反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第4回。中ソ比較経済改革史序説:鄧小平とゴルバチョフの時代。浅川あや子July 2014。

「強奪されたロシア経済」マーシャル、ゴールドマンの要点を引き続き引用しても良かったが、視点を中ソの経済改革の比較にかえてみることにした。ゴールドマンにない中国側目線に偏った、ソ連邦改革への見解が率直に述べられているが、持論とも比較的重なる部分がある。
スターリン主義支配体制の改革はロシアの与えられた絶対的条件であったが、その現実にしっかりと根を張った改革とは全く逆の方向に、なし崩し的に「暴走」したことが人的物的生命的国富の巨大なロスにつながったと確信する。
>それは今日のウクライナ問題、原油価格のサウジアラビア=米国、EU金融帝国主義による意図的な低迷状態の創出=一種の通貨戦争的事態の現出に<直接につながっている>のである。
 ゴルバチョフエリツィンの大失政の痛手はあまりにも大きすぎた。
この時期に出来した歪な経済構造は、今日まで続くロシア経済の最大のぜい弱性となっている
バブル崩壊金融危機以降、国内の高失業高インフレ低成長構造の世界金融帝国主義の不均等発展にのたうちまわり、凶暴化した米国EU帝国主義に、そのぜい弱性を挟撃されている。欲深い狼どもの共食いである。
ネット上の長文を引用する。
>キーポイントはスターリン支配体制下の商品経済の形成、浸透の政策の違い。
>究極的には、国家権力機構のスターリン主義体制の経済改革において果たす巨大な役割である。
ゴルバチョフエリツィン等は、完全に道を踏み外し、あまりにも多くの国民に甚大な被害を与えた。

   
        序 章 中ソ経済改革史概観と問題意識
中国は現在も「社会主義」体制を維持しているが,1992 年の第14 回党大会において「社会主義市場経済」路線の確立を宣言して以降,市場経済化を加速しつつ社会主義的政治体制は堅持している。
このため,言葉の厳密な意味でのソ連型の「社会主義」体制は放棄したものとみられる。そこで,本論文では鄧小平が行った1980 年代から92 年頃までの改革は,「社会主義体制最後の改革」であると位置づける。
鄧小平の経済改革は,中国における長い改革の歴史の一部であり,「社会主義体制最後の改革」とは言い難い面もあるが,ソ連の改革との比較を重視した本論文では敢えてこの言葉を用いた。

本稿の研究対象期間は,以下の通りである。
 
中国では,都市における経済改革を本格的に開始した1984 年から中国共産党第14 回大会において「社会主義市場経済」路線が確立し,計画経済から市場経済への移行が決定的となった1992 年頃までを,
 
ソ連においては,ゴルバチョフが登場した1985 年からペレストロイカを経て社会主義体制が崩壊した1991年頃までを対象とする。
すなわち,ほぼ同時期の中ソ改革を研究対象としている。(1988 年より施行)により各企業に価格決定権が与えられ,1988 年頃より部分的に自由化が行われた。
この期間の中国とソ連における経済改革には,社会主義体制の枠内で市場的要素を導入するという意味で明らかな近似性があり,大変興味深い。
しかしながら,その政治的・社会的・経済的帰結が大きく異なることもまた周知の事実である。

              序2 中国とソ連の経済改革史概観
   序2.1 鄧小平時代の経済改革
>1978 年12 月に開催
された11 期3 中全会で権力を掌握した鄧小平は,経済改革・対外開放(改革・開放)政策に着手した。最初に取り組んだのは農業改革であった。
人民公社を解体し,個別農家に生産を請け負わせる農家生産請負制を実施し,農業生産を刺激する方法を導入した結果,食糧生産が大幅に増大した。
 
>1980 年代前半には,人民公社の流れを汲む郷鎮企業等の非国有経済が急成長し,軽工業の発展を促進した。こうした農業改革の成功が都市工業発展のための市場的基盤を形成し,都市改革のための良好な経済環境を創り出した。
 
>82 年には第12 回党大会が開催され,「計画経済を主とし,市場調節を従とする」方針が打ち出される。
これは,計画経済体制の中へ,商品経済を部分的に導入することを表明したものであり,計画経済を基調としつつ市場調節の作用も発揮させるべきと明言したことは,毛沢東時代の計画経済一色からすると市場経済へと一歩近づく改革理論である。
 
