反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第四回、福島原発事故事情。その2.世界と日本の原発ーフランス原発事情を知る。フランスの英雄キュリー夫妻と娘、婿。~主要国の原子炉数とコレまでの主な原子力事故ー

 前回の 第三回、福島原発事故事情。その1、世界と日本の原発事情。
後半の
 武田邦彦ブログ ー放射線の人体への影響と専門家の倫理ー 
1. 福島原発事故の概要と背景 
に言及されているフランス原発事情はフランス歴史の独自の推移を参考にしなければ理解は十分でできない。
フランス原発事情を述べる武田氏の余裕を持たせた記事には背景がある。
日本では苦しい。ナントカに刃物?
 一度は原子力の体制側に身をおいた武田氏の場合、ブレイクは遅過ぎた感があるが、大きな貢献をした。
小出さんのような方だけでは片肺だと考える。
 
 武田さんの意味するところは、イロンナ意味で誤解を生みやすい。
 
 フランス核、原発、複雑事情は18C最後半のフランス革命からの歴史的事情を継承したものであり、その思想的影響は過去の日本の物理学の一部に及んでいる。
 
 湯川英樹、坂田、武谷三男あたりまでで、小出さんの世代になると、大学にはいって後にその偉大で特殊な系譜を追認したと、おもう。
<異常、急激、条件恵まれ過ぎ>の高度成長経済(最盛期の成長率名目22%!急激に変わっていった。中国の比ではなかった。大反動は必ずあり、これから原発事故はその一環に過ぎない。)は思想の大切なものを流してしまった。
 
 しかし、今日的継承者としては小出さんのような形になって不思議でない。
そういうぎりぎりのとこまで日本は来ている。
 
 武田さんはオポチュニストで楽観主義者ではあっても、科学者の倫理に思考が及ぶあたり、素晴らしい。
その論理は2。に書かれているが、ザット流し読みしたくらいでは解らないが、短い中に彼の思考がこめれれているものと確信する。珍しく力作である。
 
 >武田さんと他の安全派を分けたものは何かと想像してみる。
>直感的に彼のフランス原発事情を記した文章にある、と思う。
>そこには民主政への信頼がある!
>民主政がなければ、ナントかに刃物、ということか。
 
>>それが現在の日本の福島原発事故事情の真因である、といっても過言でない。
 
>ただ、福島原発事故事情は不可思議な諸々の政策、事象が一対として強固に付着し過去、現在に至っている。
>そして将来も、だ。
 
 だからこそ、それらを一まとめにしてー申し訳ないが東日本大震災福島原発事故ーは今後の日本の大きな下りのワンステップと、考える。
 
>そうした意味での<歴史のキズナ>でしかあり得ない。
 今後の国民的キズナ?は排外主義と一対の反アジアの腐れキズナでしか成立し得ないと考える。
 
イ)~18C最後半のフランス革命ジャコバン民主政と中央集権主義=封建制打倒のブルジョア革命の徹底化。
この歴史的事実は<現在のフランス中央集権制、官僚制と民主政の融合に継承>されている。
(英国清教徒革命の先駆性は踏まえるべき)。
 
ロ)~19世紀中盤の普仏戦争とパリ、コンミューン=パリ市民労働者の武装蜂起。
<戦争と革命の同時性>の課題は消えない。形態如何にかかわらず。
 米国の<独立戦争は革命戦争>だった。
南北戦争は市民戦争。各々その名称に相応しい内実を伴った意味がある。
コレが20世紀に覇者米国を形作った、といって過言ではない。
 
>その流れを踏まえて、合衆国憲法修正1、2条項の今日的意義を再三指摘している。
 
民主政と市民の武装は歴史的根源的に一体不可分だ。武器なき批判は奴隷のヒハンだ!)
 
 今日のパリ祭は19Cのパリ、コンミューンを記念してのもの。
(今でもフランスの最末端の行政単位はコミューン。
従ってパリ<市>、マルセイユ<市>は存在せず、コンミューン。
 
ハ)~戦中の反ナチ、国内レジスタンス戦線とドゴール将軍派の連携。
 
ニ)戦後民主共和制とドゴール対英米、独立路線における核政策の役割とフランス左翼。
ブルジョア市民革命の曖昧、外在的な日本においては左翼、右翼は区分は歴史の内在として、鮮明ではない。
 
