wacwac
@wacwac05690282
「amazon,ポイント残高。いざ使おうとしても今までの買い物の仕方、<今すぐ購入>クリックから操作できなかった。カスタマーセンターに問い合わせると、最初の画面、2択<カートに入れる>〇<今すぐ購入>×最初の2択の間違いはなんとなく最初から分かっていたのだけれどWEBでは最初からの説明は無し。
もっとも、解ったころには買いたいものがなくなった。
見守りケアの人はグループホームに旅立った。あの人がいれば、特製茶やのど飴など何かと買うものが次々と出てきた。
おすぎとピーコさんの双子。75歳76歳。認知症が急速に悪化し、ネット記事情報では法定後見人をつけなければならない状態とか。ネット記事の字面だけから判断すると、福岡に拠点を移したおすぎさんの方が先に悪化し、引き取ったピーコさんも急激悪化の珍しいケース。
今の研究によれば遺伝的な要素もあると判明している。1対1介護の相乗作用もあるだろう。見守りケアを続けていた自分も今でも「もっと大切にしてあげればよかったのに」という反省の念から抜け出せないでいる。
苦しかったことは忘れていい思い出ばかりしか浮かんでこなくて、自分の至らなさに嫌気がさす。 しかし、この間に体を痛めたのも事実。自分も記憶力が減退し物忘れの事実に愕然としてきたころ、見守り介護の人の状況が実感できて同じ立場で介護できそうになったのに、あの人の症状は困難域に進んでいた.
症状が悪化するにつれて見守り介護のルーティンをこなし、突発的なことに対処する時間から差し引いた残りの時間が少なくなっていき、貴重な時間を自分のために使おうと張りつめた毎日を送っていた。
見守り介護の人を取り巻く人々への気遣いも自分の柄に合わないことをしているので気苦労だったが、あの人たちがいてくるので助かっていると解っていた。今想うと自分の力ではできなかった。
肉親同士の認知症1対1同居介護はジンカン=人間と人間の距離感)が保てなくて、お互い遠慮というハードルが低いから危険水域に踏み込んでしまう。近親憎悪まで至ると後戻りは困難を伴う。同居は興奮したり傷ついた心を癒す場所、空間がなく、リセットが効きにくい。
見守り介護の人は立派だった。
あの人の方から、心の架け橋をかけてくれることが度々だった。絶対に自分から断って悲しませることはしないと決めていたのでそのたびに感謝した。自分の方からを敷居高く感じてもコレが<仕事>なんだと言い聞かせて訪ねて行って用事を熟した。
復旧する際の自分とあの人に違いは、仲違いの理由を説明するかしないかだけだった。自分は理由を手短に説明した。たまに理屈を長々と語りながらふと横顔を見ると見るからに分かっていない風だったので自分はフラストレーションを吐き出しているだけだと気付いてなんだか恥ずかしくなって話すのを止めた。
あの人は何も言わなかった。あえて話すまい、とぼけているときもあった。それでさらっと流れたという良い面もあったが、突っ込んだ話し合いをする機会のないまま、時が過ぎていった。今想えば出会ったときに話してくれたことが全てだったのかもしれない。あの頃、症状はすでにMCIではないと医者に告げられた。自分は思っているより症状は重かった。
出会った頃の約束。死に装束と遺影位牌は引き取った。
旅立って当たり前のことを実感した。
虚無感の果てに人生を全うするために転居し介護を目指した。
見守り介護は無くなり、自分は阿Qよりちょっとだけマシな人間に過ぎない、今頃気づいた。
そしてこれから、阿Qでもよかったと気付く機会が多くなる。
であれば、どうすればよいのか?
以前、グループホームに入ってしばらく経った利用者が寂しがっているので訪ねてやってくれ、と責任者にいわれていったことがあった。
車いすの人だったけれど、向こう気が強く、無茶苦茶をしていたのでみんな、手を焼いていたが、なぜか憎めない人なんだよな、といっていた。
この人に初めて会ったときに噂に違わぬ以上の人と感心した。
行き成り下着をとりえてくれと頼まれて取り換えているとき、その気配から、アッこの人は自分の介護技量を試しているのだなとピンとき、うまくマニュアルと通りに消化できないので恥ずかしいな、と思った。
初対面でこういうことをやる人はなかなかいない。しかも自分は車いすで世話になり続けなければならない身。意識的な人であった。
脳内出血で超有名病院に偶々運び込まれ一命をとりとめたが、視力が弱まりテレビ画面はほとんど見えない。たばこを灰皿に時々入れられないことがあるので机に焼け跡があった。(このことがきっかけで住民の要請でアパートとを追い出され、グループホームに入った。しかし行った先のグループホームは小規模で物心両面で云うことのない最高の環境に思えた。つくづく人生は不公平にできていると思った。)
手術の後遺症で頭痛がするからと、鎮痛剤を勝手に商店街の薬局で買ってきて、日本酒と重ねて飲むのでらりって世話を焼かせることが度々で、病院に入院して酒と薬が抜けて体力を回復し在宅に戻ってきていた。戻ってきてもあっけらかん、としていた。
その後、仕事現場のこととか話し込んでいるとさすがに人を使う人だけあるな、と。勘の良い人でじっと空を見つめて相手の心を読むような気配があったから手が抜けなかった。まるで座頭市みたいな人、との思いがした。
