第5回。ウォーキング順路の道端に映える草木。ニレ。「容姿端麗で、みんなから好かれる存在。他の樹種とは一味違う老け方をする。の続き。
W。前回の記事でよく通っていた公園のベンチに木陰を作るニレは<ハルニレ>なのか<アキニレ>なのかその場所に行って、確認してみるとしていた。
<ハルニレ>と<アキニレ>は
まず第一に、花の開花期の違いによる区別。ハルニレ=開花期春。世界共通。ニレは基本的に北方系の木であり、秋に開花し結実しても長い越冬期間必要。
<アキニレ>暖帯地域で育つ珍しいニレ。
第二に日本の草木のネーミングの方法の特徴は花や実の形に拘るところ。
>ネーミングの方法の最大の欠点である、と道端の草木を調べるようになって解ってきた。
@短期間でしかない開花期や花の形、実の形で草木を特定するのは素人には無理があり混乱する。常体に目をそらし耳目を集める華の短い間だけに注目する。
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この件に関してはトキワサンザシ属 - Wikipediaの項でふれた。
(<タチバナモドキ、黄色い小さな実が橘~日本のミカンの原種に似ている>と<トキワサンザシ、赤い実。>などの種類)~~ともに実用は盆栽だが、放置された空き地に普通に野生化。一括してピラカンサと呼ばれ、枝はうねって広がる性質があるので盆栽に最適)
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タチバナモドキの野生状態はこんな感じ。
河川敷に野生化したタチバナモドキ。W枝ぶりが真っすぐ。現認しているものは盆栽用のピラカンサスのうねりが遺伝しているの枝がかうねりにうねって棘はバラよりも長く鋭い。
うねった枝に長く鋭いトゲがあり放置されたままの空き地を転々と占拠する厄介な木であるが、
>自治体の一斉雑草刈のときなぜか、ポツンと刈り込まれず取り残されている。
長く鋭いトゲは皮手袋も突き抜ける勢いがある。しっかりとした木なので草刈り機では無理でチェーンソー必要。しかも枝ぶりがうねりにうねっているので、トラックへの積み込み大変。ゴミ収集車必要。結果、空き地の通常草刈り業務外の装備必要。もっとも荒地雑草整理の見積段階で経費だせば簡単に済むことだが、荒地整理業務では費用が落とせないのだろう。その土地に地代が発生するようになって初めてタチバナモドキは刈り込まれるというわけだ。
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楡の記事を書いた後で、近所に<アキニレ>の木があることを想い出した。
6月24日、早朝のウォーキングはいつもの道と違って、まっすぐく目星をゆけておいた道端に頑固に生える<ハルニレ>と思しき若木を目指した。健康のためウォーキングは苦手で、こういう目的を設けて歩くことにしている。
2cmほどの円形収納のカッターナイフでカットした若木を片手にUターンし、今度は近所の集合住宅の<アキニレ>の小枝のカットした。
ハルニレ?アキニレ? ケヤキではなくケヤキの仲間です : けやき屋さん
その場で道端の<ハルニレ>の若木の葉と集合住宅の<アキニレ>の若木の葉をくらべてみた。
ナルホド、<ハルニレ>の葉の表面はざらついている。裏返しても葉にざらつきがある。細い枝もざらついている。虫眼鏡で見なければわからないほどのやや硬く短い毛が密の生えているのだ。ネット情報の通りだった。
一方、直系30cm以上の<アキニレ>の幹から、一本だけこそっと生えていた極細の枝の葉は表面がツルリとして<毛>は無いい。葉の表面はやや光沢があり、この点では<ハルニレ>は勿論事、立ち姿や波形は似ている<ケヤキ>とは違う。⇒この光沢があるために盆栽にするのは主に<アキニレ>=<ニレケヤキ>などという紛らわしい名前を付けて盆栽にするらしい。
裏返すと形は<ハルニレ>とそっくりだが<毛>がない。
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ということで帰宅し花瓶にカットした<ハルニレ>と<アキニレ>の小枝を入れ他の草たちとともにしばらく様子を見ることにした。
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それからこの記事を作成する前に改めて<ハルニレ>と<アキニレ>」について調べなおすと、決定的な情報に行きついた。
引用
ハルニレ
- 開花時期
- 3月
ニレ科の落葉高木。 秋に開花結実するアキニレに対し、本種は春に開花結実します。 北海道など北方や寒冷地に多い樹で、大阪府では過去には分布があったものの現在は野生のものは絶滅したとされています。鶴見緑地の園内には山のエリアの鶴見新山、山の広場、ロシア庭園などで見られます。 年によって種子の結実具合には大きな差があり、豊作の年には周囲の園路が埋め尽くされるほど大量の種子を撒き散らしますが、鶴見緑地では至る所から雑草のように生えてくるアキニレとは違い、ハルニレは自然にこぼれた種子からはあまり生えてこないようです。大阪では暑すぎて気候が合っていないのかもしれません。」 引用終わり
W。ハヨ云わんかい!
W.①ヒトの行き来の少ない歩道の壊れた路面の端の割れ目に頑なに密集した短い小枝を茂らせているのは葉のザラツキ具合から<ハルニレ>であるはず!
②歩道の雑草生い茂る植え込みエリアからヒッソリと顔をのぞかせるのは葉を検証する限り<ハルニレ>であるはず。
野生のものは絶滅⇒W理解できる
雑草のように生えてくるアキニレとは違い、ハルニレは自然にこぼれた種子からはあまり生えてこない⇒W.その希少な精力旺盛な種子のDNAを受け継ぎ芽生え、さらに希少に若木にまで成長した<ハルニレ>なのだろうか?
