反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

この間、追い求めてきた課題を再考し前に進めるために、最近の記事の重要点を引用する。

  反俗日記 2019/1/16(水) 午後 1:12


 現在の制度では、老人を在宅で介護をしようとすれば、介護にあたる家族が一人以上存在しなければ無理である。
>逆に言えば、介護保険における在宅介護は、介護にあたる家族がいることを前提としたサービス給付となっている。
**そもそも、要介護度が3以上(W。圧倒的な待機者が多い現在の特別養護老人ホームの入所資格は要介護3以上を優先)で手厚い介護を必要とする老人を、在宅で介護すること自体にかなりの無理がある。

よほど特殊に家族内介護力を強化しているのでなければ、

**おのずと施設介護に移行していくことになるだろう
      ↑    ↑
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W。おのずと英語で訳すと 対訳 naturally
W。自ずととは? ( 副 ) 物事の性質や成り行きに従って自然にそうなるさま。ひとりでに。自然に。
W。筆者は介護のプロの目線、体験から「自ずと、施設介護に移行していくことになるだろう」という何気ない文言を使っているが、
W。認知症老人を自宅で介護しようとする家族及び慣れ親しんだ在宅のままいたいという本人の目線、体験の範囲内では、在宅介護から施設介護への移行には大きなハードルが立ちはだかっており、それを超えるのは、転倒骨折などの大きな事故や病気入院を施設入所をきっかけとする場合が多い。本人家族納得づくでの施設入所のケースは少ない。
だから、在宅から施設への移行は介護のプロの言うような<自然過程>にはならない
慣れ親しんだ在宅でいたいという本人の思いは当たり前の人間的本能。

ところが介護に困難を覚えるようになった介護家族にとって、介護したいのだが介護が困難になって先行き不安が募ってくるというアンビバレント(二律背反)な思いは常に付きまとうようになる。

この場合こそが、在宅介護から施設介護への移行に際し、姨捨感情を超えて、プロ介護者の目線、体験を取り入れるときである。

症状が進行しても、家族介護で抱え込んでいき、本人もそれに応えて、用心深く過ごしていると、最悪の結果である、共倒れ状況に陥る。
>それだけはなくこういった状況が招く事故被     
 
>>制度設計者が施設介護しか研究しておらず、在宅介護の実態を知らなかったからであろう。
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W。介護の教科書に載っている介護マニュアルは施設介護という自由を束縛した環境、物理力、組織力を前提に為し得るものであり、在宅介護の環境では、到底その領域に到達できない。もっとも今ではそういった理想的な介護を行っている施設は極めて少ない。

 要介護度の認定が、施設介護を前提にした調査を基礎にしていたことについては、介護保険が実施される以前から私は批判してきた。

**痴呆性老人や独居老人の介護で一番重要なのは「見守り」である
       ↑
W。対人関係に障害のある在宅の人の見守り、は厚労省の言うような地域の見守り活動にも大きな限界が生じる。
家族がいる場合も逆にその家族が本人の状態を地域に「隠す」場合があり
そのことによって独居よりも地域の側の踏み込んだ見守り活動ができない場合がでてきて、老、老(老、認)介護の当該在宅が共倒れになるケースも多々ある。最悪のケースはそのことによって地域に被害が及ぶ。
だからこの論文執筆当時の、困難ケース、独居在宅だけではなく、問題は広がり深刻化している。

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    引用に還る
「先ほどのケースでは、頻繁に自宅を訪れて、糖尿病の薬をちゃんと飲んでいるか、暴飲暴食をしていないかどうか、見守る必要がある
**だが、ういう行為は介護保険の在宅介護のメニューに入っていない
介護の実時間で計算できないような支援は、カウントされていないのである。   
 
<実は、見守りというニーズは、施設に入ればほぼ自動的に解決してしまう。>

**頭が「まだらぼけ」であっても、施設にいれば朝昼晩と一定の時間でカロリー計算された食事が取れ、着替えができ、トイレに行けてしまう。
**逆に言えば、施設介護を見ているだけでは、見守りのニーズは隠されていて分からない
>>介護の核心は、老人の生活リズムを把握した上での生活支援である
>>衣服の着脱やトイレなどの身体的サービスは、介護のほんの一部にすぎない。
>>それゆえに、身体サービスあるいは家事援助サービスだけを、在宅介護に導入してもうまくいくものではないのである。
   