職種は違うが仕事の話ができる共通点があった。世間の常識とは違ったところも共通点があった。広島出身で地元の銘酒「心酔」の一升瓶を車いすの入る机の下においてデイサービスの終わった夕食、宅配弁当(以前は安くて豪華な宅配があった)を肴にマグカップになみなみ注いで晩酌をやる、たぶんあのときが最高の時だったのだろう。「一升瓶を片手で持ち上げられなくなったら終わりよ」などとうそぶいていた。
その彼がグループホームに入って寂しがっている、というので訪ねていって、様子をうかがうとどうやら、本心の周り10人未満の入居者は家族知人が訪ねてきたり、時折、自宅に帰ったりしているのに自分は<シャバ>との接点がぷっつりと切れているので寂しさを覚えているらしく、当方に会いたい、という気持ちはまずなかった、とわかった。
そばに寮母さんもいるので込み入った二人だけの話をして話題を広げていくわけにもいかず、元小料理屋をやっていたという中年過ぎの彼女ととってつけたようなぎこちない世間話に終始し、途中で面倒くさくなって帰るよ、といってやりたくなった、のを今でも覚えている。
しかし、そのグループホームの環境を観察すると素晴らしいの一言に尽きた。
大きな食卓の壁側には元小料理屋経営の寮母さんが食事を作る流し台。宅配弁当ではなかった。片方には夜の当番の若者が泊まるベッド、周囲の部屋数は10もなかった。しかも半分程度しか埋まっていなかった。自宅に帰っている人も結構いると聞いた。一つの部屋があけっぱなしになっているので覗くと、高価なデスクトップPCがあった。脳性まひの車いすの人の部屋といい本人は外出中で不在だった。
寮母さんはごく普通の人で、これも含めて環境に恵まれているなとおもった。
認知症の人用のグループホームではなかった、と思う。だったら特養なのか、何用ということになる。今ではあんなところは高い金を出さなければ入れないだろう。そもそも採算が取れない。自治体の援助でできたのだろうか、新築マンション(一部分譲、賃貸)の離れの一角にあった。
若手の職員が張り付かないと現場対応できない症状と雰囲気で見学者の自分は対応を要請されてもしり込みした。
この有料老人ホームで寝たきりで養分を胃に直結している人から認知症の人たちの部屋(ここも大きなテーブルを囲むところまで一緒だが、周囲はむき出しのベッドが取り囲んでいた。状態がすぐつかめて緊急対応できるようにするためだろう)、傍目には病気らしい病気はしていなそうな人までみせてもらった。
大きな大食堂に飯時になると三々五々入居者が集まって、ほとんどの人たちが少人数で話しながら飯をくっていた。何か老人ホームにもう一つの社会があると感じた。
下に降りると貧乏とは程遠い成り、と雰囲気の家族の駐車場に向かう後姿をみたことがいまでも印象に残っている。
>振り返ってみると自分のグループホーム体験は最高レベルのところばかりだった。
>それもあって見守り介護の人の行方を時空を超えて比較し後悔が先だってしまっている面がある。
@今はあんなところはだれでも入れない。この事実は重い。自分のやがて同じ道をたどる。
@いわゆる老健にに入っている人もいる。この場合は在宅に帰るという趣旨の施設なので在宅の籍は抜いていない。
>ただし、自分は施設に入っていた身寄りない人を保証人になって在宅介護していたボランティア団体で介護していたので事情は知っている。
@前者のケースであれば自分はあの人に差し入れを開始し続けていく意味が見いだせる。その施設の内容はさておき。
先日、一番入ってくれていたヘルパーさんに偶々であったときに聞くと「**さんは元気にしているよ。友達もできたらしい」と。
>あの人らしい、と思った。
>社交的な人、気のいいひと、争いごとの大っ嫌いな人、見栄えのする人だから~。
>でも一方で信じられない気持ちもある。あの人は施設をものすごく嫌っていた。
隣の施設に入ったご主人に奥さんは週に2回面会と差し入れをしていた。
コロナ規制が始まって差し入れだけになったが、自分の病院通い週2回とともに週に4回も外出しほんにんは介護認定支援2だった。
どうしている?と尋ねると「元気にしている。でもみんなぼっーとしているので話し相手にならず友達ができない」というので「施設に入った人がぼっーとしているのは当たり前だよ。友達なんか作る必要がないよ」と自分は返すと「あの人はえらそうにしているから傍から話しにくい」といっていた。
>それから何か月か経って突然、亡くなった。脳外科病院からやっと見つけた有料施設入居後7か月。死因は誤嚥性肺炎だった。
@あの人は自由人だったからなぁ~と慰めにならぬ慰めの言葉をかけた。
>施設に向かない人だった。在宅最後まで必死の様子で外出しバスに乗って買い物に行っていた。
プライドのすごく高い人でそれを認める人とは心が通じた。
「アイアム、イングリッシュティーチャー フォー ユー」とわたしにいった。会話はできないだろうというわけである。
世界を船員で旅をし、軍政下の沖縄でバスの運転手をしていた。酒を飲まないと決めたら一切飲まなかった。
私の見守り介護に面と向かって否定的な見解を言ったのは、この人ともうひとりは地方政治家だった。後者はその立場上わからないではないが、前者は今考えるはっきりとした自分の意見があった人と認める。経験から結論を導き出していたので説得力があった。わたしは「自分なりの考えがあってやっている」というしかなかった。奇妙で異常なことをやっているのは自覚していたのだから。
>差し入れを開始し続けることは異常であるのはわかっている。