反俗日記

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政治システムと財政パフォーマンス: 日本の歴史的経験 岡崎 哲二  経済産業研究所 を「推断」?する。

       政治システムと財政パフォーマンス:日本の歴史的経験   岡崎哲二* 
     
    要旨
大日本帝国憲法は、国務と統帥の分離と、前者における国務大臣の単独補弼制の二つの面で分権的な政治システムを規定していた。この枠組みの中で、日露戦後、政治システムの構成要素であった軍部・官僚・政党が自立化を始め、予算に強い膨張圧力を加えた。しかし、第一次大戦前期には憲法外機関である元老が国家統合と財政規律の維持に寄与した。これに対して、第一次大戦期以降、元老の機能が低下し、分権的な政治システムの下で財政規律を保つことが難しくなった。1920 年代に定着した政党内閣制が予算を全般的に膨張させたことは定量的に確認できる。1930 年代には軍部の影響力が増大しただけでなく、軍部の内側でも意思決定の断片化が進展した。日露戦後に黒字基調であった財政のプライマリーバランスは1920 年代以降、赤字基調に転換した。こうした財政パフォーマンスの変化は、上記のような政治システムの変化を反映したものと考えられる。
  キーワード:政治システム、財政パフォーマンス、憲法

   1、はじめに
 この論文では戦前日本の経験に焦点を当てて、政治システム、すなわち政治的意思決定の構造が、財
政パフォーマンスにどのような影響を与えるかについて検討する.
日本1国に焦点を当てて、時系列上に見られる制度の変化と財政パフォーマンスの変化との関係に注目する。
 1889 年の大日本帝国憲法発布によって法制的基礎を得、1900 年の政友会の成立によって安定した戦前日本の政治システムは日露戦争後に早くも変質を始めた。
この論文では、その後さらに進行した政治システムの変質が財政パフォーマンスに与えた影響に着目する。
 
   <本論文の構成は次の通りである>。
第2 節では、
大日本帝国憲法を基礎とする政治システムの概要を要約するとともに、第一次世界大戦までの日本の財政パフォーマンスを数量的に分析したうえで、
両者の関連について議論する。財政パフォーマンスの分析にあたっては、マクロ的な財政バランスとともに予算の省別配分に注目する。
第3 節では
第一次大戦後に明確になった政治システムの変質と予算プロセスの関係について論じるとともに、その財政パフォーマンスに対する含意を検討する。第4 節はまとめにあて
られる。

  2、明治憲法下の政治システムと財政
 大日本帝国憲法天皇
統治権を総覧すると規定していたが、天皇統治権は他の国家機関の補弼ないし補佐によって行使された。
すなわち、行政一般は国務大臣の補弼により、軍の統帥は軍令機関(参謀本部・軍令部)の補佐によって行われた。
 
 国務大臣が構成する補弼機関が内閣である。
内閣官制に委ねられた。これによると、内閣総理大臣は内閣の首班として、国務大臣任免の天皇への奏薦、閣議の主宰、政務一般の上奏などの役割を担った。

*ただし、総理大臣に国務大臣に対する命令権はなく、その地位は同等者中の第一人者にとどまった
*国務と統帥の独立、国務における総理大臣権限の限定性の二つの意味で、大日本帝国憲法が規定する政治システムは分権性の強いものであった。
 
    W、<以下は帝国憲法の実態=キーポイント>
**内閣総理大臣天皇によって任命され、内閣を組織した。
**<憲法は総理大臣の任命に関する補弼について規定していなかった>が、<事実上>、その役割は<元老とよばれる憲法外の機関>によって担われた。
 明治期の元老は、「明治維新以来、政治軍事の中枢にあり、第一線にあるときも退いた後も、首相奏薦について天皇の下問をうけ、その他国政の重要事について影響力を行使する薩長指導層」を指し、
具体的には伊藤博文山県有朋黒田清隆井上馨西郷従道大山巌松方正義の7 名であった。
**総理大臣の選定はこれらの元老によって事実上行われ、帝国議会はその過程に関与しなかった。
  
 W、<第二次大戦後の日本国憲法下の官僚=省庁と内閣の実態状況と帝国憲法状況のその実態は変わらない、と理解する>
     ↓
第二次大戦後の日本国憲法と比較すると、議会が予算発議権、(W、議会少数派が予算の発議権を行使しても否決されるだけ)
すなわち予算の修正・追加を提案する権限を持たない(W、日本国憲法下では取引。絶対多数政権であれば強行突破)、
 議会が予算案を協賛しない場合、
政府は前年度の予算を実行することができるなど、議会の権限には制約があったが、
>戦前日本の政治システムは、財政に関する最低限の民主的なコントロールの仕組みを備えていたといえる。
 
