半生の境遇に置いて、ソレ等があった
現代人の良寛へのシンパシーは、一見、高尚趣味のように見えて、実は極めて、ポップなものである。論理や原理への希求は予め抹消されている。出家遁世者としての原理主義、において「方丈記」の鴨長明の無常の世界から次元の違う後退をしている。後半生の良寛にとって宗教は本質的になかった。訓古、安易、ポピュラーが過ぎる。
 ↓
引用 「良寛」井上慶隆著 漢詩 襤 褸 又 襤 褸~の解説を受けて、良寛の出家遁世を位置づける。
「目崎徳衛『出家遁世』によれば、日本では古代末期以来、出家から遁世へと云う二段構造は成立発展したという。ただし遁世の方は一様でないので、~~
 一は親鸞であろう。
出家して比叡山に上がったが、そこの停滞、腐敗に懊悩して遁れ、非僧非俗の立場で弓道生活にのめり込む。
 もう一つは西行だろう。
有望な北面武士の地位を捨てて出家遁世し、日本的な美意識である数寄(すき)の草庵生活に入る。
良寛の後半生は、この求道と数寄と云う遁世の二つの型の間を行きつ戻りつしていたように思う。」
 
「『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆
他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))
**
引用 良寛の場合 W。良寛は本質的に素人でポップなヒトだった。それをそれとして過大な意味付与、脚色を避けて評価する。不幸また不幸が降り積もる人性にもかかわらず恵まれた生涯を送った人であった。

「郷里で、それ以後三十六年間に及ぶ無為無策の後半生を送るのである。
現代人の感覚から見て何より驚かされるのは、良寛が三十八才という壮年で帰郷した後に、死ぬまで何もしなかったということだ。良寛はかなりの量の詩や書を残しているけれども、これらは単なる手すさびに過ぎなかった。彼は一度も芸術家として自己規定したことはない。良寛は最後まで自分を「憎」だと考えている。無為無能の僧と考えていたのである。事実、彼は僧侶としても見るべきほどのことをしていない。
良寛の後半生は情感の動きだけに従った人生であった
。」

>特にその墨跡が珍重されたことは、さまざまな逸話に留まらず、←W。観賞力100%なし。
>生前すでに偽物が横行していたという鈴木牧之あての木村元右衛門書簡によって明らかである。
従って臨めば、いや普通に応対してさえいれば、おのずと酒池肉林の楽しみW?は受けられたはずであるが、彼は故意にそれを避けた。鈴木文台「良寛禅師草堂集序」によれば、良寛の好まざるものは、「詩人の詩、書家の書、料理人の調食」であったという。
>居所においても、国上の草庵から木村家に移った際、新築を断り、粗末な薪小屋に入ったと伝えられる。
**
W。高齢により山腹の乙子神社境内の草庵生活が困難になって下山した。それ以前は国上寺(こくじょうじ)の五合庵(ウィキペディア~一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた~W。一日5合も飯を食うのか?それも、白米ではなく玄米的なものだっただろうから~動かならければ身体の調子が悪くなるほど食っている。云いががりを云っているのだが。日本人が白米を食べるようになったのはいつ頃からですか ...
