反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

昭和文学全集、武者小路実篤。「井原西鶴」~元禄浪速の風流に徹底する粋(スイ)と東京江戸の粋(イキ)の違いを区別して徹底批判~「愛と死」~恋愛物語が説教小説に~その政治思想を作品を通じて問う~

        
     
      <井原西鶴>.作者のとんでもない勘違い、思い上がりに読むに堪えない。
 昭和大全集3小学館 人と作品 紅野敏郎、より引用
「①僕は伝記小説を書くとき、その時代を無視しないつもりだが、それを自分の生命と交渉する生命(W、西鶴を書きたい
 
W.西鶴は江戸初期、元禄文化真っ盛りの町人の街浪速の粋(スイ)人として文によって粋(スイ)を極めようとした、と解釈している。
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以下の参考資料は強調点を解説してくれている。井原西鶴の英術を理解する最大のキーポイントと考えている。武者小路実篤は肝心なところが無視して、西鶴を物語る。勘違いも甚だしく、思い上がりである。
引用
粋(いき)と粋(すい)違い解りますか? 2014年05月07日 出典はいき - Wikipedia なお、古今亭志ん朝師匠は、三代目古今亭志ん朝 - 宋珉の滝  https://www.youtube.com/watch?v=56s-iVPhLYoのまくらの上方と江戸の名人を比べて、語るところで、ハッキリと粋(いき)と粋(すい)違いを意識している。ニュアンスは引用文と大体同じである。
 
「 いきは粋と表記されることが多いが、これは明治になってからのことで、上方の美意識である「粋(すい)」とは区別しなければならない。
上方の「粋(すい)」が恋愛や装飾などにおいて突き詰めた末に結晶される文化様式(結果としての、心中や絢爛豪華な振袖の着物など)、字のごとく純粋の「粋(すい)」であるのに対し
 
江戸における「いき」とは突き詰めない、上記で解説した異性間での緊張を常に緊張としておくために、突き放さず突き詰めず、常に距離を接近せしめることによって生まれると言われる。←(W。武者小路実篤の著作を読むとその思想の本質はコレある、実感する。」
 
 
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西鶴の墓は、大阪の上町台地の北側の街中にある誓願寺にある。墓石は大阪大空襲で一時紛失していたが、付近の土中から発見された、と記念碑に解説されている。墓石の切り出された原石の形をとどめるような余りに素朴なもので、墓標には、簡素に名が刻まれている。そのようなあまりにも質素、素朴な墓の前にたたずむと、遺骨が葬られた当時の状況を彷彿させる。江戸初期の、幕藩体制を取り仕切るはずの江戸の西方浪速や京、で栄えた元禄文化元禄時代がどうのようなものであったか、つい想像してしまう
 
 江戸中期や後期のように「中央集権」的幕藩封建体支配体制が定着し、経済発展から必然化する鎖国封建的矛盾によって、絶対主義権力創成への「改革」政治衝動の方向性を抱え込みつつ、それに沿って日本固有の江戸中心の文化が興隆した時代状況とは違っている、ことが分かる。
江戸の西方の当時の時代状況を前提とした元禄文化状況は、その後の江戸文化とはハッキリと一線画す。
長い戦国の世がパックストクガワーナに集約され直後と、その支配体制は固った、端境期であり、徳川封建時代のあらゆる分野での特性の形成される時期だった。
 その端境期、過渡期に、支配層である武士がたった2000人弱しかいない50万人口の町人、細民、商工民、大中の金貸し利ざや商人が狭い地域でひしめく街、特有の風俗と云うエアーポケットにおいて、遊興の粋が寄り集まり、その先端において遊興的文化の独走が始まったのである。
西鶴芸は、このような脈略で、理解するしかないと思う。繰り返すが武者小路の生み出した西鶴、それとは無縁である。
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島原の乱 - Wikipedia 1637年12月11日勃発~1638年4月12日終結 
W。中央武装勢力相手に5ヶ月間も武力抵抗している。言い換えると幕藩体制はまだ固まり切っていなかった。
「江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。」
元禄文化 - Wikipedia 1688年 - 1707年
W。上流文化には関心がない。この解説はつぼを心得ていない俗説であり、こうして歴史は捻じ曲げられる。
朱子学、自然科学、古典研究が発達した。尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍」
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武者小路描く西鶴、(A)武者小路実篤近代人的自我と感性、心の動きを持った(B)江戸っ子西鶴、という西鶴ファンの自分にとって二重のとんでもない代物で怒りさえ覚えた。
時代考証まで行かなくても、浪速の街の風情情緒を醸し出すために、それらしき事物事象の呼称、用語、文言は文中にちりばめるべきだった。完全な現代語で書いている。
この小説は舞台装置のない武者小路の振りつけた役者だけが演じる演劇である
必然として、武者小路流説教小説になって、西鶴の墓の素朴で土俗的な様子を知る者にとって、読むに堪えない。西鶴は地元密着、元禄、浪速の粋(スイ)が生み出した究極の文人であった。
 
