反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

チョムスキー言語論による文法の謎を追い求め、その理論に素朴な疑問を抱く。漢字検定能力試験は英語のスペリングテスト。

          < 脳は文法を知っている>  
 迷宮旅行社 http://www.mayq.net/mokuji.html 東京永久観光 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/を引用する。
●あれこれ私的に思案する
*しかし、今はこう考え直しつつある――。どうやら人間だけが規則に従った言語を使える。
*人間だけが新しい初めての文をいくらでも生みだせる。人間の言語のエッセンスはこの点にあると言わざるをえない。
*言語か言語でないかの分水嶺をここにみることにも合理性がある。
>結局、人間の言語は他の動物の認知とは別格、人間の認知のなかでも別格とみるべきだろう。
繰り返すが、チョムスキーは語ではなく文に注目した。意味ではなく文法に注目した。それが慧眼だったと評される
単語を扱えることと文を扱えることの差がこれほど決定的であるとは、私はあまり実感していなかった。


W。日本漢字能力検定試験H25年度の試験問題2級(高校卒業・大学・一般程度)
    <試験問題の概略>
1、ー線の漢字の読みをひらがなで記せ
2、次の漢字の部首を示せ
3、二文字漢字熟語の構成を問う~説明しづらいが、要は一字の漢字の意味が解っていれば解ける問題
4、四文字熟語の二字を当てはめる問題と意味を問う問題
W。この試験問題は、小林昭美さんが云うように、英語のスペリングテストの域を出ず、「文を扱えること」に踏み込んでいるものとは思えない。
 思考能力、応用力の如何を問うていない。義務境域の暗記、常識問題の出し方である。
高校は義務教育ではない。中学校時代に結構勉強のできたヒトが、高校時代になると、勉強で伸び悩むのは、このような漢字能力検定試験の次元の学習能力では秀でていても、思考能力と応用力が乏しかった、からだ。
 


しかし、単語やシンボルの形成や操作だけでは、人間の言語の特異性や汎用性は説明できないようだ
~言語という造形を自動的に形成してしまうほどの骨組みが、いわば砂粒の精緻なつながりとして最初から脳にある、ということになるだろう。
人間と動物を、あるいは人間のうちでも言語と他の認知を、地続きで捉えているかぎり、脳が言語をどう作り上げるかなんて漠然としていても気にならなかった。
しかし、人間の言語だけが特異であり、その特異さとはすなわち規則に従って文を作ることであると、そこまで前提がはっきりしてくると、見きわめるべき言語の輪郭も明快になってくる。

そうなると、鮮やかに輪郭づけられた人間の言語が、では脳にどのような設計図を持つのか、その探求はかなり具体性を帯びてくる。
****
しかしそうなると、言語という謎は文法という謎としていっそう先鋭化してくるようでもある。
人間は言語を必ず文法という制約のなかで使う。
たとえば我々がある情景を見たとき、
「主語と動詞」つまり「これこれの主体があって、これこれの動き(や性質)をしている」と分析する形でしか言語を運用できないということだ。
 すると根本的に問いたくなるのは、それは我々の思考自体がそもそも「主体と動き」という形をとっているからなのか。
それとも、思考はもっと自由だが言語がその形だから結局その形でしか結
実しないのか。どっちなのだろう。
思考が言語に制限されると考えるのはやっぱり誤りなのだろうか。
~それどころか、もしやこの宇宙は結局「主語+動詞」という言語に馴じむように最初から出来ていたのではないか……さすがにそうは思えない? 
そうするとさっきのところに戻って、「主体と動き」という分析の形式は、人間の言語だけにあるのか人間の思考全般にあるのか、あるいは人間だけでないならどの程度の動物にまであるのか、といった線引きが必要になってくる。
 


    <上記の根本的疑問点に関するメモ風まとめ>  
日本語の謎・言語の謎 町田健名古屋大学文学研究科)を引用。
 1.言語が表すもの
言語は「意味」を表す。
意味=事態(事柄)
事態の構造  事態基[主体、対象、受容者、場所…]<時区間、全体性、可能性>
         
 2.事態を構成する要素(1)
・事態基(事柄の枠組み)
(主体と対象の間の関係:切る、作る、見る)
(主体と事物の集合の間の関係:学生だ、大きい)
・事態基の中での事物の働き=意味役割
主体、対象、受容者、場所、道具、起点、着点etc             

3.事態を構成する要素(2)
事態全体の性質
区間:事態が成立する時間的な区間
全体性:事態の全部または部分の成立
成立可能性:事態の成立が真である程度
 


W。上記の疑問点はチョムスキー、普遍文法の観点だけでは抽象論に留まる。
チョムスキーの普遍文法はコンピューターサイエンス(自動翻訳などは、応用では?)や脳科学方面に応用が効いても、学術領域に大きな限界がある。言語形態の大きな違いに共通項を見出す=普遍文法があり、その規則の枠内での差異に過ぎないとしているのだから、「思考が言語に制限されると考えるのはやっぱり誤りなのだろうか。」と問うても、具体的に考える手立ては、人々がリアルに使用してきた言語形態の中にしかない。
したがって、言語類型まで踏み込んで考える必要がある。「思考が言語に制限される」側面は言語類型から、考える必要がある、のではないだろうか?
      
