ファンソギョン新人賞受賞作品を読んでいた中隊長
在韓海兵隊訓練中
「こうしてわが大隊の全員はジャングル戦の特殊学校に配属されることになった。
私は中隊銃砲班のロケット砲の砲手だった。
>訓練中に海軍士官学校出」の中隊長が、休み時間に『思想界』に発表された短編小説についての話をした。⇒W。『思想界』新人賞受賞作品「立石附近」か?ファンソギョンの作風は情緒性、ハードボイルド性、物語性があり観念的ではなく読みやすい。
>つい「それは私が描いた作品です」と口にすると彼は少し驚いた表情になった。
高地攻撃や歩兵と機動部隊の合同作戦のときは、他の兵隊は息切れしながらタンク車の後を必死に追いかけていたが、我々は方針を据え置き物陰に適当に休んでいればいいのだ。立ち合い将校が通りがかりに」お前たちは何をしているのか?」と尋ねたりすれば「はい、ロケット砲を準備中です」と答えれば済むのだった。
中隊長が目をかけてくれたおかげだ。
訓練中の息子と再会した母
ある日、トラックに乗って午前の射撃訓練に出かける途中、上陸師団の南門をでて鳥川村を横切り新道の十字路に分かれる道に出ると、そこになぜか中年の女性が立っていた。
トラックがゆっくり通過するときにやっとその韓服の女性が母であることに気づいた。
後から聞いた話では、母は面会申請をしたものの、訓練が終わる夕方にならなければ面会できないと告げられたため、遠くからでも息子を一目見たいと、そこでまったいたのだった。私はトラックから上半身を乗り出し、母親に向かって叫んだ。
「母さん、ここだよ!」
母は車に向かって数歩駆け寄り手を振った。
乗車責任者の将校がそれを見て不憫に思ったのか、しばらく車を止めてくれた。
私はもう一度叫んだ。「夕方には戻ってきます。あの守衛所の受付にいてください」
「わかったよ、行っておいで」
眼頭が熱くなった。そうだ結婚して家長になるまで、この息子が恋人だったのだ。(W。父は戦争後しばらくして亡くなりソギョンは長男)
彼女は苦界のような世の中に放り出された私を探し求め、あちこちさ迷い歩いたのだ。
性根尽き果てたときでさえ、彼女はいつもどこへ行っても私を探して長旅をした。
日々おいていく母の華奢な肩を見つめながら、私は振り返りながら独り言をつぶやき
自分を叱り続けた。「この親不孝者め!」
その日の夕方、母と私は一緒に鳥川村の宿で、食卓に用意された焼き魚を前に向き合った。
母はいつものようにさんまの塩焼きの骨を抜き取りながら「戦場にいったら必ず神様にお祈りするんだよ。私もお祈りするから~~お前の髪の先まで神様が守ってきださるはずだから」というのだった。
母は小型の聖書を差し出すと帰っていった。
母が私に信仰を進めたのは、、この時が初めてである。
晩年の母は一層信仰に頼るようになった。
***
釜山港からの乗船が決まると、すぐに出征祝いの式典が行われた。
壇上で名士があいさつすると女子高生が対極旗を打ち振り、軍楽隊が力ずよく軍歌を演奏した。
~~我々の多くは自分が何のために戦場に行くのかよく理解していなかった。
たいていはただ苦しみだけだった内務班から解放されて新天地へ脱出すると思い込んでおり、ベトナムに行けばたくさん稼げると期待していた。
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友人の友達だった男のことを、私は今でも忘れることができない。
彼はどこかの大学の英文科の学生だった。
時々、一緒の酒の席になることがあった。
確か彼がジョージオーウェルのスペイン内戦への参加の話をしたのだった。
W注、『カタロニア讃歌』同じスペイン内戦をテーマにしたヘミングウェイの「誰がために彼が鳴る」よりも面白い!実際に兵士として戦った生々しい政治軍事情勢が細部にわたって描かれている。人民戦線のスペイン共産党はナチスとの独ソ不可侵条約との絡みがあって複雑な立ち回りをした。
引用
「5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。」
「ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている⇒Wゲルニカはバスク地方だった。19世紀末と20世紀前半には周辺で採掘される鉄鉱石のおかげで工業化が進展し、スペインでもっとも裕福でもっとも重要な県のひとつとなった。カタロニアの「首都」はバルセロナ)20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画]
【スペイン】ゲルニカの本当の意味を知ってピカソと出会う旅 | たびこふれ