日本において右翼左翼の区分は所詮、思想の由来の区分けにもならない。
 
フランス(ヨーロッパ中央はそれに準拠)では左翼右翼の区分はリアル歴史の内実としてあるが、其々日本と位相が違っている。
-この辺の事情はネット検索では把握不可能!大きな図書館に頼るしかない実情。
よって結論、結果を急ぐ今はこの方面の実情は理会し難い。)
 
 フランス共産党スターリン主義純化し、武装闘争を含む国内レジスタンスを果敢に戦った党派だった。
フランス戦後復興においてドゴール独立路線派とは対米、フランス独立路線選択という国家戦略において共通点はあった。
 
 ヤルタ体制以降の東西戦後体制の世界政治において、決定的な役割を果たしたのは核兵器保有であった。
 
 ナチスに占領され親独ビシー政権後のフランスにとって、ドイツ東西分割、戦後東西冷戦下で独自路線を選択する際に、軍事的キーポイントになったのが、核兵器保有の意思である。
 
>>上記の歴史的文脈において、史上稀有のノーベル物理学賞、化学賞を両賞を受賞したキュリー夫人のウイッキを参照する。
 
記述の項目別に見ると次のようになっている。
              生涯
<幼少時><家庭教師のキャリアと破れた恋>
ポーランドに生まれる。ポーランド人。
 
W。ロシアのナロードニキ女性革命家群像のポートレートを髣髴させる。
  <ソフィア・ペロフスカヤ>
クロポトキンの思い出。
クロポトキンチャイコフスキー団に所属していた頃、ソフィア・ペロフスカヤと接触している。両名とも若く、理想に見える青春時代の1ページを伺わせる、次のような記述がある。
我々は、ペテルブルクの郊外にある、ソフィア・ペロフスカヤが、職人の妻という名義で借りうけた小さな家に集まる事にしていた。彼女は極めて貴族的な家柄に生まれ、その父は一時ペテルブルク軍司令をも勤めた。ところか、彼女は可愛がってくれる母の賛成を得て、高等学校に入る為に家を出て、富裕な工場主の三人娘コルニロヴァと一緒に、後に我々の仲間となった自己教育の小さなサークルを作った。そして、今では職人の妻という触れ込みで、木綿の服に男の長靴をはき、頭にも木綿のハンカチを被るという有り様で、彼女がネヴァ川から二つの水桶を肩にして運んで来る時などは、誰一人それが数年前まで首都における最上級の客間のひとつで光り輝いていた娘と分かる者はなかった。彼女はみんなに可愛がられ、我々もその家に入ると、特に彼女には親しい微笑を送った。ことに我々が郊外の泥んこ道を歩いてきた百姓用の長靴などで汚れを持ち込んだ時、家をなるべく清潔にしておきたい気持ちから彼女に苦情を言われる時などには、ことにそうであった。そんなとき、彼女はその娘らしい、無邪気であるが極めて知的な小さな顔に、できるだけ難しい表情を浮かべる。彼女の道徳観から言えば、彼女は「難し屋」であった。しかし、決してお説教を聞かせるような型ではなかった。彼女は誰かのやり方が気に入らないと、そちらの方に眉の下から厳しい一瞥を与える。それでも、その眼差しの内には、人間の何もかも知っている、雅量のある寛大な彼女の性質が見えている。
ペロフスカヤは心の底からの「ナロードニキ」であり、同時に、本当の鋼鉄のような革命家であり、闘士であった。彼女は労働者や農民を愛し、彼らの為に働くのに、あえて彼らを想像上の美点で飾り立てる必要はなかった。
ペロフスカヤの有名な肖像は特に素晴らしい。それは彼女のまじめな勇気、輝かしい知性、愛情深い性質を、実に良く写していた。そして、彼女が絞首台に上る数時間前にその母の書いた手紙は、かつて婦人の心が述べた愛情深い魂の最も美しい表現のひとつである。
<パリでの苦学>
 放射能>(左から)ピエール、長女イレーヌ、マリ
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新元素の精製と研究
 
ラジウムの青い光
 
栄誉の光と影 1906年4月19日 誹謗の渦中に得た二度目の栄誉(化学賞)  第一次世界大戦
 
        <人物>
ポーランド人として   女性として  教育者として
受賞歴~8。
 
受賞メダル~12。
 
称号~25
 
栄誉。
マリ・キュリーは1902年に夫とともに、1910年には単独で[]フランスからレジオンドヌール勲章を贈られたが、どちらも辞退した。
 
1935年、ワルシャワに設立されたラジウム研究所の前に彼女の銅像が建立された。除幕はイグナツィ・モシチスキ(若き日の恋人)の夫人が行った。
この像は1944年のワルシャワ蜂起の際、銃撃を受けて損傷した。
戦後修復を受けたが、銃創をあえて残す決定が下された。
 
