反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

<山本太郎>、佐賀検察審査会、原発再稼働、抗議で不起訴相当。福岡の男が不起訴を不服申し立て。小沢氏強制起訴の様な検察の捜査報告書偽造などの介入工作あれば、検審は起訴相当議決の可能性も。検審改革必要。

 3月16日付で佐賀検察審査会は佐賀原発再稼働抗議行動のため、県庁舎のバリケードを越えて、庁舎内に入った、として山本太郎さんに対して、<福岡県在住の男>からの建造物侵入、威力業務妨害などの疑いでの告発を受理し、審議した結果、不起訴相当の議決をした。
 
 そもそも、この案件は、昨年、佐賀地方検察への<京都在住の行政書士>の告発を受けた地検側が不起訴としたモノを、今度は<福岡在住の男>が執拗に佐賀検察審査会に告発し、受理され、審議、議決されたモノである。
 
 私は、当初の告発自体が、福島原発事故を受けた、全国的抗議行動の高まりと、その象徴としての、山本太郎さんへの政治的圧迫と卑劣な嫌がらせと、見ていた。
 
 今日の先進的民主主義国?では一般的に大衆行動への規制は幅を持って柔軟な対応が取られている。
例えば、日本ではいつの間にやら普通のデモ行進に置いも、厳しい隊列規制が行われるようになっているが、あんなことは先進国ではあり得ない。(尤も昔の機動隊と街頭で衝突していた時代は別だが)
 
 それらの国では歴史的に見て、議会、憲法選挙制度などの民主主義制度は独立戦争、国民的武装闘争を頂点とする戦闘的大衆行動による市民革命によって、獲得されてきたのであり、その精神は今でも制度政策統治に受け継がれている。
 
 処が半封建的軍事的帝国主義戦前日本では、こうしたモノは帝国主義戦争敗北と共にアメリカ占領軍の日本統治に都合の良い様な形に歪められて、国民の物的精神的実情と関係なく、占領軍当局GHQと戦前の継続支配を画策する日本支配層の妥協により、当時の日米統治機構によって、上からもたらされた。
 
 従って、日本はその後、高度成長経済から、世界的経済大国?の今日に至っても、民主主義諸制度は本当に日々生活に結びついた、不可欠なものと云う意識、感覚、決意が市民国民レベルに置いて定着しているとは言い難い。
 
 解り易く云えば、日本の民主主義程度は欧米と中国北朝鮮の中間である。
 
マスコミ、レベルで言論的に毎日大騒ぎしている大半は、寡占状態にあるマスコミ情報市場における、余計な部分の多いザワメキに過ぎない。
何も語らないために多言を要している様なものだ。
 
 さらに、こうした日本の民主主義の現段階でさえも、危うい状態にある。
経済の長期停滞、世界市場における後発国の追い上げ、産業空洞化、新興国台頭、財政累積赤字などによって、日本資本主義は危機的事態にあり、市場原理主義政策による格差の拡大も相まって、全社会的な閉塞感が強まっている。
 そしてここに、東日本大震災福島原発事故が追い打ちをかけたのである。
 
 かくして、世界資本主義の中でも戦略性に尤も乏しい日本資本主義とそれを主導する日本支配層は本質的な体制的危機を抱えており、それを国民多数の犠牲により、乗り切るしかないのである。
 
 >支配層は度を失い、余裕を失って、それまで民主主義を装ってきた国民統治方法を改変して、日本国民を市場原理主義の檻に繋ぎとめようとしている。
 
 >>その先兵が議会圏では大阪、橋下徹一派である。
 
>さらに、最末端の手先が巷で蠢く、民間ファシストども、カルト的政治投機分子ども、であり、その物的基礎は朝鮮、韓国やアメリカを股にかけた金融マフィアである。
 
山本太郎さんを執拗に裁判にかけようとしているのは、前記の薄汚い輩どもである。
 
>>確かに佐賀検察審査会は3月16日に不起訴相当を議決した。
 
 しかし、よくよく考えてみると、告発状を受理し、内部審議にかけたのである。
あの程度の原発事故による大衆行動は民主主義を実体として支えるためには不可欠のモノとの、認識があれば、告発状なるモノは審議の対象には、元々なりえないと、考えてもよいのである。
 
 民主主義一般における大衆行動の基礎的役割はすでに述べたとおりであるが、実際にそれが行われる条件を保証するためには、こうした些細な告発状を一々審議しているようでは、行動への圧迫と云う逆の効果しか働かない。
 
 事実それを狙って、検察、検察審査会への執拗な工作活動は展開されたのである。
 
>>今回は不起訴相当を議決した。
 
>が、理屈の上で考えると、佐賀検察審査会は<山本太郎>建造物侵入、威力業務妨害で起訴相当と議決する可能性もあり得た。
 審議したのだから、<審査員の構成上、起訴相当にした可能性>ないとはいえない。
 
>>さらには、<佐賀地検サイドの検察審査会への捜査報告書等々の働きかけ次第>では、審査員が起訴相当とした可能性も出てくる。
 
>>両方の事態が合致したのが、小沢強制起訴裁判でないのか!
 