(W。従って、そのような理屈も成立する)
W.システムの文言は異なっているが、やっていることは、予算発議権、修正追加を提案する権限が骨抜きに
されると戦前帝国憲法状況の予算審議状況と同じだ。
       ↓
帝国議会は、天皇立法権に関する協賛、政府が提案する予算案に対する協賛、政府の監視などの役割を果たした。
法律は議会の協賛なしには効力を持たず、また議会は法律案を提案することもできた。
一方、予算について憲法は、国の歳入・歳出は毎年、<予算として議会の協賛を受ける>W。予算協賛権。政府予算に対する民党抵抗の権限となる)とともに、決算についても議会の審査を受けるべきことを規定していた。
   
W、<帝国憲法下の議会の特徴~皇族議員華族議員・勅任議員が構成する貴族院と公選された議員が構成する衆議院の二院制をとり、両院の権限は基本的に対等であった>
 
 初期議会においては自由民権運動の流れを汲む「民党」が多数を占め、薩摩・長州藩出身の元老が組織する藩閥政府と対立を続けた。
その際、前年度予算の施行によっては政府の意図する「富国強兵」政策を推進することができなかったため、予算協賛権が議会ないし民党が政府に対抗する際の有効な武器となった
 
*W。「政友会と民政党~戦前の二大政党制に何を学ぶか」井上寿一著は政友会の出発点を反政党であるという資格から規定するだけで次の点を不問にしている。
 1898 年には藩閥側混乱のために、短期間ではあったが、最大の民党、憲政党の党首大隈重信を総理大臣とする内閣が成立する事態となった
 
W,中国に21カ条を突き付けた。
このような状況下で1900 年、元老伊藤博文が議会対策として自ら組織した政党が立憲政友会(以下、政友会と略す)である。
政友会の成立にあたって憲政党は分裂し、一部が政友会に合流、他が憲政本党となって、以後の<二大政党の≪基礎≫>が形作られた。
 
W二大政党制の基礎というところがミソで反政党=公党の議会絶対優位が1928年続く。
内閣は、軍事官僚の内閣と政友会の交互に組織=天命。
                                                                    ↓
日露戦後から第一次世界大戦の初めまで、政友会は衆議院の圧倒的な第一党で有り続けた。これを前提に、この時期、藩閥勢力と政友会が交代で内閣を組織する状態が続いた。
いわゆる「桂園時代」(W、桂太郎<叔父に木戸孝允、ドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官>と西園寺公望<公家、戊辰戦争において官軍の方面軍総督>)である。政友会の成立によって、政党は政治システムの有力な構成要素となったといえる。
 
  戦前期を通じて実行された慣例的な予算プロセスは、おおよそ次のようなものであった←W。日本国憲法状況下の予算策定過程とほぼ同じ。戦前戦後、官僚制システムは不変だった。
              ↓
(1)<前年の6~7 月に内閣は予算編成方針を閣議決定>し、これに基づいて各省の各部局がそれぞれの所管に関する<予算原案を作成>した。
(2)各省では会計課がこれらに必要な査定を加え、これをもとに各省の所管に関する「歳出概算書」、
   予算外国庫負担となるべき契約の概算書」(概算要求)を省議決定して大蔵省に送付した。
(3)大蔵省では歳入の見通し(「歳入概算書」)を参照して<各省の概算要求を査定>のうえ、<大蔵省原案を作成>、これをW→<10 月頃、閣議に提出>した。
(4)閣議には<各省からの復活要求が提案され、閣議はそれを個々に処理>したうえで<政府原案を決定、議会に提出>した。
議会では衆議院が先議し、予算案を協賛した場合、それを貴族院に送付するという手順が採られた。
>>W。上記の予算策定スケジュールをジッと見つめると、アベの4月消費税値上げ以降の景気の低迷を受けた解散総選挙の決定プロセスが読み取れる。
(3)の「大蔵省では歳入の見通し(「歳入概算書」)を参照して<各省の概算要求を査定>のうえ、<大蔵省原案を作成>」の時期(初秋、10月までのころか)には、解散総選挙を画策していたものと、想定できる。
従って、帝国憲法時代から続いた官僚「政治」のスケジュールにそって、何らかの大きな覚悟をアベはせざる得なかった。
それがわからなかった野党側は、日本政治に関して、アマチュアの域を出なかった、と言わざる得ない。
政治は経験の要素が強い。政権担当の経験がなければ権力政治の感覚が、養われない。
ノンポリ人間を養成する日本の社会システムを前提にして啓蒙で臨んでも砂漠に砂をまくがごときものである。
予算の形成ー執行は政党政治の政権の肝である。←この観点に立って、この論文の記述を追っていけば理解が深まり、現在への応用力がつく。
 