        8.言語の遠い類縁関係の研究  山本秀樹
基礎語彙というのは、安定性の点で問題があります
**一方、言語にとって最も安定性の高い特徴は言語普遍性チョムスキー言語学でしょうが、これは<すべての言語に共通する特徴なので、系統証明には利用できません>。W。当たり前!」
「こで、松本先生は、<言語普遍性にまでは至らず>に、<基礎語彙以上に歴史的な変化を被りにくく>、<言語の骨格に関わる「遺伝子型」とも言い得るような安定性の高い特徴>、W。そんな普遍文法>松本先生の析出する研究材料>基礎語彙?はあるのか?
しかも複数の特徴を慎重に選び出すことによって、遠い類縁関係の探究を可能にしていらっしゃいます。W。意味不明。」
4.言語の類型
孤立語:中国語特に古代中国語=漢文)、タイ語ベトナム語チベット語
膠着語:日本語、朝鮮語満州語トルコ語
屈折語:古典ギリシア語、ラテン語サンスクリット語、ロシア語
 
5.類型を決める特徴(1)
主体と対象の表し方
孤立語
主体と対象を表す特別の単語がない。→語順によって主体と対象を表す。

屈折語
主体と対象(受容者、道具など)を語形変化によって表す。
 
6.類型を決める特徴(2)
膠着語
主体と対象を表す特別の単語がある。
日本語の「が」
「を」
朝鮮・韓国語
ga,i (u)rur
 
7.類型と語順の関連性
孤立語:SVO、助動詞+動詞、前置詞+名詞
屈折語:SOV、助動詞+動詞、前置詞+名詞       
膠着語:SOV、動詞+助動詞、名詞+後置詞(助詞)
W。中国語の語順と助動詞の例

孤立語
主体と対象を表す特別の単語がない。→語順によって主体と対象を表す。

★ 助動詞 ★
 http://www50.tok2.com/home/chinese2/lesson/image140.gif
 http://www50.tok2.com/home/chinese2/lesson/image1211.gif   
[訳]1.あなた<は>泳げますか?  主体と対象を表す日本語の特別な単語
2.この料理<は>辛すぎる!我々日本人<は>食べられない!
3.ここ<は>タバコ<を>吸ってもいいですよ。
W。<は><を>は主体と対象を表す日本語の特別な単語=助詞。
<は>は係助詞。語句の範囲を、多くの事柄から一つに限定して提示。
<を>は格助詞。動作の直接的な対象や知覚・思考活動の対象、移動時の経路を示す
     
   <日本語の助詞の特徴>
約60語(ウィキペディアで数えた)下記の説明は・名詞+<助詞>に限定したものである。
「日本語の助詞の使い分けには<曖昧さ>があり、例としては、「海に行く」と「海へ行く」の「に」「へ」や「日本でただ一つの」と「日本にただ一つの」の「で」「に」や「目の悪い人」や「目が悪い人」の「の」「が」、「本当は明日なんだけど」「お言葉ですが」「さっき言ったのに」「終わるの早いし」に見られる終助詞的な接続助詞の使用などが挙げられる。
W。英語の助詞の使い方にもアイマイさがある。
英語など孤立語に近づいた言語では前置詞や語順が、屈折語では屈折語尾が、助詞に相当する機能を果たすが、"ago"のように後置詞的に用いられる副詞もある」
   
    2.チョムスキーの言語理論  長谷川宏 引用。
1) Mary slapped the boy with a stick.
(1)の文には、(i)「メリーはその男の子を棒でひっぱたいた」という意味と、
(ii)「メリーは棒を持った男の子をひっぱたいた」という、2 つの意味がある。同じ単語列でありながら異なる意味をもち得る、
つまり<「曖昧性(ambiguity)」>がある、というのは人間言語の特徴の一つであるが、これは以下に図示するような<階層構造の違い>に帰することができる。
 
10.膠着語での効率的な語順
・名詞+助詞
<名詞の個数は、固有名詞も含めれば十万以上>。<助詞の個数は高々十数個程度>。
**名詞を先に置くことで、事態の内容が大きく限定される。
・動詞+助動詞
<動詞の個数>は、<助動詞の個数よりはるかに大きい>。

