神タイガースはCS戦の勢いのまま、日本シリーズ第1戦を勝った。
試合途中から消音してのテレビ観戦だった。解説者の顔ぶれ(吉田義男、桧山進次郎、阿部慎之介)から、先の両名の解説はペナントレースのラジオ解説を聞いていて、野球解説というものを大きく勘違いしていて、聴くに堪えないものだと想っていたからだ。
吉田氏の場合は、
昔の経験や知識を総動員して事細かい、阪神タイガースの応援を解説席でしているようなものである。今に時代、大きな勘違いじゃなかろうか?
昨夜の解説でも「阪神のセンターといえば、新庄?いや違うなぁ~。え~とそのほかにもう一人~誰やったっけ?」 アナウンサー「赤星!」「そうそうソレ、赤星」などということになっていた。直近の阪神の名センターの名前がでてこないヒトを、日本シリーズの解説者にする局の姿勢は、このギスギス世相の逆を行く、ほのぼのとしたものだし、リスペクトの念を失わない放送局としての一貫性を感じて、好感の持ているものだが、生活に全く困らない悠々自適であるはずの高齢者吉田さん、の替わりの適切な局お抱えの解説者はほかに数人いた。
が、スポーツ観戦も多様化している時代、未だに、インテリジェンスの乏しい古臭い一方のチームに偏った応援スタイルの解説を貫き通しているのはファンといえども見苦しさを感じる。
が、それと野球解説とは、次元が違うとつくづく想う。人間桧山進次郎としての長所は残念ながら、解説者としての短所になっている。気遣い過剰の当たり障りのない発言を爽やで好感が持てるとするか、踏み込み不足とするかで評価は全く違ってくる。
野球解説者という仕事を独立した別の枠組みと捉えていたからだ。そしてそのこころは「たかが野球、されど野球」である。
名監督の西本さんは一選手が「監督。野球って所詮遊びでしょ」といったことに対して、「バカヤロー!遊びだからこそ一所懸命やるんだよ」といった。コレも含蓄が深い言葉だ。懸命に研究したり努力してこそ、遊びの楽しみを深まる。結果はどうでもいいやでは、ちっとも楽しくない。
昨夜の阿部慎之介の解説を高評価するコメントがネットでたくさん出ていた。
実は説得力のある発言がでてくるだろう、と阿部慎之介解説に期待していた。日ごろのプレースタイルを垣間見ると、そんな気がした。
残念ながら、CSシリーズの阿部は昨年の楽天戦の日本シリーズ(結果は伴わなかったが)で見たときよりもスイングが鈍っているようにみえた。バットの先端を頭のほうに入れて、バットの軌道に遠心力を利用するということらしいが、阪神掛布雅之も手首のデッドボール直撃以降、グリップを効かせるフォームから、ボディーアクションを大きくとるバッティングフォームに変えたが、引退時期は早くきた。
阿部の場合、捕手というポジションの勤続疲労の蓄積から、もう以前の打撃は期待できず、難しい曲がり角に来ている、と想うが、その経験と知識は、貴重なものである。解説者の席に座ると説得力のある発言が出てくる。
しかし、音を消したら、阿部慎之介の解説は聴けない、聴こうと想えば、雑音が入るジレンマ。
日本シリーズを中継する放送局に、普段の中継とは次元の違うプロとしての配慮をして欲しかった。
三人も解説者は要らなかった。局、お抱えの二人はいつも通りの緩い解説しか期待できないのだから。自分の希望としては、そのうちの一人+阿部慎之介解説にしてもらいたかった。
そうすれば阿部慎之介の解説はモットゆっくり聞けるし、視聴者として日本シリーズを多角的に楽しめる。よって、野球ファンとしても、グラウンドのプレーの光景の意味が広がる。
野球解説とは、グラウンドの選手たちの必至のプレーに、斬新的な視点と言葉の効果的な選択によって、プラスアルファを付与するものである。ソレは過剰演出では全くなく、野球プロとしてできる範囲の言葉による仕事である。
コレはできそうでできない、仕事である。日本の野球解説者は現場復帰の足がかりとしてしか思っていない節がある。ココが解説の仕事が専門職のエンターティメントとして確立しているアメリカ野球との違いである。