 *戦前の帝国憲法状況に対する基本的な視点は「暴力革命が絶対的に必要」だったということだ。
それ以外に戦前社会経済の基本矛盾は是正されることは絶対に不可能だった。
>もちろん、無慈悲にいえば、米軍軍事力による日本軍事力の一掃を「暴力革命が絶対的に必要だった」と読み替えてのことである。
>GHQが変えようとトライし、実際に変えたことの各項目が戦前日本の基本矛盾であり、社会経済の発展を阻害していたのである。それが一掃されたこと、冷戦体制は、経済発展の大きな要素<であった>。
>歴史はあまりにも逆説に満ちすぎている。
 
    以上のような政治システムの下で、財政はどのようなパフォーマンスを示したであろうか。
(1)。国民経済計算における一般政府、すなわち中央と地方を合わせた政府部門の支出(経常支出+固定資本形成)のGNP(第二次世界大戦後はGDP)に対する比率を示している。
W、GDP=C+I+G+(EX-IM)
GDP=≪国内総支出(GDE)…総需要を示す≫
消費(C)~民間最終消費~W。アベはココの増税マイナス効果を解散に利用。
投資(I)~総固定資本形成+在庫品~W。しかし、実体経済への影響力は少ないはずだから、総固定資本形成は明らかにできない。供給能力のかなりの部分は、喪失しており、急には実現できない実態がある。
自民党参議院議員西田昌二氏の動画解説に詳しく述べれれている。以前記事に載せた需給ギャップに関する記事と同じ趣旨である。西田氏は固定資本の再生は長期的な財政出動による裏付けしかないとしている。
財源は一切述べていなかったが。
>政府支出(G)=政府予算である。 W、 この論文はココの増減を取り上げて、官僚~軍隊~政党の主要国家機構を形成する3ブロックの基本動向を探っている。
純輸出(EX-EM)~輸出ー輸入~ W、GNPとGDPの差額は省略してよい。
  
1880 年代後半以降10%から緩やかに低下した政府支出のGNP 比は、日清戦争(1894 年-1895 年)を転換点として上昇に転じた。
W。日本資本主義がキャッチアップしたのだから、政府支出が伸びるのは当たり前。
現在はGDP約500兆円。政府予算約100兆円(国債利払い償還費23%ぐらいで実質予算額は80兆円)。20%。GDP÷国の借金=50%(多くはないという人がいる)
すなわち、同比率は、日清戦争による急速な上昇の後、戦前水準まで戻らないうちに再び上昇を始めた。
 
W。私見では日清戦争後を日本資本主義の原始的蓄積期としている。賠償金によって日本資本主義はキャッチアップことを戦後の朝鮮戦争の特需と重ね合わせている。
従って謝罪するとかしないとかの以前に、上記の日本資本主義のキャッチアップと復興に寄与したという経済的事実がある。こういう観点からみると違った景色が見える。
 
さらに、日露戦争(1904-1905 年)の戦費は日清戦費と比較して、文字通り桁違いに大きかった。日清戦費2.3億万円に対して日露戦費は18.3 億円に達し(日本銀行[1966]、p.143)、後者は1903 年の名目GNP の約1.5 倍に相当した。
>日清・日露両戦争の間には、戦費の規模のほかに、戦後の政府支出の動きにも相違があった点が注目される。
すなわち、日露戦後、政府支出GNP 比はほぼ戦前水準に戻っただけでなく、その後数年間、安定した水準を保った。
1880 年代後半から日清戦争まで黒字を続けたプライマリー・バランスは、日清戦争時に赤字となった後、戦争終了後も均衡化せず、そのまま日露戦争をむかえた。
プライマリー・バランスは日露戦争によって著しく悪化したが、注目すべきことに、戦後は急速に回復し、数年にわたって大幅な黒字が持続した。
日清・日露両戦後の財政動向にこのような相違をもたらした理由の一つは、戦費の規模と戦後処理の相違にある。
日清戦争は上記のように相対的に小規模であっただけでなく、戦費を上回る清国からの賠償金を日本にもたらした。
>これに対して日露戦争は無償金講和であり、その結果、巨額の政府債務が戦後に残された。
 