 
13.日本語の特徴-動詞群
・動詞群は文末に置かれる
主語は名詞で表されること、<名詞の個数>が<動詞の個数の十倍程度>であることから、
**膠着語では、名詞が動詞に先行する語順が最も効率的。
 
11.日本語の全体的特徴
類型:膠着語
語順:SOV、動詞+助動詞、名詞+助詞(膠着語の典型+効率的な語順)
 
12.日本語の特徴-動詞
・動詞の後にいくつもの単語が並ぶ→動詞群。
動詞+<使役・受動辞>+アスペクト辞+時制辞+モダリティー辞+時制辞+否定辞+終助詞
食べ+させ+られ   +てい+た+ようじゃ+なかっ+たね。←コレ普遍文法ではどのように解釈するのか、聞いてみたい!印欧語族系の外国人はこうした表現方法を<文法として、理解することはできない>だろう
 
27.英語とはどんな言語なのか
・系統的にはインド・ヨーロッパ語族だが、類型的には孤立語に近い
W。語順は大事。ラテン語は語順を入れ替えても通じるらしい。急速に簡略化されたことから、語順の規則性が必要になった、と想う。
・母音も子音も日本語より多く、単語の中ではアクセントのある母音以外は曖昧に発音される傾向。Impossibìlity, unbelìevable→日本人には発音が難しい。W。音韻学による説明によれば、そのようないい加減な英語観は間違っているらしい。
 
     *英語の発音入門 ~音声学と音韻学の違い~W.眼から鱗の部分がある~
~英語の上達のために、日本では余り教えてもらえない、音声学と音韻学の正しい知識を覚えよう
一方、certainly(確かに) や horse(馬) のrは、ほとんどの日本人が無視しています。これらの単語にも立派にrがあり、ネイティブはもちろんrightのrと同じように発音しています。certainly や horse のrを発音しないために、むしろ suddenly(突然) や hose(ホース) に聞こえてしまったという話も聞きます。

・不規則動詞や不規則名詞(mouseとmice, childとchildren)が多い。←W。屈折語の特徴。
 
28.英語の不思議なところ(1)  
・疑問文と否定文にはなぜかdoが出てくる。
John fell in love with her.
→Did John fall in love with her?
John didn’t fall in love with her.
 
W。云われてみれば、確かに不思議だが、同じゲルマン系言語の古ドイツ語の影響じゃないかな?またノルト語の影響も考えられる。最初の原住民ケルト人。ローマ人の侵入と帰国。二番目の侵入者原住民=アングロ族、サクソン族。また、バイキングの侵入も、北東部の地名に残っている。勿論、ノルマン公国の侵入による支配階級化=フランス語の影響も考えられる。
 
 言語の変化の最大の原因は交流の頻繁なことである。そういう意味から、東アジアの文字時代以前を含めての歴史は、漢字文化圏といいながら、交流はヨーロッパと<対照して>(比較していないあくまでも対照デアル)、少ないし、様相を異にしている。
 漢字発祥の大本の漢民族の歴史は、異民族王朝に支配された期間も結構長く、自分たちの支配領域を保守するのに精一杯であった、と歴史的に総括できる。紀元後トータルすると約300年ほどで、決して短くはないが、征服王朝漢民族文化にメルトダウンした。コレも漢民族文化の特徴である。
 
 なお、漢民族の源流は黄河中流域の城塞農耕民だと、云われるが、支配領域の拡大と共に大きくブレンドされ漢民族の範囲は大きく拡大してきた。純粋の日本民族が存在しないと同じように、純粋の漢民族は存在しない。
儒教文化の本質も支配秩序への従順性をテリトリーや秩序内で精神的に持続的に形成する性質のものであって、外部に向かって、文化や支配秩序を積極的に伝播させるものではなかった。
 
 漢民族文化そのものは、広い中国大陸の引きこもり傾向の強い文化である。
表意文字表音文字を対照したとき、前者が極一部の支配階層にしか会得できない、という難しさもアル。
使えるヒトが少なければ(量)、当然、質も限定されていき、地続きの朝鮮半島でも、漢字を地元言語表記に転用するという、漢民族文化から見ると、伝播力の弱さ、朝鮮民族からすると、転用消化したという事態が発生する。
それが、中国語=孤立語朝鮮語膠着語という言語系統の違いとなっている。
 
 日本列島は言語学の限界年代である1万年をはるかに超える前に、大陸から切り離されたのだから、中国語と朝鮮語の関係のさらに上を行く、交流の少なさ、異種異様ということになる。あくまでも印欧語族との対照の結果であるが。
 
