反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本はなぜ「PCR検査」が立ち遅れているのか 『PCR検査を巡る攻防』~日本は「疫学調査を主体とした独自の対策」を行ってきた~W.たまったものじゃない。

日本はなぜ「PCR検査」が立ち遅れているのか 『PCR検査を巡る攻防』 | J-CAST BOOKウォッチ

                              2020/7/31

 引用

「~日本のコロナ禍はこのところ、だれが見ても新たな局面に入っている。

 そんな中で本書PCR検査を巡る攻防――見えざるウイルスの、見えざる戦い』(リーダーズノート)が発売されている。コロナ関係の本は多いが、PCRに絞ったものは珍しい。早くもアマゾンの「ジャーナリズム」部門で1位、「感染症」部門で2位にランクインしている。

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     アマゾン紹介記事引用

なぜ感染2学会は、検査拡大とは真反対の方針を出したのか
知られざる複雑な関係が見えてきた
この国のPCR検査論争を検証して、問題点と対策を探る1冊。

すでに2月中旬から、他国の「徹底検査」、「徹底隔離」、「徹底した感染症対策」が
伝えられたなかで水際対策に失敗し検査体制も追いつかなかった日本
疫学調査を主体とした独自の対策を行ってきた。←W。推奨する一部は日本独自の対策などという自覚もない。というかそういうことは予め頭から削除できるという一国主義者、日本主義者。

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W。赤字強調が日本のコロナ対策を解くキーポイント。

 日本のコロナ患者は疫学調査主体とした独自対策」の高いハードルを越えなければ医者と相対する診察、臨床に接することはできない。官の系列は手に入れたグリップは手放さない。

 余談になるが安倍さんの著書「美しい国」の最期の方に少子高齢化問題にふれて、日本の人口は8000万人程度になっても生産性を高度に保っていれば問題はないと記されている。流石、安倍さんだな、と妙に感心した。

生身の個々の立場からいえば、「疫学調査を主体とした対策」などで対処されたらたまったものじゃない。悲劇だ

患者及び病状自覚者は医者と面対峙する安心安全感をさしおいて、クラウド化した電話相談窓口なるものに病状を訴えなければならない。前代未聞の異常事態がこの日本で発生しているが、その程度が増大し付けると、どのように言いくるめようが人間の所作をわきに追いやってコロナウィルス次第で臨界点に達する。主導権はコロナウィルスの側にある。なぜなら、積極的、戦略的対策らしきものは放棄されているからだ。

保険適応無し有料PCRを行っている医療機関で、¥32000税抜き、という報道があった。

>保険適応は当該医療機関当局に書類申請し1か月以上かかって認可を受け保険がきくようになるが、国立感染症研究所疫学調査いう名目で認可が下りるという。確か、アビガンなどのコロナ症状緩和薬を使用する場合も、厚労省の認可した特定大学、研究所のコロナ感染症研究の一助にする、という一札が必要だった。

穿った見方かもしれないが、中小規模の多くの民間病院はわざわざ面倒な手続きをしてまで、コロナ疑いのある人を自前で検査するだろうか大きな病院、保健所にPCR検査は丸投げするのではないか。そうすると、PCR検査ができる病院は限られてい来る。事なかれ主義で関わりたくないんだ。社会組織がたこつぼ化し横の連携を欠いている。

さらに、検体の運搬。

検体の配列を読み込む作業をどこでやるのか。

どの程度精緻で能率的な機器でやるのかという肝心な問題がある

処理能力の高い高性能機器(1台。1日500検体処理可能)すでに世界で流通している。PCR検査数の多い国はこれらの高性能機器を圧倒的多数、導入している

¥1000万円。アベのマスクの何百億円をこの機器に回せば、検査数は圧倒的に増える。しかしやらなかった。

当局は最初から一貫して検査数を増やさない方針だったからだ

あるテレビ報道ショーでは、検査数を増やせば、医療崩壊、保健所機能マヒを挙げて、何とかモーニングショーとの対決姿勢を打ち出しているようだがもちろん闇雲に検査すればいい、ということではないのは常識であるそのモーニングショーの主張は知らないが、その程度の常識はあると思う

 検査数大拡大の目的は、詳しい手順や技術などの方面はここで調べて書き出す時間はないが、それ以外の積極的な対処方法はないと考える。

夏のこの時点でこの感染急増ならば、コロナウィルスの生存力に都合の良い環境の秋冬を見据えると、積極的に手を打っても、そこそこに感染を押さえることができる程度だと予測する。もちろん積極的な対策をやり過ごすと酷いことになる。

国民規模の免疫抗体獲得論も中世のペスト、20世紀のスペイン風邪の時代と全地球一体化の今では、あまりにも時代状況が違いすぎる。そのような放置主義的政策をとり続けた結果、マイナス要因が積み重なると、その国は当たり前のやれることをやっていない結果なのだから世界から孤立するだろう。

なお、最近の当局は、重症、死者数が少ないことに焦点を当てて活動力のある世代の安心感を誘う意図をあらわにしているようだが、

まず第一に、軽症といわれている症状は、酸素呼吸器使用=中等症

人工呼吸器使用ICU=重症

それ以外の症状で苦しいものであっても軽症に分類されていることを知っておくべきだ。

インフルエンザに罹った経験のある人は知っていると思うが、高熱状態などの諸症状が続くと大変な思いをする。コロナは無症状や、軽い症状のヒトも多くその割合は断定できないがは高熱が続くものと覚悟しておいたほうが良い。

そもそも、大掛かりな流行り病に対して、その実態を出来るだけ知っておいて対処するのが当たり前

5時間に及ぶ手術を受けた身にとって、術前に自分がどういう手術を受けるのか知ることがとても大切だった。その姿勢をわからない人は「まな板の鯉のつもりでいたらいいんだよ」などと見当違いのことを言っていたが、Wにとって、鯉だろうが鰯だろうがそんなことはどうでもよかった。自分の体に対してどんな施術がなされるのか、ただ知りたかっただけ。その人にはその場で何も言わなかったが、自分とは違った人生を歩んできたヒトなのだな、と何か納得しただけだった。人は十人十色。長い手術だったと知らされ、全身麻酔から徐々に感覚を取り戻したときに、枕もとの看護師さんにいった。「このまま目覚めなくても良かった」。しかし、帰宅した。

いまでも目覚めなくてもよかったと。諦観はある。しかし覚悟はいらない。コロナ感染の実態をもっと知りたい。それだけだ。検査数を増やせば医療崩壊、保健所が機能マヒ?

短絡すぎないか?