*W。プライマリーバランスには膨大な国債残高の利払い、償還費は含まれていない。よって、黒字基調になっても、国債償還利払い費(ココでは国債費としている)激増。
高橋是清が、ユダヤ金融に頭を下げて、巨額の戦費を調達。いまから約20年ぐらい前にやっとその借金を払い終わったのじゃなかったっけ。
国債残高のGNP 比に目立った痕跡を残さず、1880 年代後半以来の低下傾向が続いたのに対して、
 日露戦争を境に、
国債残高のGNP 比は一挙に20%強から60-70%に急上昇した。巨額の国債残高は年々の国債費を押し上げ、財政を強く圧迫した。
 
*、日露戦後の政治史は予算を争点として展開した
その背景となったのは、累積した国債とそれがもたらす多額の国債費が日露戦後の財政運営を制約したという事情であった。
 
W。この実情から、1928年、普通選挙以降、数年の積極財政の政友会(高橋是清)と財政均衡民政党(結党は1927年。官僚、既成の政党人の寄せ集め)の経済政策感の違いが生じる。
1929年恐慌~金輸出解禁=金本位制復帰のときの政権は民政党浜口内閣だった。
   
<日清戦後、日露戦後の財政パフォーマンスをより立ち入って分析するために、以下では中央政府の一
般会計に焦点を絞る>
←ココから話は細かくなる。しかし、ココまで踏み込まなければ、はじめに、で明らかにされた論点は実証できない。
 
1885-1914 年に一般会計歳出
一般会計・特別会計歳出純計の69.3%を占めた
このデータを用いて、
まず歳出の省別配分がどの程度硬直的であったかを次のような方法で検討する。
 
W。さすがに、計算式による計算までは、載せられない、省略。結論だけを。
 
 清国からの賠償金に基づいて行われた「日清戦後経営」と呼ばれる一連の経済政策を反映して、全般的に財政支出が拡大されて行ったことを示している。
各省の固定効果は大きい方から大蔵省、陸軍省海軍省逓信省内務省の順となる。
*大蔵省の一般会計歳出の大部分は国債費が占めた
W。国債の引き受け手はユダヤ金融である
他の4省はいずれも「日清戦後経営」を中心的に担当した省である。
 
W。日本の通史では、賠償金は軍拡に突っ込んだ→日露戦争へ、となっているはずだ。「日清戦後経営」ってどういう意味なんだ?
 
期間を通して、多額の国債費を支出しながら、ロシアとの軍事的対立を想定して陸海軍備を拡張し、並行して鉄道・電信等の産業インフラの整備に重点的に財政資金が配分された結果、年々、省の間で予算配分を調整する余地は小さかった。
 
W、なるほど、エライ、先生はきちんと押さえている。
 
*予算配分の硬直化は日露戦後にいっそう顕著となった
>日露戦後に関する式(1)の推定結果では、R2は0.953 であり、年々の調整の余地はほとんど残っていなかった
*一方、各省の固定効果は、引き続き大蔵省、陸軍省海軍省逓信省内務省について大きかったが、
*大蔵省の固有効果は日清戦後の4 倍近くに増大し、他省より著しく大きくなった。国債費の増加が財政の硬直化をもたらしたのである。
 
W。他人の臭いふんどしで相撲を取る
しかし、さらっと次のように指摘するところは、Wと次元が違ってさすがだ。
  
W。<< >>部分は日露戦争を通じて原型が形成され、敗戦まで拡大し続けた戦前日本の『くにのかたち』分不相応=背伸びのしすぎに尽きる。
W。軍事暴力でなぎ倒されるしかなかった。
これらの結果は、日露戦後政治史、ないしより広く明治期の政治システムの解体過程に関する理解と整合的である。
日露戦後期の政治史を、明治国家を構成した官僚・軍部・政党の3 グループの自立化という視点から分析し、
<<日本の国際的地位と国内経済力にギャップが生じた状況下>>で、これらの自立化したグループが予算をめぐって対立と協調を繰り返す過程を描いた。
 陸海軍部が軍備拡張を要求したのに対して、
内務省逓信省を中心とする内政諸省は鉄道・港湾・電信などの産業インフラの整備、特に地方における整備を求め、
地方に支持基盤を置く政友会が内政諸省と連携
した。一
方、都市民衆は減税を望んでいたというのが基本的な構図である。
 
W。「政友会と民政党」の普通選挙実施時の政策基調の違い。後者が民政党の立ち位置であった。
もっとも、世界恐慌勃発でこの程度の対立点は吹っ飛んでしまったが、
石橋湛山は清くまじめなものが正しい政策を掲げているとは限らないと当時述べて、民政党の政策を退けている。
 ただし、景気拡大路線も軍部の台頭を尻押しする結果となった。持たざる国、日本には経済政策の選択肢はなかったといえよう。軍事費は削れないのだから。社会構造の面からみても。前回の記事の主要テーマであった。
 
軍部と内政諸省の財政に対する圧力は、表2に示した各省の固定効果によって捉えられている。←W、「年々の調整の余地はほとんど残っていなかった。」

<そこで次に、政治システムにおける<<政党の役割の上昇が財政に与えた影響>>を調べるために、次の式を計測する>。
 
W。事実上の政党政治の時代に突入し、政党の政治力の上昇が、どのように財政に影響を与えたか?
 
