1979年大統領暗殺以降のソウルの学生たちの状況判断と動き
「私は印税問題を解決しようとソウルの出かけた。
***は今やソウル大学の復学生代表になり
>下から押し上げてくる急進的な後輩たちを慰留しながら、民主化運動に取り組んでいた。
>私たちは新軍部と民主勢力が衝突する決戦の時が近づいたと肌で感じていた。
***は、独裁の味を知っている維新軍部が武力を手にしているから、おいそれと民間に政権を委譲することはないと強調した。
W。光州事態はソウルで10万人集会を予定していた学生たちが非常戒厳令下の弾圧を回避するため街頭デモを中止したことによって、予定通り大衆デモを決行した光州が孤立し、保安司令官全(のちにクーデター)の空挺部隊投入を招いたことに原因を求める見解が多い。
ファンソギョンがここで述べている内容は、10万人街頭集会デモ中止の状況判断を示している。
1980年5月16日
「私は光州の劇団専用劇場の工事資金集めに、5月16日午後に上京していた。
翌5月17日
新村駅近くの居酒屋にいると、知り合いの青年があわただしくやってきて、梨花女子大に集まった全国学生会の幹部が、戒厳令司令官(W。司令官は粛軍クーデターによって後に権力から排除)の要員に急襲された、と教えてくれた。同じ時間に**等先輩(学生会の)に連絡してみるとみな自宅から連行されたという。
光州の緑豆書店にも連絡すると**の妻が民主青年協議会の青年たちと在野の人々とは予備拘束されたと告げるのだった。
5月18日
デモの知らせと光州市がい延ばす共用ターミナルで死亡者が出たという知らせが飛び込んできた。
逮捕を逃れた在野の人々は身を隠したり上京する直電のことだった。
5月19日
状況は一層悪化したため私は周囲の青年たちと光州にもどるべきか、ソウルの残るべきかを話し合った。
**は過去にあった東学<農民革命>の例を引き合いに出して、コレは革命的状況だから戻るべきだと発言したが、**牧師らは今戻れば要注意人物として逮捕されるだろうからソウルに留まり人を集めて戦おうと主張した。
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「反乱は反日・反閔氏政権の様相を強め、全州府を占領した。閔氏政権は清に出兵を要求、清が出兵すると日本は天津条約に基づき出兵、朝鮮支配をめぐって両国は日清戦争となる。反乱軍は日本の出兵に反対して戦ったが、30~40万の犠牲を出して敗退し、鎮圧された。日本ではこの反乱を「東学の乱」ともいうが、単なる農民反乱の域を超え、農民が主体となって侵略軍である日本軍と戦ったものなので、現在では甲午農民戦争と言われるようになった。また、日本では「東学党の乱」と言われていたが、東学は党としての組織をもっていたわけではないので、現在では党を付けないのが一般的である。」
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5月18日
数回デモをやり私たちの仲間数名が捕まった。
~~その日のデモは***に集合してから合図とともに一斉に道路の真ん中に出て行進することになっていた。
だが約束の場所に行ってみると知った顔は数人だけで学生や若者の姿はほとんど見当たらない。私たちはただ漫然と歩き回るだけだった。
そうして1時間半ほど大通りを歩いていただろうか。のちにれんらくが入って聞いた話では、誰かが投身自殺したとの一報が入ったためにデモは中止になったのだ。
私たちは光州の惨状を知らせようとアンダーグランド、ペーパー班を組織することにした。⇒W一か所に留まってビラマキをしていると警察に包囲され逮捕されるので、予め逃走経路を確保しておいて複数人で配布する。文字通りのビラまき、手渡しで配布する余裕はない。戒厳令下の宣伝活動はそういうものだろう。
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**牧師と私はアメリカが光州鎮圧を黙認するだろうとの話に拍子抜けしてしまった。私は気を引き締めてできる限り大衆の感性を刺激する扇動的な文章を書こうと努めた。私が檄文や宣伝文を書くと**牧師はそれを校正しガリ版に鉄筆で刻んだ。夜を徹して檄文とビラを擦り終えると、夜が明け始めやっとソファに倒れ込み眠ることができた。
あちこちへ連絡すると学生や活動家5名が志願してやってきた。
二人でペアを組み一人は見張りをして逃げ道を確保したりタクシーを確保するという作戦を練り担当区域をわけた。
ある日、解雇された女性労働者の一人がソウル大学出身のある青年とペアになった。
青年は自分がやると言い出したので女性は後方から見守ることにした。
彼は会階段の中段くらいまで降りると、地下鉄を歩く人々に向かって持っていたビラを固まったままポンと放り投げた。彼は緊張しすぎていたのか、まともにビラがまけないまま、後ろも振り向かずに大通りに向かって駆け出した。女性労働者は大胆にも階段を駆け下りるとそのびらの束をつかみ四方に撒いてから地上に姿を現した。