**
 
良寛は清貧であったのでも清貧になったのでもなく清貧を求めたのである。
W。清貧を求めざる得なかった、と云う一面も否定できない。それはネットでようやく探し当てた貴重な解説文を読むと納得できる。井上さんは、その辺の事情を知っていて、あえて突っ込んで書かなかった、と云うべきだろう。
** 
>その良寛も、酒、たばこ、菓子は、ほどほど好きだったらしい。それについての礼状が残っている。
>特にその菓子はようかん、金ペイ糖、粟アメ、白雪こう、などいろいろで、コレは越後の菓子が急速に多彩になりつつあった文化文政期の状況の反映である。
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イメージ 3従って良寛が白雪こう(W。原料米粉 砂糖 水あめ)を外護者に所望した二通の書簡をめぐり、岡本勝美は木村家先代への供物と推定、一方、母乳不足の幼児に与えるためと解する**高橋**はもっと貧しい母親を救うためと見るなど要するに良寛が口にしたのではないとする説があるのは、良寛の慈悲心に対する思い入れが深すぎて、考察が現実離れしているような気がする。
この時期のこの程度の菓子なら、おいて食欲の亡くなった良寛は、ふと口中にとけるような白雪こうの味を思い出し、食べたくなって依頼したと考えるのが自然である。
 
W。そういう「良寛の慈悲心に対する思い入れ」に反論しなくてはならない、ところに良寛イメージの胡散臭さ感じる
W。今のヒトはあっけらかんとして、その辺の大愚良寛=清貧慈悲イデオロギーにこだわりはないようである。
良寛の本質はポップである現在は良寛を世俗に還し暖かい心で、想いを巡らせることができるようになった
***
良寛禅師所望のお菓子「大黒屋」の「白雪こう」を食べてみたhttp://www.icoro.com/200901112583.html
『「白雪こう」は良寛が書簡で所望したと言われるお菓子で、その書簡は現存しているそうです。そんな白雪こうですが、良寛の時代の後、一度途絶えてしまいます。製法は伝わっていなかったのですが、調べているうち秘法書(製法書)がみつかり、それを参考にして今の白雪こうが出来たとのこと。それはちょうど良寛禅師百年忌の時(昭和5年)だったとか。
←W。良寛小林一茶がクローズアップされだしたのは大正デモクラシーが終焉して国家主義が台頭し出したころだと予測している。一茶は、国学から、日本の国家を意識した文章を残している。率直に言うとこの両名の世評に胡散臭さを嗅ぎつけている。不幸、災厄が一杯あり過ぎた世の中だったからこそ、人々の心は列島原住民の純朴な寓話に出口を求め、それが今も底流となっている。人心の細工には手練手管がある。
***
~~
既往の良寛研究書は良寛を取り巻く周囲いの状況について触れるとき、のんびりと牧歌的に描くか、逆に庶民がいつも困窮にあえいでいたとみるか、両極端になる傾向がある。
時代性を無視して~~
江戸時代270年の間に著しい変化、発展があったのであり、それを踏まえて考察しなけらば、史上の良寛に迫ることはできない。
*** 
 
W。以下の著者の江戸時代の窮民大量発生とその「運動」、対策への見方は、研究者の間でよくみられる支配する者されるもの両方のイデオロギー的政治技術の進歩をキーワードにした見解だが、
>270年間もの長い期間に歴史状況は行きつ戻りつしながら螺旋的に発展するのは、当たり前で、その最先端で後ろを振り返り、ほら進歩しただろう、と集約するのは、歴史家として間違っていると云わなければならない。
江戸時代停滞論がある一方で、他方、現代日本人の原型や進歩を江戸時代に求める議論が台頭流布されているが、長いものに巻かれろ、寄らば大樹の影は、江戸時代の列島原住民の85%を占めた百姓が、支配者に、強いものに従順になるため、落とし込められた服従精神ではないか。そしてその従順精神の閉塞が、陰に陽に手練手管をともなった排外に一転する。現マスコミが始終やっているのはコレである。刷り込み作用はある。
民衆をまとめるリーダーが育ち)一方、救済に応じる富豪も成長していた。←W。お気楽史観である。
~~~
***
(W、よくある見方で、常に整然とした組織的闘争○ソレが民衆暴動レベルになる評価ガタ落ち×イデオロギーや政治技術の進歩程度で価値判断する。こういう史観を現在に当てはめると、ファシズムの暗黒時代到来おるいは戦争事態発生への危機感を戦いの原動力にするしかない)
 
W。そして次のような、現時点の結果で過去を解釈(判断)する究極の悪性進歩主義歴史観に行き着く。
***
 
多量の困窮資料の存在は、悲惨の深刻化と云うよりむしろ、民衆に訴え得る力が付いた結果である。
>空腹の戦時下の無言と飽食の現代に不平に似ている。←W。上から目線にも程がある。史上に良寛を置いて評価するのは大賛成だが、こういう歴史観が、良寛状況に一歩二歩前に踏み込むまず、肝心な所に曖昧な文言を連ねて、地元郷土史家として良寛弁護に終わっている。
***
 
W。次の見方は正確である。前回の記事で井原西鶴と浪速京都の西方中心の元禄文化が江戸中心文化に転回する端境期に生まれたという視点を証明してくれている。だからこそ、武者小路実篤井原西鶴」はその特殊性を物語の中に盛り込まねばならなかった。江戸っ子井原西鶴、近代人西鶴では、どうしようもない!