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引用に戻る
我々はそのころ見たヘミングウェイ原作の映画「誰がために鐘が鳴る」のことを話した。
その時彼がふと口にした。
「ここがスペインだったら、もちろん反ファシズム統一戦線に加わねばならないだろうな。きっと太平洋戦争の時、学徒兵だったら、脱出しただろう」
全員が口を閉ざしたが、心の内では植民地時代と同じじゃないか、と思っていたことだろう。
学徒兵に積極的に参戦を呼び掛けた植民地時代に知識人イグァンスの話も出た。
彼は本当に日本を中心とするアジアの共同体を積極的信念として持っていたのだろうかと語り合った。
そんな時、彼が最後に口にした言葉が思い出される。
「どんな状況においても忍耐には限度があるものだ。
状況は同じだが、我々は南北に分断されているから、戦場を選択するとすれば、スペインのようにはいかないだろう」
そして彼は最後に
「消極的ではあるが俺は絶対にベトナムにはいかない」と声を強めた。
私が彼を覚えているのは彼が亡くなったからだ。
~英語ができるので幸いにも師団内のアメリカ海兵隊派遣部隊(W。在韓海兵隊)に配属されたのだった。
彼と私は入隊前より煩雑にあった。私は尋ねるたびにFMラジオを低くかけしぃせきをたくさん見せてくれた。
特教隊に入隊後は1,2回ほどあっただろうか。それなのにベトナムに入ってからはすっかり忘れていた。
ホイアン(ベトナム)へ移動してから旅団本部で一人の行政兵にあった。
彼に「私の友人は元気でやっているかい」と尋ねると彼は声を落とした。
「ご存じないのですか?特教隊に入隊して亡くなりました。」
やはり英語が問題だったようだ。
特技兵を派遣せよとの上層部からの支持があると、彼はベトナム派兵に志願させられた。
そして訓練を受けた。その夜間戦闘の射撃訓練をしている数日の間に決意を固めたらしい。
射撃場からMI実弾をひそかに持ち出したのだ。彼はそれを大事に保管すると、出動命令が出たその日に、外出しかなり酒を飲み、運動場の向かいにある便所にはいると内側からカギを掛け、MI銃を口に突っ込んだらしい。引き金に棒をひっかけ両足で引いたのだろう。⇒W。ヘミングウェイの死に方とそっくりだ。ヘミングウェイは猟銃だったか?MI銃は軍用自動小銃。即死。
「部隊でもみ消して統制秩序を守ろうとすると、隊の空気は凍てつきましたが、結果的に暴発事故として処理されました」
わたしは訳も分からず状況に押し流され、ベトナムを軍隊生活の特殊な赴任地の一つとして当然のように受け入れてしまったのだ。
~~
明け方になって、海から登る太陽とともに吹き始めた風の中に、私が最初にかいだのは塩や大地や森とか異なるガソリンの匂いだった。
チュンライ軍港から基地営内を経て海兵隊司令部までのいく道はベトナム国道1号線だった。
それは南北に長く伸びたインドシナ半島を、南はサイゴンから北のハノイまで結ぶかなり長い道路である。
道の両側は深い密林で、途中大小の村や都市を道路が結んでいた。
~~白っぽい埃を立てて走る武装護送車に前後を擁護されながら、我々のトラックに乗った兵士たちも実弾を装填し銃口を両脇のジャングルに向けていた。
われわれあが旅団本部営内の待機幕舎に到着して軍装を解いた日は、近くから放たれる耳をつんざく砲声と、外郭から絶えず放たれる自動小銃の射撃音で私は一睡もできなかった。
戦場と貧しい村はわたしには幼いころから慣れ親しんだ世界だった。おそらく私の同年代の韓国兵も同じだったろう。
W。自伝を読み進んでいるうちに、
ベトナム派兵体験(帰国後精神不安に悩む)、1980年の光州事態の危機一髪(活動拠点は光州、偶々ソウル出張中で難を逃れ潜伏多くの友人知人が死んだ)、国家保安法違反承知で北朝鮮訪問へ続く民衆とともにあった作家としての<こころ>の動きが想像できる。しかしもやり遂げたのは50歳。獄中長期ハンストを何度もやっている。
同時に、ここに韓国の作家の共通の課題があったのは作家冥利に尽きる。
韓国の民主化の長い道のりは民衆が戦い切り開いたもの。
朴正煕大統領夫妻は暗殺の銃弾に倒れた。KCIA長官の手記を読むと鬼気迫るものがあった。武断政治があれば武の内部抗争(暗殺)が噴出する。日本の暗殺事件も世界と東アジアの大きな政治の流れから独立した特殊宗教と政権党の個別問題に収斂するものではないと思う。
日本の日韓条約反対の戦いのスローガンがどうだったの知りたかった。
「独裁政権反対!南北分断固定化反対!」戦った当時のヒトの一部には理解が不十分だったとの反省がある。独裁政権反対は韓国の人たちが言うのはまっとうだが、日本で戦うものが真っ先に掲げるスローガンではなかった。そもそも韓国現地で「独裁反対は言い出せなかったはず。