反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

5月13日。小沢強制起訴議決をした当時の第五検察審査会の内部の様子を一メンバーから、取材した記事が載っている雑誌を発見!誌名は「g何とか?」と云う見た事も聞いた事もないマイナー誌。

 遂にと云おうか、今頃になって、小沢氏を強制起訴した東京第五検察審査会のメンバーが当時の内部の事情を語りだしている。
ズット前から、第五検審のメンバーはマスコミ各社によって、全員とはいえないが一部、特定され、記者は彼らから事情を取材している。(コレは当時のマスコミ記事を総合すれば明らか)
 
 審査会メンバーには罰則規定を伴った内部情報の守秘義務が課せられている。懲役5が月以下、または罰金50万以下。この程度の罰則でも一般市民にとって、職と人生をかけざるえない強烈な締め付けになることは間違いない。
 
 >ただ、モノは考えようである。
 
 固定概念に縛られていてばかりでは「自由と民主主義」の市民レベルでの定着発展、活用はなく、いつまでも予定調和と権力者の作った法律にがんじがらめになるばかりである。
<民衆の現場の戦いによって民主主義の発展が歴史的勝ちとられてきた中>で法治主義はフレキシブルに運用されてきた。権力者側から云えば、運用せざる得なかった。
 
 >例えば、最近の重大事案を挙げると、
 
 尖閣列島中国船船長、海上保安庁拿捕事件で、拿捕現場を撮影したフィルムを入手できる立場にあった神戸海上保安庁現場職員は個人的義憤に駆られて、それをネット公開し、捜査当局に拘束されたが、結局事案は有耶無耶になった。
 
 確かに、検察審査会審査員の内部情報公開と事案の在り方は違うが、本質的次元は同じところにある。
 
 検察審査会メンバーの中で強い意志と問題意識の持ち主が混ざって?いたら、内部情報を公開できない事はない。
 
 勿論、自分を犠牲にする覚悟がいるし、犠牲にならざる得ない。
 
 が、神戸海上保安庁現場職員がリアルタイムで情報公開できて、検察審査会の11人のメンバーのうちたった一人が、無罪判決、指定弁護士の検察起訴の今頃になって、皮相、瑣末な事を極小派ジャーナリズム相手にブツブツ言っている。
 
 その情けない内容については後述する。
今頃になっての検察審査会の在り方や検察への皮相、瑣末な不平不満の類だからその程度の扱いでよい。
 
>ただし、神戸海上保安庁現場職員にはマスコミ世論多数の味方があったが、情報公開する検察審査会メンバーにはマスコミ世論の味方はまず期待できず、少数派、法律違反者としてマスコミの袋叩きに会う可能性が想定される。
 
>しかし、それでにもかかわらず、敢えて権力に、立ち向かう処に、あらゆる意味でのエキスがある。
また、そういったモノを周囲が大切にする処に貴重な普遍的獲得物がある。
 
 民主主義は社会的空気や制度の問題だけではなく、それを支えて進展させる<個別の実体の存在>があって初めて、中身が伴う。
社会的空気や制度は客体だが、<実体とは主体そのもの>であり、生身の人間個々人やリアルな団体、組織の事だ。
 そうであるが故に、権力者は実体を特定し、個別に潰しにかかる。
云い変えると、権力との戦いでは、最終的、究極的に個人が屹立して全状況を引き受ける局面が必ず訪れる。
それを周囲が支える。
この点を曖昧せず、見据える必要がある。
 
 >神戸海上保安庁現場職員にフィルムのリアルタイムの暴露ができて、検察審査会審査員はリアルタイムで沈黙を守った処に、過去現状の日本の民主主義と国民の政治意識の限界を見る。
 
中身や経過は兎も角、11人の選ばれたモノが全会一致で起訴相当とすることは、民主主義を自前で獲得してきた国々ではあり得ないのではないか?
恥ずべきことであり、こんな実体、空気、制度の脆弱なことでは、政治的経済的危機の時代にはいくらも年月を経ず、災いは自分たちに国民に降りかかってくる。
  
