反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本民族の自立=中長期スパンの国民多数派、共生(国民経済)の契機である政権交代を米国屈従に逆転、利用する支配層と小沢裁判。

   改めて、政治裁判を受けている、小沢さんを支持する必要を感じる。
阿修羅サイトの小沢裁判に関する投稿者の議論は石川氏等への裁判官の判決を受けて、以前よりはグッと煮詰まった議論を展開している様に想える。
 
 三権分立的原則からする民主主義論論(これ自身、戦う上で大いに必要)の他に、その様な形式論を突破した、検察、裁判所の本質な役割=<支配層の危機的事態には目いっぱい法を拡大解釈し、支配秩序維持論>が、石川氏等への推定有罪満開、判決、を受けて、支持者の中で大勢を占めつつある。
 
 かつて、西松建設事件における当時だったと想うが、この次元の問題に関して、<ザ、ジャーナル>の常連投稿者として、持論を展開すると、<あなたは日本司法の三権分立を否定するのか>と云う、大上段に振りかぶった、こけおどしの様な反論が寄せられた事を鮮明に記憶している。
 この意見の論調は短い投稿文にもかかわらず、察するに、小沢さんや民主新政権支持に収まるモノと解釈した。
 
 が、当時の自分は、民主党支持の枠内で、この手の堅物の人たちとも、我慢して共同歩調を取らなくてはいけないと感じていた。違いを最初かわかっていたから、同じ天を支える友である、と割り切った。
 
 ところが、その後、事態はどう推移したか?
 
 この種の意見の持ち主は、早々と、民主党政権への不平不満を抑制できず、はやばやと暴発し、自民党時代の方が良かった、とか、みんなの党に期待するとか、変態したのではないか?
 
 あるいは最近で云えば、橋下や名古屋、河村支持。
そして、その実態を吟味することなく、それらと、小沢さんの中央政治勢力との共鳴を想定する。
 
 ムード論に終始している。
 
支配層の政治戦略とすれば、小沢さんとその支持者を強引に裁判に拘束し、政治的不自由を強制し、一方向だけ、出口を開けておく、と古い政治手段を用いてきていると、想う。
 
従って、その一方向の出口は支配層にとって都合のいい、利用できる出口である。
小沢支持者をまとめて、橋下や石原の様な輩に勢力に流し込む。
そうすると、その先には、自民、みんなの党、公明がいる。
 
トドノツマリは、日本における米国て流儀では1%による99%の支配構造確立だ。
 
小沢さんと誰が連携し様が、要は制度と政策の中身がどうなのか、の問題であって、小沢さんの政治生命は二の次三の次のはず。
この順序は政治弾圧されていても逆転できない。判官びいきは慎む必要がある。
 
 しかし、政治には、もっと、もっと、上の力が働く。
 
 それが、現段階や将来の民衆意識の多数の動向を操る、日本の権力政治の実態であり、その複合性、構造性が発揮する政治指向は小泉自民党時代よりも、もっと高まっている。
 
 日本国民の一般的政治意識の実態は、政権交代、大震災、原発事故の異常事態をステップボードにして、、マスコミが掌握し、コントロールできると過信する国民意識よりも、もっと先を行っていると解釈する。
その象徴が、先頃の大阪ダブル選、演出の橋下圧勝。名古屋河村、東京、石原だと想う。
 
 
 日本は、戦前の戦争敗北に至る過程で、このかい離がどんどん進行していった、という苦い経験がある。
マスコミに煽られた未熟極まりない、民衆意識が独り歩きし、軍部台頭を招いた、とも云える。
 
 これを新に教訓化すると、単なるファシズム再来とか言う問題ではない、と考える。
 
 日本国民多数が煽動に載せられて、自分を市場原理主義の惨禍に陥れているとしか見えない。
 
 マスコミは、今頃になって、小沢裁判を客観的に報じる姿勢に修正してみても、石川判決で明らかになった小沢裁判の推定有罪の政治判決論理と、民衆意識の悪転による日本国民自滅化は押しとどめることができない。
 
 一端火をつけて、脅かして、暴走に急きたてたら、軌道修正はきかない。
戦前の様に、集団暴走の行く先に谷底=世界戦争がある訳でない。
だから、多数国民は見えない市場原理主義の「服従の檻」に閉じ込められると云っている。
 
 マスコミは、新政権誕生とその国民的な素朴な期待の挫折と、新政権における小沢氏の政治力を形式的に分割し過ぎた。小沢氏、憎悪を煽ることは、戦後民主主義の死滅の完成だった。
 
GHQによって与えられた戦後民主主義の申し子、特権付与されたマスコミに戦前戦後の日本民衆史と戦後民主主義への、厳しい見極めはなかった。
 
 一日本政権でどうにもならない、世界情勢の関連も、きっちり、関連づけていなかった。
今のグローバル資本の大きさからに比べて、今の政治システム内では、政治の力は小さ過ぎる。
小沢氏への政治弾圧を煽ったマスコミは、この辺の事情も理解せず、民衆意思を代弁した日本政治をグローバル資本の完全付属物に閉じ込める役割を果たした。
 とすれば、次の政治は、閉じ込められた国民的不平不満がアナーキーに出口を求める政治であり、それは既存の権力が操る政治であろう。
 それはファシズムとは違う。
ファシズムの様な民衆に仕事を与え、飢えを解消する政治ではなく、その真逆政治となる。
 