 そもそも、朝鮮、日本では、漢字文化圏の外面とは全く違って、ヨーロッパにおける印欧語族のような同系統の言語を使っていなかった。
また、日本語と朝鮮語は同じ同系統の膠着語の文法を持ちながら、類型単語は200ほどと少なく、距離の近さの割りに全くお互いの言語の意味が通じない。
コレも、今までザット説明してきたように、漢民族文化の保守性、表意文字の地域的伝播性の本質的な狭さの限界、漢字文化圏としての交流の少なさ、儒教や仏教などの閉鎖的本質、さらにココに地政学的な分立状態などの影響が加味されて、お互いの使用する言語が各々の文化程度の進展にも拘らず、分立している状態が続いてきた。
 
 しかし、コレはあくまでもヨーロッパやその植民地の言語圏との対照の結果、いえることである。
現生人類の出アフリカ以降、東と西に大きく分かれて、別個独自に発展してきた結果、その足跡が言語に現れたのである。
チョムスキーは両者の違いを文法の大枠の普遍性という共通項に集約している。
また、ミトコンドリアDNAを辿っていくと、20万年前のミトコンドリアDNAイブに行きつき、現生人類と共存してきた時期があるネアンデルタール人の音韻発声器官の検証を課さえあわせると、人類は共通の言語をもっていた可能性も示唆されている。ココまで言語学の範囲を広げるとなるほど、我々の言語の差異は
「これまで言語学の世界において同系あるいは系統的に無関係と言われてきたものは、*実はすべて程度差にすぎず、
*さらに遠い過去へとさかのぼれば、<世界のすべての言語が単一の祖語にたどり着く同系統の言語」~山本秀樹 講演~になる。
 
 がしかし、次のような日本語と英語の差異は、余りにも大き過ぎるのではないだろうか。

 The 30th Every 11th of Month No Nukes Rally in San Francisco, 1/11/2015
参考資料  The 30th Every 11th of Month No Nukes Rally in San Francisco, 1/11/2015
サンフランシスコ、月例、原発反対集会 IWJ再配信1月12日13時~。
http://www.ustream.tv/channel/iwj-sf#/recorded/57466182
W。スピーチ集会である。集まっているヒトは少ないが、発言者の主旨は論理的であり、発言者の言及する分野はキッチリと、役割分担されている。詳しい内容は即時的に理解できなくても、発言の概要は直ぐわかる。
集会の構成と、発言の中身の明快さによるものであろう。
 日本の小集会は、このように運営されていないのではないか。発言の中身も違うような気がする。
政治的意思の中身を合理的に説明するというよりも、感情に訴える要素が前面に打ち出されてきたような気がする。それでは長続きしない。同調意識の増幅と異なった意見排除の場であり場であり、個々の発言者が個人の意思で調べて考えて真の発言する=言い切れば、議論に発展する要素が強まり、違いが明らかになり、個々の主体の意思が明らかになる。このような小集会の積み重ねが、日本では成り立っていないようで、日本では、このような小集会の場は、見識者の主導になってしまう、学習会形式になる。会場も室内である。外でやれば、集会届出の制約があって、警備公安警察が必ず、現場で一枚かむ。
少なくとも、この動画の小集会には、アテナイ民主主義の原点の継承が少しはアル。
日本もこういう原点的なところから、気をつけて変えていかなければならない時代が来ている。
>エライヒトの話を聞き、質問する時代は過ぎ去っているはずだ。みんな其々知識は持つ時代になっている。
>エライヒトの話の実際の中身も、一般のよく知っているヒトとたいして変わりはないことが、40年以上前に明らかになっていたはずだ。
森羅万象を明らかにする「理論」は、宗教以外に、どこにも一切ないのだ。真理はリアル生活労働の場にあり、ソレを整理する力も備わってきたはずだ。この小集会のような積み重ねが、もっとも大事である。
 

          第85話 外国人に日本語を教えてみると   小林昭美、「日本語千夜一夜」より引用
生れたばかりの赤ん坊は歯 が生えていないが、やがて誰でも歯が生えてくる。それと同じように日本人なら誰でも母国語である日本語だけはしゃべれるようになる
学校で日本語の文法を 習うとむずかしいが、赤ちゃんは日本語の文法を間違えることはない。日本人の子供は文法だけでなく、小学校に入るまでに既に約六千の語彙を覚えている。
日 本人は小学校に入るまでに、「見えない文法」を脳に蓄積している
 
 結語→それぞれの言語には数千年にわたることばの歴史がこめられている。だから、ことば は論理だけでは理解できない。
 それに対して外国語として日本語を習う人は大変である。毎日なにげなく使っている日本語を外国人に教えてみると、普段は気がつかない日本語の特徴に気がつくことがある。
 例えば日本語では動物や人間のよう に生きているものと、無生物では動詞の使い方が違う。
 >○「います」と「あります」
   英語では「池があります」も「蛙がいます」も同じ動詞をつかう。
      There is a pond.
    There is a frog.
 ところが日本語では「池があります」、「蛙があります」では間違いである。
     ○ 池があります。
     × 蛙があります。
 