 まず、東京第5検察審会の異常な低平均年齢を指摘されての、2回に渡る年齢修正における、数学上あり得ない数字。
>コレに関して、私は以前の記事で、くじ引きソフトは事実上、PC上で修正作業のできる、作業ソフトである、と暴露した。
中央競馬会の枠順決定に日頃、バカバカしいインチキだと想っていたので、作業ソフトの実態をつかむのは、早かった。検索すれば実物ソフトを試してみることもできる。
 
要するに、検察審査会当局は地元から上がってきた名簿以外の処から、作為的に人選し、それをくじ引きできる。
 
 だから、こういう経過で集められた構成員が偏った議決をする可能性が強まる。
若い世俗経験の浅いモノを選抜すれば、特捜検察の捜査報告書を疑うモノは少なくなるだろうし、一般的なマスコミ垂れ流しの「小沢、政治とカネ」の洪水報道に疑いを差し挟むモノも少なくなる。
政治には実際にカネがかかることも、実体験していないだろう。
 
 かくしての満場一致。起訴相当。
それは強制起訴裁判の裁判長に検察二度不起訴を超えて、無言の圧力となるだろう。
 
>>次に、特捜検察の検察審査会向けの捜査報告書が小沢さんの場合のように起訴相当議決に持っていくために捏造されたら、どうなるか?
佐賀検察審査会は抗える保証はあるのか?
 
 小沢さん自身、自分の最終意見陳述でこう語っている。
 
「形式的には証拠裁判主義にのっとって、私を2度不起訴にしておきながら、その実不当違法な捜査で得た供述証書と<小沢有罪ありき>の捜査報告書を提出することで、議決を<起訴議決に強力に誘導しました」
 
 >さらにはナント、検察の協力誘導効果を称して、こうまで言う。
「仮にそれら捜査報告書と供述調書が、他の政治家のモノであり、私がそれを審査する検察審査会の一員としたら、私も起訴議決と誤った判断をしただろう、と想われる程、強烈で執拗な工作であります」
(以上、<反戦な家ずくり>さん3月20日付小沢最終意見陳述、記事より抜粋)
 
>>私は、今回の記事を作成するにあたって、新潟、責任者保護死体遺棄事件裁判員裁判、無罪判決に対する検察審査会の逆転起訴相当ー検察再捜査ー検察起訴のネットニュースを参考にした。
 
あくまでも記事の字面から受ける印象だが、この被告への無罪判決は妥当なモノと考える。
暴行現場にいたモノにそこまで致死の認識を問う事は出来ない、と感じるからだ。
 
 しかし、裁判員裁判になって、民間人が判決の加わっている処に、判決の正当性が揺らいでいる様に、想われる。
 それを踏まえて、それに加えての、検察審査会の起訴議決だと想う。
 
 そして、結局、検察は起訴した。
結果、無罪を主張するこの被告にはこれから、多分、上告も含めた長い裁判の道のり、費用が加重する。
 
>>こんなことをやっていてはいけないと想う。
日本の民主主義の成熟度合いに則って、システムのどこかを正さなければならない。
 
>>検察審査会はなくすか、検察審査会を審査し、監視、透明化するシステムを作り上げないか限り、検察審査会は支配層の国民抑圧の暴力装置の先兵になる。
 
 国民同士が互いに傷つけあい、監視し合うシステムは国民の自覚でナントカ振りはらわねばならぬ。
 
 
 
   <追記>
俳優、タレントとしての山本太郎への高い評価は原発事故、以前からでした。
複数の出演作品を見ての評価です。今にしては、想わぬ声の出演も素晴らしかった。才能に対する評価が低すぎる俳優タレントの一人が山本太郎さんだった、と今にして想えます。
原発活動、故に彼の魅力を多くのヒトの前から隠すようでは、日本文化の大衆的底辺が死ぬ。
これ機会に映像マスコミ文化に良い意味での新しい自由の風を吹かせて欲しい。
それが大震災原発事故に真に答えるマスコミ資本一般の社会的役割だと考える。
政治の生の現実を超えて、表現者が変わらなければならない。
 
急がば回れ!先を急いで、日本は結果的にいいことはなかった!