「②西鶴我らを高める作家ではないかもしれない。しかし人情を知り、風流を知り、喜びと寂しさを知る。また美を知る。また人間の弱点を多量に持ち、普通の人間以上に生々しい人間ではある。」
 
W。我らを高める作家がいると、手放しで思いこんでいるところが武者小路らしいが、1920年代初期の世界的芸術状況とかなりズレがあり、まだトルストイの全盛期の19世紀的意識が残っている。時代状況に過敏だが、精神が過去にある。
 ソレで世界の文化状況とズレた的外れな政治思想小説を書いて、何はともあれ一定の読者を獲得していたのだから、戦前日本の大正デモクラシーは特殊日本的イデオロギー状況にあった、と云えるし、その戦後的展開が気になる。
 
教養小説 - Wikipedia トーマス・マン ヘッセの方が物語の輪郭がくっきりしていて分かり易い。面白くて物語性もある。説教臭くない。

>当然にもそのような心性は洋行の現地での違和感の体験となって表れている。当地で精神が閉塞したとき、当人が観念の世界にいるから、繋がりの糸口が見いだせない。
 
      <愛と死>
次のような気になる箇所があった。一人称独白で物語は進行する。
主人公はやがて流行性感冒にかかって急死する婚約者を東京に残して、この機会を逃してはならないと、婚約者の兄である親友(志賀直哉をほうふつさせるように書かれている)に強く勧められて洋行する。ヨーロッパ現地での感想を記している。
 
この箇所は実際に洋行を体験した武者小路の率直な感想であろう。
 
「わたしは東洋人として少しも引け目を感ぜず、自分より優れた精神的な人間にあったとは思わない。言葉は通じないまでも心と心の接触は目を通し、無形の威力を持って行われ、威圧は直接感じられるものだ。
彼らの内に我等にも劣らないものがあることを知っているが、我らも少しも劣らないことを直接感じた。
この感じは野々村が僕の感じることを期待していた、期待に背かなかったことを喜ぶとともに、彼の直感力のさに感心する」
 
W。ここから先に注目する。本当のことだろうが。 調べてみるとヨーロッパ渡航は1936年と判明
『僕は僕ら黄色人種を軽蔑のまなざしを持ってみる浅薄な白人を軽蔑する。無教養の人間ことに東洋に属国を所有する国の無知なものほど、我らを軽蔑してみる』
 
「船の寄るところは全部英領だということも腹の立つの一つだ。僕が文学の仕事で彼らを押さえつける力がないことを恥じる、しかし我らは尊敬されるべきものであることを示したいと思っている精神力において彼等にまけるわけにはいかない」
 
~W。こういう何によるのかハッキリしない精神主義の動きを愛と死を見つめて風の小説に登場させるところが武者小路実篤ワールドである。
 
この文で押さえつけられないから精神力でと云う精神とはいったい何だろう?
 