 ***
 
良寛が文運発展し経済的に発展しつつあった文化文政期の越後に生活したことは、彼にとっても後世にとっても幸いであった。
W。ハッキリと云おう!良寛思想はこの本を読む限り、出家遁世者としての原理主義思想において、「方丈記鴨長明よりも大幅に後退している。
大災害に対して「方丈記」無常観から、贅沢をしているから天罰が下ったなどと云う儒教的訓古。商品経済浸透によって年貢収奪の経済基盤が揺らぎに対する幕政改革の無力なお触れ倹約礼丸出しへ!知識ある者のこう云った呼応があれば、支配する側も手間が省けると云うものである。ここにパックストクガワーナによる付加体列島原住民化と精神文化のあきれた退行を確認する!
また西行法師や松尾芭蕉のような<芸の術>極めを、その作品に留めていない、大まかな文化状況から云えば化政的ポップになった、と。ただし、作品を鑑賞する能力が自分にはない。
 ***
引用 「良寛」 井上慶隆著
地震後詩 フィラデルフィア日記より March 29, 2011 00:06:53 
W。さすが日本では原文の使用は憚られてたのか原詩の記載はない。石原慎太郎と知事の天罰発言は轟々の非難を浴びた。
地震後詩」=原文;良寛全集より。 「地震(=土波)後の詩」=読み下し。

日日日又日日                     
日日夜夜寒裂肌
漫天黒雲日色薄
匝地狂風巻雪飛
悪浪蹴天魚竜漂
墻壁相打蒼生哀
四十年来一回首
世移軽靡信如馳
況怙太平人心弛
邪魔結党競乗之
恩義頓亡滅
忠厚更無知
論利争毫末
語道徹骨痴
慢己欺人弥好手
土上加泥無了期
大地茫茫皆如斯
我独鬱陶訴阿誰
凡物自微至顕亦尋常
這回災禍尚似遅
星辰失度何能知
歳序無節己多時
若得此意須自省
何必怨人咎天效女児

★★ 下掲日本語訳はPapagenoさんから。僕の訳ではない。

日々(ニチニチ)日々 又日々
日々夜々(ヤヤ) 寒さ肌(ハダエ)を裂く
漫天の黒雲 日色薄く
匝地(ソウチ)の狂風 雪を巻いて飛ぶ
悪浪(アクロウ)天を蹴って 魚竜漂ひ
墻壁(ショウヘキ)相打ちて 蒼生(ソウセイ)哀しむ
四十年来 一たび回首(カイシュ)すれば
世の軽靡(ケイビ)に移ること 信(マコト)に馳するが如し
況(イワ)んや 太平を怙(タノシ)んで人心弛(ユル)み
邪魔は党を結んで 競ひて之に乗ず
恩義 頓(トミ)に亡滅(ボウメツ)し
忠厚 更に知る無し
利を論ずれば 毫末(ゴウマツ)を争ひ
道を語るを 徹骨(テッコツ)の痴(チ)とす
己に慢(オゴ)り 人を欺(アザム)くを好手と称し
土上泥を加へて 了期無し

大地茫々として 皆斯(カク)の如し
我独り鬱陶(ウットウ)たるも 阿誰(タレ)にか訴へん
凡(スベ)て物微より顕に至るは 亦(マタ)尋常
這(コ)の回(タビ)の災禍 尚遅きに似たり
星辰(セイシン)度を失ふこと 何ぞ能く知らん
歳序節無きこと 己(スデ)に時多し
若(モ)し此の意を得ば 須(スベカラ)く自省すべし
何ぞ必ずしも人を怨み天を咎めて 女児に效(ナラ)はんや
W。なお、「良寛」 井上慶隆著 2002年発行である。東日本大震災福島原発事故を受けて、この詩は入れなかっただろう。小田実阪神淡路大震災に遭遇して、同じ発想の発言をしていたので、「オヤッ」をチェックした。海外事情に通じて、新しいことを云っている割に、根のところに、古いものがあるのだと思った。
上記の漢詩の解説
「文化文政のころの越後の経済発展は目覚ましく、社会生活も向上したそれにつれて庶民の日常も次第に完備となったが、この世相は有識者に腐敗堕落と映った。
三条地震の4年前、魚沼郡塩沢村の鈴木牧之は~~とこのような状況が続くなたやがて天罰を受けるだろうと述べた。
