反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

最近の記事の重要点を引用する。

①  現在の制度では、老人を在宅で介護をしようとすれば、介護にあたる家族が一人以上存在しなければ無理である。
>逆に言えば、介護保険における在宅介護は、介護にあたる家族がいることを前提としたサービス給付となっている。
**そもそも、要介護度が3以上(W。圧倒的な待機者が多い現在の特別養護老人ホームの入所資格は要介護3以上を優先)で手厚い介護を必要とする老人を、在宅で介護すること自体にかなりの無理がある。

よほど特殊に家族内介護力を強化しているのでなければ、

**おのずと施設介護に移行していくことになるだろう
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W。おのずと英語で訳すと 対訳 naturally 
在宅から施設への移行は介護のプロの言うような<自然過程>にはならない
慣れ親しんだ在宅でいたいという本人の思いは当たり前の人間的本能。

ところが介護に困難を覚えるようになった介護家族にとって、介護したいのだが介護が困難になって先行き不安が募ってくるというアンビバレント(二律背反)な思いは常に付きまとうようになる。

この場合こそが、在宅介護から施設介護への移行に際し、姨捨感情を超えて、プロ介護者の目線、体験を取り入れるときである。

症状が進行しても、家族介護で抱え込んでいき、本人もそれに応えて、用心深く過ごしていると、最悪の結果である、共倒れ状況に陥る
>>制度設計者が施設介護しか研究しておらず、在宅介護の実態を知らなかったからであろう。
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W。介護の教科書に載っている介護マニュアルは施設介護という自由を束縛した環境、物理力、組織力を前提に為し得るものであり、在宅介護の環境では、到底その域に到達できない。もっとも今ではそういった理想的な介護を行っている施設は極めて少ない。



②  **痴呆性老人や独居老人の介護で一番重要なのは「見守り」である
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W。対人関係に障害のある在宅の人の見守り、は厚労省の言うような地域の見守り活動にも大きな限界が生じる。
家族がいる場合も逆にその家族が本人の状態を地域に「隠す」場合があり
そのことによって独居よりも地域の側の踏み込んだ見守り活動ができない場合がでてきて、老、老(老、認。認、認)介護の当該在宅が共倒れになるケースも多々ある。最悪のケースはそのことによって地域に被害が及ぶ。
だからこの論文執筆当時の、困難ケース、独居在宅だけではなく、問題は広がり深刻化している。




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W。家族単位の当該法制にメスを入れる必要性が今後ますます、多くなる
認知症独居在宅=被害者は基本的に当人だけ。
認知症家族介護=被害者、複数。夫婦、親と子供、親と連れ合いの妻など。コレが急速に進む少子高齢化社会の実態!
>介護理念、技術(人材難)や制度がこの実態についていけず、上滑りになり、事業者の都合、利益優先になっている実態を知れば、そのような「劣悪な人材」を招き入れるよりも、面倒だから自分たちで済まそうとなる。
Wの体験上、今の介護現場の人々には、現場仕事の要請に従って、人間としての本来的な感情をどこかにおいてきている人がかなりいる。労働条件の劣悪化が長く放置されると、まともな人は他の業界から退出し、素材の悪い人材しか介護現場に残っていない、という悪循環が見受けられる。時折マスコミをにぎわす事件は氷山の一角に過ぎない。

