反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

買ってきて育てることにした鉢植えのブーゲンビリアの<花>の由来について調べてみると、1768年のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周探検航海に、男性と偽って乗船した世界一周航海をした最初のフランス女性に行きついた。

 通りすがりの町屋の玄関口の2Mぐらい低木の生繁た枝に赤紫の結構大きな花を爛漫に咲かせている風景にふと立ち止まり、しばらく眺めることが度々あった。何か惹かれるものがあった。

「きれいだなぁ~」なんという木なんだろう、

Wはサクラの花や桜の木は嫌いだ。へそ曲がり?ただそれだけのことだ。

ja.wikipedia.org

梶井基次郎 桜の樹の下には

  全文引用 青空文庫より

桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか―おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

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馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体屍体はみな腐爛ふらんしてうじが湧きたまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている桜の根貪婪どんらんたこのように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根をあつめて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんなしべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。

美しい透視術じゃないか

俺はいまようやくひとみを据えて桜の花が見られるようになったのだ昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。

二三日前、俺は、ここのたにへ下りて、石の上を伝い歩きしていた。

水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ

しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰でくわした。

それは溪の水が乾いたかわらへ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。

それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。

隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあったはねが、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ
 俺はそれを見たとき、胸がかれるような気がした。墓場をあばいて屍体をこのむ変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない

ぐいす四十雀しじゅうからも、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない

俺には惨劇が必要なんだ

その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る

俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心はなごんでくる。

 ――おまえはわきの下をいているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。
 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒がめそうな気がする。

                            引用終わり

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 反俗日記の過去記事より

 

     宮沢賢治の「眼にて言ふ」

  だめでせう

  とまりませんな

  がぶがぶ湧いているですからな

  ゆうべからぬむらず

  血も出つづけなもんですから

  そこらは青くしんしんとして

  どうにも間もなく死にさうです

  けれどもなんといい風でせう

  もう清明が近いので

  もみぢの若芽と毛のような花に

  秋草のやうな波を立て

  あんなに青空から

  もりあがった湧くやうに

  きれいな風がくるですな

  あなたは医学会のお帰りかなにかは解りませんが

  黒いフロックコートを召して

  こんなに本気にいろいろてあてをしていただけば

  これで死んでもまづは文句もありません

  血が出ているにもかかわらず

  こんなにのんきで苦しくないのは

  魂魄 (Wこんぱく注)、なかばからだをはなれたのですかな

  ただどうも血のために

  それが言へないのがひどいです

  あなたのほうからみたら

  ずいぶんさんたんたるけしきでせうが

  わたしから見えるのは

  やっぱりきれいな青空と

  すきっとおった風ばかりです

 

 坂口安吾堕落論」所収

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桜よりも爛漫に咲き誇った赤紫の花に魅かれる。断然。だから立ち止まったのだ。

枝一杯に咲いた花はサクラのようにあっという間に散らない。通りすがりにいつも咲いている。こんな花が日本にはあったのか。昔はなかったよな。

帰宅し調べてみるとブーゲンビリアだった。

ざっくりとした調べで今まで覚えていたのは花の形で咲いているのは<苞ほう>という花弁の受け皿のような部分ということ。道理で花の開花ではないのでなかなか赤紫の綺麗な花はなかなか散らない。年中咲いていることもある。春夏期の2か月間と秋の2か月は最低咲いている。花弁は赤紫(他の色は20色ぐらいある。赤が葉の緑とのコントラストができて、一番見栄えがする。店頭の鉢植えは葉っぱをほとんどきって花ばかり咲かせるようにしているので不自然感あり)の真ん中の小さな白い部分。よ~く見ると確かに花びらがある。極々小さな花はなかなか散らない。花の生理上。

ブーゲンビリア | 特徴と育て方 - ガーデニングの図鑑

しかも屋外放置で咲いているのだから、地球温暖化と多少の繋がりはある。

熱帯性植物だから屋外植栽の北限はどのあたりだろうか?東京での屋外植栽は無理ではないけど、大きくは育たないかもしれない。

www.nishinippon.co.jp

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以前ざっくり調べたとき、ブーゲンビリアニューギニアの東側に広がるソロモン群島のブーゲンビル島が発祥の地とばかり勘違いしていた。

軍事オタクだった少年時代、あの辺は日米両艦隊の太平洋戦争初期の「素朴な」海戦が繰り広げられたり、ガダルカナル島を巡る日米両軍の死闘があった地域で、ソロモン群島のラバウルには日本軍の大拠点(南方方面軍の兵站と出撃基地)があった。

 

山本五十六長官が戦死

ラバウル基地を飛び立った山本五十六連合艦隊司令長官は、ソロモン諸島ブーゲンビル島の上空で搭乗機を米軍戦闘機に撃墜され、戦死

P-38

時間不足につき現時点では資料だけ提示

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ブーゲンビリア - Wikipedia

ブーゲンビリアBougainvillea)は、オシロイバナ科ブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木である。和名イカダカズラ(筏葛)、ココノエカズラ(九重葛)である。

 