そして三条地震が起きた。
稼業に精励しながら(W、在村富裕百姓。良寛文化サークルの一員、援助者)「忍」を格言に質素を旨とした牧之>とは別な意味で<清貧>に生きた良寛も本詩のようにこの災禍を、驕れる時勢に対する点の警告と感じた
W。一般民は驕れるほどの贅沢はしていないと思うのだが。
>このような考え方は、当時の心ある人たちの間で広く見られたのだと思われる。
>盲目の女旅芸人<ごぜ>の語った地震口説きも本詩と同じような構成である。
瞽女(ごぜ)は、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する日本の女性の盲人芸能者。近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である。女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある。時にやむなく売春をおこなうこともあった。」
W。いたるところあらゆるところ上から下まで、付加体列島原住民が進行している

日本近世文化史では、元禄文化と文化文政(化政)文化が対比的に論じられているが、江戸、上方はともかくと越後において、元禄文化はまとまった形ではほとんど検出できない
特色を持った庶民文化は、禄ころに萌え始めて18世紀半ばから時代に伸長して。化政天保期に至って開花するのである。
 
W。歴史家として厳しい意見をのべている。そして良寛と越後の風土風習情緒は切り離せない
この本で最も感銘をうけたのはココであった。
 
第3章 良寛詩と越後 
一 東村の**<心暖かい外護者>たち
五合庵
 
二 手毬の唄
手毬の唄二首  W。漢詩省略
 
手毬歌
是れ、此の<しゅうきゅう(手毬)> 打ちてまた打つ
自らを誇る 好手等匹なしと
人有て、もし箇(こ)の中の意を問はば
一二三四五六七
 
 
良寛」井上慶隆著  引用
~たくさんの飯売り下女の墓のある群馬県新田町の『新田町誌』は、墓石とは別に文献による数値を上げ、
『明治初年の宗門人別帳によると、飯売り女91人中37人が越後出身者~
>信州の戸倉宿の天保9年宗門人別帳
39人中越後出身者29人
「飯盛り女の多くは他郷出身のもので、徳に遠くr地後の貧しい蒲原郡(W、良寛の草庵地域)などから送り込まれてくることが多かった。」
>江戸の吉原にも越後出身者の多かったことは、『~~越後八つの不思議』
川柳
『江戸へ来て 国の縮み(ちぢみ)へ 手を通し』
『錦絵を見て 涙ぐみ 越の母』
 
つまり越後は、江戸時代中期後期から明治にかけて、他へのほぼ一方的な遊女送り出し国であり、蒲原郡、三島郡、両郡(帰郷後の良寛の草庵のあった地域)が頸城郡とともにその中心であった。~~又越後は男女を問わぬ出稼ぎ国であった。
作家の水上勉は、案内で群馬県下各地を訪ねたてさらに多くの墓石を確認、
良寛さまは、たくさんの詩歌を残されたけれど、娘を売らぬと食ってゆけぬ家のことを読まれた歌や詩はないのだった。ご存じなかったか、と云えばそうでもなかろう」と考える。
そして手毬付きの長歌を引き『ひょっとしたらこの長歌のうらで、和尚は、哀しい娘たちの家の事情を百も御承知だったかもしれない。そう思ってくるとこれまで何気なくよんできた歌が、もう一つ、深い闇を背後にのぞかせていた気がする」とみた。水上勉良寛を歩く」~
 
W。親鸞流刑、布教の地、越後ではその人間主義によって、江戸時代の人口停滞の大きな原因であった児<間引き>児殺しの風習が低調であったことを、各地の具体的な人口推移や、宿場の飯盛り女、遊郭の越後出身者の圧倒的な多さ、などユニークな傍証によって解説している。