 日本人なら誰でも小学校へ入るころまでにはこんな間違いはしない。しかし、英語を母国語とする 人はまず、この違いを覚えなければならない。
 
ところが、それで終わりではない。
       This is a book.
     This is a dog.
  この場合はどうだろうか。この場合は「これは本です」「これは犬です」でよい。
      ○ これは本です。
     ○ これは犬です。
 
>誰でも知っている日本語でも外国人に「なぜ」と聞かれると答えに窮することが多い。
     ○助詞の使い方。「に」と「で」
     ○助詞の使い方。「に」と「で」
 「教室に机があります」 There is a desk in the classroom.
 「教室で勉強します」  We study in the classroom. We study at school.
 
英語ではinであらわすところが「に」になったり、「で」になったりする。
 日本語を習い始めたば かりの外国人は「教室で机があります。」「教室に勉強します。」というかもしれない。
*そこで「に」は存在をあらわし、「で」は動作をあらわす、などと説明することになる。
 
○助詞の使い方。「は」と「が」
   日本語の助詞「は」と「が」の使い方も外国人にとってはむずかしい。
 
いつが誕生日ですか。(疑問詞が前)
  誕生日はいつですか。(疑問詞が後)
  頭が大きい(描写)、
   頭は大きく見える(説明・判断)、
  Aは好きだが、Bは嫌いだ(対比)
 
○助詞の誤用
  外国人の日本語には助詞の誤用も多い。
 
×バスで乗って、
×朝に起きて、
 これは英語でいえばby bus, got up in the morningであろうが、英語を直訳しただけでは日本語にならない。
 英語の表現と日本語の表現は1対1で対応しているわけではない。
 
○形容詞の使い方
ここに二つの文章がある。
 
「この部屋は静かです」
「この部屋は広いです」
 これは英語ではつぎのようになる。
This room is quiet.
This room is wide.
 
>さてこれを過去形にしてみたらどうなるだろうか。
 「この部屋は静かでした。」
「この部屋は広かったです。」
 
この場合、「この部屋は広いでした。」でしたでは日本語として×である。  W。が、意味は通じる!
○この部屋は静かでした。
×この部屋は広いでした。
 
>さらにこれを否定形にするとどうだろうか。
 
「この部屋は静かでは(じゃ)ありません。」
「この部屋は広くありません(広くないです)。」
 
  この場合も「この部屋は広いありません。」では日本語にならない。 W。意味は通じる。なぜか?
外国人に日本語を教えるとき は「静か」はナ形容詞、「広い」はイ形容詞として区別して 教える
日本語の文法では「静か」は形容動詞であり、「広い」は形容詞とされている。
しかし、英語には形容詞と形容動詞の区別がないから、「苦い」の 否定形は「苦いじゃない」、過去形は「苦いでした」となってしまうことが多い。
 
○「、、、ている」
   英語の文章では一つの文章に動詞はひとつしかない。 
しかし、日本語では「行ってくる」とか 「座っている」とか、「て」でつなげば動詞をふたつ重ねることができる
例の例文引用
動詞+<使役・受動辞>+アスペクト辞+時制辞+モダリティー辞+時制辞+否定辞+終助詞
食べ+させ+られ+<て>+た(時制)+ようじゃ+なかっ+たね。
この例文で<て>は「動詞をふたつ直接繋げられるアスペクト辞という便利な助詞と判明した。
しかし、この「て」のつなげかたがまたやっかいである
 
同じ「き る」でも「切る」と「着る」では活用のしかたが違う。
「切る」は「切っている」となり、「着る」は「着ている」となる。
また、「ねる」の場合も、「練る」は「練っている」、「寝る」は「寝ている」となる。なぜだろうか。
 
ここにもいくつかの複雑なルールがあるようである
佐々木瑞枝の『日本語を「外」から見る』(小学館新書)によるとルールは七つもある
 
  ルール①「う、つ、る」で終わる動詞は「って」になる。
       例:買って、打って、取って、
   ルール②「む、ぶ、ぬ」で終わる動詞は「んで」になる。
       例:噛んで、結んで、死んで、
   ルール③「す」で終わる動詞は「して」になる。
       例:隠して、直して、
   ルール④「く」で終わる動詞は「いて」になる。
       例:聞いて、書いて、
   ルール⑤「ぐ」で終わる動詞は「いで」になる。
       例:急いで、漕いで、
   ルール⑥一段活用の動詞は「る」を取って「て」をつける。
       例:似て、着て、寝て、
   ルール⑦変格活用の動詞は「来る」「する」で個別に覚える。
       例:来る→来て、する→して、
 