「死神が人間を殺すほど、訳ないことはない。このことは死神の自慢にならない。~死神よおまえは人間を殺すことができるが、人間を神にするする手先にすぎないのだぞ、僕はそう思いたい。~死んだもんがかわいそうで仕方がない。しかし私はどうすることもできない。できるのは人間のために働くことだけです。哀れな人間がこの世に多いです。一人残らず哀れな人間です。僕は西洋に行きました。どこでも哀れな人間でいっぱいです。一人鉄人がいる会内かでしょう』
 
『しかし人間は自分の哀れさを知らない私も知らなかった。私は喜びで日本に近づくのを待ちかねていた。それで良いのです。我は死に近づきつつあることを忘れている。ソレが健全な証拠です。しかし哀れでないとは言えません。私は西洋へ行っていろいろなものを見ましたが、別に何も得なかった。どこにも人間がいる。日本人じゃない人間がいるkとを見てきたくらいのものです。~~
ただ私はこの残酷きわまる運命にどう復讐してやろうかと考えている。殺された人間が神になる。このくらい立派な復讐はない』
 
W。いくら小説とは云え、混乱している。ムード的用語が続いている。キリスト教と仏教と普通の哲学が、ごちゃごちゃになって何を主張しているのか一貫性がない。人間が死んだら神様になる、というのも、真面目に考えていない証拠である。神様の大安売りにならないか?そんな宗教も哲学も聞いたことがない。平たい意味での人間主義を感じ取るしかないのか?
 
>もがき苦しみ恐れる生の人間であればあるほど、必然として心の中から沸き起こる祈りに通じる狭くあるが貴重な道を、曖昧にし閉ざし、常態化させることを、思想的営為に取り替えているのである。
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引用  牟礼随筆 全集3より <トルストイ主義> 
W。原理原則は何かと云う問題意識がない。歯止めは曖昧にならざる得ない。
トルストイは僕の最小の詩であり、最大の恩師であった。自分がいまでも人生において考えている大部分はトルストイの考えと一致している。しかし正直言ってトルストイ主義から自分は随分脱出してしまった。~僕は決して恥じていない。
>むしろ自然の意思に忠実になれたと思っている。
ただ、トルストイは何者も恐れず、自分の信じていることを公言し、そのために死を恐れず、牢獄も恐れず、自分の生活の平和の破壊も恐れず、自分の生活の安定を失うのも恐れず、恐れないのではないかもしれないが、都の書くどこまでも自分のいいたいことをいった。自分の生活を正義化しようとせず、自分の生活と矛盾することもあえて書いた。
 
 この点は尊敬して云い、少なくとも今の僕にはまねができない。
>真似ができないのは、彼の様に抜き差しできない主義を僕が持っていないからでもある。
 
W。ここから一転、世間の常識を登場させる。武者小路のパターンである。原理原則に通じる道を閉ざしたのである。身も蓋もないとはこういうことである、の証明のような文章が続く
 
トルストイは肉食を否定する。僕は肉食しても別に心は咎めない。自分は酒もほとんど飲まないし、煙草ものまないが、しかし他人がのんでも僕は別に悪いこととも思わない。
この一歩の違いが相当大きな違いになる。
性欲についても僕はトルストイの様な道楽をしなかったせいか、別に罪とは思っていない。~トルストイの云うような意味にとらず、ただ無責任に子供を作らせない自然の用心深さととっている。
 
 
 戦争においてはもとより僕は恐ろしいものだと思うが、原因がなくならないところに起こるのやむえないと思う。
起こる芸員をなくすのはもとより賛成だが、起こった戦争に無抵抗主義を唱える気はしない。
 
 僕はトルストイより融通がつきすぎて、なにに対しても割に呑気な態度をとっているのは、トルストイが見たら堕落だと思うかと思う。僕自身別に堕落とは思えあないが、堕落でないとも思わない。ただそれが事実だと想うだけだ。
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 僕はいアマでも新しき村の仕事を続く、その生活方法が本当だと思っているが、しかしそれを他人に強制使用都がもちろん思わないし、新しき村に住む資格のないものに来られても両方で困ると思っている。
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ただ、自分は他人を不幸に自分から進んではしたくないと思っているのと、自分の仕事の内に自分の生命を全部生かしたいと思っていることと、
できるだけ賢い人間になりたいと思っていることと、
この世をできたら住みいいところにしたいと思っている。
 