***
 
良寛の存在がもう100年、いや50年早かったら、彼を理解できる外護者も少なく、権力者や有力寺院とのかかわりを持たぬあのようなき方では、おそらく風変わりな乞食坊主として歴史の片隅に消えるほかなかったであろう
 
(W。村役人富農層であり、有力寺社など権力に繋がる人たちはないかったが、江戸後期には幕藩体制の基盤としての自営農民の階層分解が徹底して相当富裕化している。良寛のような中途半端な出家遁世が江戸後期に出現するのは、結局、武力と同時に文化の担い手でもあった支配層の封建軍事貴族が、農村から分離され、城下に集合蟄居され、ムラ次元は幕藩体制末端であるが肝心かなめの年貢請負の雑事に汲々としていたがためである。
名主良寛家の急激な没落を総括すると、年貢ムラ請負の舞台で名主としてうまく立ち回れず、村民と代官所のはざまで、撃沈したと云うことである。
 こんな矮小な次元に世の中を獲得する思想が芽生えるはずがなく、甚だしい周回遅れの出家遁となってしまった。コレは在村の高級知識人の世俗の否定に傾き、その挙句の「逃亡」の自己合理化しかなかった、と云えば云いすぎか?大愚は覚めた認識である。
明治維新薩長土肥、旧領縮小で全て侍余剰な地域であった、事も在村の百姓高級知識人の限界を示している。
在村の知識人は、カネの計算はできたが(経済観念は発達した)明治維新に関わることができなかった
後に武力支配に遅れて経済観念は合体した。
幕藩体制の末端年貢雑務の遂行者にとっての知は限界があった。武を伴わない知であったことが大きな原因であった。新鮮組は武士に登用される約束によって募兵された百姓たちで形成されていた。)
 
W。次に挙げる個所は、江戸時代を通じて進行した親類と隷属農民の大家族から独立自営農民の形成、→階層分解を簡潔にまとめている。
 (省略)
良寛支援者 文化サークルの構成員は村役人層である。
 
しかし、この本では、腑に落ちないところが多すぎた。Wに近い文言で説明された記事をネット中をかき分けて探してやっと数点見つけた。
 
良寛の本領である漢詩100%ダメ。高校時代、漢文は回避してきた。書も全くダメ。美術展の<書>のコーナーは無視することにしている。そういう文化とは相いれない。
従って、良寛の残した作品を評価できないので、それ以外で云々するということになるが、そこにまた大きな壁が立ちはだかっている。宗教に全く関心がない。まして各々の教義をや。一遍上人には魅かれるものがあるが、それ以外の宗教者は自分にとって一人の人間、一個人である。世界三大宗教の始祖をすべて実在の人間とだけみている。
ということで、良寛の何を評価の対象としたらいいのか、ということになるのだが、彼に類する境遇の人は、当時も今もたくさんいる。ライク ア ローリング ストーン的状況によって、家は没落し、家庭は破壊するが、その対極もある。橋下徹は「橋下家」と云う。確かに、そうだ、間違いない。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

Wに近い文言で説明された記事をネット中をかき分けて探してやっと数点見つけた。
良寛は生涯童貞であったか?  2009/2/23(月) 午後 8:48
http://tao.matrix.jp/kaze/b/361.html
 
水上勉によれば、良寛は18歳で出家する以前に妻を娶っているのである。この時の彼は名主見習いという「公職」についていたから、年少で妻帯しても当然視され、特に早婚だとは見られなかったらしい。
 