 引用に還る
「先ほどのケースでは、頻繁に自宅を訪れて、糖尿病の薬をちゃんと飲んでいるか、暴飲暴食をしていないかどうか、見守る必要がある
**だが、ういう行為は介護保険の在宅介護のメニューに入っていない
介護の実時間で計算できないような支援は、カウントされていないのである。  
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ずっと以前、介護にあたり家族のいない独居高齢者の服薬チェックをしていたWの経験から、介護者のいない独居利用者には当たり前にやるものだと思っていたら、そんな気配もなかった。ただ掃除に来て何やら話し込んで帰ってしまう。書類上1時間の訪問介護なのに、とにかく掃除だけは熱心だが、30分過ぎに帰ってしまう。
訪問診療も、夕食前に来て、数分で帰ってしまう。遅く来て素早く帰っていく。
とにかく、利用者、訪問者相互が、その場を和やかにやり過ごしたらいいということが恒例化しているのか、はたから問題提起をするとうるさがっているようなそぶりを見せる。既定の職務怠慢が目に余る。
結果的におとなしい介護者のいない独居老人は、楽なルーティンワークのような位置づけである。
こういう実態関係が続いているうちに、症状は着実に進行していき、今まで理解できなことや実行できたことができなくなり、サポート者の負担が増えていく現実がある。
こんな関係性の中で将来の厳しい介護状況に共同で対処してくれるのか、不安になる。
 この論文の末尾に記されている、介護市場に競争環境が成立していれば、他事業所に映ればいいが、
人手不足、人材不足で、どこも似たようなものだと思うので、利用者側の不都合に目をつむり、事業者側の都合、利益に合わせるしかない、というのが、平均的環境ではないだろうか。
 だったら、沿いうのをあてにしないで、力のないのは承知で家族で、介護しようとして、どんどん深みにはまっていく。
 まさに、サバイバル環境に置かれているのは、介護保険制度の利用者側である。
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 <実は、見守りというニーズは、施設に入ればほぼ自動的に解決してしまう。>

**頭が「まだらぼけ」であっても、施設にいれば朝昼晩と一定の時間でカロリー計算された食事が取れ、着替えができ、トイレに行けてしまう。
**逆に言えば、施設介護を見ているだけでは、見守りのニーズは隠されていて分からない
>>介護の核心は、老人の生活リズムを把握した上での生活支援である
>>衣服の着脱やトイレなどの身体的サービスは、介護のほんの一部にすぎない。
>>それゆえに、身体サービスあるいは家事援助サービスだけを、在宅介護に導入してもうまくいくものではないのである。
   
**痴呆性老人の要介護度認定に問題があることはしばしば指摘されてきたが、制度設計者は、独居老人についても想定していなかったと言わざるをえない。

   まず独居老人
一般的に、重度化した場合は施設介護へ、という流れをつくつておくのは一つの方法である。
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W。その流れを作るのは、誰が主導するのか?(施設入所を嫌がる人を入所に導くのは家族、近親者、ケアマネ?、行政?そしてその手段は?)施設入所への具体的道筋というところに最大の難関がある、ともっともっと社会的に認知されるべきである。みんなが一番困っていることがインフォーマル状態になっている。


「家族同士で面倒をみるべき」という価値観

「ほんの3、40年前ぐらいまでは家族の単位も大きくて、親族のネットワークも機能していたから、今でいう『終活』もどうにかなった人が多かった。
>つまり、面倒臭さと表裏一体ではあるけれど、相互扶助のようなものを期待することができたんです。

しかし、現在はというと、病気でも介護でも何かしらトラブルがあると、すぐに家族が壊れてしまう非常に危うい状況にあります。
普通の家族』自体がはっきり言ってすごくリスクの高いものになっているんですね。
しかも、現役世代の人ほど自分には関係ないと思っているのが問題です」


>15年後には同じく65歳、90歳、93歳となる計算だ。
しかし、子どもの立場にいる人の大半は、「自分は歳を取らないことを前提に考える」そうだ。
>つまり、自分は50歳のままの感覚で親の介護などの問題を語るのだという。
そこで起こるのが、親子での「老老介護」だ。子どもも高齢化し、持病や障害などを抱えている場合もあり、すでに要介護状態になっていることすらある。