**痴呆性老人の要介護度認定に問題があることはしばしば指摘されてきたが、制度設計者は、独居老人についても想定していなかったと言わざるをえない。

   不遇なるケアマネジヤー
省略


    まず独居老人
痴呆性老人の場合も含め、介護保険の中で対応する場合は、先に触れた「見守り」という介護を数量化できるかがカギだが、これは難しいだろう
であれば、独居になった場合には在宅介護ではなく、たとえばグループホーム(W。入所者一人当たりの補助金負担が多く、行政が尻込みし、ニーズに応えられていない。10数年前には空き部屋がたくさんあった。)に入ってもらうとか、施設介護のメニューをあらかじめ提示しておく。
一般的に、重度化した場合は施設介護へ、という流れをつくつておくのは一つの方法である。
   ↑
W。その流れを作るのは、誰が主導するのか?(施設入所を嫌がる人を入所に導くのは家族、近親者、ケアマネ?、行政?そしてその手段は?)施設入所への具体的道筋というところに最大の難関がある、ともっともっと社会的に認知されるべきである。みんなが一番困っていることがインフォーマル状態になっている。



「家族同士で面倒をみるべき」という価値観

「ほんの3、40年前ぐらいまでは家族の単位も大きくて、親族のネットワークも機能していたから、今でいう『終活』もどうにかなった人が多かった。
>つまり、面倒臭さと表裏一体ではあるけれど、相互扶助のようなものを期待することができたんです。

しかし、現在はというと、病気でも介護でも何かしらトラブルがあると、すぐに家族が壊れてしまう非常に危うい状況にあります。
『普通の家族』自体がはっきり言ってすごくリスクの高いものになっているんですね。
しかも、現役世代の人ほど自分には関係ないと思っているのが問題です」

>例えば、現在50歳の会社員で、75歳と78歳の両親がいる場合、
>10年後にはそれぞれ順に60歳、85歳、88歳となり、
>15年後には同じく65歳、90歳、93歳となる計算だ。
しかし、子どもの立場にいる人の大半は、「自分は歳を取らないことを前提に考える」そうだ。
>つまり、自分は50歳のままの感覚で親の介護などの問題を語るのだという。
そこで起こるのが、親子での「老老介護」だ。子どもも高齢化し、持病や障害などを抱えている場合もあり、すでに要介護状態になっていることすらある。

お互いの安否を気遣うレベルの近所付き合いや、日常的に対面する友人などが一人でもいないと、このようなリスクを回避することはかなり難しい。

>>つまり、現時点で自分が置かれている「関係性の貧困」について、客観的に捉えることができていないのである。
>>これは仕事の有無や、パートナーの有無にまったく関係なく、誰もが「自分の関係性を自分でマネジメントする」ことが必要な時代に突入したことを意味している。
>>近年ビジネスシーンでは、「関係性のマネジメント」という言葉が流通しているが、これからは私的な領域においても、「QOL」(生活の質)の視点から「関係性」を再考することを余儀なくされるだろう
     ↑          ↑
W。もっと難しい作業におもえるが、生活の質はプライベートゾーンの問題に帰着するから、肩ひじ張ったものではないかもしれない。
**とはいえ、個人が主体的にコミュニティを立ち上げたり、ネットワークを作っていくライフスタイルは、残念ながら一部の例外を除いて、日本の文化にはあまり馴染みがない
     ↑
W。行動的参加の活動スタイルが今よりも大きな意義をもち、主体的であろうとしてきた我々の世代がなしえなかったのには具体的な理由がある個人の自律的な意識革命、文化革命ができなかった。
W。それで普遍化(一般化)作業ができず、育む海がないから<家族><会社><社会組織>がたこつぼする。
    ↓                ↓
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「取材を続ける新聞記者は、
孤独死。それはそれでいいではないかと思う。
かつて(人々は)地方から出てきた。村落のしきたりやわずらわしさから逃げて。干渉されたくないのだから。自由になった。監視がいいのか、総背番号制がいいのか。」
   ↑       
W。島田裕己著 「人は一人で死ぬ」 「無縁社会」を生き抜くために NHK出版新書
>この辺の議論を改めて日本の戦後史、特に高度経済成長時代のダイナミックな日本社会の戦後して意味のある流動と変貌に引き付けて論じ、安易、情緒的な架空の人間の関係性へのもたれかかりを戒めている。
読破したが、世界的な反乱の時代に日本においてなぜ、自律的個人の意識革命、文化革命に至らず、上滑りの風俗に終わったのはという根本的問に答える議論は見当たらなかった。(もっとも風俗にしては悲惨事態が多すぎて上滑りの時流と云ったらよいのか)。様々な意匠の一つを着て、はやらなくなれば脱ぎ捨てた、ということか。