押し寄せないように説得すればいいじゃないか。きちんと順序だてて説明すると多くの人は納得し自重する。日本人はそれができる。まさかカネがもったいない、ではあるまい。

 だい2。

感染して伝播させること。疾病を自分自身の中で治めることができないパンデミック状態の感染症にたいして、普通の風邪などという認識は、物事を考える土台そのものがWとは違っていると考えるので、相手にする必要はない。

これまた十人十色でそれはそれでやっていけばいいが、迷惑をかける。

 だい3。だが、ここに記されている連中の姿勢は批判されても仕方がない、と思う。

>昔、「専門バカ」との批判が吹き荒れた季節があったが、医学の分野は2、3を除き壁で隔てられてほぼ無風状態だった。その中で疫学という特殊分野にそれ的傾向のある人たちが純粋培養され、後継者が増殖したのか。

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アマゾン、本書紹介、引用に戻る

 「検査拡大」を主張する人と、それに反対する人の大論争が繰り広げられる(W.そんな論争は日本だけではないのか)一方で、
医療界を覗くと舞台裏では、マスコミが報じない複雑なことが起こっていた

検査は進んでおらず、このままでは第2波、第3波による感染爆発で、
また検査難民が増え、感染者や死亡者が急増しないかとの不安の声が
高まっていくだろう。

本書では、不透明で、ビジョンのない日本の感染対策について徹底検証し、
対策の過程や報道を記録し、保存する

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本文に戻る

「    改めて議論を整理し分析

 PCR検査論争に首を突っ込んだ時の心境を、木村さんは以下のように記している。

 「草むらに小さな穴を見つけて覗きこんでみると暗闇のなかに異様な世界が広がっていて、めまいがした。迷い込むと出口が見つからなくなる。法律家やら政治家やら科学者やらが一斉にしゃべっている。みな自分が正しいと吠えている。理解できない言葉が響き渡る。どこだ、一体ここは」

 テレビでPCRに関する報道を何度か見た人なら同感だろう。木村さんは、そうした視聴者と同じ目線から改めて議論を整理し、分析していく。一種の「ファクトチェック」作業だ。門外漢ではあるが、一ジャーナリストとして。

       「検査拡大派」vs「検査拡大反対派」

木村さんは、論争の当事者を「検査拡大派」と、「検査拡大反対派」に大別する。

拡大派」はテレ朝の「モーニングショー」など民放のワイドショーや野党、ジャーナリスト、医師などの一部。それほど明確ではない。←W。権威、権限、権力乏しく。それは現在の検査数に象徴されている。分かり易く言えばこの期に及んでの<既得権益擁護>の壁に跳ね返されている。BLMのようなやり方も駆使しなければ、押し返せない時間が過ぎゆくだけになる。体制側の対応はなし崩しになるが、コロナウィルスの爆発的感染状況次第になるだろう。

>「反対派」は政府対策本部の専門家会議厚労省クラスター対策班感染研、感染二学会日本感染症学会と日本環境感染学会、さらには医師の一部など。「コロナ専門家有志の会」も含まれる。政府の専門家会議やクラスター対策班の関係者などで組織されている

「有志の会」は4月8日、「37.5度以上の熱が4日以上」「高齢者や妊婦は2日以上」などの目安を示し、それに該当しない人は「自宅回復」を呼び掛けていたグループだ。専門家会議の全12人を含む21人が参加していたというから「有志」とはいえ影響力が甚大だ。この「目安」が出ていたため、体調不良でコロナではないかと不安になっていても、PCR検査が受けられなかったという人は少なくない。

  W資料 東京新聞

www.tokyo-np.co.jp

  W。記事は削除される可能性があるのでできるだけ引用しておく。

新型コロナウイルス感染症を巡り、政府の専門家会議の全メンバーらで作るコロナ専門家有志の会」は、体調不良時の対応としてホームページ(HP)に掲載していた「四日間はうちで」という呼び掛けを削除した

厚生労働省が示した「三七・五度以上の熱が四日以上」といった受診目安が独り歩きし、受診抑制などにつながっているとの批判が高まっていた。有志の会は取材に「伝え方に間違いがあった」と釈明した。 (原田遼) 「有志の会」は

脇田隆字 - Wikipedia

脇田隆字・国立感染症研究所所長ら専門家会議の全十二人を含む二十一人が参加する。厚労省が二月に設けた一般的な受診目安では、「三七・五度以上が四日間続く」とする一方で、「強いだるさや息苦しさなどがあれば、即日相談を」としており、曖昧さが指摘されている。政府の後ろ盾となる専門家自らがそれを証明してしまった格好だ。

 HPは四月八日、「体調が悪いときにすること」という表題の記事を掲載。「うちで治そう」「四日間はうちで」というメッセージを画像で示した「三七・五度以上の熱が四日以上」「高齢者や妊婦は二日以上」などの目安も紹介し、「持病がない六十四歳以下の方は、風邪の症状や三七・五度以上の発熱でも、四日間はご自宅で回復を待つように」と記した。
 しかし新型コロナは発熱から四日たたずに重症化するケースも起きている
加藤勝信厚労相は三月以降、目安について「四日以上続くならば、必ず受診をしてほしいという意味」と国会で繰り返し説明。「倦怠(けんたい)感があったり、症状が悪化したりすれば別問題」と、即座の受診を勧めている。」
「有志の会」は掲載から二週間余りたった四月二十七日に訂正記事を載せ、「四日間はうちで」などの部分を削除。本紙に対し、当初の記事を配信した理由を「微熱の人が病院に殺到し、待合室で感染することを避けたかった」と語ったW。ならば、そのような告知をすればよい。
厚労省目安について日本医師会(日医「伝え方に課題があった」と指摘。野党も国会で「救えた命があったかもしれない」と見直しを訴えているが、厚労省は「目安の内容を修正する必要はない」としている。」
                   新聞記事       引用終わり
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  本文引用開始
その「有志の会」は「新型コロナの陰性証明はできません!」というメッセージも発していた。そのあたりの事情を、木村さんは次のように見る。
 「国としてはあくまでPCR検査を進めていると表明しているため、『検査を拡大せよ』という声に反論ができない。PCR検査体制はまだ十分ではない。そのため、専門家会議の、さらに下にある『有志の会』を使って『検査を拡大せよ』という声を抑えるために、ウエブサイトやSNSでメッセージを出し続けたのではないか・・・」
この問題がわかりにくいのは、「政府側がいわば抵抗勢力になっていたこと」だと木村さんは分析する。
W。だったら、二枚舌。
       感染症村」もありそうだ
W.補正予算。コロナ専門家会議有力者の所属団体への予算措置がキッチリ行われている。
これを各々数字付きで指摘しているのは金子勝氏だけである。
尾身さんと云うひとは旧厚生年金病院系の全国組織の理事長らしい。
脇田さんは国立感染研。そのほかもうひとり。各々補正予算から50億60億のよさんそちをうけた。原子力村と似ている構造がある。研究対象がある時期からアウトサイダー的分野になり、精鋭研究者が集まりにくくなった。権威とカネの出どころが限られてくるようになって、同じ意匠を身にまとわなければ村八分委状態になる、というおよそ自由闊達な議論ができる組織ではなくなり、上(カネと権威)ばかりを見る傾向の人が集まるようになった。ポストなども流れから外れると回ってこない。
そういう組織がパンデミックに全面登場し政策に影響力を持った不幸。福島原発事故は、究極的に福島と周辺の問題、全国は傍観者になることもできた。ましてや世界との直接関係はなし。コロナは様相が全く違うにもかかわらず、感染症村が出てきて、感染症対策の路線を決めてしまった。ここに日本と日本国民の不幸がある。もちろん政府は言わずもがな。
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「検査拡大に反対」する理由は、PCR検査の精度の問題偽陰性偽陽性)」「膨大な費用」「検査技師が大変」「検査体制に限界がある」など。

