反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用続き。「無縁介護」山口道広編著~単身高齢社会の老い、孤立、貧困~

 「認知症のひとが集まると、不思議と会話が続いたり、役割分担ができて楽しく生活できることがあるそうだ。
多くの人はいつまでも家族と生活したいと思っている。 
しかし家族の顔もわからなくなってしまったときにグループホームにいるというのは本人にとっても不幸な選択ではないように思う。 ←W。認知症の場合は特に介護保険制度の介護認定を受けることが最低限の必須事項。
三者の専門家による介護の難易度が介護者に客観的指標として示される。
認知症の在宅介護は要介護2までは目安だが、介護2から介護3までの進行は在宅介護環境によって早まり、要介護3になると、相当な介護力がないと、介護者がつぶれる。

家族の顔もわからなくなってしまったとき」←W。要介護3。
日常生活動作の破綻がかなり目立ち、傍に介護者がいないと日常生活動作は困難。介護者の負担も相当のものになり、そのまま突き進むと、家庭ユニットが破綻する。
>その場合、最大の難関である施設入所の具体的段取りが、インフォーマルにしか明らかになっていない。
介護者が一生懸命介護し、本人もそれに応えて何とか懸命にこらえて聖域化した在宅生活を続けているうちに、双方の症状が進行し、遂にカタストロフィーを招来する。
>この究極的事態をどう受け止めるか。
>コレは死と同じように人間の普遍的なありかただ。
日本近現代史を通じて、こういった究極状況が比較的回避できたのは、1950年代半ばから高度経済成長以降、バブル崩壊までの時期にすぎない。

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 毎日これらの事態と向き合う福祉の若い専門家(首都圏)に聞いてみた。
家で住んでいたら好きなことができる。施設では好きなことができない。選べない。どちらが悲惨かと思う。」
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W。介護の教科書的問答は施設という「好きなことができない、選べない」環境に入所者をおいた前提でマニュアルを展開している。
在宅訪問介護者にしても、見守り介護という介護の根幹をスルーできるパートタイム扶助員にすぎない、との自覚がある人は少ない。

「一人だから悲惨ということはない。見守りブザーもある。
>同世代で助け合うのがいいとインテリは言うyけれど高齢になって新しい友達を作るのは難しい
閉じこもりは病理でしょうか」
「無縁死悪いでしょうか」←死という事実は万人に平等。
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「取材を続ける新聞記者は、
孤独死。それはそれでいいではないかと思う。
>かつて(人々は)地方から出てきた。村落のしきたりやわずらわしさから逃げて。干渉されたくないのだから。自由になった。監視がいいのか、総背番号制がいいのか。」
   ↑       
W。島田裕己「人は一人で死ぬ」 「無縁社会」を生き抜くために NHK出版新書はこの辺の議論を改めて日本の戦後史、特に高度経済成長時代のダイナミックな日本社会の戦後して意味のある流動と変貌に引き付けて論じ、安易、情緒的な架空の人間の関係性へのもたれかかりを戒めている。

「恥をかくことを恐れず、プライドを捨てて行動に移せばいい。そうしないと行動範囲は様くなり、身内とも連絡が取らず孤立化してしまう。コミュニケーションが繊細になり、周囲の空気に過敏になりすぎだ」
W。高齢者の男は日常生活レベルの人間関係への対応力がない。

上野千鶴子が言っている。
「家族をあてにするのはやめよう。少なくとも社会保障制度を、家族がいることを前提に組み立てるのをやめよう。
社会保障を世帯単位性から個人単位に変える。
介護保険をおひとり様仕様にする。住民票のように世帯のきゅじゅうち登録ではなく、個人の社会保障番号さえあれば、どこにいようが誰と威容が同じ保証を受けられるのが望ましい。そうすればだれでも安心しておおひとり様にもシングルマザーにもなれる。ホームレスになっても保証が受けられる」

W。付加体列島原住民の日本国民に「当分の間」、その選択肢は選べない。