○「ている」は進行形ばかりでなく、いろいろな場合に用いられる。
 
1.動作の進行中。
   例:勉強している、寝ている、
2.動作の結果の状態が今。
   例:目の前にある、ふたが開いている、閉じている、
3.元からの状態を示す。
   例:似ている、
4.過去の経験。
   例:前にも来ている、
5.繰り返しの動作。
   例:毎日通っている、
 
>外国人の日本語には時制の誤用も多い。
 ×家を出た前に、
 日本語では「家を出る前に」となる。しかし、「なぜ」と聞かれると「はてよ」ということになる
 論理的には「家を出た前に」も正しいような気がしてくる。
英語ではbefore I left homeとなる のかもしれない。しかし、それは日本語の論理ではない
 
日本語の時制と英語の時制とは同じではない。
 
○Aは中学生のときにBと出会った。
○Aは中学生のときにBに出会う。
 
×A meets B when he was in the high school. W。日本語では○。Aは中学生のときにBに出会う。
○A met B for the first time when he was in the high school.
W。あるいは、
○A came to know B when he was a high school boy.
 
日本語では「出会った」という過去の事実が現在も事実であるときは現在形を使うこともある。
○Aは中学生のときにBに出会う。
×A meets B when he was in the high school
○ 敬語はむずかしい。
  日本語の敬語の使い方はむずかしいといわれている。朝鮮語などのように敬語が発達している言語を母国語とする学生はともかくも、英語などヨーロッパの 言語を母国語とする学生にとっては特に難題である。
「いる・いらっしゃる」、「いう・おっしゃる」、「する・なさる」、「たべる・めしあがる」、
「やる、あげる、差し上げる」、「くれる、くださる」、「もらう、いただく」
 W。膠着語の便利な特徴ともいえる
W。しかし、世界機銃からみるとから見ると珍しく、
>これらは個別に覚えるよりしかたがない。文法無しの慣用句!
 
×「先生は私に傘をかしました」    W。何度もいうように意味は通じる。
 ×「彼は車で私を駅まで送りました」
 
 日本語ではだめな表現も英語では正しい。
 
○My teacher rent me an umbrella
 ○He took me to the station by car.
 
○ていねい語もむずかしい。
  ていねい語の「お」や「ご」の使い方にはある程度の規則性がある。
和語には「お」、漢語には「ご」をつける
 
「お」、お話なさる、お読みください(和語)
 「ご」、ご覧になる、ご卒業なさる、ご入場ください(漢語)
 
しかし、「お礼」「お札」の場合はどう説明したらいいのだろうか。「お」や「ご」をつける語とつけない語の区別もむずかしい。
 
○  ご 飯、お味噌汁、お豆腐、お酒、お醤油、
 × お人参、お納豆、おパン、おバター、
 
学生:「先生、朝は『おはようございます』とていねいにいうのに、なぜ昼になると『おこんにちは』とか『こんにちはございます』といわないのですか。」
   先生:「それはですね、、、、、」
   学生:「先生、お医者さまには『お医者さま』とか『お医者さん』というのに、なぜ先生には『先生さま』とか『先生さん』といわないのですか。」
   先生:「それはですね、、、、、」
 
>敬語や謙譲語が発達している朝鮮語などを母語とする学生にとっても日本語の敬語はむずかしいようである。
儒教の影響の強い韓国では父母や先生、医者などにたいしては日本語よりていねいな敬語を使っているからである。
 
○ 日本語の数詞
   日本語には和語と漢語があり、使い分けられている
数詞にも漢語と和語が使われている。一(イチ・ひとつ)、二(ニ・ふたつ)、三(サン・みっつ) などである。
しかし、どの場合に和語を使い、どこで漢語を使うかは慣用によることが多く、なかなか外国人には説明しにくい。
例:四時(よじ)、四分(よんぷん)、四月(しがつ)、四日(よっか)、
 
>これらは慣用として個別に覚えてもらうよりほかに方法はない。
 
○ 日本語の論理と英語の論理
  日本語は日本語の論理で世界を切り取り、英語は英語の論理で世界を切り取っている。
 日本では信号は「青」だが、英語ではgreenである。日本語の「緑」は牧場の「緑」である。英語のcoldやhotも日本語には直訳できない。
The water is cold.<冷たい>
 The weather is cold.<寒い>
 
The weather is hot.<暑い>
 The pepper is hot.<辛い>
 
>英語のcoldやhotがカバーしている意味の範囲と日本語の「冷たい」、「寒い」、「暑い」などがカバーしている範囲とは重なっている部分もあるが、同じではない。
英語では水はwater、お湯はhot waterであり、水もお湯もwaterの下位分類になる。冷たい水という ときにはcold waterとなるが、日本語では水とお湯は別の分類である。
 