中継カメラの台数が多く多角的角度の放映できる。
そのほうがスリリングな場面が演出できる。例えば、福留がライン上の飛球を楽々と捕球した映像。ワイルドカードのあの試合では、観客席の目線の映像を放映できる。下手なライトであれば、一杯一杯のプレーである
そういう飛球は試合の中で常に想定できるわけで、中継カメラを、相応しい場所に置けば、スリリングな映像が放映できる。
しかしできない様々な理由がある、とおもうが、できるであればやったほうが良い。
ツーボール、ワンストライク(日本)ではなく、ツー、ワン(米国)とシンプル。
ストライクのカウントを先に言っていた時は、ワンツーが普通だったのでは?ツーワンほうが画面が締まる。
投手の投球ゾーンと球種を示すパターン画像はバッターボックスの画面に埋め込んでいる。
日本では、別のところに絵をべったりと貼り付けている。結果、臨場感が殺がれる。
ココ10年ほどまえから、タイガースの公式戦を生観戦をしたことがない。
ああいった人ごみ、喧騒状態の渦中の野球観戦はやらないことにしている。
野球という競技の性格と面白さを本質的に殺いで、常に勝ち負けの一点への拘りに収斂し過ぎている。
されど野球だけれど、たかが野球だ。
球場に出向いたファンは勝っても負けても、楽しく過ごすというのがファンとしてはベターのような気がする。
そもそも、生で野球観戦し試合経過をじっくりと観戦していると、試合の流れを肌で感じることができて、負ける経過は何となく納得できるものだ。野球とはそういう競技だ。
テレビ観戦だとそうは行かない。
目線をテレビカメラの一点に集中させているからだだとおもうが、野球はそれ以外の要素がありすぎて、ココが勝敗を分けることも多い。
視野狭窄になれば、感情的にヒートアップしたまま放置され、不安感が募る。動物である人間は、そういう本能次元から自由になれない。
普通のやっていれば、職業野球では、勝ったり負けたりになるはずで、レギュラークラスの力差はゲーム差ほど開いてない。
今年のパリーグは昨年のBクラスがAクラスに入れ替わっている。
セリーグもゲーム差ほど力差はない。1シーズンを通じた戦力差が表面化しているだけで、短期決戦をすれば、結果はそのままである、とはいえない。
CSシリーズの阪神の強さを見ればよく解る。
タイルホルダーが揃っていいることと順位、1位とのゲームさの矛盾はよく指摘されるが、控えのメンバー構成を比較すると、自分の感触では、阪神は投手陣の層が薄すぎる。
繰り返し書いているように、先発5番手不在(岩崎優は一軍半の投手)、中継ぎの駒不足(ブルペン登録されているナイウチ、イワサダは二軍投手)でこのしわ寄せは、1シーズンのあいだにジワジワと投打に渡って効いて来る。
にも拘らず、和田監督がダメだと、主張しているのは、貯金がたった7つはナイ、ということ。
采配におかしなところが、ある。
個人技に突出した選手をそろえた時期が強かった。
こういった視点からするとペナントレースの長丁場を通じての和田采配は、
勢いを加速させないでブレーキを直ぐ踏む野球だった。
そういう野球観が現役時代に体に染み付いている。コーチになってからもソレは改まっていないから、つばぜり合いが激しくなると、地が出る。
もっとネット裏から野球を見る機会があったら、野球を外側から余裕を持って、観察できる生まれるのだが、引退後、ずっと現場にいて現場対応におわれていた。弱いトンネルの時代への反動として強くなったタイガースに安住する本人の怠慢もあった。
CSシリーズでは見違えるような積極采配をして驚くべき結果を出しているが、他球団の不調とい勝負運にも恵まれている。
CS短期決戦は、レギュラーに突出した選手を多く抱える半面、長丁場で投手陣の駒不足という欠陥をカバーできて、阪神に有利に展開する。
和田のオカシナ采配は突出した選手の力量で、カバーできた。
昨夜の試合にもオカシナ采配があった。短期決戦であっても、セオリー無視の采配である。
どうしてあんなに点差が開いているのにオ、スンファン9回投入なのか?