しかしそれもどの程度に思っているのか、自分では知らない。
ただ毎日、何か文章を書き、絵を描き、本を読み、友を訪ねたり、散歩しながらモノを考えたり、--して毎日を過ごしている。
真剣に仕事ができるときは、生きていて何かしている時と思うし、散歩しているときはこの世に幸福すぎてすまない気がする。
何かして罪滅ぼしをしたいと思うのだ。その罪滅ぼしをまた自分の仕事でしたいと思っているのだ。
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常に説教に流れる。武者小路小説の特徴は、わざわざ、こういう説教する舞台装置をメインに持ってくるところにある。徹底した自己肯定の次元に至るために小説は展開する
そうするとその説教内容のパターンは決まっているのだからそれが、時代に合うか合わないかの問題だけが残る。
 
もちろんそのまま貴重な洋行体験として素直に受け入れる読者層が存在したそこに時代状況と云う巨大な発火装置で点火されたら、このような「高尚な小説」の読者層は一転、英米撃破に親和する
こうして愛と死なる純愛小説の体裁をとった思想小説を記す武者小路実篤本人が濁流になだれ込んでその一部と化した。
 
「僕はそういう息を感じて、態度はどこまでも例をうすなわず、厚意を失わなかったが、同時に、彼等に媚びる何らの理由も認めなかった。
しかし日本に帰ったら、こんなつまらぬ緊張はせずに済むだろう。異邦人と云う感じにとつかれ異邦人の中を歩くのは無心とは行かない」
 
W.もっと具体的に云うとこういうことになる
 
「外国でも僕はいろいと考える男だから、つい外国へきているのを忘れてて何かものを思って歩いている。夏子のことなどを思ってありていた。すると第六感で誰かに見られていることに気づく。そこではじめて我に返ると、自分が異人種の中を一人黄色い顔をし、扁平の鼻をし、黒い髪に、下手にいう服を着て歩いていることに気がつく、皆が見ている。つい無心になれない。日本にいるとき使わなかった神経をつかう。日本の中を歩いているとそんなことはない。みな日本人だ。なんとなく気楽である」
 
W。鳥越俊太郎毎日新聞の記者生活のキャリアを中断して、ペンシルベニア州ボルチモアの奥にあるクェーカーズタウンなるいかにも白人オンリーの名前の小さな都市のタウン紙の記者として公費留学した。
その体験を面白く綴ったのが「あめりか記者生活」中公文庫1989年発行である。
その見出しの一つに
      <ジロジロノイローゼ>~W。海外観光ではわからない、住まなければわからない体験である。
 
「私はある朝、レースの陰に見つけた老婆の凝視に、この町に住み始めて以来私を落ちtかない気分にさせている者の正体を見た、と思った。
通り、レストラン、スーパー、私はどこにいても人々の、誠に遠慮のない、私に言わせるれば、ぶしつけな視線にさらされる。
 盗み見る、なんて生易しいものではない。あっけらかんと、しげしげと、じろじろと彼らは見る。
通りでは、車の中からだと余計遠慮がないせいか、本当に熱心に見てくださる。ハンドルを持っていてもそうだから、衝突するんじゃないかとこちらが心配になる。
 こうじろじろとやられると、そのうち自分がパンダにでもなったようで、落ち着かなくなり、やがて無性に腹が立つ。
『見世物じゃないぞ』
日本語で怒鳴ったりする。
一種のじろじろノイローゼと云うものである。
 
>そして日本ではもっとひどいのではないかと思い当たる
日本人の外国人を見る目はもっと無遠慮、不作法ではないか。もっとも東京ではこの10数年外国人の姿も増え、日本人もガイジン慣れしてきたかもしれないが。
 