彼女は急いでタクシーを捕まえると**方面に向かった。
>すると窓の外をパートナーの男性が髪を振り乱して走っている。
タクシーを止めて「先輩、こっち、こっち!」と声をかけたが気づかないのか走る続けている。
しばらくしてやっと彼女に気づいた彼は倒れ込むようにタクシーに転がり込んだ。すでに全身は汗でびしょぬれだった。
そのご、彼は約束の場所に現れなくなりペアの相手はこうした仕事に向いていないとパートナーの後退を申し出たという。
~
私は抗争が鎮圧されてからも光州に行くことができず、ソウルに留まり、光州からの連絡を受けて、逃れてくる若者たちを振り分け、彼らが逃亡し身を隠す後始末を受け持った。
こうした状況の中、妻と連絡することができた。
当時我が家には電話が設置されていなかった。光州民主化抗争の期間中、妻は市民決起大会へ行き、闘争への参加を訴え、同調を占拠した市民軍を助けて炊事をするなど、多くの仕事を自ら買って出た。受話器の向こうで妻は泣きながら「野火夜学」の**(最後までたたかいを主張したのは夜学系が中心。この人は記念館に刻まれている中心人物。)、**が亡くなったと告げるのだった。
そして17日の晩、合同捜査班が、私を逮捕しようと我が家にやってきて、母は靴を脱げと叫んだが、彼らは2回までくまなく探しつくしてから帰ったという。そして母は事態が安定するまで少なくとも2か月ほどは光州に戻らないようにというのだった。
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6月中旬になってやっと光州に戻ると知り合いがなくなっていたり、逃亡したり逮捕されていたりしていた。
まるで戦争が勃発して通り過ぎたみたいだった。
母はその年の冬、雪の降り積もった日に外出して転倒し寝たきりになり起き上がることが不可能になってしまった。
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ある日、高校卒業以来一度もあったことのない同級生の一人が、突然我が家を訪ねてきた。彼は軍の佐官級の法務官になり光州事件の調査にやってきたと告げた。
私に関する分厚い調書と情報報告書は、すべて自分がまとめたものと前置きし、それとなく恩着せがましく、しばらく光州を離れろと勧めるのだった。彼は私関係の事件をすべて終結させるまで、3か月ほどの日時が必要だとも語った。
最初彼は私に光州を離れよと即し、ソウル出身者が何のためにココに暮らしているのかと問い詰めてきた。
「家族全員が無理ならお前だけでもここを離れろ。
もうすぐ戒厳令が部分的に解除される。済州島は観光主体で戒厳令とは無関係だからそこにでもいったらどうか」と重ねて進めるのだった。
私は妻と相談し連載が中断している長編小説を執筆するためにも彼の忠告に従うことにした。
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1982年妻が連行された。
私は詳しい事情は尋ねなかったが光州民主化抗争最後の手配者だった**の亡命の実行に妻が関係していると推測していた。
私たちはいつごろか二人が関係する活動内容を詳しく話さないことがお互いの礼儀のようになっていた。
私はまんじりともせずに夜を明かし必つの秘策を思いついた。
光州のアメリカ文化院「に勤務する私の長い間の読者の支援を受け、アメリカ文化院長を訪ねて行った。
そのころおきた釜山アメリカ文化院、光州アメリカ文化院に対する放火事件は、光州での虐殺を黙認、または支援したアメリカの制作に対する抗議であることもアメリカ側は知っていた。
こうしたことを念頭に文化院長にあった。
その日の夕刻に院長は再び会おうと提案してきた。
再会の場には、こぎれいに正装したアメリカの男性二人も同席した。
彼らの名刺の所属欄には「アメリカ大使館政治部」とあり、私はこの間の事情を再び説明した。彼らは政治的に微妙な問題だというとお互い目くばせし、「うまく処置します」と述べて帰っていった。
その晩2時過ぎになって、私宛に光州治安本部の「安家」(安全家屋の略。特殊情報機関が秘密維持のため利用する一般家屋)
から妻を引き取るようにとの連絡が入った。
彼女は憔悴しきった姿で帰宅した。そしてソウルで連行されて取り調べを受けた人々からの全員釈放されたと電話が入った。
しかし最初に拘束され取り調べを受けていた全州、群山一帯の教師たちは左傾革命を準備する「5松会」を組織したなど全く無関係の嫌疑が後日新聞をに大きく報じられた。
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光州民主化抗争の記録の責任を負った数名のあってみたがみんな発表すれば逮捕されるのは明らかなので拒絶されたというのだ。