だが、この結婚は長く続かなかった。嫁方の親が、妊娠している娘を実家に連れ戻し、良寛との縁を切らせてしまったからだ。良寛の父の山本以南が親戚から金を借りまくっていることを知った嫁の実家が、将来の禍根を恐れて娘を引き取ってしまったのである。実家に戻った娘は、女の子を産んだ後に死亡し、生まれた女児も程なく亡くなったといわれている。
 
水上勉の著書には、こんなふうにこれまで知らないでいた事実がたくさん収録されていたが、これを読んで得た一番大きな発見は
良寛の父山本以南が破滅型の地方インテリであり、その子供たちにも破滅型のタイプが多いということだった。←キーワード

まず、山本以南。彼は他家から婿入りして橘屋を継ぎ、出雲崎の名主と神職を兼ねることになったけれども、従来型名主の枠に収まらない奔放な人物だった。彼は「名主には町年寄を任免する権利がある」と放言して、気にいらない町年寄の追放をはかって失敗するなど、監督機関である代官所から睨まれる行動が多かった。

名主としてトラブルメーカーだった以南は、次第に反俗的な傾向を強めて行く。封建時代の地方にも儒教や仏教について一通りの知識を持つ民間の知識人がいて、その先端的な分子は反体制・反中央の意識を抱くようになっていた。江戸幕府も後半にはいると、これらのメンバーは国学を媒介に尊皇思想に心酔するようになる。以南も、何時しか反俗反体制的な地方インテリの一人になっていたのである。
名主の仕事に嫌気のさした以南は、まだ31歳の若さで家督を長男の良寛に譲って隠居してしまう。
>名主見習の職についた時、良寛はまだ15歳だった
隠居した父は、各地に散在する尊皇の同志や風雅の道をともにする同好の士を訪ねて家を留守にしていたから、世間知らずの良寛は名主になっても父の助言を得ることも出来ず、ただうろうろするばかりだった

父の以南が奔放でルール無視の名主だったとすれば、良寛は人々から「昼行灯」と呼ばれるような役立たずの無能名主だった。やがて良寛も俗世と決別して出家することを願うようになる
以南は、内々長男の良寛と次男の由之を比べて、名主としての適性は次男の方にあると感じていたから、
良寛の望みを容れて、長男の代わりに由之を後継者にすることになる。この時、良寛は18歳、由之は13歳だった。
だが、13歳の由之を名主見習にするわけにも行かないから、以南は良寛の出家後名主職に戻り、由之が25歳になってから名主の職を譲っている。

良寛には、自分と弟を比較したと思われる詩がある。

  余が郷に兄弟あり
  兄弟心おのおの殊なり
  一人は弁にして聡く
  一人は訥にして且つ愚

これに続く詩句で、良寛は「愚かで訥弁の方は、一生余裕を持って静かに暮らせるが、利口な方は弁舌を駆使して四方八方を飛び回らなければならない」と続けている。この頃の彼は、弟に批判的だったのである。
 
由之は父の以南によく似た性格だった。派手好みで借財を重ね、動きが取れなくなると公金に手をつけるようなことまでするようになる。
故郷に戻ってきた良寛は、弟を戒めるために漢詩を作っている。

  茲に太多生あり
  好んで自ら聡明を衒う 
  ・・・・・

この詩を水上勉は、次のように訳している。

<ここに出しゃばり男がいる。自分の利口さをひけらかすのが好きで、大小にかかわらずどんなことでも、自分の思い通りに変えてしまう。足つき食器には山海の珍味がもられ、邸は当地一番の豪勢さ、門前には訪客の車馬がひしめき、遠近にその名はひびきわたる。しかし十八年もたたぬうちにその家はつぶれて草が生えてしまった>

代官所に提出された由之を弾劾する町民の訴状には、こんな一節があった。