原産地は中央アメリカ及び南アメリカ熱帯雨林ブーゲンビリアという名前は1768年ブラジルで木を見つけたフランス人の探検家ブーガンヴィルに由来する。」

ブーガンヴィル

の項を調べていた時に世界一周船旅に同行した博物学者のフィリベール・コメルソン

の項を調べていると、助手兼女中、愛人(近世にはよくあるパターン)の

ジャンヌ・バレ - Wikipediaを知った。

途中で女性と解ってモーリシャス島(インド洋)で下船したが、遅れてフランスに帰国したので結果的に世界一周した女性ということになっている。フィリベール・コメルソン

の遺産の一部を受け取り、結婚をして鍛冶屋を営んだ。伝記本が出版されているようだ。

引用

ジャンヌ・バレ(Jeanne Baret、または Baré もしくは Barret、1740年7月27日 – 1807年8月5日)は、1768年のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル世界一周探検航海に、男性と偽って乗船したフランスの女性である。世界一周航海をした最初の女性とされる。

没後描かれた当時の水兵服を着たイメージ画。W.右手に持っているのはブーゲンビリアかな?植物として環境が良すぎると葉っぱの部分が生育し「花」があまり咲かない。花の部分を一杯咲かせるためには水をあまりやらない、肥料を控える、日光に当てる。ブーゲンビリアは手間がかからない。つる科なのでフェンス,塀などに這わせることができる。購入して単体で鑑賞すると花としてはどうもピンとこない、造花みたいで不自然感がある。ネットで¥5,000とかありえない。¥1,000以下だった。鉢植えよりも地植えの方がブーゲンビリアの良さが出る。花は日光の下で一番映える。野に咲いている花に魅かれるな。

ブルゴーニュ地域圏のLa Comelleで日雇い労働者の娘に生まれた。生涯についての記録は少なく、女性であったことが露見した後のブーガンヴィルへの証言では、孤児で、訴訟で財産を失ったとされるが、バレを乗船させることに協力したフィリベール・コメルソンをかばうための作り話であった可能性もある。文盲でなく、ある程度の教育を受けていたと考えられることから、伝記作家の一人、Glynis Ridleyは彼女の出自はより階級の高いユグノー教徒を母親に持つと推定している。

 

 コメルソンが結婚した1760年から1764年の間のいつかから、La Comelleに近いToulon-sur-Arrouxにあるコメルソンの家の女中に雇われた。

コメルソンの妻は1762年の出産で没した。コメルソンの妻の死の後、バレが家事を仕切ったと考えられる。1764年にバレは婚外子をもうけたが、父親がコメルソンであった可能性は極めて高いとされている。

 

 コメルソンがパリに移った時にバレも同行し、女中を続けた。1764年に生まれた子供は養母にあずけられたが1765年に死亡した。

>フランス科学アカデミーから、コメルソンがブーガンヴィルの世界一周探検航海の博物学者に任じられると健康に不安にあったコメルソンは、看護人および身の回りの面倒と、採集した資料の整理の行う人間が必要だった

官費で従者を雇うことはできたが、女性の乗船は許されていなかったので、バレは男装して、乗船することにして、知り合いであることを隠すため、出発の寸前に雇われることにした。

コメルソンはバレの乗船に加担することを隠す目的であったのか、バレにパリの住居の家具と一括払いの賃金を贈る公的な書類を残した。

 

 1766年12月末にコメルソンとバレの乗ったエトワール号は出航し、博物学者のコメルソンは多くの調査用の機材を積み込んだので、船長は広い船室をコメルソンとその助手のために与えており、船長用のトイレを使うことができたので、他の船員に疑われることはなかった。

>後にブーゲンビリア命名される植物の採集を行った

船は再びモンテビデオに戻り、マゼラン海峡を越えるための風待ちをする間にパタゴニアの植物採集を行い、バレは肉体労働だけでなく採集した植物の整理の仕事も行った。

 船は太平洋に入り、バレが女性であることが露見することになったが、そのいきさつも記録を残した人物によって様々であるが、

ブーガンヴィルの記録によれば、女性であるというは早い時期からあったが、タヒチに上陸した後、原住民に囲まれ、船に戻らなければならなくなった時にはっきりしたとされる。

 食料の不足のためオランダ領インドネシアで補給した後、モーリシャス(当時フランス領)で停泊した時、コメルソンの知り合いで植物学者のピエール・ポワブル(Pierre Poivre)が植民地の監督官をしており、コメルソンとバレはポワブルの客として残ることになった。

ブーガンヴィルも、女性を船に乗せている状態が解消されるのを歓迎した。

 モーリシャスでも、コメルソンの看護と世話を行い、マダガスカルブルボン島の採取旅行にも参加した。

コメルソンは1773年に病死した。

ポワブルはパリに帰っており、バレは居酒屋で働いて暮らしをたてた

>1774年5月17日に帰国途中のフランス陸軍下士官ジャン・ドゥベルナ(Jean Dubernat)と結婚し、1775年頃にフランスに戻った。

@これによりバレはブーガンヴィルの本隊から6年遅れて最初に世界一周をした女性となった。

>1776年4月にコメルソンの遺言の遺産を受け取り、その資金で夫の故郷で鍛冶屋を開き暮らした。」