>兄弟・姉妹も英語ではそれぞれbrotherでありsisterだが、日本語では自分より年上か年下かによって 兄・弟、姉・妹と別の単語が用意されている。
英語では兄はelder brother或いはbig brother、弟はyounger brotherでありbrotherの下位分類だが、日本語では兄弟、姉妹のほうが複合語である

 
 家畜の名称も英語では雄雌の区別がある。 
W。現在の日本語に通じる言葉の形成された時期は、狩猟採取時期の動物の形態の語彙の少なさは縄文時代ではなく農耕時期である、ことの言語形態から証明でもアル。
日本語の牛にあたることばは英語ではox(労役用・食用 の去勢した雄牛)、cow(雌牛)、bull(去勢してない雄牛)となる。
豚もpig(子豚)、swine(集 合的に「豚」)、hog(豚pig,sow,boar,swine)、sow(成熟した雌豚)、boar(去勢してない雄  豚)となる。
鶏もchicken(生後1年以内の鶏)、hen(めんどり)、cock(おんどり)である。
 W.以下も同じ。
 日本語の肉(にく)は中国語からの借用語である。古語では「しし」である。
英語では肉も牛肉はbeef、豚肉はporkである。英語のbeefはフランス語のbeufからの借用語であり、porkもフランス語 のporcからの借用語であり、食用になると借用語になる。
 英語では牧場にいる羊はsheepであり羊の肉はmuttonといわれるが、フランス語ではいずれもmoutonと言われる。
Beefもporkもmuttonも 1066年のノルマン征服によって英語にもたらされたことばであるという。
 
 鳥のトンビは英語ではkiteである。Kiteは また「凧」でもある。
英語では鳥のトンビと「凧」に同じ単語を用いる。
鳥の名前が先にあり、「凧」はトンビになぞらえて名づけたものらしい。たしかにトン ビが空を滑空している姿は凧」ににている。ことばは類推で広がっていく。
W。凧の語源
中国では漢代から紙鳶と呼ばれ、平安初期に日本に伝来した。「タコ」の呼称が出現するのは江戸時代、以降のことで、関東では「タコ」関西では「イカのぼり」の呼称で呼ばれ、18世紀後半の方言集には<イカのぼり>の例も見られる。
2011/1/2123:10:09  YAHOO知恵袋 ベストアンサー
「凧の発祥は中国です。古来中国では凧あげは占いや戦いの道具のひとつでした
日本には平安時代に貴族の遊戯として入りましたが、戦国時代には敵陣までの距離を測ったり遠方へ放火する兵器としても活用されていたそうです。やがて江戸時代になると男の子の誕生祝いとして凧あげをするようになり庶民の遊びとしても広まっていきました。
また昔から
立春の季に空に向くは養生のひとつ」といわれたことから、立春に凧あげをするようになりました。昔は暦が旧暦で立春から新年となったので、ここからお正月の遊びとして定着したのです。
W.結論。江戸時代に遊戯となって一般に広まったことが、中国伝来の<紙鳶>から、形態模写をした用語としての<タコ>に転じた。近世にいたってなお、250年も日本原住民が列島に完全、引きこもりのパックストクガワーナ状態のままだと、独自の文化が良くも悪くも、芽生え発展する。
>その東アジア諸国の文官貴族支配と異なった軍事貴族独裁体制の逼塞状態の250年に渡る軍事的鬱屈が、一気にアジアに向けて解き放たれたのが明治維新だった、ともいえる
       
        12.日本語の特徴-動詞
・動詞の後にいくつもの単語が並ぶ→動詞群。
動詞+<使役・受動辞>+アスペクト辞+時制辞+モダリティー辞+時制辞+否定辞+終助詞
食べ+させ+られ   +てい+た+ようじゃ+なかっ+たね。←W。印欧語族系の外国人はこうした表現方法を<文法として、理解することはできない>だろう。
日本人を長くやってきた自分にも、どの部分がアスペクト辞なのか、モダリティー辞なのかはっきりとしない。
意味は直ぐにわかる。
こんな次元の単語と文字列に英語との文法の共通点を見出したところで、どのような意味があるのだろうか?
 