木村さんは、専門家や権威と言われる人物が、さまざまなメディアで「検査拡大に反対」の論を展開し、メディアがその後押しをしてきた姿を検証している。

俎上に上がるのは、メディアで見慣れた名前が少なくないので、なるほど、あの人はそういう立場と役割だったのか、と大いに参考になる。

 そういえば、その一人は最近も、感染者が急増しているというNHKニュースの中で専門家として登場し、「数字に一喜一憂すべきではない」という趣旨の発言をしていた。

 評者は「原子力村」と同じように、「感染症村」もありそうだな、と感じた。そして、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に乗り込み、船内での検疫のずさんさや監視・隔離体制の不備を発信して、国際的に注目された岩田健太郎神戸大学大学院医学研究科・微生物感染症学講座感染治療学分野教授が、4月に出版した『新型コロナウイルスの真実』 (ベスト新書)の記述を思い出した。岩田教授は動画公開後に「いろんなところから外されている」と書いていた。とある学会の感染対策のガイドラインでは、今までずっとメンバーに入っていたのが露骨に外されたというのだ。同書では「厚労省の後ろにいるお抱えの専門家」という表現もあったと記憶する。

    メディアも検証

省略。

 

 

2013年11月13日記事。宮台真司×小林武史における日本人と宗教論に、「今昔物語集」<讃岐の国源太夫、法を聞き、出家すること>全文引用して俗論を排す。

 wacwac。2020年、7月26日(日曜日)雨。この記事は反俗日記の過去記事カテゴリーを開いて楽しんできたときに偶々見つけたものだが、細部のディテールまではっきりと記憶しているほど、自分の心象風景にぴったりとくる。無駄な描写を一切省いた一種のハードボイルド調の文体は臨場感たっぷりで「芥川龍之介

「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評しているのは流石だなと感心する。

なお、この一編に平安末期に登場した地方武士の原型、生業がリアルに描かれている。

 本文引用

「非常に気性の荒い男で、殺傷を日常のこととしてい。日夜明けてもくれても山野に行ってしかや鳥を狩り、海や川に行って魚を捕る。
またヒトの首を切ったり、足や手の骨を折らぬ日は少ないという有様であった。」

讃岐国の多度郡(こおり)太夫には発心する理由があった。

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 2013年11月13日記事。宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな。  
 *経済への埋没――自明性へ「依存」しないための「別世界」の構築
宮台真司の次の言説に疑問を感じた。
ユダヤ教キリスト教イスラム教の共通性として
「神の意志」を裏切る生活をすれば「絶対の神」が我々を滅ぼすということです。
だから、たとえ主観的には幸せな生活でも、「神の意志」を裏切っていないかと自らを絶えず試練にかけるんです。
つまり、自分たちの生活形式に対して反省的だということです。

>でも「絶対の神」がいない僕らって、幸せになれば「幸せになった」で終わるんです。
 僕らのまわりに居るのは、「絶対の神」ではなく、よく言う「アニミズム的な存在」です。」

 日本歴史の事実をそういう一括りにそれば、自ずから以下の俗論にしか行きつかない。
>結局、我々には何か突きつけてくるという宗教的存在がないんですね。
つまり

>「自分たちはこの生活でいいのか」と突きつけてくる「疑いのエンジン」がないんです。宗教学では「超越の契機がない」と言う
だがしかし(W)、
>社会の中で酷薄な関係性を生きる登場人物たちは、
〈世界〉からの訪れに身をゆだねることで、辛うじて〈社会〉をやり過ごすわけです
酷薄な状況に置かれた人間たちの多くが経験していることでしょう。
>敗戦や震災ですべてチャラになる経験は、もちろん災難だけど、多くの人が解放の感覚を証言している事実があります。」
「いろんなことがあってもお天道様はちゃんと昇ってる」みたいな感覚です。
いじめられっ子の感じ方でもあります。
学校の中でひどい目にあってる場合、「自分の世界は学校の中だけしかない」と思ったら生きていけない。」
************************************** 
 
 以上のような論法に収まらない日本がある。しかもたくさん埋もれている。     今昔物語集 本朝仏法部、巻19の14。日本の古典を読む12(現代語訳)
  讃岐の国源太夫、法を聞き、出家すること。

「今は昔、讃岐国の多度郡(こおり)-香川県善通寺市の辺りーの某郷(さと)に、本名はわからないが、太夫と称せられるものがおった。
「非常に気性の荒い男で、殺傷を日常のこととしてい。日夜明けてもくれても山野に行ってしかや鳥を狩り、海や川に行って魚を捕る。
またヒトの首を切ったり、足や手の骨を折らぬ日は少ないという有様であった。
しかも道理の何たるカを知らず、三宝(仏教で学ぶべき仏、法、僧)を信じようとせず、まして、法師と名の付くものをとりわけ嫌って、そばにも近づかなかったこのような極悪非道の悪人であったから、その国の者たちはみなこの男をに恐れをなしていた。」

 ある日のこと、この男は家来者4,5人を連れ、しかなどを多く捕らせて山から帰ってくる途中、一つのお堂があっ て、大勢のヒトが集まっているのを見た。
「いったいここで何をしているのか」と家来に聞くと、「コレはお堂というもので、ここで、講を行っているようです。
講を行うというのは仏様やお経の供養をすることです。本当に尊いことです。」という。
太夫はそういうことをする者がいるとは、時たまボンヤリと聞いてはいるが、こうまじかに見たことはなかった。
坊主がどんなことをしゃべるか一つ聴いてやろう、ちょっと待っておれ」といって馬から下りた。

 そこで家来たちもみな降り、「主人はいったい何事をやらかすのだろう。講師の坊さんに痛い目を見せるのではないだろうか。気の毒なことだな」と想っているうちに、源太夫はずかずか堂に歩み寄り、中に入っていった。

 説法の場に集まっている聴衆は、このような悪人が行ってきたので、「どんなことをしでかすのだろうか」と思って恐れをなしてざわついた。中には怖がって出て行くものもある。
 源太夫が居並ぶ聴衆を押し分けてて入っていくと、風になびく差のように人垣がなびく。その中を押し分け口座にどっかと座り、講師をグットにらみつけ、
講師はいったい何をしゃべっていたのか。この俺の心にナルホドなと納得するほどのことを話して聞かせろ。できなかったら只で置かぬぞ」といって、腰に刺した刀をひねくり回していた。

 講師は、「コレはひどい災難にあったものだ」と怖気づき、自分が何を説法しているのかも覚えず、「この口座から引きずり落とされはしないか」と気が気でなかったが、元々知恵のあるそうであったから、心の中で、「仏様どうぞ助けてください」と祈念しながら、
「ここから西の方(かた)、多くの世界を過ぎていったところに一人の仏様がおられます。それを阿弥陀仏と申し上げます。
その仏様はお心が広く、長年罪を作り重ねたヒトであっても、後悔して、一度でも<阿弥陀仏>と唱えれば、仏様は必ずその人を楽しく素晴らしい国にお迎えくださいます。
そしてその人は願い事がことごとくかなう身に生まれ変わり、最後は仏様になるのです」という。

 太夫はコレを聞き、「その仏は人を哀れみなさるということなら、このおれをもお憎みならんであろうな」というと、講師は「そのとおりです」という

「ならば、おれがその仏の名をお呼びしたらお答えになろうか」。
「それも真心をこめてお呼びすれば、どうしてお答えにならぬことがありましょう」
「ではその仏はどういう人がお好きだとおっしゃるのか」
「人が他人より自分の子がかわいいと思うように、仏は元々誰もにくいとはお思いにはなりませんが、とりわけ弟子になったものを一段とかわいいとお思いになるのです」。