「年中不要の人集めいたし、乗馬二匹迄飼置、御武家同様の身持いたし権威を振ひ奢増長仕候」

由之は名主を止めざるを得なくなり、息子の馬之助を名主見習にして隠居する。そして出家剃髪して、庵を結んで花鳥諷詠の生活にはいるのである。
>だが、跡を継いだ馬之助も、若い頃からの放蕩者で手に負えない問題児だった
 
馬之助については、よく知られたエピソードがある。まだ由之が名主職にあった頃、良寛は由之に頼まれて馬之助を説諭するために弟宅に出かけた。馬之助は何時説教が始まるかとびくびくしていたが、良寛は何も言わない。やがて、良寛が帰ることになったので、馬之助が土間にかがんで良寛の草鞋を結んでいると暖かなものが落ちてきた。見上げると、良寛は馬之助を見下ろしながら涙を流していた。良寛は馬之助についに何も言うことなく去っていった・・・・というのである。

良寛伝説によると、以後馬之助は立ち直って立派な名主になったとある。
 
>だが、馬之助も父と同様に公私混同を繰り返したために、一家は没落し、橘屋は家財没収の上所払いになってしまう。所払いになれば、もう出雲崎には住めなくなるのである。

では、次男由之に名主職を譲った父の以南はどうなったろうか。

以南は尊皇の志に燃えて、京都に上ったのである。京都には四男の香が文章博士に就いて勉学中だったから、その顔を見たいという気持ちもあった。その以南が京都に赴いてから二年後に、桂川に身を投じて自殺してしまうのだ。
四男の香文章博士になったものの突然出家し、没年も不明というような死に方をしている。
父以南、良寛、由之、香と四人を見てくると、共に現世の生活に適応できない破滅型タイプの人間像が浮かんでくる。
そして、この四人のうちで破滅一歩手前のところで踏みとどまったのは良寛一人だったという気がするのである。

良寛は名主見習3年間で、現世の生活に耐えられなくなり、脱出をはかって仏門に入っている。だが、曹洞宗の門をくぐってみると、宗門内には永平寺総持寺の相克や本山と末寺の対立があり、彼はまたもや耐え難いものを感じ始める。そこで、良寛は宗門を脱出して、非俗、非僧の世界を求めるようになるのだ。

円通寺で修行した後に寺をを飛び出した良寛は、頭を丸め、墨染めの衣を着、僧侶の風体になって托鉢しているが、衆生に説法をしたこともなければ、葬式を執り行ったこともない。人のいない空庵があれば、そこに住み着いて托鉢するだけだった。

そして故郷に戻ってくると、風雅の道を愛する友人知己とささやかなサークルを作り、互いに書や詩歌を贈答しあって時間を過ごしたのである。俗世から仏門へ、仏門からサークルへと所属する世界を次第に狭めていって、彼は安住の地を発見したのである
 
良寛が破滅しなかったのは、

  死ぬ時節には、死ぬがよろしく候
  焚くほどは風が持てくる落ち葉かな

と言うような無抵抗主義哲学に徹したからであり、こうした人生哲学も文人サークルという安住の地から生み出されたものであった。

今日、良寛漢詩・短歌・俳句・書がかなり多数残っている。
文壇というようなものが存在しなかった地方に、こんなにも多くの良寛作品が残っているのは、良寛からの手紙に書き付けられた詩歌などを友人知己が大事に保存していたからだった。
 
水上勉は、次のように言っている。

<書きのこすといっても、それをどこかへ
発表するといったような、仕事としてのそれではない。気ままな文芸である。
もともと、文芸とはそういう自然なものであって、折にふれて詠む朝夕の感想を人におくり、あるいは人から送られて、また返書してゆく楽しみである。左様。たのしみでなくてはならぬ