チョムスキー言語論はコンピューターサイエンスや脳科学の分野に発展する可能性があるが、そのほかにどんな可能性をみいだせるのだろうか?
また、日本語の起源や系統研究には明らかに大きな限界があるようだ。日本では文字の歴史は、最長に見積もっても、6世紀ごろだろうから、比較する大本の日本語文字の事例が乏しすぎる。また、比較する地域言語も文字の歴史が浅い。そういった矮小な限定条件でどうして、日本語の起源が確定できようか。
コレもまた、邪馬台国はどこにあったのかという次元の話題と同種であろう。
印欧語族の系統の解明が進展したのは古い文字が残っていたからである。
 
チョムスキー系の言語学に関しては、日本の学者の一部から生きたリアルな言語を中心に考える視点で、次のような批判があがってくるのは、当然のことである。
直にチョムスキー言語学に当たったことのない門外漢だからこそ、次のような問題意識を持った。
 
  現生人類単一起源説と言語の系統について 弘前大学人文学部教授 山本秀樹
2015/1/9(金) 午後 1:07
コレからの長い時代の趨勢は、抽象的に云えば、普遍ー世界性を求めるベクトルと個別、特殊に拘りたい希求が錯綜していくことになる。
その条件下にあって、二つの傾向のバランスをとることが大事になる。歴史的引きこもり、大事はいつも外からやってくる日本では特に。」
>この文中の「コレからの長い時代の趨勢は、抽象的に云えば、普遍ー世界性を求めるベクトル」の中にグローバル資本制の進展を経済的基礎にして、という文言を挿入しようと想ったが中した。
チョムスキー系言語論に門外漢が接すると、直感するのは、グローバルスタンダードの構築への激しい希求であり、ソレはアメリカ流のグローバリズム経済の原理主義の流れ中に政治的に読み込めないことはない
チョムスキー系の理論の分析対象は言語という不定形部分を大きく含む領域なので、はたして完全な科学の枠に収まるものであろうかとの疑問がある。理論を検証する脳科学の実験結論も確定していないようである。
人工知能、自動翻訳装置も全く未完成そのものである。
 
>簡潔性論理性に優れ世界言語化している英語優位の現状を結果的に証明し、促進していると、これまた、政治的に読み込むこともできる。
再三取り上げるが、
12.日本語の特徴-動詞
・動詞の後にいくつもの単語が並ぶ→動詞群。
動詞+<使役・受動辞>+アスペクト辞+時制辞+モダリティー辞+時制辞+否定辞+終助詞
食べ+させ+られ   +てい+た+ようじゃ+なかっ+たね。
この言語に論理もあったものじゃない。
英文にすれば、簡潔に論理性がハッキリする。
要は日本人はたちどころに解るという次元と、主として印欧語族系の人たちが、理解できるということは別次元の問題であり、チョムスキー系の人たちが、いくら英語と日本の違いは主要フレーズ前位と後位の言語との違いである、と主張しても、リアルな言語現場では共通語として英語の優位は余りにもハッキリしすぎており、語彙を捨て文法を取り出して比較すれば、なおさら問題の所在がハッキリする。
しかし、日本語とはそういう言語で、それなりの特性もある。
この辺のモヤモヤしたところが、チョムスキー系言語論の背後に実在するから、政治的に深読みした批判も出現し、ソレは決して悪い議論の方法とは想わない。むしろ、批判の起こらない方がたちが悪い。
 
        すっとこどっこい言語学気味 
>前後の文脈を飛ばした引用を嫌がられておられるようなので、全文に直接当たるしかない。確かに文面からが田中克彦の著書「チョムスキー」理論の理解にも大きな取り違えがある。
しかし、この文面には、的を射た指摘もある。
 
田中克彦著「チョムスキー」に対して、痛烈な長文の批判がネットで掲載されている。
  田中克彦チョムスキー」に驚く  W。言語学の専門家からの批判である。
>あえていえば、チョムスキーの言語理論には感心するが、政治的議論は正面から、相手にするつもりはないので、ここまでしてチョムスキーを弁護する気持ちは、理解の外である。
 
例、3.チョムスキーの政治思想:メディア論を中心に  長谷川宏
正しい!
「*では「売り手(seller)」である大手メディア企業は、「市場(market)」ないし「買い手(buyer)」である「広告主(advertisers)」に何を売っているのだろうか。
**売買される「製品・商品(product)」は、実は「読者・視聴者(audience)」なのである。」
しかし、その証明の仕方はチョムスキーの議論の土俵であるアメリカの新聞界実情に完全に沿ってモノであり、日本では、発行部数や視聴率を一種の商品化して、広告主に売っているのである。又電通という単体では世界一の広告取扱高を誇る仲介企業の決定権が大きい。
どうして、アメリカの実情しか知らないチョムスキーの分析に頼るのか?
信心の領域に踏み込んでいるとしか思えない。
先にあげた反論者の根底にある感情にも同種のものを認めざる得ない。
わたしの基本的な観点は政治イデオロギー(政治分析も含めて)に関しては、アメリカに学ぶものは日本人として少ない。