どのようなものを弟子というのか」
「今日この講師のように頭を剃った者はみな仏の弟子です。全て俗人の男も女もお弟子ではありますが、やはり頭を剃ればいっそうまさるのです」。
太夫はコレを聞き、「ならば、おれのこの頭を剃れ」という。
講師は、「それはなんとも尊いことではありますが、ただいまにわかにどうしてお頭を剃り得ましょうや。
あなた様は心からのご発心でございましょう。
家に帰って妻子や従者どもとご相談になり、万事処置なさってからお剃りになるがよろしいと存じます」といった。

とたん五位は(太夫太夫=五位の通称)、「貴様、自分を<仏のお弟子>だなどといいながら、<お弟子になった人を仏はかわいいとお思いになる>などといいながら、いったいなんでたちまち舌をひるがえして、<後で剃れ>などと抜かすのだ。マッタク出鱈目だ」と言うや、刀を抜いて自分の髻(もとどりー髪を集めて束ねたところ)を根元から切り落とした。

 このような本人がにわかに髻を切ったものだから、どうなることかと、講師も慌てて口が利けず、その場にいた聴衆たちもがやがや騒ぎ出した。

 家来たちはこの騒ぎを聞いて、「わが君には何ごとがおありなのか」と、太刀を抜き矢を番え駆け込んできた。
 主人の源太夫はコレを見て大声で家来たちを静め、
「お前たちはおれが良い身になろうとするのをナント考えて妨げようとするのか。おれは今朝まではお前たちがいる上に、さらにもっと家来が欲しいと思っていたが、これから先は直ちに各々の行きたいところに行き、使われたいと思う人に使われて、一人もおれについてきてはならぬ」という。
 
 家来たちは、「いったいどうしてだしぬけにこんあことをなされたのですか。とても正気の沙汰ではこんなことはささりますまい。何かに憑かれなされたに違いありません」といって、みな地に倒れ伏し身をもんでなき騒ぐ。
 主人はコレを制し、切った髻を仏に奉り、直ちに湯を沸かし着物の紐を解き、襟元をおしくつろげ、自分で頭を洗い、講師に向かって「さあ、剃れ。剃らぬと承知しないぞ」と言う。
 こういわれて、「本当にコレほどまでに決意したことを剃らねば良くあるまい。また出家するのを妨げたらかえって罪を犯すことになろう」とかたがた恐れて、講師は高座から降り、頭を剃り戒を授けた。
家来たちは涙を流し、この上なく悲しむのであった。

 その後、入道となった源太夫は着ていた水干の袴を布衣(ほい。麻布などで作った粗末な僧衣)・袈裟などに着替え、持っていた弓・やなぐい・などを金鼓(托鉢修行に用いる叩きがね)に替え、衣、袈裟をキチンと着、金鼓
を首にかけて、
「おれはここから西に向かい、金鼓をたたきながら阿弥陀仏を名をお呼びし、お答えの無い限り、野山であろうと河川であろうと決して引き返すまい。ただ向かったほうに進んでいくつもりだ」といい、声を張り上げて、
阿弥陀仏よ、おうい、おうい」と呼んで、金鼓をたたきながら歩き出した。
 家来たちが付いていこうとすると、「おい、お前たちはおれの行く道の邪魔をしようとするのだな」と言って打ちのめそうとするので、みなその場に留まった

 こうして西に向かい、金鼓をたたきながら阿弥陀仏の名をお呼びして歩いていったが、
本当に先に言ったように、深い川にぶつかっても、浅瀬を探して渡ろうとせず、高い峰があっても、回り道を見つけようとせず、倒れ転びして向かったほうにまっしぐらに進んでいく。

 やがて日が暮れ、一つの寺に行きついた
その寺の住職に向かい、
「おれは、かくかくの心を起して西に向かって歩いていくものじゃが、右も左もわき目も振らず、まして後ろを振り返るなどということはせず、ここから西にある高い峰を越していこうと思っておる。
これから<七日>たってわしのいるところを尋ねて必ず来てくれ。途中、草を結びつついくつもりゆえ、それを目印にきてくれ。何か食べるものはないか。ほんの少しでよい。分けて欲しい」というので干飯を取り出して与えると
「これは多過ぎるよ」といい、ごく少しを紙に包み腰に括りつけてその寺を出て行った。
 住職が、「もう夜になりました。今宵だけはここにお泊りなされ」と言って引き止めたが聞き入れずに出て行った。

 その後、住職は入道の言ったとおり<七日目>に、跡を尋ねながら行くと、本当に、道々草が結んである。
それを頼りに高い峰を超え、そこから見るとさらに険しい峰がある。
その峰を登ると、西の方に海が良く見える場所があった。そこに二股の木がある
その股のところに入道がまたがって金鼓を叩き、「阿弥陀仏よ、おうい、おうい」と大声で叫んでいたが、住職を見て喜び、「わしはここからさらに西に行き、海にも入って行こうと思ったが、ここで阿弥陀仏がお答えくだされゆえ、なおお呼びしておるのじゃ」という。
住職はコレを聞いて不審に思い「なんとお答えになりましたか」と尋ねると
「ではお呼びしてみよう。聞いておれよ」といって阿弥陀仏よ、おうい、おうい、いずこにおわしますか」と大声で呼ぶと、沖のほうからなんともいえない美しい声で、「ここにおるよ」とお答えがあった。
「どうだ、聞いたか」と入道が言ったが、住職は阿弥陀仏のお声を耳にしてありがたく尊く、地にひれ伏して声を限りになくのであった。
入道も涙を流し、「お前は帰るが良い。そしてもう<七日。W>してまた来て、おれの様子を見届けてくれ」といった。
住職は、「食べ物が欲しかろうと思い、干飯を持参しましたよ」というと、
「なにもほしくない。まだまえのが残っておる」という。
見ると本当に前のように腰に括りつけてあった。
こうして入道と後世のことを約束しておいて住職は帰って行った

それから<七日。W>後、そこに行ってみると、入道は前と同じように木の股にまたがったまま、西を向いていたが、今度は死んでいた。
見れば、口からえもいわれぬ色鮮やかな美しい蓮の花が一葉生えていた。住職はこれを見て涙を流して感激し尊び、口から生えていた蓮の花を折り取った。
「亡骸を埋葬しようか」と思ったが、このような尊い人はこのままにしておこう、「本人も遺体を鳥・獣に施してやろうと思っていたのかもしれない」と思い直し、そのままにして泣く泣く帰っていった。
その後どうなったかわからないが入道は必ず極楽に往生したと思われる。

 住職もまさしく阿弥陀仏の声をお聞きし、入道の口から生えた蓮の花をとったという事実があるからには、決して罪深い人ではあるまいと思われる。
その蓮の花はその後どうなったかそれは知らない。

 この出来事はひどく昔のことでhない。<空白部分>の頃のことであろう。
たとえ<末世>であろうとも、真実の道心を起したからこのように尊いこともあったのだ、とこう語り伝えているということだ。