>そうすると①の<ハルニレ>は根っこから引き抜くことができなかったが、
植栽エリアにある②は根っこから掘り起こすことができる。
それで鉢植えにして育ててみる。
管理課はやがて雑草の刈込をする。そのとき、<ハルニレ>の枝も雑草と共に伐採されると仮定すると、スコップを現地に持っていっても良い、と手前勝手に妄想する。
しかし、持って帰ったアルファルファは鉢植えにすると生きる甲斐なくすぐ枯れてしまった。逆に茎を切って花瓶の刺したものはいつまでも枯れず生命力と強いエネルギー源を持っていることを証明してくれた。
野のものは自分が想う程、丈夫ではない。
暖帯地方でも(大きな公園)には<ハルニレ>の樹は植えられている。何しろニレは憧れの樹だった。特に昭和のころは。
昭和三大歌謡曲
「リンゴの歌」~よく調べず前回記事に。勘違いが大きすぎた!
~~敗戦直後「リンゴの唄」吹き込みの際、万城目正はたびたびダメを出し「もっと明るく歌うように」と指示したが、この注文は当時の並木には酷だった。並木は戦争で父親と次兄を亡くし、自身も1945年3月10日の東京大空襲で猛烈な火炎に追われ隅田川に逃げ込んで助かったものの母親を亡くしていたのである[8][9]。さらに大空襲で大勢の人々が死ぬのを目の当たりにし、どうしても明るく歌えない並木に万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれた[8][9]。。 霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ
「作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。編曲はオリジナル版が仁木他喜雄、並木のソロ歌唱によるステレオ録音版が松尾健司。
第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月11日公開、松竹大船)の主題歌及び挿入歌として発表された。「リンゴの唄」吹き込みの際、万城目正はたびたびダメを出し「もっと明るく歌うように」と指示したが、この注文は当時の並木には酷だった。並木は戦争で父親と次兄を亡くし、自身も1945年3月10日の東京大空襲で猛烈な火炎に追われ隅田川に逃げ込んで助かったものの母親を亡くしていたのである。さらに大空襲で大勢の人々が死ぬのを目の当たりにし、どうしても明るく歌えない並木に万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれた。
戦後と復興の象徴として
この曲はテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡の空撮、闇市、買い出し列車などが流れる際、必ずと言っていいほどBGMに使われる“定番BGM”としても知られている。1982年に学習研究社から発行された『証言の昭和史』6巻のタイトルは『焼跡に流れるリンゴの唄 占領下の日本』であった。
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並木 路子(なみき みちこ、1921年(大正10年)9月30日 - 2001年(平成13年)4月7日)は亡くなった次の日もステージの仕事が入っていた。
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「1936年コロムビアの専属作曲家となった。当時最先端の音楽であったスウィングジャズのイデイオムをふんだんに取り込んだ斬新な作品。1937年3月吹き込みによる淡谷のり子『別れのブルース』は、黒人ブルースをベースにした作品で、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷が服部の意向を汲みアルトの音域で歌い、南里文雄に認められて一流の作曲家の仲間入りを果たす。1944年上海に渡り(これは軍歌作曲の依頼から逃げるためだったという説がある)ジャズの活動の場を求めた。」
石坂洋次郎原作の日本映画『青い山脈』の主題歌として1949年に発表(W.戦後民主主義の最盛期から急激な転換期へ
<1949年⇒下山事件、⇒三鷹事件、⇒松川事件(国鉄三大ミステリー事件)に日本共産党や労働組合関係者の関与が疑われ、共産党によるテロ・破壊活動であると宣伝される(反共・反労働運動プロパガンダ。朝鮮戦争前年>された曲である。発表当初は藤山一郎と奈良光枝が歌っていたが、奈良が早世したこともあり藤山一郎の歌として有名である。
長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る歌200』においても第1位となっている。
解説
「この曲を歌った藤山一郎と作曲者の服部良一は共に国民栄誉賞を受賞している(作詞の西條は国民栄誉賞創設以前に死去)。
作曲者の服部良一は、著書の中で「梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴のはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちににわかに曲想がわいてきた」と記している。
>そして、この列車の中で手帳に書きとめようとしたが、生憎車内は買い出しの客で満員。五線譜を書くことができない。とっさの思いつきでハーモニカの番号を書いたという。
>服部自身「周りの人も、闇屋が計算していると思ったのでしょうね。」と回想している。
<東アジア情勢~中国、朝鮮半島、日本列島~米国⇔ベルリンを焦点とするヨーロッパ情勢>
1948年 済州島四・三事件
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1950年レッドパージ - Wikipedia へ
青い山脈は石坂洋次郎の大衆小説。その後にベストセラー青春小説を生み出したが、石坂は同郷の青森の破滅派私小説家の葛西善蔵 - Wikipedia
に弟子入りし教師をしながら小説修行をしていた。葛西周辺の小説仲間で善蔵の私生活面の面倒を見て一番苦労させられたのは石坂洋二郎である。
それがあのような青春小説の大家になる、ところが不思議といえば不思議であるが、映画「青い山脈」を見てもわかるようにこの映画は後に連発される<明るい青春映画>ではなく、戦前的なもの(人物習俗制度)と戦後的なもの対立、と最後にシーンで描かれた古いものからの暴力行使(田舎の初歩的政治テロ)がテーマである。そういう意味で「青い山脈」は当時の時代背景が色濃く映し出された映画である。後のリメーク版ははたぶん(、この辺を薄めて制作されていると思う。
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高校三年生 前回記事で紹介。