1984 年10 月中国共産党12 期3 中全会が1984 年10 月に開かれ,「経済体制改革に関する決定」(以下,「決定」と略す)が採択された。
**ここでは「社会主義商品経済論」が公認され,これを受けて,都市工業部門での改革が本格的に開始された。この「決定」では,社会主義経済を「公有制を主体とした計画性のある商品経済」(「計画的商品経済」)であると規定した。
**これは「公有制を主体とする」という留保付きではあるが,社会主義経済の根幹を「商品経済」と認識するものであり,大きな理論的転換であった。W。マルクス資本論」を素直に読めばそう書いてある!スターリン体制は間違っていたが、よく70年も続いたものだ。
こうして,中国では,都市においても本格的な経済改革が始まり改革ムードが一気に高まったことにより,
>85 年2月同国はかつて経験したことのない「経済過熱」に見舞われることになった。そこで中国政府は,から経済鎮静化のために「調整政策」を発動し,投資規模の抑制等につとめた。
 
>85 年後半には、この結果,中国国内経済は,ようやく落ち着きを見せた。
>1987 年10 月に開催された第13 回党大会では,同年1 月に学生運動への対応を巡って解任された胡耀邦に代わり趙紫陽総書記代理が政治報告を行った。
この大会では,党の基本路線として,「一つの中心,二つの基本点」、
すなわち経済建設を中心として,4 つの基本~。
 例えば,1978 年の郷鎮企業数は152 万社,従業員数は2826 万人,郷鎮企業の総生産額は493億元であったが,92 年には企業数は2079 万社,従業員数は1 億581 万人,総生産額は1 兆7975億元となり急成長を遂げている(『中国統計年鑑』1996 年版)。
**1984 年の「決定」において公認された社会主義のもとで商品経済が許容されるとする理論は,紹介する筆者によって「社会主義商品経済論」と呼んだり,「計画的商品経済論」と呼んだりまちまちであるが,同一の理論を指している。W。元々、過渡的経済体制では商品経済は不可欠。
*またこの理論は,ソ連において1987~88 年頃に復活し,やや活発になった社会主義のもとでの商品生産に関する論議,すなわち「社会主義商品生産論」と基本的には同一のものと考えられる。
社会主義経済は商品経済でなければならないと最も早くから主張した著名な経済学者である薛暮橋によると,
中国では「新中国成立以来,計画経済と商品経済を互いに対立させ,社会主義経済は計画経済であり,資本主義経済は商品経済であり,両者は上手くなじめないと考えていた」という。
W。ソ連型の解釈だな。ポイントは労働力の使い捨てコスト化=一商品化の可否。
ここからも「社会主義商品経済論」が大きな理論的転換であることが理解できる。

原則(社会主義の道,人民民主主義独裁,共産党の指導,マルクス・レーニン主義毛沢東思想)を堅持し,改革・開放政策を貫くことが確定した。W.そんなことはどうでも良い。
また上述の「社会主義商品経済論」(「計画的商品経済論」)は,第13 回党大会においてその内容がより具体化され,目標とすべき経済体制については,「国家が市場をコントロールし,市場が企業を誘導する」ものとされた。
W.この程度のことは、西ドイツの社会市場経済政策でもうたわれているが、改革期のロシアにこの基本認識もなかった
これは,極度に権限の集中した「中央集権的計画経済体制」を,「市場調節型の緩やかな計画経済」に改めようとするものと解釈できる。
**この「社会主義初級段階論」は,中国ではすでに社会主義の制度確立を終えているがまだその初級段階にある,という認識を下敷きにしており

**次の3 点が政策に反映されるようになった。
*第一に,公有制を主体としつつ,多様な所有経済主体との共存が可能になった。
*第二に,多様な分配形式の併存が許容された(利子収入,株式配当,私営経営者の経営収入など)。
*更に第三点として,政治体制改革において漸進主義が正当化されることになった。
つまり「社会主義初級段階論」の核心は,中国共産党社会主義建設の柱としてきた所有の公有制と労働に応じた分配を全面的に見直し,従来の社会主義経済論に市場メカニズム導入の理論的根拠を与えたところにあるといえよう。
 
翌1988 年には,前年の第13 回党大会での意欲的な経済・政治改革案の採択や,大胆に外資導入を行うために沿海地区経済発展戦略が決定されたことを受けて,改革機運が大いに盛り上がり,投資も消費も再び過熱し始めた。
 
88 年春には価格改革に便乗した値上がりが広がり,買い占めや売り惜しみによるパニックや銀行の取り付け騒ぎまでが発生したため,政府は価格改革を一時凍結し,経済引き締め政策に乗り出した。
 