<追記>
>結局、我々には何か突きつけてくるという宗教的存在がないんですね。
>つまり「自分たちはこの生活でいいのか」と突きつけてくる「疑いのエンジン」がないんです。宗教学では「超越の契機がない」と言う。
W。この手の歴史の抽象が多過ぎます。
あらゆる方面の立場に関係なく。
W。これは自分固有の歴史的総括であり、現在の思想的立ち位置の明確化の材料に過ぎません。
W。歴史の過程を抽象する観点に我々は絶対的に眉に唾をつけて接しなければならない。
またそんな疑惑を基本原則にして良い時代になりました。

ま、歴史を大きく抽象する方法論を選択すると言うのならば、
もっと大きな視野にたって、
中国、朝鮮半島、日本の歴史を総体と見て、ギリシア、ローマの継承者を自認するヨーロッパの歴史と比較してはどうだろうか。
宮台真司さんのような自己矮小化の日本史抽象論が出てくる背景は、
>日本史と直接、古代ギリシアに始まる西欧史を比較する誤りにあると考えます。
*ところが、日本史は東アジア史と不可分一体です。
司馬遼太郎のアジア史観も良い意味で取り入れるべきです。
@彼は敗戦しても西洋に動揺しなかった。
@アジアがあったからだ。

前回新型ウィルスの記事は認識不足があった。1、水際初動作戦の遅れ、不徹底、混乱。2、PCR検査の精度。3、初動期における少なすぎた検査数。4、現状の感染者数の実態。

1、2、3、4について。

 現状、各ポイント、「地区」の感染ルートをどの程度遡ることができるのか知りたい。

初動の水際作戦の遅れ、間違い、不徹底があり、その結果、市中に多数の未検査感染者が放置され、その方々を通じた感染→重症化死亡も多々あると現状を認識している。

 したがって、いまごろ、検査精度30%~70%で検査者の技術も問われるPCR検査の範囲を拡大しても、医療機関が大混乱に陥ってしまうのではないか、とは思うが、検査規模の拡大規模については今、判断材料をそろえていない。遅きに失したのじゃないかな?

 絶好のチャンスは、ダイヤモンドプリンセス騒動の時期だっただろう。ただあの時の船内感染対策のめちゃくちゃぶりからみても、初動の水際作戦を適正に遂行する体制が中央にはなかった。

 初動の水際作戦の遅れ、間違い、混乱、不徹底があった。

もっとも各国同じような状況は多かれ少なかれあったと思う。

>以上の理由により、日本における露見する感染者数の拡大基調は止まらないと予想する。

>ピークアウトの時期については、もっと資料を集めなければ予測できないが、発生元の中国(強権的隔離対策など実施)がピークアウトしているのは参考になる。気温と湿度が上昇する6月7月ごろが目安になる。ただし、都市部はエアコンだから、ウィルス菌の感染ルートはいきのびる。

>イタリア北部の異常な感染集中は密閉居住空間という環境も作用していると思う。

密閉居住空間最適のオイルヒータのデロンギ社(日本市場でも占有度高い)はイタリアの歴史あるメーカーである。

 

      >2020年東京五輪夏開催について、

 オリンピック開催を歓迎した人々は、何をもって歓迎したのかこの際、考えなおす機会があってもいいのではないか。それをやらずに、コロナ状況に即応して、中止やむ無しなどという自らの心性を省みてもいい。もっともそれができるぐらいなら、楽しみにしていたなどということはあり得ない。

     推進した人々については何も言うことはない。

日本の現実を直視した地道な投資先はいっぱいあったが、それができない人々がヒト、モノ、カネ絡みで構造的に日本列島にはびこっている。

もともと、こういった類の人々は、歴史上、連綿といた。

書かれた歴史は階級闘争の歴史である、とは<一面の真実>であるが、われわれはそれ以降の歴史的経験があるのだから、要は均衡を目指す戦い、言い換えると、いついかなる時でもリアル、粘り強い民主政の如何の問題に行き着く。

 そういった意味で前回の記事でホッブス、ロック、合衆国憲法修正条項を取り上げ、日本国憲法天皇制民主主義の欠陥を取り上げたのは、常日頃の持論をこの際、再確認したまでだ。

*********************************

 日本の経済成長期(1980年代中盤のプラザ合意まで)を経て形成されたの地域レベルの基礎組織(家族、家庭、関連団体)は長期デフレ下で自己防衛本能が閉鎖的方向に働き、人々の水平の繋がりは分断されている。

イメージ→大、中、小、極小、極々小、たこつぼ一杯。それらをつなげているのは、生身のヒトの繋がりではなくメディア媒体の個々を取り巻く仮想現実。

>日本の民主政は、庶民生活レベルの家族、家庭、団体の在り様において形骸化、硬直化して、それらの自己防衛本能が閉鎖的方向に固まり人々の水平の繋がりを分断する機能を帯びるようになっている。←W。なんだか小難しい表現。時間がないということもある。キーワード→民主政。<家族、家庭、団体>。水平の繋がり。

 しかしそれを生身で実行している本人たちは何ら疑問もなく当たり前のこととしている日本の中間組織は上からも下からも中間からも人々が生きにくい方向に変質している。

       先日もこんなことがあった。

見守りケアをしている近所の老女にはいっている訪問介護事業所の準責任者の女性が会談の最期に妙なことをいう。

「私たちの要望があります。ヘルパー中に入ってき邪魔をしないでほしい」

確かに過去に数度そういう事実は見方によれば、あったと認識しているが、自分の役割を限定しているので、ヘルパーにどうのこういわないように心がけてきた。そもそも、ヘルパーさんの仕事ぶり利用者に詳しく尋ねたことがなく放置せざる得ないという基本認識を持ってきた。

 むしろ、利用者本人が嫌がる当該ヘルパーに対して意図的によくやってくれていると良いほうばかりを強調しなじむようにしてきた。

そもそもこの利用者はヘルパーに対して気を使い歓待し、もともと掃除の手間がかからないほど部屋は清潔で整理整頓されているのでヘルパー自らが「ここの仕事は楽ですよ」とWに対して言うほどなのである。

>それにもかかわらず、週2回訪問家事援助(掃除だけ)の最中、めったに入っていかないWが邪魔をしているとはどういう意識なのか、と疑う。

 そもそもWはいろいろ介入できる権限もないと自覚しているので、ヘルパーさんにまかせっきりだ。

要は、楽な介護現場をもっと楽にしたいがために~超合理化である~(一方のヘルパーは介護時間の半分の時間で帰ってしまうことも常態化していたし、男のような人で怖いとの報告を受けたWはそれさえもよく仕事をやってくれているとかばったほど)、偶にわからないことを質問したり、介護の困難性を何かの拍子に打ち明けてしまうWへの対応が面倒なのである。~もっとも見方は立場によって異なると承知しているが口出しできるのは権限のある人間であると、この間、痛いほど知らされた。~

 以上は何を意味しているのか、といえば、介護の人手不足、他業種に比べての労働現場の特殊性などの要因をうけて訪問介護事業所がもともと介護保険制度出発時点で謳われていた利用者第一主義から事業所経営の都合、カネの論理、言い換えれば抱えるヘルパーの確保、優先に長い年月をかけて徐々にシフトしてきた(訪問介護労働力商品の現場剰余価値の搾取しかカネ儲けの源泉がない単純構造)、ということなのだ。

ヘルパーの労働条件の一定以上の確保(今や地域の最低賃金と生活扶助の1時間当たりの賃金の差異は200円ぐらい、訪問移動の手当てはない、だったら最低賃金と変わらない。そこで当該にどのような心理があたらくかおよそ見当はつく。)と利用者第一主義は相反関係になりがちだというのが介護業界の現実。

>それで地域の見守地ケアへの仕事以外の心配りという基本中の基本は具体的に言えば、それを担う個人への対応という手間が増えるので切り落としてきた。

しかし、独居高齢者にとって、見守りケアはあれば幸い、積極的な担い手は多いに利用すべき存在となる。1週間位2回ほど、掃除にきても利用者への影響力は大いに限界がある、という自覚が生れて当然なのだが事態は真逆なのだ!