わたしは光州で亡くなった人々に負い目を感じていた。偶然にも抗争直前に上京し現場に一緒にいることができなかったからだ。だから光州の人々にはいつも申し訳ないという気持ちを抱いていた。私は遅ればせながら作家としてなし得る役割を与えられたことに感謝し、この仕事を引き受けた。
**は簡潔に言った「事のすべては黄先輩の責任になります。だから個々について知る必要はありません。私はその言葉の意味を理解した。つまりトカゲのしっぽ切のようなもので私が拘束されたとしてもほかのメンバーを知らないのでさらなる追求は未然に防ぐことができる。
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正装にネクタイ姿の中年紳士が二人、(W監獄の面会所に)やってきた。
私は面会に来た知人程度に自然に対しようと努めた。やがて彼らのうちの一人が口火を切った。
「今刑期半分ほど超えたようだが、文牧師よりさらに長く過ごすつもりかね。」
私はい落ち着いて答えた
「それなら少し楽にしてくれよ。作家が執筆できないのはとてもつらいんだからね」
待っていたとばかりもう一人の男が続けた。
「だから我々は君を助けるためにやってきたんだ」
彼らは本題に入った。
「ここへやってきたのはほかでもなく頼みたいことがあるからだ。
金大中という男が政界から引退するといっていたのに、またも政治活動を再開しようとしている。そんなことで国を発展させることができるのか。
社会統合のためにも、あの男が再び政治の世界に出てくるのを認めてはならない。
君は彼のことをよく知っているようだから、金大中に批判的な書物を書いてくれないか。そうすれば近いうちに赦免対象にしてあげよう。必要なら我々が所有している彼に関する多くの資料を提供し、ココよりももっと落ちつける環境で、心置きなく執筆できるようにしてやることもできる」
私は彼らの無邪気な提案に大声で笑った。
私が民主化のために運動し訪朝までしたのは、何か政治活動をしたかったからではない。
私は文学を人生の仕事に選択した人間だ。
私の創作以外の活動は知識人として社会に奉仕しようとするもので、それも私の文学の重要な一部を成している。
私は書こうとする作品以外の文章を、政治目的で書けと共用するのは北朝鮮と全く同じではないか。だから君らの考えるあらゆる政治社会的仕組みを変えようと戦っているのだ。
そういいたかったがごく簡単に答えた。
「なんな文章を書くことはできない」
二人は顔を見合わせるとそのうち一人が改まってぴっしゃりと告げた。
「それじゃ、7年まるまる残るんだな」
別の一人は付け加えた。
「ここの暮らし」が気に入ったということか。」
私はぐっとこみあげてくるものを抑えた。
「おい。誰がそう言わせたか知らないが
俺を甘く見るな!赦免の話をするならもっと早く持ってこい。ここでたっぷり暮らしたので今の懲役暮らしがすっかり身についてしまった。今頃やってきて様子を探るつもりなのか。」
彼らはもはや問答無用といわんばかりに、すっくと立ちあがり出て行った。
そばで記録していた李主任がいった。
「私の気持ちもすっきりしました。」
後日二人は繰り返しこの時のことを語り合った。
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ファンソギョンの服役期間5年はほぼ金泳三 - Wikipediaの大統領任期と一致する。
かれは金大中と「いしん」体制後継者大統領候補と争った選挙で共闘できず当選を許した。だれが金大中の批判を書いてくれと指示したのか、金泳三 - Wikipedia
の意をくむ策謀であると考える方が自然。そう考えると「赦免の話をするならもっと早く持ってこい。は誰がそう言わせたか知らないが、と合わせると強烈な皮肉、深い意味がある。
>そもそもファンソギョン1989年(ベルリン壁崩壊)の訪朝から帰国(1993年)までの4年間の欧米滞在時に盧泰愚 - Wikipedia
の後の大統領に金泳三 - Wikipediaなるとは予測できていたはずで帰国後の服役期間に大統領の赦免などの意向が働くことは承知していた。今か今かと待ち望んでいたところに金大中批判の本を書けとは心底、呆れたと思うし、議会圏の有力民主政治家に距離を置く大きな契機になったのではないだろうか。
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W参考資料①
「1987年6月10日から「民主化宣言(6・29宣言)」が発表されるまでの約20日間にわたって繰り広げられた。この民主抗争の結果、大統領直接選挙制改憲実現などの一連の民主化措置を約束する「6・29宣言」を全斗煥政権から引き出すことに成功した。
1988年2月25日 – 1993年2月24日 |