「恥をかくことを恐れず、プライドを捨てて行動に移せばいい。そうしないと行動範囲は様くなり、身内とも連絡が取らず孤立化してしまう。コミュニケーションが繊細になり、周囲の空気に過敏になりすぎだ」
W。高齢者の男は日常生活レベルの人間関係への対応力がない。
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***家族や会社での人間関係を「固定されたもの」として認識し、所属集団へ閉じこもるような依存体質があるためだ
>>そして、最も大きな障壁になっているのは、「高齢者は家族が面倒をみるべき」という、<家族を言わば聖域化する価値観>である。
遠藤さんの終活サポート>は、家族代行と見守りを兼ねたもの。介護施設選びから入所後の施設とのやり取り、本人の健康状態の確認までを家族に代わって一手に引き受けている。
必要な場合は、死後の葬儀や遺骨の処理までも請け負うという。

家族からの事態が深刻化してからの急な依頼が多い背景には、
**「家族で何とかしなければ」という思いに囚われて消耗し、三者に助けを求めるまでに時間がかかることが挙げられる。←W。事実!

「働かないと生活が回らないので、介護疲れなどにより体調を崩したりすると、家族全員が共倒れになる恐れがある。だからその前の段階で、私たちのような存在がいることを知ってほしい」(遠藤さん)

       「2・5人称の関係」とは何か
**遠藤さんは、「自分たちの立ち位置は、家族ではないけど、かといって他人でもない〝2・5人称の関係性〟」と表現する。
**「家族だと2人称の関係性になってしまう。自分たちは明らかに家族ではないけれど、一方で3人称の関係性だと他人になってしまうので、ちょっと距離が開き過ぎてしまって、サービスを受ける側の満足は得られないんです。
>だから私たちは〝2・5人称の関係性〟でやっています。感覚的には、ある時間帯だけその方の家族の代わりになって、入所先の施設の担当者とやり取りをしたり、個人宅に直接訪問して安否確認をしているのに近いですね」←介護事業所のケアマネ、ヘルパー責任者、ヘルパーはどうした? 介護保険の範囲内では隙間が多すぎるということか。
一昔前、二昔前にはあったような親族やご近所とのつながりが薄れ、何か事が起これば、数少ない家族にすべての負担がかかる。介護保険などの公的支援にも限界がある上、しかも、それを独力でこなすことは肉体的にも精神的にも厳しい。
だが、「第三者」の手を借りるにしても経験がないため、価値判断(正しい選択かどうか)とアクセス方法(誰に頼めば良いのか)の両方で戸惑うこととなる。

>>孤独や孤立をめぐる議論は二極化に陥りやすい。つまり、肯定派と否定派だ。←W。解っている。
>>しかし、現実はそれらの是非を超えて、「第三者の協力が得られないと、<人は生き残れない」>と告げている。←W。介護や福祉においてサバイバルの立場や思想がなさすぎるから個々の現場の実情を把握し対処できない。上滑りになる。
>>これは実は、病気や失業などの緊急事態の場合は云々……といった限定的な局面のみを指しているわけではない。
**普段の生活で心理的な安定を得ようとすれば、コミュニケーションの濃淡を別にして、

>>「自分にフィットした関係性」が不可欠となる。
**そのため、「孤独死予防」に主眼をおく消極的な関係作りよりも、
***「心の健康」を最大化できる関係作りがベスト
となる。

現実的な処方箋の一つとしてよく示されるのが「多重所属(一つの集団に依存せず、複数の集団に同時に所属する)」であるが、当然ながら、人間関係を最小限にしたい人も少なくない。

W。意味深。もっと具体的に。施設環境の選択のことか?→もう一つの現実的な処方箋は、自分が望むコミュニケーション環境があるコミュニティへの移動と、
W→現実的には訪問介護介護診療、デイサービス、ショートステイなど介護保険利用の諸サービスのことか?個人向けの多様化したサービス(民間・自治体)の使い分けである。
>他人との積極的なコミュニケーションが不得意な人にとっては、現実的な落としどころになるかもしれない


     「迷惑をかけたくない」が生む孤独
>家族が外部の資源なしに回る時代は終わったことを自覚し、現在の「関係性に潜むリスク」と向き合う余裕を持たなければならない。
コミュニケーション環境のコントロール、「サバイバリズム」(生存主義)の要だからだ。
今後、QOLと人間関係に対する社会的な関心は、
ソーシャル・キャピタル社会関係資本)の「焦土化」とともに高まっていくだろう。