>その挙句が「ヘルパー中は邪魔をしないでほしい」などとほんのわずかな事例を取りあげての要望になったのである。

>女ばかりの世界という訪問介護業界の特殊性もある。

>原理原則がどこかに行って、目先の些末な事態への対処、噂の類、憶測に拘泥する。

「あそこの仕事はもすごく楽だけど、近所のおじさんがうるさい」

うるさいおじさんをことさらクローズアップし楽ちん介護現場の現実は忘れる。

かましい感性である。地域見守りケアの大切さを否定している。

自分たちの欲望、都合が地域を分断し、自らと団体の硬直した論理をむき出しにしているのを自覚できる余地はない

>弱者を相手にする職業にありがちな一種の傲慢な感性をそにみる

>自分の狭い経験だけの判断で、原理原則や理念がないがしろにされた。

>おんなの家事労働や子育て、親介護の経験の延長でヘルパーをやっている人が多い。

*ところが、ヘルパーの支援介護を受ける利用者はみんな特殊状況を抱えている。

*だったら、それらを通底する普遍性を念頭に置かなければならない、経験だけでは必要十分ではない。

>W介護関連の記事はともすれば理念通りにいかないという事実の確認に終わることが多いが、

>そもそもが、理念過多気味(情は後から)でなければ介護はやらない。悩みもしない。

わかってもらうのは難しい。介護現場では介護保険制度成立以降の事態の中で悪貨が良貨を駆逐した。言い過ぎかもしれないが厚かましいものだけが残った。まともな人たちは現場から退場した。

こういう人等が集まるとつまらない人間関係も余計に複雑にするのか担当者が次々にいなくなる。

それで一番大切な地域の事務所に相談の機会は自ら閉ざし、わたしらはヘルパーを派遣しているだけ、諸事情はすべてケアマネさんへなどと公言している。

フットワークの重いバス移動のケアマネさんはあてにできなかったが、この人との信頼関係があったので、Wが一手に引き受けるしかないとやってきた。その長年のケアマネさんもつい先頃休職した、と用事で電話をかけてわかった。

>Wはこういった要望にびっくりし「そこまで言いうのならあんたたちで責任をもってやってもらおう」と言わざる得なかった。

 過去の経験ではこれと真逆の対応をしていた。

ヘルパーに入ってもケアできる範囲は高々知れているので、利用者第一(日常生活)の観点から、地域に見守りケアをしてくれる人がいれば、きちんと対応するようにと責任者から指示を受けていた。

これを言っても無反応だった。

ということはこんな視点は今はもうどこかに行った、ということ。

当然、話はかみ合わない。

この人たちはいったい何のために介護の仕事をしているのだろうか?という疑念が浮かんで当然だ!

 身体介護中ならいざ知らず独居の高齢者の家事介護(主として掃除)地域のキーパーソンを大切にする時間はある。適当に話すだけで、地域のことがわかる。ということは利用者の理解にもつながる。そしていざというときに力を借りられる。

ただしほんの少し手間がかかる。それを嫌がっている、というのがwの論理的結論。

こんな当たり前のことに自ら門戸を閉ざす訪問介護って何なのだ?

>しかしながらこういった、縦割り組織システムは役所の仕事合理化に顕著にみられる作法なのだ。それが準民間事業所の訪問介護の業界まで浸透したというべきだろう。

コレが日本の地域の団体にはびこっている一端なのだが、一事が万事と思ったほうがいい!

****************************

*ひるがえって、今回の新型コロナウィルスの感染防止対策にも、似たようなことがみられる。

*だったら、中国共産党の政治独裁体制のほうが、同じ縦割り組織作法で、上意下達の強権を発揮できるのだから、ある意味合理的である。

*組織の論理ってそんなものだ。対抗する力がないのだから。

*集団(主語!個人ではない!)は易きに流れる傾向がある。都合と利権を抱え込み腐っていく。

*Wは声を荒げたのは間違っているとは思わない。いうべきことは云う。

*さらに何とかしなくてはと。

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      >「急激な」経済状況の悪化

*ちらっとTVをみた京大の藤井教授の消費税、廃止議論

10%増税前の持論がここにきて完全的中ということで、勢いもあったが、事態は消費税0%で中層下層、最下層の消費欲が拡大するとは思えない

>2020東京五輪開催や、もっと考える人々は東日本大震災福島原発事故までさかのぼり、精神的負荷がかかるわけでそんな簡単に商品に手を出さないと思う。

そのそも、おおもとの中小零細経営が危なくなるので0%消費税増収部分の消費どころではない。そこまで庶民は単純ではなくなった。ここへの補填は膨大な財政支出が必要だ。

 麻生太郎氏のように減税しても庶民はカネを使わない、カネを持っているものが金を使わなければ、というざっくりした見方もある。ところがカネを弄っているものの資産価値が急落しているのだから八方塞がりだ。動かないか、損切だ。よって資金待機が続く。

 いずれにしても、コロナウィルスの感染状況を見ながらなのだが、感染が広まった最初の段階でバシッと集中的に検査を拡大し、感染状況を把握できていなかったのだから、いまさら、状況把握もキチンとできず、オリンピック中止延期の精神的ショックの緩和も横目で見ながらの余計な決断も必要なので、

プライマリーバランス抜きに財政出動(日本は金融緩和の手は尽きた)の対応は遅れ2020年東京五輪開催の暴挙とともに将来日本への明確な一里塚となるだろう。

 よくよく過去を振り返ると右翼思想の持ち主が政権を握ったとき、日本は大きな政策失敗を犯した。

戦時体制への道。岸信介は60年安保で退陣し救われた。ジャパンアズナンバーワンの時代の中曽根康弘は時代遅れの主婦優遇税制(シングル子育て実質増税)を選択し欧米の家族革命への道を閉ざし少子高齢化を決定づけた。

アベについては言わずもがなだ。

日本付加体列島原住民がそうした道を選んだと、云うこともできる。

 

 

認知症の介護者は中吊りになっているような感覚である。論文紹介。

                在宅の認知症患者を介護する家族の予期悲嘆 廣瀬 春次

 

本研究は,痴呆患者を在宅介護している家族の<非死喪失>W?,
<介護サポート>それに<予期悲嘆>W?の各尺度間の関係を検討した。
144人の痴呆の家族介護者に健康尺度を含む4種類の質問紙を配布した。
+++++++++++++++++
 
   用語の定義
1.非死喪失(non-death loss) W。キャラ喪失、日常生活悪化
身内が認知症になることに伴う,身内や介護者自身の大切な特性や状態のネガティブな変化を非死喪失と定義する。

 
2.予期悲嘆(anticipatory grief)W。過去現在将来の立脚点の喪失(時間喪失) 
家族は,死という最終的な喪失ばかりでなく,過去と現在の喪失や将来の夢・希望の喪失を体験している。
 