 考えても見よ!行財政の緊縮は資本の論理が働く、一般企業の様なフレキシブルな再生はあり得ず、単なるコストカットに終わる。国民の歴史的に形成してきた公共空間、公共物の破棄、民間への超安価な委譲。
これらが、歴史的転換点において支配層に不労的的富をもたらしてきた。
 
 行財政の改革は全国民が大騒ぎする様な大政治課題であろうか?そんなことが大政治課題になっている国を世界中で見渡してみると、日本が大体、どういう国かわかる。
日本国内経済の歴史的縮小の一コマでしかない。デフレ要因加速材料である。
 
 さらには、世界市場における先進国の停滞、中進、後進諸国の発展。
これを政治的に表現しているのが、先進国における民主主義の後退=金融寡頭制の進展と中進、後進諸国での民主主義の進展と云う、経済と政治の世界的不均等発展の不可逆な歴史傾向がある。
 
      <追記>
本文を読み返してみて、内容意味不明箇所多数。十分消化されていない。
 
 熊木和枝さんのツィートテレビはいつも面白い。
小沢支持デモに参加していた二見明さんは、ハッキリと厳しい意見を述べた。
裁判を闘っている最中に、それはないョ、と想う。
ただ、石川さんたちの推認判決の出る前にも、判決内容に厳しい意見を持っていたので、以下の様な内容の抽象的記事を書いた事があった。
 
 結局、裁判官の危機管理的事案が絡む判決の手口は決まったパターンがある。
Aと云う物的証拠が一方にある。
他方にBと云う状況証拠がある。
 
 危機管理的事案Cが絡むと裁判官の常套手段は強引にAの物的証拠とBの状況証拠結び付けて、C有罪をでっち上げる。
 これで危機に際して、体制護持の絶対権力として、法を無理矢理拡大解釈して、責任を果たした、と勘違いしている。
 実際に判決文で、でっち上げたとまでは流石、書かないが、司法の意思としてAとBを強引に結び付けた、と書いているモノもある。
 
 そういう判例に連綿と従ってきたのが裁判官と云う職業。
従えなければ、裁判官を辞めるしかない。
 
 昔の制度だと裁判官になる資格のあるモノは司法修習学校時代の成績が真ん中以上のモノと聞いている。
止めることはエリート、コースから外れる。
 
 よって、最初から、危機管理事案Cの有罪は裁判官によって決定されている。
 
登石裁判長の判決内容は極悪な典型。
 しかし、慣例に従ったまで。
阿修羅サイトの議論が深まっているのは、石川さんが記載ミスを認めたらどうかと云う裁判方針を巡るモノだったが、すでに地裁段階の判決が下りて、小沢さん裁判が始まっている段階では、現実的に云って、今更遅いのである。
 実は私も石川さんの記載ミスは認める裁判方針を採用するモノと、勘違いして、小沢真っ白の壇公善さんを批判した事があった。
 実際は違っていたという事だ。
 今は甘い、見通しだったと考えている。下がったらつけ込んでくる。
 
元々、向こうは最初から、つぶすつもりで仕掛けてきているのだから、権力と正面から戦うしか道は開けない、事案だった。
 
 二見さんのシビアーな意見は多分こういう背景と登石裁判長の判決内容を踏まえたものだろう。
 
他方、小沢さん無罪と今の段階で支持者が傍から、主張するのも、これまた珍しい意見である。
 
が、その気持ちは解る。
 
 もともとこの裁判自体、特捜検察が調べ切っても、起訴に持ち込めなかった事案を東京第五検察審査会と云う怪しい市民による2度目の起訴相当によって、自動的に特殊裁判になったモノである。この法規は政権交代直前の自民党政権下で成立したモノであり、検察にとっては検事取調べの新たな武器を与えられた様なもの。
 
 今回の小沢審査への捜査資料提供でも、自分たちに都合のいい資料しか提供していないと暴露されている。また、検事が出向いて審査員を説得もできるという出鱈目ぶりである。
 
 取り調べ可視化もやっていないのに、こういう検察有利な状況が小沢さんが有罪になる事で一挙に既成事実化される。
 
 小沢さんのこの裁判に臨む基本姿勢は全面対決だと想う。
イロイロナ方面から状況判断をしては、覚悟を決めて、断固として争う姿勢である。
 
マスコミの報道姿勢の変化は、一連の小沢偏向報道の洪水を起こして、検察審査会起訴相当の空気を作った元凶なのに、判決が近づいたら、泥をかぶりたくないという不偏不党面したい、奴らが良く使う手だ。