>同年9 月に13期3 中全会を開催し,「経済環境整備,経済秩序整頓」(「整備・整頓))という名の「調整政策」が全面的に実施されることとなったのである。
1980 年代には国有企業においても,企業への一定の自主権と利潤留保権限を認める様々な改革措置が試行された。
**なかでも重要なのは,企業の生産活動や企業経営の意思決定に大きな影響を与えた経営請負責任制(請負制と略す)である。
>1987 年から92 年請負制は,頃までの約6 年間,大中型国有企業を対象とする新しい経営方式として導入された。
**その特徴は,<企業と国家が契約を結び>,企業が生産額等の基数を決定して税と利潤の上納を国家に保証すると同時に,
**<利潤が基数を超過した分は企業が留保>し,W。ここまではソ連の改革と同じ。<不足の場合には企業が補う>というところにある。←ムチ。
 
>1989 年6 月4 日の天安門事件。生活への不満や役人の不正に憤る市民や民主化を希求する学生の動きが,共産党指導部内での権力闘争と相まって,6 月4 日の天安門事件を引き起こした。
この国際社会にも大きな衝撃を与えた事件の後,西側諸国の経済制裁を受けた国内経済は不振を極め,さらに李鵬総理ら党内保守派の批判を受けて,改革も後退を余儀なくされた。
 
>92 年初の旧正月、こうした改革の停滞と経済不振に危機感を抱いた鄧小平は,南方地方を中心に中国各地を巡り,市場経済化と改革・開放を大胆に進めるよう人々を鼓舞した。いわゆる鄧小平の「南巡講話」である。
 
>同年10 月これによって再び経済的活気を取り戻した中国は,の第14 回党大会で社会主義市場経済の推進を決定し,計画経済から市場経済への事実上の移行を内外に示したのは周知の事実である。
        

         
 
               序2.2 ゴルバチョフ時代の政治・経済改革
次に,ゴルバチョフ時代のソ連における政治・経済改革を振り返る(表序2 参照)。
>1985年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは(W遅いな),西側諸国との経済格差や経済停滞に危機感を抱き,W.党内権力闘争の試練を踏んでおらず党のヒエラルキーの階段を順調に上ってきただけ。革命戦争指導者でもなかく、権力は与えられたものであった。
 
>86 年2 月、経済的立ち後れを取り戻すために機械工業部門に投資を優先的に振り向け,経済を加速的に発展させる「加速化戦略」←(W?)(ウスカレーニエ)を8第27 回ソ連共産党大会で採択し,直ちに実行した。
この「加速化戦略」の内容は,2000 年末までの15 年以内に国民収入と工業総生産額を2 倍にし,労働生産性を1.3~1.5 倍にして,一人当たり実質収入を60-80%増加させるものであるが,その実態は依然として総生産額を追求する重工業優先の発展戦略であった。←W?
     
  W。重工業力重視の生産力主義→不調(当たり前)→スターリン主義支配体制放棄=ペレストロイカの泥縄式手順の間違いを押さえる。→商品経済発展の基本原則無視!
**ソ連の経済的立ち後れを取り戻すために始めた加速化発展戦略ではあったが,経済不振を打開するどころか同国を益々危機的な経済状況へと追い込んでしまった。
こうした状況に到って,ゴルバチョフをはじめとするソ連指導部は,経済システムを根本的に改革する必要性を認識するようになった。
つまり「ペレストロイカ」(建て直し)の概念が提起されたのである。
この「ペレストロイカ」というロシア語表現は,当初経済管理の再編に関して用いられていたが
>>次第に言論の自由を意味する「グラスノスチ」(情報公開)や政治的民主化,歴史の見直しなど社会生活全体の刷新を意味するものへと拡充されていった。
 
>1987 年6 月には党中央委員会総会で「経済管理の根本的ペレストロイカの基本命題」(以下,「基本命題」と略す)が提示され,
**最高会議(ソビエト)では「国有企業法」が採択された。
この「基本命題」=ペレストロイカは「国有企業法」と対となる規程であり,その狙いは国有企業を独立採算の経済主体とするためには経済管理も根本的に再編する必要があるとの認識から,行政的経済管理を経済的指導方式に改めようとするものであった。
 
86 年11 月には個人の副業を正式に認める「個人労働活動法」が,
**W。<協同組合>は金融寡頭支配者の民間に配られた株券収集の道具になった→88 年5 月には,消費財生産やサービス業,流通業に携わる市民による協同組合の結成を認める「協同組合法」が制定された。
これら2 法案は,国有企業のみの一元的システムを改め所有の多元化を図る第一歩とも言うべき法律である。
 