>>研究所。 
後継者は娘のイレーヌと娘婿のフレデリック、ジョリオ、キュリーだった。
娘とその夫フレデリック、ジョリオはノーベル化学賞を同時受賞した。
  ジョリオ
第二次大戦はレジスタンス運動に参加し、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁に入庁し、コレージュ・ド・フランスの教授も務めた。
>>1947年には、フランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功。
1956年にイレーヌが亡くなると、彼女のパリ大学教授の職も兼任した。
パグウォッシュ会議の設立にも尽力し、創設メンバーの一人でもある。
フランス共産党の党員でもあった
長女のエレーヌ・ランジュヴァン=ジョリオ(は物理学者に、長男のピエール・ジョリオは生物学者になった。
1958年に白血病で死去。妻イレーヌの死から2年後のことだった
 
 原子物理学者。父はピエール・キュリー、母はマリ・キュリー。妹はエーヴ・キュリー。パリ生まれ。
パリ大学ポロニウムアルファ線に関する研究で学位を取得。1929年、母マリの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚に30Pを合成し、1「人工放射性元素の研究」で、夫フレデリックと共にノーベル化学賞を受賞。
1936ブルム内閣の科学担当国務次官に就任。また同年、母の後任としてパリ大学教授にも就任。
フレデリックフランス共産党員だったが、イレーヌは婦人同盟員だった。
年の放射能研究により1956年白血病で死去。
 
 エーヴ・キュリー
フランス芸術家作家である(米国に移住したため英語式にイヴ・キュリーとも)。物理学ピエール・キュリーと物理学者・化学マリ・キュリーの次女。姉はイレーヌ・ジョリオ=キュリー1937年に書いた母の伝記で知られている。
イレーヌ夫妻が研究の面で母マリを支えたが、エーヴは姉が結婚した後も家に留まりマリが欧州各国に出かける際に同伴するなど生活面でサポートした。
マリの晩年は彼女に付き添い、1934年にマリが亡くなった時も枕元で看取っている。
 
 マリが亡くなった後はマリの伝記の執筆にあたり、1937年に出版された伝記『キュリー夫人』(Madame Curie)は各国語に翻訳された。
 
 フランクリン・ルーズベルト米国大統領の夫人、エレノア・ルーズベルトは、「私は大いなる感動と共にこの本を読んだ。母親に対する表現、理解、そして愛の純真さと美しさが見事に込められている」と評した。
 
 第二次世界大戦中、1940年にフランスが敗れるとイギリスに渡り、連合国自由フランスの活動に加わった
これによって、1941年にはヴィシー政権からフランスの市民権を剥奪されたため、その後はアメリカに定住することとなった
 
 1952年NATO事務総長からスペシャルアドバイザーに任命される。
その後、1954年ヘンリー・リチャードソン・ラブイス・ジュニア(国連ユニセフ事務局長)と結婚するまで、NATOのインターナショナル・スタッフとして働いた。
 
 エーヴはノーベル賞受賞者を両親と姉夫婦に持ち、夫もユニセフ事務局長時代の1965年ユニセフノーベル平和賞を受賞するなどノーベル賞受賞者に囲まれた人生であったが、その事を苦にはしていなかったようである。
1972年には、インタビューで自ら「私は家族でただ一人ノーベル賞を受賞していないのよ」と語っている
 
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原子力施設の主な事故
事故名原子力事故レベル事故内容
1979年3月スリーマイル島事故5ペンシルバニア州スリーマイル島原発2号機で炉心が3分の2ほど露出する空だき状態となり、炉心の半分が溶融、放射性物質が放出
1986年4月旧ソ連チェルノブイリ事故7ウクライナ旧ソ連)のチェルノブイリ原発4号機で試験運転中の原子炉が爆発し、大量の放射性物質が大気中に放出
1991年2月美浜2号機蒸気発生器細管破断事故2関西電力美浜原発2号機で蒸気発生器細管が破断
1995年12月もんじゅナトリウム漏えい事故1福井県敦賀市高速増殖炉原型炉もんじゅの2次冷却系配管でナトリウム漏れ
1997年3月東海再処理施設火災爆発事故3茨城県東海村の東海再処理施設で火災と爆発が発生、作業員37人が被ばく
1999年9月東海村臨界事故4東海村のJCO東海事業所転換試験棟で臨界事故が発生、2人が死亡
2004年8月美浜3号機死傷事故1関西電力美浜原発3号機のタービン建屋で高温の蒸気が噴出、5人が死亡
2011年3月福島第一原発1~3号機事故7東日本大震災による津波の影響で、福島第一原発で事故、被ばく者多数に上る
2011年3月同4号機事故3同上
2013年8月東海村加速器事故1茨城県東海村加速器実験施設「J―PARC」で放射性物質が漏れ、34人が被ばく
2013年8月福島第一原発タンク汚染水漏れ3地上タンクから高濃度汚染水漏れ
(資料)図と同じ
各国の原発事情と東日本大震災インパク
 大震災までの原発の現状東日本大震災インパクト(5月まで)