 >もっと突っ込んで考えると、難しい話になる。
 
 何よりも職と生活を前提にした労働力商品としての現実を前に、大多数の住民、市民はグローバル資本制の下に経済的に隷属して一生を送る。
乱暴に云えば、現法律体系は資本層が「隷属する運命」の労働力商品を買って、より効率的に収奪の成果を挙げる事を最大の目的として運用されているモノに過ぎない。
 
 こういう本質的な資本と労働力商品の隷属関係が資本制勃興の時代から、リアル問題として現出してきたからこそ、労働力商品しか保有できない層の自分たちの生活と労働を守り、より良い条件を獲得する戦いが展開されてきた。
 その戦いは法律体系の枠内だけで展開されていた訳ではなく、血と汗を伴ったものであった。コレが世界史的な視野から見た現実である。
 
 現、日本国民の基本法となっている日本国憲法の原則である国民主権基本的人権の尊重は日本人の主体的条件を踏まえた戦いによって、獲得されたモノではないが、歴史的結果として世界戦争に大負けして、多大な犠牲を払ったが故に突然降ってわいたようにもたらされた。
 
 戦争は負けるべくして負けたと同じ意味で、国民主権基本的人権の尊重は獲得されるべくして獲得された。
 
世界戦争をやったのは日本国民の大方の自主的?政治意識からであるが、日本国憲法国民主権基本的人権の尊重は主体的戦いよって勝ち取られたモノでなく、世界戦争と敗戦の国民的犠牲を払ったが、国民政治意識と無関係なところで、米軍権力と当時の残存日本支配層の間のボス交渉によって、結果として獲得された。戦争敗北と云う強大な犠牲を伴う、う回路を通ってしか日本国憲法は獲得されなかった。
 
世界戦争は日本国民が直接やったが、日本国憲法国民主権基本的人権尊重は戦争敗北で茫然自失状態の日本国民に天から降り注いだような、いわば自然現象の如きものである。
 今もってその感覚は抜けきらないから、国民主権基本的人権の尊重を空気や制度の問題に限定し、それを支え運用する実体を蔑にするのである。明らかに政治弾圧されている人物、組織、政治家が目の前にいるにもかかわらず、大方の国民の習性は黙って傍観している。
さらにたちの悪いモノは権力によって政治だ威圧されているのモノの弱みにつけ込んで、嵩にかかって追い込んでいこうとする。まさに中世や封建時代の感性である。
 
>>小沢氏強制起訴相当の全員一致の議決をした審査員の市民目線は民主主義を社会的空気(マスコミ発信源の風潮)と制度としてしか、実感できていない。
彼らのそれまでの人生に置いて、そういう体験しかできなかった。
 
検察審査会で厳しく問われたのは小沢さんだけではない。
彼ら自身のそれまでの問題意識の在りようだった。
また大きく云えば、日本政治と社会の在り方そのものが問われた。
 
>>マスコミ各社の彼らへの基本的な取材姿勢は彼らに立ち入った内部情報を語らせることはできない。
コレは、彼らに情報の守秘義務が課せられているから、取材は公表できないというだけではない。
 
 この間の一連の関連裁判を経た小沢本人裁判に置いて、検察の不起訴は2度に渡って決定されている事から、小沢氏に対する終始一貫した政治的毀損を画策してきたマスコミにとって、強制起訴に持ち込む、最後の切り札である東京第5検察審査会の在り方は不備や疑惑だらけなのに、疑問を差し挟む余地は全くできなかった。
 
 検察審査会市民や検察審査会の決定こそがマスコミにとって、小沢追い落としの最後の砦だったのである。 
だから、マスコミや政治家は小沢無罪判決後も、その強制起訴の決定を国民常識の如く押し出す事によって、指定弁護士の控訴へと結びつけた。
 
>>雑誌記載の検察審査会1メンバーによる、取材記事の内容。
 
>>一番注目したのは、このヒトが他のメンバーが初めてそろった時、ザット見渡したところ平均年齢は30代と発言していることろだ。
 
 我々の予てからの、そもそもの大疑問点は11人の平均年齢の30才台の異常な若さでり、その後、事務局が平均年齢を計算間違いと称して変更した経過の数学上、あり得ない現実である。
 