政党内閣の予算への影響を省別に調べるため、PARTY と省ダミーの交差項を加えた。
W.計算式は省略
 
政友会の支持基盤であった地方の利害ともっとも関係が深かったのは内務省が所管する予算であったから、
この結果は、政党内閣が自らの支持基盤に関係の深い予算を重点的に拡大したことを含意している
すなわち、政党内閣の予算に対する影響は全般的なものではなかったが、内務省予算については膨張圧力として機能したことが確かめられた。
 
W。政友会との官僚内閣が交互に入れ替わった時代だから、地方の地主を支持基盤のある政友会関連の予算の出所の内務省予算だけが拡大する。
この時代、地方のインフラ公共基盤が整備されたところが多い。地方史を調べると確認できる。
万一、この方向をもっと推し進めることができたら、歴史は少しは変わっていたかもしれない。が、それは無理筋。政友会は民党ではなく、反政党の国家党。

*<官僚・軍部・政党が自立化して予算に膨張圧力を加え、財政が硬直化するなかで、
さらに国債を増発してこれらの要求に応えるという選択肢が採られなかったのはなぜだろうか。>
 
日露戦後のプライマリー・バランスは黒字であり、日本の財政は政治的な困難の中で再建の方向に進みつつあった。
金本位制による国際収支制約がその理由の候補として考えられるが、
>>日露戦争の勝利によって外債発行の可能性が広がったことがその制約を緩和していた。
このような状況下で、日本の財政がともかくも再建の方向に向かった直接的な理由は、次のような予算をめぐる政治過程の中に求められる。
 
 政友会内の実力者であった原内相に山本蔵相の抵抗が成功した理由は、今回も<元老の介入であった>
山本蔵相は、原内相の政治的圧力を抑えるために元老井上馨を頼った。
井上は財界有力者の渋沢栄一とともに首相・蔵相・内相と会見して、外債非募集、公債償還、行政整理等を骨子とする「井上意見書」を提出、これが閣内における山本蔵相の立場を強いものとした。<緊縮財政を求める元老の介入>は1913 年度の予算編成に対しても行われた。
 
 これらの事例が示しているのは、少なくとも日露戦後まで、元老という憲法外機関が、自立化した軍部・内政諸省・政党の予算要求圧力を抑える最終的な防壁として機能していたという事実である。
すなわち、明治期の政治システムは解体過程に入りながらなお機能を続けており、それが財政規律を支えていたといえる。
 
W。軍事予算を大幅に削ることしか、社会基盤の整備を拡大する道はなかったが、<緊縮財政を求める元老の介入>とは、軍事予算をそのまま維持して、緊縮財政を求めるものだっただろう。
だとしたら、間違った政策である。後知恵?そんなことを言い出したらきりがない。

   
          3、政治システムの断片化と財政:政党と軍部
W、元老のグリップの喪失と官僚、軍部、政党の自立化傾向の拡大を、断片化とはすごい表現!
 
日露戦後に始まった官僚、軍部、政党の自立化は第一次大戦期以降、さらに進展した。この動きを加速し、またその意味を増幅したのは元老の機能低下であった。
 大正期の元老は「政治の第一線を離れ、天皇から匡輔を求める詔勅を受け、首相奏薦について、天皇の下問を受けその他宮中事項について発言する指導層」と定義される。
元勲優遇の詔勅天皇から受けた点でより公式の機関となった反面、元老は政治の第一線を離れ、
その役割は首相奏薦と宮中事項に限定された。
 具体的には山県有朋井上馨大山巌松方正義桂太郎西園寺公望大正期の元老であり、大隈重信をこれに加える場合もある。彼らのうち西園寺以外は大正期に死去し、昭和期の元老は西園寺のみとなった。そして西園寺が1940 年に死去したことで、元老という機関は最終的に日本の政治システムから消滅した。
1937 年以降、首相の奏薦は内大臣が行うようになった。
 