 
ワシントンやニューヨークでこういう思いをした事がない。
>つまり、見慣れないものに接したとき、コレは至極当然の反応であって、クェーカーズタウンがそれほど、様々な人種が混じり合わない、閉鎖された社会ーー田舎と云うことだろう。
 
クェーカーズタウンの住民の95%以上は白人である。黒人はほんの一握り、数家族が町を出て車で5分も走った林の中に固まって住んでいるという。
 
 
近年町の周辺にベトナムカンボジアラオスなどアジア系難民が入ってきた。コレは連法政府が州政府に対して<割り当てており>地域コミュニティーが難民を受け入れている。
 ほとんどが英語を話せずやってくるが、子供たちはたちまち言葉を覚え、この社会に適応していく。十数年もたてば立派なアメリカ国民となるだろう。
 
 
こうした伝統的白人社会に、黒い髪、アーモンド色の目、やや平板な顔、胴に比較して短い脚、やはりどう見ても、自分たちの周りで見かけない男が入ってくれば目立つも道理
>ある夜、~~地元のバスケットボールチームの試合観戦に出かけ、満員の観客席の前を通る時、私は生まれて初めて、自分の髪の色、顔の造作を意識した
 
>クェーカーズタウン生活が長くなるにつれ、私は凝視に笑顔を持って答える余裕を持ったが、
単一民族に近く、じろじろを平気でやってのける日本人の住む国は、世界のクェーカーズタウンと云うものであるらしい。
 
1936年ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った」
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引用 世界の窓 
「①二・二六事件 - Wikipedia1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件」
盧溝橋事件 - Wikipedia1937年昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件
②ドイツとイタリアは、1936年10月、ベルリン=ローマ枢軸と言われる提携関係に入っていた。
     <日独防共協定/日独伊三国防共協定>
1936年11月、日本とナチス=ドイツ間で共産主義の脅威からの共同防衛を約したもの。翌37年にはイタリアが参加し三国防共協定となる。」
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W。以上①、②,③の日本東アジア、ヨーロッパ情勢、及び1936年の洋行後発表の「愛と死」の内容を総合すると、武者小路実篤1936年にヨーロッパ旅行に出かける前から、社会ファシスト?の道を選択していたものと推察できる。
 
 
>したがって、武者小路実篤 - Wikipedia 「1936年ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって実篤は戦争支持者となってゆく。」は間違いである。
洋行中の黄色人種として味わった屈辱は、自らの社会ファシスト思想満開の呼び水になったにすぎない。洋行前から黄色人種としての政治屈辱を政治思想化していたのである。
現時点の武者小路実篤の解説で、当時の作品内容、その発表年月、東西の時代状況のリアルな考察を抜きして、軽々しく人種問題と武者小路実篤の文学報告会副指導者の戦争主導問題を結び付けてはいけない。
鳥越俊太郎の云うように、そいう云う問題は厳然としてある。
 
しかし、現在は、人種間の偏見の一方的な「被害者」としてではなく、「加害者」でもあるという両方の視点から、考えられるようになってきている
それからグローバリズムの世界基準?は昔のような抑圧する民族と抑圧される民族を二分する境界線をあいまいにしている。
かつての抑圧された民族の中から支配層が台頭し、世界の支配層として共通利害の上に立って、世界の階層分解を推し進めている。
 

 
 
     牟礼随筆
 <時間持ち>
自分は金持ちではないは時間持ちである。
ユニークな視点だが、よくよく読むと、自分のおかれた特殊事情からしか語たらず、読者のどうしたら時間持ちになれるだろうかという素朴な欲求のとっかかりさえ語っていない。
 
 <夢>
連夜の夢、一晩に何回も違う夢が出現する、悪夢を自分の体験にも続き正面から肯定し自分の見た夢をリアルに連綿と書き綴る武者小路実篤の自己肯定自己救済思想の真骨頂ここにありの感がする秀逸の随筆である
昭和和文学大全集3、~武者小路実篤の作品の中で最高のものである。