お互いの安否を気遣うレベルの近所付き合いや、日常的に対面する友人などが一人でもいないと、このようなリスクを回避することはかなり難しい。

>>つまり、現時点で自分が置かれている「関係性の貧困」について、客観的に捉えることができていないのである。
>>これは仕事の有無や、パートナーの有無にまったく関係なく、誰もが「自分の関係性を自分でマネジメントする」ことが必要な時代に突入したことを意味している。
>>近年ビジネスシーンでは、「関係性のマネジメント」という言葉が流通しているが、これからは私的な領域においても、「QOL」(生活の質)の視点から「関係性」を再考することを余儀なくされるだろう
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W。もっと難しい作業におもえるが、生活の質はプライベートゾーンの問題に帰着するから、肩ひじ張ったものではないかもしれない。
**とはいえ、個人が主体的にコミュニティを立ち上げたり、ネットワークを作っていくライフスタイルは、残念ながら一部の例外を除いて、日本の文化にはあまり馴染みがない

「恥をかくことを恐れず、プライドを捨てて行動に移せばいい。そうしないと行動範囲は様くなり、身内とも連絡が取らず孤立化してしまう。コミュニケーションが繊細になり、周囲の空気に過敏になりすぎだ」
W。高齢者の男は日常生活レベルの人間関係への対応力がない。
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***家族や会社での人間関係を「固定されたもの」として認識し、所属集団へ閉じこもるような依存体質があるためだ
>>そして、最も大きな障壁になっているのは、「高齢者は家族が面倒をみるべき」という、<家族を言わば聖域化する価値観>である。
遠藤さんの終活サポート>は、家族代行と見守りを兼ねたもの。介護施設選びから入所後の施設とのやり取り、本人の健康状態の確認までを家族に代わって一手に引き受けている。
必要な場合は、死後の葬儀や遺骨の処理までも請け負うという。

家族からの事態が深刻化してからの急な依頼が多い背景には、
**「家族で何とかしなければ」という思いに囚われて消耗し、三者に助けを求めるまでに時間がかかることが挙げられる。←W。事実!

 「2・5人称の関係」とは何か
**遠藤さんは、「自分たちの立ち位置は、家族ではないけど、かといって他人でもない〝2・5人称の関係性〟」と表現する。
**「家族だと2人称の関係性になってしまう。自分たちは明らかに家族ではないけれど、一方で3人称の関係性だと他人になってしまうので、ちょっと距離が開き過ぎてしまって、サービスを受ける側の満足は得られないんです。
>だから私たちは〝2・5人称の関係性〟でやっています。感覚的には、ある時間帯だけその方の家族の代わりになって、入所先の施設の担当者とやり取りをしたり、個人宅に直接訪問して安否確認をしているのに近いですね」←介護事業所のケアマネ、ヘルパー責任者、ヘルパーはどうした? 介護保険の範囲内では隙間が多すぎるということか。

>>孤独や孤立をめぐる議論は二極化に陥りやすい。つまり、肯定派と否定派だ。←W。解っている。
>>しかし、現実はそれらの是非を超えて、「第三者の協力が得られないと、<人は生き残れない」>と告げている。←W。介護や福祉においてサバイバルの立場や思想がなさすぎるから個々の現場の実情を把握し対処できない。上滑りになる。
>>「自分にフィットした関係性」が不可欠となる。
**そのため、「孤独死予防」に主眼をおく消極的な関係作りよりも、
***「心の健康」を最大化できる関係作りがベスト
となる。

現実的な処方箋の一つとしてよく示されるのが「多重所属(一つの集団に依存せず、複数の集団に同時に所属する)」であるが、当然ながら、人間関係を最小限にしたい人も少なくない。

W。意味深。もっと具体的に。施設環境の選択のことか?→もう一つの現実的な処方箋は、自分が望むコミュニケーション環境があるコミュニティへの移動と、
人向けの多様化したサービス(民間・自治体)の使い分けである。
>他人との積極的なコミュニケーションが不得意な人にとっては、現実的な落としどころになるかもしれない


     「迷惑をかけたくない」が生む孤独
>家族が外部の資源なしに回る時代は終わったことを自覚し、現在の「関係性に潜むリスク」と向き合う余裕を持たなければならない。
コミュニケーション環境のコントロール、「サバイバリズム」(生存主義)の要だからだ。
今後、QOLと人間関係に対する社会的な関心は、
ソーシャル・キャピタル社会関係資本)の「焦土化」とともに高まっていくだろう。