 一方、大正期~昭和初期は戦前の政党内閣制がピークを向かえた時期にあたる
前述のように政党内閣は1898 年の大隈内閣に始まるが、大隈は上記のようにその後元老に準じる立場となる人物であり、その後のいくつかの政党内閣においても総理大臣は元老ないし後に元老となる人々が務めた。
 
 これに対して1918 年に成立した原敬内閣においては、原首相(W。元外務官僚、南部藩の家老の家系出身者も平民なのか)は元老でも華族でもない、平民の衆議院議員であり、その点で同内閣はより本格的な政党内閣ということができる。こうした性格はその後の政党内閣に継承された。
 
原内閣(1918 年9 月~1921 年11 月)から犬養内閣(1931 年12 月~1932 年5 月)までの間に、両者を含めて12 の内閣が組織されたが、そのうち9 つが政党内閣であった。
期間としては、この間の約15 年のうち12 年半にわたって政党内閣が継続したことになる。
W,元老の判断が正しいと限らない!論理破たん気味。政策領域への踏み込み不足
   
    W。?<憲政の常道
これは、1924 年に成立した加藤高明内閣以降、元老が総理大臣を奏薦する際に、「憲政の常道」といわれる方式が暗黙のルールとされるようになったことと対応している。
     「憲政の常道」とは次のような方式をいう。
総理大臣には衆議院第一党の党首が奏薦され、第一党の内閣が倒れた場合は第二党党首が奏薦される。
ただし、第一党の内閣が倒れた理由が総理大臣の死亡、病気等の理由である場合は、同じ党の後継党首が総理大臣に奏薦される、というものである
 政党内閣の時代は、自立化したもう一つの勢力である軍部の影響力の増大によって1932 年に終わった。
軍部の一部が引き起こした5.15 事件によって犬養内閣が倒れた後、後継党首であった鈴木喜三郎は総理大臣に奏薦されず、元海軍大臣斎藤実が総理に任命された。
以後、終戦まで、政党内閣が組織されることはなかった。政党に代わって発言力を増したのは軍部であった。
 
W。これでは、政争を加速するシステムになりかねない。実際にたった一議席だけ上回った政友会に天命が下って、内閣を組織することもたびたびあった。
もちろん、国民=臣民の政治意識もあるが、帝国憲法に仕込まれた天皇制という絶対的価値の存在するシステムが、無責任に政策の違いを際立たせ、政党同士の足の引っ張り合いのごとき政争を激化させた要因でもある。
最後に軍部が出てきたのも天命路線の延長である。しかし、天命を下す大本は責任を取らず、下位に責任委譲をする。その連鎖は下に向かう。
具体的に責任の取りようのない底辺は国に命をささげるしかない。
 
<元老の機能低下、1920 年代における政党内閣制の定着、1930 年代における軍部の台頭と要約される
以上のような政治システムの変化は、予算編成と財政構造に大きな影響を与えた>
 
以上のような政治システムの変化は財政パフォーマンスにどのような影響を与えたであろうか。
日露戦争がもたらした財政の危機的状況は、第一次大戦期のインフレを伴う急速な経済成長によっていったん解消した。
前節で述べた財政再建の努力によって国債残高のGNP 比はピーク時の70.8%(1910 年)から第一次大戦直前の1913 年に53.6%まで低下していたが、
大戦ブームの中で低下を続け、1919 年には日露戦争前とほぼ同じ水準の22.6%に戻った。
しかし、これを底として国債残高のGNP 比は再び上昇を始め、1931 年には50%を超えた。この間、日本が大きな戦争を経験しなかったにもかかわらず大幅な政府債務の増加が生じたことが注目される。
 
>プライマリー・バランス(借金返済を除いた単純な出と入り)を見ると、日露戦後の1907 年から1919 年まで13 年にわたって続いてきた黒字から1920 年に赤字に転換し、
1923 年から1926年の4 年間は黒字に復帰するものの、以後、第二次世界大戦後まで毎年赤字が持続した。
このような政府債務と財政収支の動向は政府支出の動きを反映している。
政府支出のGNP 比は第一次大戦中の1916~1918 年に10%以下に低下した。
しかしその後、これを底として長期的な上昇傾向に入り、日中戦争直前の1930 年代前半には日露戦時に匹敵する20%を超える水準に達した。
 
