反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用第二回 「冬の兵士」

 マイケル、ルデユーク
海兵隊伍長 突撃兵←W。民主党政権時の普天間海兵隊基地辺野古移設、問題のとき、日本側で云われてきた沖縄海兵隊の役割に関する見解とずいぶん違う。陸軍がやれない、陸上戦闘を率先して行う部隊が海兵隊ではないのか。
第8海兵連隊第一大隊武器小隊
アンバール県、ハディーサー、ファルージャ 2004年6月~12月
マサチューセッツ州ボストン 22歳
 
「大隊付き法務官はこんな具合に話をまとめました。
『さて海兵隊の諸君、武器を持っている人間を見たら、どうする?」
僕たちは小さな声でぼそぼそと云いながら、誰かが答えてくれるのを待っていた。すると声が上がった。
『撃ちますか』
『違う。
標的を撃つこと、弾丸を浴びせて威圧することはある。
だが標的を定めて射殺することとは別だ。
ではもう一度聞く。
諸君が武器を持っている人間を見たら、どうする?』
『殺す』
『双眼鏡を持っている人間を見たら、どうする?』
『殺せ』
携帯電話を手にしている人間を見たら、どうする?』
『殺せ』
 
>『目にした人間が実際には何も持っていなくても、
*とくに<敵対行為><敵対意思>を示さず<走っていた>としても
例えばこの建物からあの建物に向かって走っていたり、
例え諸君から逃げようとしてはしていたとしても、
その人間が諸君に向かって何か画策をしているとみなし殺せ。
その人間が白旗を上げ、なにも不審な様子を見せず、ゆっくりと近づいてきて、此方の命令に従っていたとしても、ソレを罠だとみなし殺せ。』
W.この原則に従った戦闘行為で殺された側には深い憎悪が降り積もっていく。逆にいえば米軍は抵抗によって選択の幅の狭い狭い水路にはまった。
 「ファルージャで、ぼくたちはその交戦規則に従いました。」
 
W。前回記事「冬の兵士」本文引用。~本文は自国が1977年のジュネーブ協定追加議定書を批准していない、と云う国際法的環境を取り上げていない。
>翻訳した日本側がこの事実をさりげなく付け加えた。
「冬の兵士」の反戦イラク帰還兵側の反戦にも限界がある。
日本の従来の平和観と「冬の兵士」反戦イラク帰還兵の会の反戦。一人の市民が多元的視点を使えるようにならねければ、現状の世界はわからない。
 
人民戦争のような極限状態に追い込まれると、交戦規則は自由裁量され、制圧作戦軍の行動は暴走し、敵対分子を再生産する構造が出来上がる。
 ↓軍隊をコントロールするは政府の基本政策。米国の国際法未批准状態は、グラムシ歴史ブロック適応
「2007年、米国自由人権協会が、それまで機密とされた陸軍の文書を1万ページ近く入手し、民間人の犠牲者に対する政府の対応が明らかになった。
軍法会議の訴訟手続きや軍部の取り調べ記録からあらわになったのは、
敵対意思><敵対行為>の定義があまりにも大ざっぱぱなので、一人のイラク人のとる事実上すべての行為が、武力行使の正当化に利用し得ることだった。」
 
W。引用 前回記事証言 ジェイソン、ウォッシュバーン 海兵隊伍長 ライフル兵
「>侵攻が終わってブッシュが『任務終了』を宣言した後、交戦規則は劇的に変わりました。
>実際に発砲する代わりに、
住民を服従させるために≪白兵戦>>と云うか至近距離での暴力をずいぶん使うようになりました。」
***
本文証言に戻る
「踏み込みもしないで、家屋を倒して平らにすることが当たり前になっていた。
ブルとーザーを戦車代わりに仕事させて、ぼくたちはがれきの上を歩いた。(W。その時点で抵抗が完全になかったと云うことだ。)
「もう人間は撃ち尽くしていたから、犬や猫鶏でも、動くものなら何でも撃ちました。」
W。ヒステリー状態と云うことを考慮しても、軍事と政治の連関は完全に寸断されている。コレでは敵を作る。現在は過去の延長である。
 
「人口30万人の都市ファルージャは、本年4月の戦闘でも町が破壊され、既に700名の市民が殺害された。今回、米軍は武装勢力の脱出を防ぐと称して民間人の逃げ道も閉ざして空爆と市街戦を行い、市外に逃れようとする住民にも銃撃を加えており、12日の段階で既に数百人の市民が死亡したと報道されている。」
これはファルージャ大虐殺」と言うべき暴挙であり、絶対に許すことが出来ない。」
 しかも、ファルージャの病院を破壊したのは沖縄に配備されていた米海兵隊であり、小泉首相はこれらの犯罪行為に支持を表明し、日本の航空自衛隊は米軍の指揮下でクウェートの米軍基地から米軍兵士と武器、軍事物資を空輸しており、その一部はこの攻撃にも使われるいるのである。従って、日本政府及び小泉首相は上記戦争犯罪に荷担しており、その幇助ないし共同正犯とさえ言える。」
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本文に戻る。
「何か前向きのことに貢献したいと想って、人間が置かれている状況のすべてを改善するために何かいいことをしたいと想って、僕は軍隊にいた。
そうすることにはイラクは適切な場所だと感じていた。
僕は若すぎて何も知らず間違っていました。何かあったことで自分が大きく変わったと云うつもりはありません」
「規則をはぶることでも規則に従うことでも、正しいと想った事でも悪いと解っていたことでも、他の隊員と同じように、やるしかないから、僕はやっただけでした。』
 
