反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

数少なくたった読書体験から。

         数少なくなった読書体験から

   「戦後文壇奇人列伝」石田健夫

W。課題、戦後民主主義の精神の検証

  高揚と酩酊~ヒロポンとカストリ~荒正人織田作之助坂口安吾
「明けて翌年21年の第2号に掲載されて話題になった「第二の青春」は、そのような心的状況(W。戦争期間を暗い谷間と考えながら耐えてきた荒)の中で粗が一気に書き上げた、いわば「戦後」の開幕を告げるマニフェストであった。
~自分たちの青春は、ヒューマニズムからマルクス主義運動に加わるところから始まった。あえて言えばそれが第二の青春だった。

>昭和8年(1933年)の佐野学らの日本共産党幹部の転向声明をきっかけとする組織の壊滅によって裏切られる。←W。幹部の転向が裏切りであっても、ピラミッド型組織でなければ、残存活動主体は戦いを継続できる余地がある~
美しい言葉で未来を語り合ったはずのどうしも手のひらを返したようにして、保身にきゅうきゅうとしている。
「偽、非ヒューマニストが敗戦後の今。「口を拭って」新しい舞台に時を得ようとしている
 にもかかわらずというのが荒の<第2の青春論だった

『偉大なるものの中に飛翔を認め、その日症の中に、股は、その日症なるものが付きつく色っているという点において、偉大なるものは一層心底肩偉大であるのだ。

美と醜においてもまたしかりだ。
このような感覚に結実する者は、ヒューマニズムの中にエゴイズムを凝視し、エゴイズムの中にヒューマニズムを発掘するという、言語を絶して困難な仕事を耐えうる新しい精神に他ならない』
第1のせい醜で味わった苦汁を糧にして、このような第2の青春の第2のヒューマニズム」を実現するところに自分たちの役割があり、それがひいては新しい日本の進路を切り開くことになるだろうという、~。


「越境記、5大陸バイク走破行、第3弾
  52歳、
駆け抜けたアフリカ」  戸井十月
「緊張して力んでいる偽ハードボイルドの対極にある、力が抜けてしなやかな本物の旅人であり、冒険者でもあら彼ら。
~本物の冒険者たちは、ハードボイルな顔などしていない。その手のステレオタイプなヒーロー像は、道端の現実や本当の冒険から実は最も遠いところにいる男たちが頭の中で考えて作り出しただけである」
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「人間は誰でも何らかの理由によって必ずしぬ。
しかもブラックアフリカでは、マラリアや他の風土病のせいで人はバタバタしに、返金寿命は50歳前後である。
ならば人生の最大の関心事は、短い一生を楽しく輝いて生きるかということにだれだってなるだろう。
生きている喜びが実感でき、あいさつのように日常生活の一部になっているセックスを我慢してまで長生きしても同すると彼らに聞かれたら、私たちに応える言葉はあるだろうか』
>死を意識するからこそ今日輝くという生き方がある。

>頭も体も動かない老人になるまでだらだらと生きるつもりはないという選択もある。」
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「殺されそうだから逃げてきた人間と、殺したから逃げてきた人間を同じように救うのはおかしいと私も思うのだが、しかしどうやって選別、差別化すればいいのかわからない。助けてくれと手を伸ばす人間を選別し、片方を受け入れ片方を突き放すということを現場でやるのは至難の業だろう。そのためには相応の調査も裁判も必要だし、当然時間も金もかかる。もちろん毎日のように逃げてくる人間たちに対して、いちいちそんなことをしている余裕はない。
高等弁務官だった緒方貞子さんも、そこのところはずいぶん悩んだことだろう。」
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  中上健次「未収録 対論集成」
坂本龍一(ミュージッシャン)
「だjけど僕なんかの世代で考えると、戦後なり、戦後民主主義なりというのは、実はかなり短い間しかなくてね。
幻想が蔓延していたのはかなり短い時間で当て、長い歴史を見るとそんなにハッピーでった時代というのは日本にはあまりなかった。
そこだけぽっかりと空洞化されていて、そこが特別な地帯なんで、戦前と戦中以前と、戦後行こうというのは実は陸続くで、まったく同じじゃにですかって言っちゃうような感じなんだんだけどね。
>だから皆が一生懸命幻想していた本の何年かっていうのは、実は等移転、あるいは得意領域であってさ、まだそれが続いていると思っていると大間違いで、実はずっと戦中だたのかもしれないんですよね。
というか世界はずっと戦中なわけだしさ。
戦後という幻想を蔓延させた悪というのがもしかしてあるのかもしれない。

坂本
非常に鎖国的なんですよね。
そういう院では、戦争中というのは実は鎖国していなかった時期で、世界と交通していた時期で、
戦後の平和と民主主義によって、せっかく手に入れた交通っていう宝物を隠ぺいしてしまったというか、手放してしまったというか、また鎖国に戻ってしまったと思うんですよね。
全く反転してしまったと考えられるわけですね。どうもそういう感じがする。
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  「ヘミングウェイと老い」高野泰志編著
「大戦後の世界にどう対処すべきか、彼の思想の核心を率直に披歴した点で長目に値する。それは人類が引き起こした最大の惨劇の本質を冷徹に見定めただけでなく、~~世界の様相は広島に原爆がtプ化された時点で一変してしまったのである。
『兵器は有無を言わせず、問題の解決へと導くが、それが正当な解決方法だと請け合うことはできない』からだ。
~~
つまりじんるいは『この世界を守るためにただ戦えばいいというよりこの世界wp理解するのがぐ無である一層困難な時代に』行ってきたのだという認識が彼にこう言わせているのだ。
~~
ではどうすればよいのか。
『医者のような公平な目で世界を考察しようと努めるのだ。大変な仕事になるだろうし、そうするのは、受け入れのが不快なものも、多く読まねばならないだろう。
だが、これこそが今や人類が最初にやらなければならないことだ』

ヘミングウェイは作品の始まりから、逃げていく人たち取り残された老人のコントラストを示している。
『男や女や子供たち』というひょうげんから、家族を基本とした集団で人々が行動していると推測できるだろう。

この後老人と出会った兵士が、『家族はいないのか?」と尋ねると、かれは『いないんだ。買っている動物たちだけさ』と答える。
集団とこの対比に加え、家族という概念が持ち込まれることにより、老人の孤独は一層深まっている。
 再び『老人と海』との比較を試みると、サンチャゴは意味の上で、大魚との戦いと挑んでいるが、彼にはマリーノ少年という心の支えがある。
彼はしばしば少年を思い起こすことで、、孤独な状況にあっても慰められており、そのような存在がいるために全くの孤独とはいえない。
 たとえ血縁でないにしてもサンチャゴには親密な感情を交わすことのできる人物がいる一方で、『橋のたもとの老人』には家族のような関係を築ける相手ははいない。
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そして『橋のたもとの老人』では、集団に対して『個』と「老い」が分かちがたく結びついており、その老人をヘミングウェイは作品の中心に据えている。