    <日清・日露戦後期と同様に、上記式(1)によって財政構造を検討しよう>。
*1921-1928 年の8 年間は
日本経済が長期不況に直面した時期にあたるとともに、政治史上では戦前日本の政党内閣制がピークを向かえた時期を含んでいる。
各省の固定効果は、日露戦後と同じく大蔵省・逓信省内務省陸軍省海軍省の5 省について大きい。
*これら5 省の固定効果を日露戦後期と比較すると、逓信省内務省の増加率が相対的に高いことがわかる。
一方、予算の省間配分の硬直性を示すR2 は0.888 であり、日露戦後期よりは低下したが、いぜんとして日清戦後期とほぼ同じ高い水準にあった。
一方、1929-1936 年の8 年間は軍部の発言力が増大した時期を含む。
引き続き、上記5 省の固定効果が大きいが、直前の8年間と比較すると明確な変化が見られる。
*内政関係の官庁を代表する逓信省内務省の固定効果が減少したのに対して、陸海軍省の固定効果は大幅に増加した。
一方、予算の省間配分の硬直性を示すR2 は0.852 に若干ではあるが低下した。
   
 これらの結果は次のように解釈することができる。
第一次大戦後、軍部・官僚・政党の自立化がいっそう進展したことによって予算に対する膨張圧力が増大し、
*しかもこれら勢力を抑える元老の機能は大幅に低下していた。
*その結果、政党内閣制が定着した1920 年代には特に政党の圧力によって内政諸省の予算が顕著に増加する一方、
*軍部の発言力が拡大した1930 年代には軍事費の著しい増加が生じた。
   
  W.ついに登場!<日銀引受による国債発行という財政政策のレジーム転換> 
**その結果、政党・軍部の予算膨張圧力と大不況による税収減が重なった1932 年度に、政府は、日銀引受による国債発行という財政政策のレジーム転換に踏み切った。←ユダヤ金融に日露戦争の戦費を借金した高橋是清大蔵大臣が老骨に鞭を打って復帰して、日銀引受による国債発行
1930 年代に予算の硬直性が若干緩和されたのは、国債発行によって予算制約が緩和されたことを反映している。←この時が歴史の曲がり角だった。非常手段の最後は、ボタンの掛け違いが拡大し、つじつまが合うようにできている。危ないと脱出口を求めたときに、軍部は許してくれなかった。2,26事件によって暗殺。
   
 <政党からの予算膨張圧力は、上記式(2)を1920 年~1936 年のデータを用いて推定することによって確かめられる>
  
 W。天命の下での憲政の常道政党政治を破壊する間違ったシステムとして機能した
確かの表面上は政党政治が自滅したようにみえるが、本質は帝国憲法状況とシステムにはらまれていた修正不可能な基本矛盾の拡大であった。
<歴史の必然性>ということは確かにある。とくに日本の過去と現在の内外環境においては
 
憲政の常道」においては、衆議院第一党の党首を首班とする内閣が倒れた場合は、衆議院第二党の党首が総理大臣に任命された。
政党内閣について、衆議院における基盤が弱い場合ほど予算の増加率が相対的に高かったことを示している。
これは、衆議院第二党の党首が総理大臣に任命された場合、内閣の議会における基盤を強化すべく衆議院解散が早期に行われることが多かったという事実と整合する。
選挙戦を有利に進めるために予算の増加が行われたと考えられるからである。

   4、おわりに 
W.総括になっていない!賢人政治=エリート政治願望なのか?大切なのはシステムの如何であり、その適切な修正能力である。政治家にそれを委譲することはできない。
 
大日本帝国憲法は、国務と統帥の分離と前者における国務大臣の単独補弼制の二つの面で分権的な政治システムを規定していた。
*国務と統帥が独立していただけでなく、国務の内部でも総理大臣は各省大臣に対しても命令権を持たなかった
 
W。形式的には天皇が束ねるのじゃなかったけ?その能力がないから元老がグリップを利かすという構造になっている。
ドイツの旧帝国憲法をまねるとそういうことになる。ウィルヘルム皇帝とビスマルクの関係を想起する。
ドイツの場合は事実上、皇帝親政になり、最後に皇帝は追放された。
 日本の天皇家は国際交流と無縁という真逆をいく辺境の地の典型的なひきこもり型文官貴族の末裔。そこにあまりに過大、分不相応な権限が付与された。
天皇の代理する元老システムは、もともと、近代憲法では明記できない存在で資本主義の発展に掘って資本家層の力の増大と議会制度のなかでの政党政治の力が増大すると、衰退する性質のもの
すると天皇制は空洞化し、政治システムの断片化、国家機構の分散化状態になる
それを取りまとめるのは、戦争政策の本格化しかない
 実際に戦争政策の一環として主要な社会保障が制度化された
財源は政府の保証するただの紙切れだった。破綻必至の戦争財政の中で実現したのだ。
だから、米軍事力が産婆役を務める「暴力革命」しかなかった。皮肉ではあるが、戦後史を見れば、少しは納得できる、歴史の真実の一種である
 
しかし、第一次大戦前には元老という憲法外の機関が国家の統合に寄与し、そのことが財政パフォーマンスにも大きな意味を持っていた。
日露戦後、戦争が残した巨額の国債が財政を圧迫する中で、
*自立化し始めた軍部・官僚・政党という政治システムの構成要素が予算に強い膨張圧力を加えた。
 
W、三すくみ状態?
 