>この点に関してはネット上の記事に次の様に出ている。
「現在の日本の有権者の平均年齢は53歳。35歳以下の有権者は10%とちょい。コレが日本のリアルな現実なのだ。」
>にもかかわらず、初めて集まったとき、検察審査会に揃ったモノをザット見渡して、年齢層を30才台と実感できる。
事務局の最初の年齢発表は確か35歳以下で異常に若過ぎて、その異常性を指摘されて、計算間違いとして2度の修正で数学上あり得ない一致をみて、37歳付近に落ち着いた。
それでも、有権者平均年齢よりも15歳も若い。
 
>この情報提供者によれば、審査会で目立った発言をしているのは30台のモノばかりであり、高齢者の発言内容は一切、語られていない。
>唯一、比較的年齢が高そうなヒトの存在を伺わせるのは事務局が全員の審議に諮らず、行き成り、会議の議長を指名しているところ。
 
>処が、情報提供者?には我々の肝心な疑問点は今もって、伝わっていない様で、サラリと実感を述べているだけである。(こういう当たり前のことを当たりに疑問視できない神経とはいかに?そういうのを洗脳状態と云う)
が、そうであるが故に、有権者平均年齢57才が検察審査会11人37才になる不思議を際立たせ、我々の主張である<くじ引きソフト>使用によるメンバーの作為的抽出に信憑性を持たせる。くじ引きソフトの基本は無作為抽選ではなく、作為抽選機能主体の作業ソフトだ。興味ある方はネット上でこのっソフトを体験できる。
JRA中央競馬会は枠順確定に際して煩雑に使用している。
 
>このヒトがそういう面に今もって無頓着なのは、マスコミ報道にどっぷりと漬かってきたからであり、今頃になって、検察審査会の在り方は閉鎖的で、検察や事務局の意向が色濃く反映されざる得ないなどと発言し出しているのも、小沢無罪を受けたマスコミの一部にその種の報道がなされおり、それの乗っかった域を全く出ていない。
 しかしながら、敢えて発言しているこのヒトなどは余りに遅きに失したとはいえ、検察審査会の在り方を対象化できる様になっており、多分、今なら別な姿勢で審査会に臨めただろうと想わせるが、その他の連中は概ねそれ以下ではないか。
 
 審査会の目立った発言内容にしても、余りに皮相、瑣末で、マスコミ報道に常日頃、ボッーと接している余裕しかない人間丸出しで、取り立てて、ここで取り上げるほどの事でもない。
尤も、そうであるが故に日本の現状の30才台の政治傾向をある意味忠実に反映している。
その様なモノたちを検察審査会当局、検察が狭い部屋に閉じ込めて意のままの情報を与え、目的に沿って操作するのは、まず赤子の手をひねるが如しである。
まえもって、そういう事態を想定して<くじ引き機ソフト>の作業での作為抽出を選択したのだ。
権力はその程度の事は朝飯前だ。
 
しかし、今の検察審査会制度では、審査員も含めて、そういう連中に一国の政治状況を大きく左右する決定権がゆだねられている事に変わりはない。
 
強制起訴による裁判無罪になっても、検察役の弁護士は控訴できる。
検察は不起訴案件を検察審査会を利用して、小沢さんの様に控訴によって、事実上、政治的自由を限定できる。
 
検察は自分たちの握った検察審査会と云うリアルな権力は決して自らの手で手放さず、重大事にはまた使用する。
それが権力の本質である。
 
マスコミは小沢氏追い落としの政治方向から、今回の事案で欠陥が露呈しているにもかかわらず、検察審査会の在り方を真正面から問う事は出来ない。
 
日本は戦前と同じく、天に唾するに留まらず、汚物を投げ上げる国民によって、自らを狭い処に追い込んでいる。
近代史に置いて、清貧を標榜する政治が国の行く末を誤らせた例があまりにも多過ぎる。
危機の時代にそう云う次元に終始し、惑わされ政治の本願である政治路線、政策に冷静な判断力を失った国民にも責任があった。