特に最終戦までまでもつれ込んだ場合、オスンファンの出番は増える。またまたイニングまたぎもあり得る。
昨夜のオスンファン投入はそこまでの、場合に備えたものでなかった。
したがって、点差の開いている昨夜は、監督が度胸を決めて、オスンファンを休ませることが、ベターだったのではないか?
↓
俳優の渡辺謙さんは『オスンファンは出るのかな』と思っていたけど、和田さんは緩めなかった」と4点差でも守護神を投入した指揮官を絶賛した、と報じられているが、さすが一流俳優である。
このシリーズの大きなポイントを握るのはオ、スンファンの疲労回復である、と心底解っているのに、真逆の和田采配を絶賛する演技をしている。
オカシナ和田采配から吹く逆風に立ち向かう自分を「和田さんは緩めなかった」などして、鼓舞し、なおかつ、言動の影響力を考慮して、阪神ファンに潜在する和田采配不安を払拭しようとしている。
本心は『オスンファンは出るのかな』という危惧である。
着目点はドンピシャ的を射ている。この程度の備えがなければ、阪神ファンを続けられるものでない、ということを物語っている。その危惧に真逆の一ひねりを加える所など、阪神ファンの高度な、感情操作のテクニックを駆使している。
イロンナ感情操作の引き出しがなければ、ファンの期待を外しまくってきた阪神を支持し続けられない、のだ。
松田聖子ファンとか言う文化的趣味の悪い和田豊にそういう高度な観念操作はわかるまい。
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甲子園球場で言えば、2万人半ばの観衆の中で野球観戦したい。少な過ぎても多すぎてもいけない。
イロイロな球場で阪神の試合を見てきたが、外野席の阪神応援団?からはなれたところに席を取ることにことにしていた。相手側のファンがたくさんいる席に座ることも多かった。しかもそんな阪神ファンは自分ひとりでなかった事実。
とはいえ、昔のタイガースの弱い時代に、あんなに大勢のファンの懸命な応援をいつも目の当たりにすると、一種、独特の尊敬の念がごく自然にあった。阪神ファンの集団の応援する姿を遠くから眺めることが、グランドの阪神の選手のプレーを見つめること以外のもう一つの楽しみだった。
わたしは紛れもなく弱いたタイガースをいつも懸命に応援する大勢の阪神ファンのファンでもあった。そういう行動をとれない自分は彼等を頼もしく想い、リスペクトしていた。
先日のネット、コメントに日本シリーズ進出決定を受けて、「甲子園にいって、死ぬ気で応援します」などとあったが、よく考えてみると、死ぬ気で応援できるとは、ソレはそれで、大したものである。ホビーとして見事である。本気で打ち込めるから、楽しさは倍加し、深まる。本気で打ち込んだ結果、負けた時の苦々しさにも独特の境地がある。ソレは実行したものでなければ解らない。
そういうことで、今の阪神ファンの気持ちも何となく理解できるような気がする。認めている。
しかしヤッパリ、大リーグのような観戦スタイルが好みに合うが、ココは日本だ。日本流のやり方がある。
集団行動のなかで野球観戦を楽しむのか、チケットを買った個人の権限の範囲を尊重して、規制をもうけて、野球観戦を楽しむのか。
各地の大リーグのファンにも観戦姿勢にかなり違いがあるようだ。
日本のファンにテンションが似ているのは、ボストンのフェンウェイパークの雰囲気だ。
クリーブランド、インディアンスのファンは実に牧歌的。
私の場合、ココに近いから、ずれが大きくなる。
私には阪神タイガースにしか居場所はなかった。
何を想おうが、言おうが、どうであろうが、コレが全てを超越した結論だった。