政党の圧力は、政党内閣において内務省予算の増加率が有意に高かったという事実によって裏付けられる。
毎年度の予算をめぐって政局は動揺を繰り返したが、結局は予算の拡大は抑制され、大幅なプライマリー・バランスの黒字が継続的に生み出された。
予算の膨張圧力に大蔵省が抵抗する際の最終的なに拠り所となったのは元老であった。
日露戦後、元老はしばしば予算プロセスに介入して予算の膨張を抑えた。←W。戦費に手をつけていないはずで、正しかったとは言い切れない。
しかし、第一次大戦期以降、元老の機能は総理大臣の奏薦と宮中事項に限定され、1930 年代前半には事実上消滅した。
統合機能を担ってきた元老の役割が低下した結果大日本帝国憲法が規定する<分権的な政治システムの下で財政規律を保つことは難しくなった。W?
 
W。帝国憲法状態と天皇制に切り込んでいない!
 
1920 年代に定着した政党内閣制が予算を全般的に膨張させたことが確認できる。
 
W。記事に記載した帝国書院の日本の軍事費の国家財政に占める割合の見方は、表面的で間違っていた
「政党内閣制が予算を全般的に膨張させる」と軍事費の額面が横ばいであっても、予算に占める軍事費の割合は低下する。
これでよくわかった。
あの数値を眺めて(軍事費の比率は30台に推移していた)、「政友会と民政党」の関連記述を読んでも、漠然と納得できないものを感じていた。
やはり腑に落ちない点があれば、他の資料にあたってすり合せることが肝心だ。
現状、この論文のほかに、戦前の日本共産党の1924年綱領における当時の日本状況分析まで丁寧にメモっている。
日本の活動家が独自に作成したものであり、のちにかかわった者たちの多くは党から排除された

当時、この論文の指摘する分析の主要なところをもっと政治的に踏み込んで、描いている。当時のリアルな日本を知る貴重な資料である。

1930 年代には軍部の影響力が増大しただけでなく、軍部の内側でも意思決定の断片化が進展した。
1920 年代以降、政府支出のGDP が増加傾向を示すとともに、プライマリー・バランスは赤字基調を続けた。
日露戦後から第一次大戦後にかけてのこうした財政パフォーマンスの変化は、上記のような政治システムの変化を反映していたといえる。
1937 年に日中戦争が勃発し、臨時軍事費特別会計が設置されると、軍事予算に対する規律はさらに弱くなった。
臨時軍事費特別会計は戦争終結までを1 会計年度とする特殊な特別会計であり、同特別会計について終戦までの8 年間に15 回の予算編成が行われた。
また、予算科目も、陸軍臨時軍事費・海軍臨時軍事費・予備費の三項の区分があるにすぎず、1940 年以降は陸海軍の区分もなくなった。
その結果、費目間の予算流用についても大幅に自由度が広がった。
 重要なことは、臨時軍事費特別会計については、事前的な自由度が大きかっただけでなく、事後的な検査が同時に緩和された点である。
太平洋戦争開戦後に制定された会計法戦時特例、会計規則等戦時特例、計算証明規程戦時特例等の一連の法令によって、臨時軍事費の支出に対する会計検査院の検査が著しく簡略化された。
事前査定と事後検査を同時に緩和すれば、その帰結は明らかであろう。
 
W。世界戦争の財政はどの国でも似たり寄ったりではないか。この分野の専門の研究者も結構いる。
ただし、軍事費の額面の急増だけ見ても、太平洋戦争突入状態は丸裸にされたも同然であろう。極秘事項なんだろうけど、戦略物資などの調達状況をみると全体像は分かるはずだ。
アメリカにはリヒアルト、ゾルゲは必要でなかった。暗号の解読はリアルなことだが、日本に戦略物資を輸出していた当事者はアメリカだから、日本の動向に戦略的対応が明確にできる。頭隠して尻隠さず?
1940 年代前半、政府支出のGDP 比、政府債務のGDP 比はともに上方に発散し、日本の国家財政は事実上破綻した。