3.介護サポート(care support) W。プロ介護 
家族介護者に対する介護に関わるソーシャルサポートを介護サポートと呼ぶ。
本研究では,サポートの概念を拡張 し,ネガティブなサポートを含ませている。
+++++++++++++++++
~省略~W。分類的すぎる。
+++++++++++++++++
  現在の医 学技術の進歩は,診断されてから死に至るまでの期間を長く曖昧なものにしている。
この間,家族は,身内の症状の 小康と悪化に直面し,介護をめぐる患者や親族との葛藤に 苦しみ,自身の健康と自由を失うなど,様々な複合的喪失 および喪失に関わる葛藤を経験する。
認知症患者の家族介護者の予期悲嘆(W。過去現在将来の立脚点の喪失(時間喪失)~立つ瀬がない状態~中吊り状態)は,~その内容はあまり 明らかにされていない。
>負担と負担軽減に焦点を当てた研究に比べ
認知症患者の家族介護者の予期悲嘆は, 現在まで見過ごされてきた研究・実践領域である。

*実際 に,認知症が進むと患者はもはや家族の顔や名前もわから なくなり,次第に見知らぬ関係になっていき家族はも はや身内を死んでしまったように感じる。,←W。介護環境が整っていれば介護負担軽減という逆説もあり得る

認知症患者の 家族は,最終的な喪失である死が訪れる前から,既に様々 な喪失を体験してしまっている,又は体験しつつあると考 えられる。
家族介護者は介護の結果, 友人をはじめとする社会との接触が減る傾向にあるが,
>家 族介護者自身それに医療者や福祉従事者も孤立化を防ぐ支 援の必要性を十分に認識していないと述べている。

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YOU YUBE 「美しい国」が売られる~森・水・海・農・医療・・20190625

 【アベ政治のまやかし】「美しい国」が売られる~森・水・海・農・医療・・(金子+荻原)20190625
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荻原博子さんと金子勝さんは、安倍政権が日本を売りに出している、その全体像を見なくてはいけないと力説します。金子さん曰く、「美しい国」が売られるのではなく、「美国美国 - Wikipediaに売られる」だな・・
国内の林業を育成するのではなく、大規模皆伐を勧め、植林の義務付けを排し、治山治水の基本を打ち捨て、①国有林が売られる (国有林の管理法改定)世界では民営化から再公営化の流れのある水道事業を民間業者に運営させ、② 水が売られる   (水道の民営化)漁業も地域の漁業者の資源保護の方策を無にする方向に、③海が売られる   (漁業法改定)そして農業はもちろん売られ、④農業が売られる  (日米FTA私たち自身の命と健康にかかわる医療や保険も危なくなっていま。⑤健康が売られる  (健康保険と医薬品) ⑤
まとめてみると、確かにひどい政策がするすると決まり、進められるというのが「アベ政治」だったとよく見えていきます。

W。.21世紀は水と食料命と健康の時代。

① 国有林が売られる (国有林の管理法改定)
② 水が売られる   (水道の民営化)
③ 海が売られる   (漁業法改定)
④ 農業が売られる  (日米FTA
⑤ 健康が売られる  (健康保険と医薬品)

①  国有林が売られる (国有林の管理法改定)
日本国土の70%森林
森林の広い範囲を資本に売れるようになった。伐採した後は苗木を植えなくてよい。
林野庁~~砂利でも何でも売れるようにする。~
それでも戦闘機一機買うほどの値段。


② 水が売られる   (水道の民営化)
コンセッション方式公共施設の所有権を国や自治体が保有したまま、長期間の運営権を民間事業者に売却する民営化手法。「コンセッションとは英語で「譲与」「政府などから与えられる免許」などの意。←公的部門がかかわらないと地域独占になる。
パリ水道→再公営化 世界で235再公営化。
コストダウン、水質条件最悪が最高に利益率
     
       水道料金の地域格差
夕張        6800円
 以下北海道
兵庫県赤穂    853円
USAエンロン社倒産。エンロン事件 料金上がった。設備創始しないので老朽化していく。採算合わなければ撤退。
JR民営化、儲かっている会社。東海、東日本、西日本。→外資導入。JR北海道などは赤字路線国費投入。
水道民営化、大都市は無理。田舎の水道は儲からないので資本は手を出さない。
資本が狙うのは、中小都市→広島、長崎など。

オリンピック騒ぎを利用して、国会で決まり各地各分野で日本を売る政策が実行。参議院選挙の結果大事。
官邸主導←群がる者たち。国有財産売り払う際に様々な審議会などに当事者がかかわって、利益を当事者として得る。
W。明治維新後の廃藩置県のどさくさに紛れて藩の財産を私有財産にしたのが三菱などの財閥。アベ等の深層心理。グローバル資本制の政治上部構造の特殊性。

21世紀は水と食料の時代。押さえたものが戦略的優位に立つ。
ペットボトルの水 買える人買えない人。


  ③海が売られる 漁業法改定
漁獲量制限するような形をとりながら、届け出だけで済ますことができる。~現在のような漁業組合の現場での相互監視機能はなくなる~
株式会社にすれば資源保護よりも目先の利益優先 巨大な乱獲。資源枯渇すれば撤退。
一本釣り 高級食材と 株式会社による漁業に分化。
>人間が一番大事にしなければならないところが売られる。


 ④農業が売られる 日米FTA
今、牛ブタ肉大量に輸入しているところにさらに日米FTAで大量に輸入。
日本の畜産農家は頭数も減り、農家数も減っている。
先進農家は先につぶれるのではないか。むしろ三ちゃん農家は赤字覚悟、祖先の土地を守れで生き残る。
>欧米の農家保障は日本とはけた違い。
米国は農業を産業そのものを守るという位置づけで政策遂行。

 放牧地面積
米 200  ヘクタール
豪 3000 
食の安全 ドローンで種まき 遺伝子組み換え
小規模,コスト高 山間部の農地拡大統合できない。垂直構造の農業商品化で生き残る。
きれいな野菜はモンサントの種でしかできない。
海外農産物~~~~~~長い輸入ルート(安全基準から桁違いにずれている農薬必要~~日本

緩い米国の安全基準  死人が出てから裁判
日欧             予防が原則
日米FTAで米国安全基準日本適応。

>今、日本の調理された食品 4割捨てている。


  ⑤ 健康が売られる ~健康保険と医薬品~
>韓国も高いアメリカの薬を交わされるようになった。
武田 メガファーマ入り実現も…シャイアー買収後に待ち構える険しい道のり
引用
「結局のところ、買収の成否は収益を生む新薬を創出できるかにかかっています。規模の拡大を新薬開発に結び付けられるのか。統合後の成長戦略に注目が集まります。」
2014年10月6日には、医薬品2位のアステラス製薬が、首位の武田薬品工業時価総額で追い抜いた。
 合併後のM&A動向

2007年(平成19年)には抗体医薬の技術を持つアメリカのバイオベンチャー「アジェンシス(Agensys)社」を3億8700万ドルで買収した。

2009年(平成21年)1月には、同じくアメリカのバイオベンチャー「CVセラピューティクス(CV Therapeutics)社」に対して1株16ドル・総額約10億ドルの買収提案を行ったがCV社は拒否。アステラスは1株16ドルでTOBを強行し敵対的買収に乗り出す。しかし同年3月12日、アメリカの大手バイオ製薬企業であるギリアド・サイエンシズが、アステラスを上回る1株20ドル・総額約14億ドルを提示してCV社と友好的に合意(ホワイトナイト)。アステラスは3月16日付でTOBを中止、買収を断念した