電力供給に占める原子力の割合は約2割だが、104基の原子炉を抱える原発大国。79年原発史上初の大事故となったスリーマイル島事故で「安全神話」が崩れ、原発建設は凍結されて久しかったが、2005年8月、ブッシュ前大統領が原子力政策の転換を決断、価格が不安定な輸入原油への依存を減らすため原発の建設推進を盛り込んだ法律を成立させた。オバマ大統領も地球温暖化と雇用促進を重視する立場からこれを継承連邦議会から原発の安全性への疑問の声が出始めているが、3月末の演説でオバマ大統領は原子力を含むクリーンエネルギー政策を推進する政策を改めて強調

チェルノブイリ事故の影響で脱原発の動きが広がった欧州では、近年は、地球温暖化を抑えることができるクリーンエネルギーとして見直され、「原発回帰」の流れが加速していた。再度、脱原発への動き


メルケル政権は、2021年までに全廃予定だった脱原発政策を転換、既存の原発を平均12年間稼働延長させることを決定再度、脱原発への動き。稼働延長の3ヶ月間凍結を宣言後、与党3党が「22年までの全原発廃炉」を目標に合意(5月30日)





スリーマイル島原発事故の翌年の1980年に国民投票で決めた原発の全廃決定を覆して、2010年、原子炉10基の建て替えを議会で承認再度、脱原発への動き。ただし5月30日のドイツ与党合意について原発建設を進めるスウェーデンのカールグレン環境相は「時期にこだわりすぎ、再生可能エネルギー確保手段の議論が置き去り」と批判



チェルノブイリ事故後1987年に国民投票原発全廃され「原発なき先進国」といわれていたが、ベルルスコーニ首相は「石油と天然ガスの輸入への依存の度合いを下げる」と主張、国民投票(2011年6月までの予定)を経て新たに原発を建設し2030年までに電力の25%を賄う計画を掲げていたイタリア政府は4月中旬、原発再開計画の無制限凍結を表明。ただ、ベルルスコーニ首相は、「原子力は全世界にとっての未来だと確信している」と持論を改めて強調し、反原発の世論が収まるのを待つ措置との見方もある。首相の思惑に反し最高裁は6月1日国民投票予定通り実施の判断下し、再開否決が必至


2009年の世論調査では「原発は必要」が73%であった再度、脱原発への動き。老朽原発の更新を凍結。政府は稼働中の5基を19~34年に廃炉にする政策を決定



原子力依存度が高い原発推進の立場保持。世界有数の産業を抱え、今回の事態をむしろドイツへの電力輸出の商機と捉えるむきもある。サルコジ大統領は開発中の次世代原発について「安全性は(現行の原発より)10倍高い」とアピール


1970年代に建設された旧ソ連原発の建て替え時期を迎え、チェコハンガリーブルガリアなど軒並み原発導入を計画再度、脱原発への動き

エネルギー需要の増大に対応し、建設中の原子炉が28基と「世界一の建設規模」「中国も世論の監督が必要」と情報の透明性を求める報道が出始め、政府は3月16日、新規計画の承認を一時凍結することを発表、ただし「導入予定の次世代原発はより安全」と強調

原発推進イミョンバク大統領はこれまで通り原発推進の方針だが、原発誘致が大きな争点となった4月末の江原道知事選では原発反対を掲げた野党候補が当選

6基稼働、2基建設中再度、脱原発への動き。稼働中の原発を18~25年に順次廃炉


原発推進インド、トルコ、ベトナム原発の建設・計画を継続しながらも、国内での反原発運動の盛り上がりを警戒
(資料)東京新聞2011.3.21「世界の原発事情」、東京新聞2011.3.22、毎日新聞2011.5.30、2011.6.2、東京新聞2011.6.2(イタリア)、東京新聞2012.1.10(スウェーデン