ブライアン、キャスラー
海兵隊伍長 ライフル兵
クウェイトからバビロン 2003年
アフガニスタン カブール 2004年~2005年
ファルージャ 2005年~2006年
W、都合3年間
ニューヨーク州シラキュース出身 24歳
 
「朝事務所にいて、二等軍曹のそばを通りがかり、
『二等軍曹、おはようございます』と云ったとします。
一般社会なら『ああ、おはよう』と返ってくるところでしょう。
しかし海兵隊の場合、帰ってくる言葉は『おう、殺っちまえ』。
コレは気合を入れるためです。
面白かろうと云っているのではありません。兵士たちの士気を高め、兵士の一日を「おう、殺っちまえ』と云う言葉とともに始めるのです。
こんなことは珍しいことではありません。
海兵隊と云うところは、誰が一番非人間的で差別的で侮辱的なことを云えるか、そしてそれを楽しめるかを競い合うような体質が充満しています」

 
クリストファー、アレント
23歳
 
ミシガン州陸軍州兵に入隊したのは17歳の時でした。友人と一緒に住んでいました。
他の選択肢がなかったので、20001年11月入隊を決意しました。家は貧しくわたしも貧乏で、進学を希望していました。その目的を果たせるだけのカネを約束されていたのですは、まだ受け取っていません
あと、もう一つ言いたかったのは、『被収容者』と云う用語の使い方についてです。
被収容者と呼ばなくてはならない、と私たちは命じられました。
どうして被収容者じゃないといけない。
もし捕虜なら彼等は戦争捕虜であり、適用される法律は全く違います
>被収容者ならばいかなる法律も低要されません。
その人たちは被収容者と呼ばれているため裁判を受けることもできないし、その処遇を定める規則もない
>W。キューバ グアンタナモ収容所は帝政ロシア時代の「人民の意思党」の政治犯の処遇とまったく同じである。彼らは、貧しい農村への人民の中へ運動が挫折して、一転、皇帝体制に対するテロ攻撃路線に転換した。
 
マイケル、プラズナー
陸軍予備役五兆空中偵察技術兵
服務機関 2003年~2004年
フロリダ州 タンパ出身 24歳
 
「わたしたちはテロリストと戦っていると教えられました。
ところが、本物のテロリストはわたしだった。
そして本当のテロリズムはこの占領だ。
軍内の人種差別は、他国の破壊と占領を正当化するための重要な手段として長い間利用されてきました。
人種偏見がなければ、兵士たちは、自分たちを戦場に送り出す億万長者よりも、イラクの人々との間に、もっと多くの共通点があることに気づくでしょう。
わたしはイラクで何家族かの家族を路上に放り出しました。
帰国してみると、避けられたはずの悲惨なサブプライム危機で家を差し押さえられ、この国でも路上に放り出されている家族がいることを知りました。
わたしたちの敵は8000キロも遠く離れたところに入るのではなく、敵はココに、私たちの国にいます。
わたしたちが一体になって戦えば、この戦争を食い止めることができ、この政府を食い止め、よりよい社会を作り上げることができます。』
 
       民間人の証言 イラク人の犠牲
サラーム、ターリブ
合衆国入獄を許可された数少ないイラク人の一人
コンピュータープログラマー
 
イラクに配備される米編が増えるにつれて家宅捜索の件数も増え、記録的な数のイラク人が投獄されている。
その数があまりに多いので、
サダムフセイン時代の旧施設では米軍が投獄する全員を収容しきれないほどだ。
米軍は一連の新しい収容所を建設し、そのうちのブッカ収容所では、間もなく三万人が収容可能となる。
米国は2008年8月までにイラクで24000人以上の『国家安全上の被収容者』を抑留していた。
『国家安全保障上の被収容者』とは、逮捕状もなく、起訴されることもなく、法廷で自己弁護する機会も与えられないまま、無期限に抑留されている囚人のことである。」
 
フダー、ジャッバール、ムハンマド、アリー
1968年生まれ
バクダード アルニダール地区在住
 
「夫は学校の警備員でした。殺された時は、公式の職務として好調補佐に会いに行くところでした。
夫は私の兄弟とその妻、妻のおじが運転する車に乗っていました。
夫が私たちの自宅のある地域へ向かった時、占領軍はその地域を去っていくところでした。
>彼等はスピードを出して運転しながら無差別に発砲していました。
そして夫は頭部を撃たれたのです。わたしの兄弟は負傷しました。
わたしは何が起こったのか分かりません。
この地域で爆発はなかったからです。
>米軍はただ、目の前にいた人を皆打っていました。彼らは、自分たち以外の誰もその道を走らせたくなかった。そこどけとばかり誰かれ構わず打ち始めた。彼らは目の前にいた人を誰でもうちました。
そうして夫は殺された。他に6人が殺された。
近所のヒトの多くがコレを目撃しました。
 
>事件の後、わたしは米軍駐屯所に行きました。
そこにいた兵士の一人が手紙を書いてくれるのを手伝ってくれ、わたしは自分の失ったものに対する補償をしてもらえることを願いながら、その手紙をグイーンゾーンへ持ち込みました。
>わたしはあちこちとたらいまわしされ、何一つ保障をもらえませんでした。今、私は神のお力添えで家族を養っています。
 
W。イラク人の証言が5件。
 
ザハラ、アッバース
母親
シリア在住のイラク難民。←W。いまシリアは内戦状態。
W。突然の家宅捜索は、いきなりの徹底した破壊。修理費は自弁8000ドル。イラクでは大金である。
 
ムハンマド、アルム
バクダード在住
W。家宅捜索。イラク人告発者が弟を名指しにする。
「母い親が、およそ13000ドルに相当する全財産に相当する