>1987 年6 月ソ連では前述の通り,「国有企業法」を採択し,
>88 年1 月より全ての国有企業において同法が施行された。
この「国有企業法」は,独立した商品生産者としての企業の権限を拡大し,市場メカニズムを活用して効率の欠如した国有企業を改造し,経済に活力を与えることを目的としていた。
 
**なかでも注目に値するのは,<「国有企業法」>によって新たに創設された<国家発注制度>である。
同制度は,資材・機械補給制度という計画経済メカニズムの根幹をなす供給システムを,卸売商業制へと移行←W?企業経営に中国のようなインセンティブと懲罰を与えていない。
させるために考え出された制度であった。
すなわち,生産財の割当て配分をなくし,国家と企業が契約という緩やかな結びつきに変わることによって商品を自由に売買できる市場を創り出そうとしたものである
 しかしゴルバチョフが根本的ペレストロイカの核心と位置づけたこの国有企業改革は,後述する様々な矛盾や問題点を露呈して,所期の目的を達することなく挫折してしまった。
 経済停滞を立て直すべく開始したゴルバチョフの経済改革ではあったが,改革開始後,経済実績はかえって悪化し危機が深刻化した。
   
 
   W。カネが出回っているのにモノ不足、初歩的インフレ事態。金融引き締めの調整時期だが生産が落ち込んでいる。
>例えば,社会総生産額の成長率は1988 年が3.5%で,89 年は1.9%に,90 年には-2%13へと落ち込んだ。
また工業生産高も88 年が3.9%で,89 年には1.7%,90 年には-1.2%へと同様に低下した。
**けれども住民の貨幣所得だけが,労働生産性や生産高の増大を大きく上回る伸びを見せた。
すなわち,1988 年の労働生産性が4.8%,89 年,90 年のそれがそれぞれ2.3%,-3%であるのに対して,
住民の貨幣所得は1988 年が9.2%,89 年13.1%,90 年16.9%と急激な伸びをみせたのである。
これは前述したように,「国有企業法」の実施により大幅な自主性を付与された国有企業が,企業に留保される増大した利潤を従業員の賃上げやボーナスの支払いに回した結果であった。W。ペレストロイカの成果!
他方で消費財生産はそれほど増えなかったため(1988 年には5.1%,89 年5.9%,90 年6%増)(同上),この過剰購買力は隠れたインフレ圧力となった。
 
W。う~ん。ココまで来ると、無知故なのかどうなのか?
W。オリガルヒ(金融寡頭支配者)の三つの形態。1)党と行政の高級幹部。2)企業長 3)闇経済マフィア←ゴルバチョフ政治改革はカオス状況を引き起こした。   
        
 
      W。経済改革不調でなし崩し無展望な政治改革へ
>「国有企業法」を中心とする経済改革は,既得権益を失うことになる中央官僚機構や保守派党機関の激しい抵抗にあい,事実上骨抜きにされてしまった。
こうした経済改革の阻害要因となっている官僚機構や党機関にメスを入れて改革の主導権を取り戻すために,ゴルバチョフは政治改革へと乗り出した
**1988 年6 月に開かれた第19 回党協議会において<党と国家の分離が課題>となり,最高会議(ソビエトW。そもそもソビエトは最高会議という意味ではないはずだ)議長制へと移行して,ゴルバチョフは最高会議議長に就任した。
つまり,権力の中心が党から最高会議へと移行したのである。
  W。一種の二重権力状態の出現「革命情勢」を自ら招き寄せた革命情勢に対する一元的政治主導を求める当然、旧体制のクーデターの必然。
W。1917年前後の自らの党の歴史も教訓にしていない。もっと根底的なことを言えば、商品経済(マルクス資本論の前半3分の1)をいかにして形成するとう観点が最初からない!
W。資本主義は商品経済の発展と資本の原始蓄積、産業革命によって可能になった。とすれば、すでに後者はある。問題は前者の商品経済関係の形成と発展。生産力主義は間違い。
>>89 年の5 月には初の複数候補制による人民代議員選挙が行われ,人民代議員会議と最高会議という二重構造の議会制度が形作られた。
 
>89 年の5 月には初の複数候補制による人民代議員選挙が行われ,人民代議員会議と最高会議という二重構造の議会制度が形作られた。
W.これでカオスにならない様がおかしい。しかしこういった分かり切った道に突き進ませた要因は何であったのか?政治のダイナミズム以外の何ものかがあった。それは~。云うまでもない。
 
>1990 年2 月には党中央委員会総会において根本的な政治改革が示され,改革は質的に新しい段階に入った。
すなわち,「人道的で民主的な社会主義」の政治綱領案が提起されたのである。←W?多くの国民にとって事態はスローガンとは真逆。地に足が付いていない政治である。
この政治綱領案では「党の指導的役割」を憲法から削除し,一党独裁制の放棄,複数政党制の容認,党と国家の分離等が打ち出された。←W。与えられた所与の絶対条件はスターリン主義支配体制の時間をかけた改革。
>またこの年には,共産党の指導に代わって強力な権限をもつ大統領制が導入され,ゴルバチョフが初代大統領に就任している。
 
>1990 年5 月から10 月頃まで市場経済への移行を目指す様々なプログラムが提起,採択されたものの,それを実行に移すソ連政府には政治的安定性が欠けていた。
 
>7 月にかけては,バルト諸国,ロシア,ウクライナベラルーシが次々とソ連邦からの離脱を宣言し,社会的,民族的,政治的安定は益々失われていった。
 
1991 年8 月に保守派の軍人を中心とするクーデターが失敗すると,
 
>同年12 月にはゴルバチョフ大統領が辞任し,ソ連邦は消滅へと至ったのである

ところでゴルバチョフの経済改革は,そのルーツを1960 年代のソ連改革派経済学者らの議論に見出すことができる。
とりわけ『コムニスト』誌1964 年第5 号に掲載されたネムチーノフ論文15は,注目に値する。
ネムチーノフは同論文の中で,計画課題の下達を企業への発注方式に改めることや,<資材・機械補給制度の卸売商業制への移行を提案>している。←W?
 
1965 年、改革はいわゆるコスイギン改革として実施されたが,首尾一貫性を欠いた不徹底なものであり,
 
>68 年のチェコ事件を契機として改革の形骸化が行われ,再集権化へと逆行していった。
ソ連では,1965 年に開始されたコスイギン改革の挫折,ブレジネフ時代の停滞によって改革の機会が失われた形となったが,コスイギン改革期に活躍した改革派の経済学者が後の「経済ペレストロイカ」の立案に貢献したことは注目に値する。←Wこの辺のソ連東欧圏ダイナミズムは中国にはない。
     
     
 
          <中国においても,状況はソ連に類似している>
 W?歴史の不思議。大躍進、文化大革命の国内政治は結果的に、改革開放への民衆の求心力を高めた。中国指導部はこのことを察知している。

中国の場合には,1958 年の「大躍進」から1978 年の「四つの現代化」の提起まで,約20 年間改革のチャンスを失ったのである。
W。先のソ連関連でも言えることだが生きた世界史はこのように総括するものでない。経済幻想である。
中国が工業建設において,集権的な計画経済体制をソ連から導入したことから,ソ連における計画経済システムの問題点は中国も同様であり,両国の直面する課題には本質的な共通性がある。
ソ連も中国も約20 年の時を経て,1960 年代に提起された改革課題に取り組み始めたのである。W。中ソ対立はなかったのか?
 
中ソ両国が集権的計画経済体制を80 年代に改革すべき状況にあったことは,上述の通りである。
けれどもゴルバチョフと鄧小平が改革に取り組む以前の両国を取り巻く様相には,大きな相違が存在していた。
>その代表的な点は,改革開始前の両国の経済状況の差と,分権化の度合の違いの2 点である。
ソ連ではブレジネフ期に経済は停滞していたものの(社会総生産額の年間成長率は1976~80 年に4.2%,1981~85 年に3.3%,プラス成長は保っており,大幅な景気後退はなかった。
一方,中国では10 年にわたる文化大革命(1966~76 年)の深刻な影響を受け,66 年から80 年までの15 年間にわたる第3次,第4 次,第5 次の各5 カ年計画は,要綱をかかげただけで,完備した計画の作成は不可能であった」というように,経済は「文革」の混乱によって大きな打撃を受けたのであった。
>>W。重要→更に中国では,二度にわたる地方分権化(1957 年末と1970 年初)政策により,地方分権制が定着していた。
これは毛沢東が米国との戦争を危惧して,軍事的観点から地方への権限委譲を進めたことによるものと思われる(中兼, 2002, pp. 128-129)。
これに対して,ソ連では高い中央集権制を維持していたため,地方への分権化は進んでいなかった。W。寒冷、冷帯の広大な国土の制約下、でははたして分権がふさわしいかどうかの問題が横たわっている。
 
          序3 中ソ経済改革の比較に関する主要研究
W。上記の分析よりは論旨鮮明。次回に引き継ぐ。