2010年(平成22年)1月には、がん領域に強みを持つ同じくアメリカのバイオ製薬企業「OSIファーマシューティカルズ(OSI Pharmaceuticals)社」に対して1株52ドル・総額約35億ドルの買収提案を行った。当初OSI社は提案を拒否、アステラスは同年3月から1株52ドルでTOBを強行するなど、一時は敵対的買収の様相を見せていた。しかし同年5月17日にアステラス側がTOB価格を1株57.5ドル(総額40億ドル)に引き上げたことで、両社は友好的買収で合意

  日本の株価の基本動向 カラ売りが5割
株価低下→日銀の大量買い→株価上昇の分かり易い繰り返し。
W.東京オリンピック騒ぎの後~~。

不幸の一致。日本の知力は「平家物語」の時代より劣化しているのか?

諸君は、幸福の一致ばかり説くがしかし誰も、不幸を一致しようとは言わぬではないか」・・・「友」とは何か
ーそれは、不幸と死を、一致する相手のことである。 
(信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して

以下、引用
「さらにこの本の根幹である信長(革命家)と他の戦国大名
(例え優れていても単なる時代の追随者)との違いについて・・・

○信玄と信長とでは、戦争の方法が違う、あるいは、
戦争をする意味つまり原理が、違っているのだ・・・
信玄は、自分の家が大切な男だった。
・・・これに反して、信長は・・いわば
生まれ育った場処の否定
自分の家の否定、
ということになる。
・・
・天下、という観念、あるいは「天下布武」という思想は、
こういう自分の家否定、のところから出発する。
信玄にはこれが無かった。
 
○信玄や謙信の場合は、
結局のところ、自分がそこに起って生きているところの現在の、日常生活というものが基礎になっている
信長はそれとは反対のことをしている。
彼の土台は、戦争である。
戦争は、自分を主人公にして場面を変化させるものだ
あるいは現実を動かすそういう戦争の精神が基礎であって、
日常生活はそこから割り出される。だから日常生活も改変される
 
○彼等の誰一人として、「天下」などという観念を抱いてはいないのだ
仮りに天下といっても、それは漠然たるイメージであって、観念の明晰さを持っていない。
・・・彼等には、天下という理想が無かった。
仮りに彼等の一人に天下を与えてみよ。
何も為ることが思い浮かばず、ただ右往左往とうろうろするだけだろう。

天下の反信長勢を相手に、信長軍が、いわば孤軍奮闘することになる。
天下を(敵として)相対する信長軍は、何を以ってその重さを持ち堪えたのか
それはやはりー天下布武、という理想だと考えていい。
なぜ織田勢が長年敵勢に包囲されながら崩壊しなかったかについて)
・・・としているのは爽快感さえある。

☆「人間は弱いがゆえに、
目的に完全性を求め、
 
弱いがゆえに、
精神がうっ屈するがゆえに、
無限に願望をふくらませ、
 
自分の無力さをしっているがゆえに、
偉大な行動に参加を求めるのである
 
指導者は人間の
この曖昧模糊とした願いに堪えてやらねばならない。
 
この偉大さというダイナミズムを利用せずしては
なんぴとも人に自分の意志を強要することは不可能である。
比叡山焼き討ちや一向一揆との戦いになぜ信長の配下武将が
従ったかについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)
 ********************
>wacwac。人間が弱いのは群れられないからではなくて、群れるから弱いのだ
                                竹中労

第2回。戦闘的唯物論者の精神と実存主義。カミユ「シューシュポスの神話」。宇宙史的に展開する物質の最先端の意志。国定忠治→こちとら、伊達や酔狂で、博徒をやってんだよ!磔が怖くてよ、酒を何杯もかっくて酔っ - 反俗日記

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引用

「酔って死んじゃあ、男じゃねぇ!> 国定忠治 

~刑場に引き出される前の役人とのやり取り~

 「忠治よ!おまえも年貢の納め時だなぁ。手も足も利かなくんなっちまってざまぁねぇやあナ」

「うるせぇ、こちとら、伊達や酔狂で、博徒をやってんだよ小役人が偉そうな口を利くんじゃねぇやい」

 「ハハ、普通は伊達や酔狂ではやらねぇというんじゃねぇのか?全く学がない奴はやだねぇ」

だから、おめぇら、小役人は出世しねぇのよ。 まぁおいらの気持ちは大樹さま程じゃねぇとわかんねぇかもな

 「盗人猛々しいとはお前の事だ。よりによって公家様の名をかたるとはいい度胸だ。な~んて言っても、お前も今日限りだせいぜいほざくんだな。」

「けっ」

 「ほら最期の酒だ。もう一杯いくか。」

「じょうだんじゃねぇや。 こちとら男を看板にいきてきたんだ。 磔が怖くてよ、酒を何杯もかっくらって
酔っちまったらどうすんだい。酔って死んじゃ、男じゃねぇ!、てっよ」

 ********************
 
☆「暗澹たる、並々でなく責任の重い問題への只中にあって
みごとに快活さを保つといふことは、決して些細な芸当ではない
とはいへ、快活さ以上に必要なものがどこにあらう?
・・・力の過剰こそ初めて力の証拠である。
(信長の全行動についてニーチェの『偶像の薄明』を引用して)
・・・などの箇所が印象深い。

・・・戦は彼らにとつて一つの考察であり、平和は実習だつたのである。
(美濃攻略の過程をモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』から引用)

○もし、信長が、単なる大軍の軍司令官だとしたら、
かなり以前に石山本願寺という本拠を撃滅しただろう。
しかし、こんな「本拠」の撃滅は、相手が宗教戦争を仕掛けてくるのでは、たいして意味がない。
相手の「中枢」を撃たねばならぬ。
中枢とはこの場合、対信長戦争の無意味化であり、朝廷の斡旋による和睦の成立にあった
なぜあれほど激しく戦った本願寺を撃滅せずに和睦したかについて)

○二千の兵を、無意識に義元と妥協しているような人々から切り離して
何処へ往ってもいいような一個の流動体と化して行動させた
ーそこに合戦の鍵があった、と思う
桶狭間の戦いの革新性を述べて)

○「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がさうしている、
それが貴様の強みぢやないか」
ランボオの『地獄の季節』から引用して)

○自分の家を捨て、いわば城も捨て、ことによったら「死のふは一定」で、
自分さえ捨てることのできる信長が相手だと、勝ったところで・・・
戦争の採算が取れぬ・・・これは危険な男だ。
なぜ信玄が強大化する前に信長を討とうとしなかったかについて
 
                           2019/6/3 13:11 (JST)


引用
熊谷直実の苦悩
幸若舞の中の「敦盛」、これは平敦盛を討ち取った熊谷直実の話。
16歳という若い武者である平敦盛を討ち取ったことっで心を苦しめていた直実が、屋島の戦いの触れが出されたときに「またあの苦しみを味わうのか」と悩んで世の無常を感じ、世をはかなんで出家を考えるという話です。
敦盛の一節
出家したあとに直実が世を儚む一節にこの詞があります。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか